過剰さを、さらなる過剰さを――ガザ問題について

3月18日、1月19日から停戦が続いていたガザで、イスラエル軍が空爆を再開した。20日の時点で500人以上の市民が死亡したというニュースが報じられている。地上部隊も動員され、ハマスもロケット弾をイスラエル領に発射した。そんな中、3月20日に私は土井敏邦が監督した「ガザからの報告」というドキュメンタリー映画の上映会に行った。

 この映画は第一部「ある家族の25年」と第二部「民衆とハマス」との二部構成になっているが、私に強い印象を与えたのは2023年の10月から現在も続く、ガザでのイスラエル軍の侵攻とハマスの軍事行動に関係する第二部ではなく、エルアクラという一家の半生が描かれている第一部であった。

 2023年10月7日のハマスによる殺戮とその報復としてイスラエル軍が行っているガザに対するジェノサイド。その余りにも大きな犠牲によって世界中を揺るがせる衝撃的な出来事が今も続いている。しかしながら、この虐殺に関してわれわれ日本人はその背景をどれだけ知っているだろうかという疑問が私にはあったが、『ガザからの報告』はこの疑問に対して完全ではないまでも一つの答えを与えてくれた。それゆえ、ここではこの映画の第一部を中心にして検討しながら、現在起きているガザ紛争についても考えていきたい。

故郷と家族

 この映画の第一部「ある家族の肖像」の冒頭で1993年9月のオスロ合意を伝えるニュースをテレビで見るエルアクラ家の家族の姿が映し出される。家長であるアル・バッサムはこの合意に不平を述べる。何故なら、彼の生まれ故郷であるブレール村はガザ地区の北部にあり、すでにイスラエル領に編入されているからだ。ブレール村を追い出される以前、エルアクラ家は30ヘクタールという広大な農園を所有していた。だが、一家は突然イスラエル軍により強制退去させられ、ガザ地区に移住。複数の都市を転々とし、ジャバリア難民キャンプに住むことになった。住居を構えることができても、家族の歴史は苦難の連続であった。
 インティファーダに参加した長男のバッサムは長年刑務所に入れられ、出獄後、仕事を得られずにおり、彼の兄弟にも仕事はない。エルアクラ家の14人家族はアル・バッサムの弟のファウジの収入だけで生活していた。オスロ合意以降、イスラエルとの和平実現によってパレスチナ人の新たな国家が誕生し、明るい未来が訪れるかに思えたのも束の間、パレスチナ自治政府内での汚職とパレスチナ警察による民衆弾圧が起きる。民衆の期待は裏切られ、ガザ地区の政治的イニシアティブは2000年代の初頭からハマスの手に移っていく。
 エルアクラ家は貧しいながらも、バッサムが仕事を得て以降、少しずつ生活が改善されていった。だが、ハマスがガザ地区の政治権力を握って以降、住民への慈善事業と並行して行われた武力闘争によって、度々イスラエル軍との衝突が起きた。衝突の度にガザ地区はイスラエルによって生活の糧を奪われ、ハマスの武力行使方針は強まっていった。
 紛争と貧困とによって苦難の歴史を体現するエルアクラ家を支えたのは、家族に対する思いと故郷への帰還に対する思いである。映画の中で、一家の次男ガッサンが語った「家族は私の命だ。もしも家族が私の命を必要とするなら、私は命を投げ出す」という言葉。アル・バッサムの「イスラエルもいつか破滅して出て行く。そして、われわれは故郷に戻る権利を取り戻す」と述べ、それが100年後か、200年後かは判らないが、自分の息子か自分の孫かは判らないが、家族の誰かが必ず故郷のブレール村に帰ることができるという言葉。彼らの言葉は如何に生活が苦しくとも、故郷から遠く離れていようとも、家族が自分の存在を支えているという事実を如実に表しているそこの家族と同様に、パレスチナの人々にとっての希望の光は、掛け替えのない故郷への思いである。

国家と家族

 政治学的、経済学的、社会学的に、国家は家族よりも上位カテゴリーに属する共同体として認識されている。しかしながら、それは学問的な、あるいは、イデオロギー上のカテゴリーでの認識であって、文化的、血縁的、心情的な共同体意識にとっては、国家よりも家族の方ははるかに大きな存在である。

 平和で穏やかな生活が続いているとき、国家とはある意味、空気のようなものと述べることも可能である。それは必要なもの、重要なものであると思われてはいるが、日常的に意識されることがないものである。それはシステムとして認識されてはいるが、その実体性を真剣に問おうとする人間は殆どいないものである。家族は国家とは真逆な存在である。多くの人々にとって毎日の生きる糧である。平和で何の問題もないときでもそうであるが、戦時下では尚更その思いは強いに違いない。この視点に立てば、ガッサンの言葉とアル・バッサムの言葉が重く響いてくる。

