始めに
酒井杏郎は元日大全共闘副議長、法学部闘争委員会委員会委員長であった。彼はこの著作を、日大闘争が敗北し、その総括ともいうべき「全共社」の立ち上げ、秋田明大著「獄中記」を出版後、ドイツに渡り、ベルリン自由大学留学中に、当初の目的ともいうべき、1917年ドイツ11月革命の事実認識に挑んだ。その成果はこの論文に現れている。
最近、彼が提唱した全共闘OBの為のオークビレッジを作りたいとカンパ活動に励む中で、彼は私にこういう論稿があることを話した。早々に、彼は200字詰め339ページもの手書き原稿を私に送ってきた。私はこの原稿に目を通し、その新鮮さに目から鱗、早々にワープロ打ちを試みた。
ワープロ打ちを終えて、早々にこの原稿を数人の仲間に見てもらった。そのコメントの中に、「今、ワイマール体制前の状況に近いですね」があったが、私もそう思う。
1.著書の紹介
私の読んだ第一印象の一つは、第一次世界大戦下で、11月革命を担った評議会運動があった事実であった。もちろん、私は始めて知ったことである。そして、第二に驚いたことに、評議会運動が日大闘争によく似た運動体であったことだった。もちろん、日大闘争は学生主体、評議会運動は兵士、労働者主体である。第三に私の記憶に留めているのは、当時、成立したばかりのロシア革命とは、ほぼ独立した運動体だったことだった。もちろん、ロシア革命は第二次インターナショナルナルのもと、その他国への影響は大きかった。第四に評議会運動を指導したミューラーの指導姿勢である。彼は、当時、政治党派とは独自の姿勢を貫き、外部の資金支援を拒否した。
2.第一次世界大戦下で、11月革命を担った評議会運動
評議会運動は1917年6月の「ルイドポール号」ドイツ戦艦内部での水兵が食事改善を目指した自然発生的な運動だった。ドイツ軍は彼等の処刑をもって弾圧した。それでも、駅を中心とした地域の運動が拡がりを見せた。そこには、水兵達の姿があった。
この水兵の反乱は一年後のキールの反乱となり、10月29日には、ドイツ艦隊の大部分に於いて反乱が始まり、水兵評議会が結成された。10月29日~11月13日にかけての示唆活動の中では、多くの死者、負傷者、逮捕者を出したが、三日夜、それぞれの地域で兵士評議会が結成された。
キールの評議会運動は、多くの都市へと波及し、水兵達はそれぞれの地で革命の前衛の役割を果たした。駅は占拠され、兵舎がストライキに入り、キールの14項目要求が採択され、統一的な労働者、兵士評議会が結成される。
キール声明の主なものは「拘留されている全政治犯の釈放」「言論報道の完全な自由」「書簡検閲の廃止」「上官の兵士に対する適切な対応」等である。
3.評議会運動が日大闘争によく似た運動体
日大闘争は、学内での行動の自由は体育会系の学生による暴力威圧の中で、制限されていた。理事会が行っていた不正金問題が明かるみに出ると、一挙に全学的な規模で闘争委員会が結成された。闘争委員会は、全体討議で行動を決定していた。それまでの大学当局が指名・管理していた学生会をポツダム自治会として否定するものでああった。この闘争委員会はドイツにおける評議会運動そのものである。もちろん、私も知らない評議会運動であり、闘争委員会は日大闘争に於いて編み出されたと言ってよい。
日大全共闘の大学当局への要求は「全理事の総退陣」「経理の全面公開」「不当処分の白紙撤回」「集会の自由を認め」「検閲制度の撤回」であった。これ等の要求は11学部闘争委員で確認されて行った。大学当局と全共闘との間で開かれた9.30大衆団交では、これ等の要求項目は全面的に承認された。
これ等の要求は、ドイツにおける評議会運動に掲げられた要求とよく似たものである。これこそ、闘いの現場から組み上げられたものである。日大闘争が自然発生的と見られるのも、こうした要求が水面下で地道に討議されてきたものであるからだ。
政府はこの大衆団交の決定は、大衆的な圧力によるものとして、否定し、その首謀者秋田明大への逮捕に踏み切り、警察力を使っての各学部闘争委員会の撃破を企てた。日大闘争は、敗北するものの、その影響を受けて全国の大学での全共闘運動が勃発した。しかしながら、大衆団交は理事長古田会頭と全共闘議長秋田明大との申し合わせによって実現したものだ。それ故に、日大講堂には4万人もの日大生が集まった。その後、全国的な全共闘運動=大学闘争を誘引するものであるが、丁度、これはドイツ11月革命に於ける結集に匹敵するものだ。ただ、残念ながら、ドイツでは軍隊による鎮圧、日本では警察による弾圧のもと、敗北の道を歩まねばならなかった。
4.成立したばかりのロシア革命とはほぼ独立した運動体
評議会運動の思想は、1917年以前にはプロレタリアによる支配の理論をほとんど認めていなかった。また、こうした段階で各地に形成された行動委員会も、特定の形態を想定し、コピーするといったものではなく、むしろ大衆の中から育った独自の組織形成への要求は自然発生的表現であったと見られる。
ロシア革命からの影響としては「封建的権力に対して効果的に立向える組織として、また軍事的反乱とプロレタリア革命の結合節として評議会は即行動開始とはならなかった」「ソヴィエトによる具体的平和策、即ちブレストリトフスクによる合併平和の方向は、ソヴィエトへの連帯感を薄れさせていた」「「ロシアからの亡命者乃ち使者の個人的影響であった」
第三インタナショナルの成立もあり、社会主義思想の影響がないわけではないが、評議会運動は頑なに従来の労働運動の延長線上に革命運動の夢を見据えた。
5革命的オプロイテ
ドイツ11月革命を担ったのは、評議会運動を進めて来た労働者とその中心あった革命的オプロイテであり、その指導者である、ミューラーの回顧録では次の様に語っている。「革命的オプロイテの組織は、それが革命の前夜に成立し、たった一人の偉い指導者の思想の中から完成した産物として発生したものではない。それは戦争中、社会的、政治的、軍事的諸関係の中から発展し、ドイツの労働運動の発展に依存して来た組織の基盤の上に出現したものであった。」
日大全共闘も、このミューラーの記述にあるように、日大全学部での学生会、体育会、サークル運動の闘いを経て成立した組織であり、日大闘争に誘発された全国の大学闘争も同じである。明らかにこれはドイツ革命がレーニン主義に誘発されたとする考え方への批判でもある。
最後に
日大闘争は、期せずして終わりを告げたが、日大闘争を契機として大学闘争が日本列島隅々まで拡大していった事は事実である。それと同じに、日大闘争を闘ったメンバーの多くが、沖縄独立、水俣公害闘争、新潟柏原原発反対、三里塚闘争、東京電力福島原子力発電所メルトダウン後の放射性物質拡散調査など地域運動にかかわっていたことも事実である。ましてや、闘争敗北後、校舎のロックアウトに抗して闘いは続けられた。
つい最近の話としては、日大闘争を闘ったメンバーの中にも年老いて不自由な暮らしを強いられるメンバーも存在しており、その癒しの里、ビレッジ建設に取り掛かっている事実もある。このレポートは、日大闘争を闘ったメンバーが、自らの闘いが歴史上に揺るぎない地歩を築いたと確信するうえでも貴重である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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