 エドワード・サイードは『パレスチナとは何か』で、「政治とは、大半の武装集団や指導者や対立する諸党派などと同様、無気味に「どこか向こうのほう」で潜伏しているものなのだ」(島弘之訳) と書いている。この政治というものを動かすものが国家であり、それゆえ国家は、普段、われわれの目から隠れて存在するものなのである。しかし、紛争が起きると国家はその凶暴な本性を曝け出す。パレスチナでの戦争は1948年のイスラエル建国以来断続的に続いている。1993年のオスロ合意でイスラエル人とパレスチナ人が平和に共存する方向性が示されたが、その和平の方向性は完全に崩壊し、イスラエル人とパレスチナ人との間の血生臭い惨劇はその後も続けられている。

 作家のアーティフ・アブー・サイフは『ガザ日記:ジェノサイドの記録』(以後サブタイトルは省略する) の中で、「ガザの人々にとって戦争は天候のようなもので、私たちはずっとその中に生きている。私たちに発言権なく、生まれたその日から、戦争はただ、やってきては去っていく。ほとんどのガザ人はこの地区の外に出たことはない。戦争が当たり前ではない生活がどのようなものか知らないし、自由が何かも知らない」(中野真紀子訳) という言葉を述べているが、戦争が日常となったガザ地区の人々にとって自らの生を支えてくれるもの、それは家族以外の何物でもない。彼らにとって家族は国家よりも尊いものであるが、彼らは国家の名の下に行われる争いによって家族から引き離され、家族を傷つけられ、家族を殺される。国家が家族という掛け替えのない存在を圧倒し、家族を押す潰し、一人一人の存在意味を消滅させる。そんな日常がガザ地区では長年起きている。

 「ガザからの報告」に登場するエルアクラ家も、パレスチナ人が背負ったこの不条理を抱え込む宿命の下に生きざるを得ない。ジャバリア難民キャンプでのテント生活からやっと小さな家を建て、さらに、成長した息子たちが家族で住めるように家を増築し、長男の仕事も見つかり、次男も定職につき、新たに沢山の子供が生まれ、やっとこの一家の生活が安定しかかったときに再び戦争が始まった。「ガザからの報告」の最後、テロップによって2023年に一家はジャバリア難民キャンプを離れ、行方知れずになったことが告げられている。彼らの家はもう存在しないに違いない。何故なら、イスラエル軍はジャバリア難民キャンプの建物を徹底的に破壊したからだ。もしかしたら彼らの家だけではなく、彼ら自身も地上から永遠に消えてしまったかもしれない。

歴史の中の連続性と変更性

 1948年以降、パレスチナの人々は歴史の中の負の連続性を何とか断ち切ることができないかということを常に考えている。そうしなければ、彼らが生きる場所も、生きる希望も失われてしまうからだ。しかし何故、パレスチナ人は過酷な運命に翻弄されているのだろうか。政治的、歴史的見れば、パレスチナはイギリスが1915年にフサイン=マクマフォン協定によってパレスチナにおけるアラブ人の定住と独立を認められた場所だ。ところが、1916年のサイクス・ピコ協定で第一次大戦後にオスマントルコ領をイギリスとフランスとロシアとで三分割し統治する協定を締結した。さらには、1917年にパレスチナにユダヤ人国家の建設を認めたバルフォア宣言が結ばれる。イギリスのこの三枚舌外交が20世紀のパレスチナ人の悲劇の始まりであった。

 バルフォア宣言に基づいてイスラエルが建国されたことによって、多くのパレスチナ人が突然、家や故郷を失った。彼らは難民となり、テント生活を余儀なくされただけでなく、イスラエルから様々な抑圧を受けることとなる。1993年のオスロ合意でパレスチナ暫定政権が国際的にも承認され、彼らの国家が樹立され、彼らが生活できる土地ができると思われた。だが、ユダヤ人は入植を続け、パレスチナ人の住める土地が次第に狭まっていっただけではなく、インティファーダへの弾圧後に度々起きた自爆テロを理由にパレスチナ人がイスラエル領へ働きに出ることも禁止されていった。経済状況は悪化。この様子は「ガザからの報告」の映像の中にも描かれている。ガザの人々の不満と苦しみの声に耳を傾けたのはPLOではなくハマスだった。ハマスが過激な自爆テロやイスラエル領内へのロケット弾攻撃を行った結果、ハマスが実効支配するガザ地区をイスラエルは高い壁で覆い、ガザ地区とイスラエル領土との人の流れと物の流れとを大幅に規制した。この措置によって福岡市程の面積の土地に約220万人の人々が暮らし、人口密度が東京都に匹敵する6018人であるこの地区の失業率は45%にも上った。

 そうした中、2023年10月7日ハマスによるイスラエル領への侵攻と2000発のロケット弾攻撃が起き、1300人が死亡し、さらに、250人を超える人質がガザ地区に連れ去られる事件が起きた。イスラエルは電力供給を完全にストップさせ、水道水の供給も行われなくなった。侵攻したイスラエル軍の論理はハマスを殲滅することが目的でガザ地区の住民を殺害したり、排除したりすることが目的ではないというものだ。しかしながら、サイフが『ガザ日記』でイスラエル軍に対して、「彼らが浄化しようとしているのはハマスではない。アラブ人なのだ。私たちを見かけたら、殺すか強制退去させるか、どちらか早いほうを選ぶだろう。選択の余地はない。死ぬか、去るか。平和的にここにとどまりたい、占領者に迷惑はかけないと約束するという訴えはできない。多くの人は選ぶことすらできず、ミサイルの餌食になる」と書いているように、イスラエルは彼らの論理を必然であると見なし、殺人と強制退去を行っているのだ。  

 パレスチナ人の悲劇は、ガザの悲劇は、何度も繰り返されている。パレスチナ人がイスラエル人を一人殺せばパレスチナ人が何十人、何百人と殺される。それに対して、パレスチナ人がイスラエル人を十人殺せばイスラエル人はパレスチナ人を何百人、何千人と殺戮する。パレスチナという土地には何十万、何百万という人の血が沁み込んでいる。血の歴史の連続。だが、パレスチナにあるのは、それだけではないはずだ。明日に繋がる戦争とは異なる何かが、今の悲惨な状況を変える何かがなければ、パレスチナの人々を救ことはできない。そのようなものは存在するだろうか。そう考えた時に、私は「ガザからの報告」の一シーンを思い出した。それは長男のバッサンに子供ができ、そのことを喜んだ母のウム・バッサムがご馳走を作り、パレスチナの踊りを踊るシーンだ。新しい命の誕生はエルアクラ家が存続されていくということだけではなく、新しい希望が誕生することであることをウム・バッサムの喜びのダンスは明示している。そこにはパレスチナの歴史の連続性と変更性とが端的に現されている。

過剰ということの意味

 弱者はより弱くなり生存圏をどんどん奪われ続け、強者はより強くなり支配圏をさらに拡大していく。ガザ地区で今起きていることを直視すれば、この結論に至るに違いない。だが、そうした事実を認めても、ガザに今いるパレスチナ人の悲惨さが解決される訳ではない。鵜飼哲の『償いのアルケオロジー』の中にある、「償いは常に過剰でなければならない。償いが過剰でなければならないということは、逆に言えば復讐は常に過剰になるということでもある。ここに、平和を脅すあらゆる危険と、そこへ至るささやかなチャンスがともども秘められているのではないでしょうか」という発言。もしもこの死臭に満ちた呪われた土地に希望の欠片があるとするならば、それは等価交換的な外交交渉というディール (取り引き) や人道主義的救済という同情心などでは決してない。

 償うこと、許すこと、他者の痛みを知ること。こうしたことは、自らが体験したことではない場合、簡単に無視できる事柄であり、忘却できる事柄である。過剰であること、今ここにあること以上のことを考えること、体験していないことを考えることも、語ることも容易なことではない。済州島四・三事件を描き続けている金石範は、『新編「在日」の思想』の中で、「私はいままでも虐殺されたマスとしての民衆を、一人の具体的な死として捉えるべく志してきたが、しかしその具体の恐ろしさをどれほど知っていたかというと、疑わしい。知るということは、どれほど自分を恐ろしさのなかに沈めていたかということだ」という言葉を記している。過剰でなければ、想像できない事柄が存在している。可能な限りの想像力を使わなければ理解できない事象が存在している。しかし、その行為は平穏に生きている人間にとってはあまりにも過酷なものだ。

 条理や理性、正義や調和、友愛や道理、そういったものから遠く離れてしまった世界が、われわれの目の前にある。カオスの直前の破壊は新たな秩序の創造にはならない。奴らはわれわれの父を、母、兄を、妹を、叔父を、姪を殺していく。ここから、われわれを抹殺するために、奴らは一昨日も、昨日も、殺した。明日も、明後日も殺す。世界は滅亡に向かっている。何処か遠くで、誰かがわれわれの死についてのディールをしている。今日殺すか、明日殺すか、明後日殺すかを決めるための。

 過剰でなければならない。向こう側で決められるディールを打ち破るために。一人一人の具体的な生が問題であって、交渉による利益や損失が問題なのではない。金石範は上記した本で、「(…) 人間の死が統計にしかすぎぬという恐ろしいことばは、アウシュビッツの過去だけではなく、現在もその実効を失っていない。ベトナムの死がそうであり、戦後済州島の死がそうである」と述べている。済州島四・三事件の後も、ベトナム戦争の後も、虐殺は続いている。今、ガザでは、虐殺がまさに進行しているのだ。死体、死体、死体、死体。死んでしまった多くの人間の姿を毎日見なければならない日常とは何であろうか。想像することができない場所にいて、想像することはできるのだろうか。それには過剰さが、今までに一度も思い描いたことがないことを思い浮かべるという過剰な想像力が必要である。

不死鳥を信じることができるか?

 サイフは『ガザ日記』で「再開を約束した唯一の場所で、再びみんなで会うことはない。フダーも、ハーティムも、ムハンマド・アル=ナファールも、ムハンマドとアフマドのハイラ兄弟もいない。私は人生のパターンを変えなければならない。土曜日を一緒に過ごすビラールもいない。詩を語り合うサリーム・アル=ナファールもいない。旧市街もない。サフターウィーもいない。私の知っているジャバリアもない。私が知っているガザは、もうそこにはない」と語っている。サイフはあまりにも多くの親族と友人を失った。この世界からなくなったのは人間だけではない。記憶を呼び覚ましてくれる建物も、木々も、通りもなくなってしまった。

 そんなガザに残っているものはあるのだろうか。それでも、サイフは街の再生を信じている。「何かがあるとすれば、それはゼロから建て直されたものになるだろう。街の紋章である不死鳥のように、炎の中から生まれ変わる必要がある。あらゆる困難、あらゆる可能性に抗して立ち上がらなければならない」と彼は書いている。彼はいくら虐げられてもガザに住むパレスチナが再びこの地で力強く生きることができると信じている。

 それだけではないかもしれない。どれだけ抑圧されようとも、いつか家族の誰かが故郷に帰ることを信じるアル・バッサムの「イスラエルもいつか破滅して出て行く。そして、われわれは故郷に戻る権利を取り戻す」という言葉。それは虚空に空しく響く言葉ではない。故郷へ戻ろうと望む声は、失われた過去の思いが未来において再び現実のものとして現れるということを意味している。もしもそれが単なる空想であるならば、今、ガザで流されている血の海の意味とは何であろうか。

 ガザでの生活は日に日に苦しさを増している。エルアクラ家の家族たちはジャバリア難民キャンプから追い出され、南に向かった。上述したように、現在の詳しい状況は不明であると映画の中で語られている。もしかしたら、この一家の何人かは銃弾やミサイルによって命を失ったかもしれない。それでも、この一家の誰かが家族の物語を語り続けていくならば、彼らの生きた歴史は消え去ることはない。

 土井敏邦は、『ガザからの報告――現地で何が起きているのか』(岩波ブックレットNo.1096) で、「「停戦」は不可欠である。だが、それは問題解決の第一歩に過ぎない。その後、ガザ住民の‟生きる基盤„をどう再興できるかが次の重大な鍵となる。そしてさらに真の‟ガザの解放„である。それは今叫ばれている「ジェノサイドからの解放」だけでは達成できない。問題の根源である‟占領からの解放„が実現しない限り「ガザの問題」は終わらない」と記している。確かにそうである。停戦ですべてが解決しないのは事実である。だが、その停戦の見通しすらまったく見通すことができない今がある。

 一刻も早く今の戦争を終わらせること。そうしなければ、ガザの人々の明日はない。戦場から遠く離れたここにいて、ガザについて話すことにどのような価値があるのか。その問いに対して、私が明確に答えることはできない。ここに綴られている言葉は時間の中で少しずつ腐食して、失われていくものかもしれない。誰の耳にも届かずに消滅するものなのかもしれない。だがそれでも、ここに私が何かを記したという事実は変わらない。ガザは遠い。遠過ぎる。こことガザとが遠いのは距離だけのことではない。ここの日常とガザの日常との差異はあまりにも大きい。それは生きる意味の遠さでもある。想像力が必要である。たとえそれが空想に過ぎなくとも。さらに、さらに、限界を超えて想像することが必要であるのだ。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

宇波彰現代哲学研究所 過剰さを、さらなる過剰さを――ガザ問題について

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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