愚かしき呪縛

著者: 大田一廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
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*革命歌作詞家に凭りかかられて少しづつ液化してゆくピアノ

                             ――塚本邦雄

 歌人の塚本邦雄が『水葬物語』を世に問うたのは、一九五一年八月のことである。定型音数律に語割れ・句跨りを持ち込み、〈破調〉によって意味の秩序を流動化せしめ、もって戦後啓蒙の虚妄を指摘してみせたのが巻頭の「革命家作詞家」であった。それは戦後、塚本が同人誌『メトード』によって盟友杉原一司とともに短歌の革命を志向し、古謡以来のありうべき日本語の表現を追究して到達したひとつの成果であった。韻律と自由律、定型と非定型、韻文と散文など言語表現のほとんどすべてにわたって、とりわけ戦後の〈われわれ〉をなお捉えていた抒情の韻律を塚本が改めて問いかえしたのは、桑原武夫の「第二芸術」論や小野十三郎の「七五の魔」韻律論が短詩型文学の〈非近代性〉を批判していたころである。そして「戦後民主主義」が掲げた近代の理念をめぐって、戦後の政治秩序に亀裂が奔ったのも、おなじ五十一年のことであった。「永久革命者の悲哀」の作家・埴谷雄高が「奴は敵だ、敵を殺せ」という死の論理のうえに君臨する政治体制を弾劾したのは、一九五六年のことであったが、この年、塚本は筆名ながら「日本人霊歌流産記」を書き、政治の欺瞞と歌壇の退廃にアイロニカルな批評を加えていた。

戦後の経験を顧みて、言語・思考・暴力とその言説が総じて「統治できぬもの」(アガン

ベン)をめぐってたがいに競いあい、また岐かれてきたのではないか、との憾が今更ながら深い。だが、「統治できぬもの」とは〈乗り越え不能〉と同義の或るものだったのかもしれない。とすれば、ここでもマルクスの言う「社会的活動の自己膠着」の構造を改めて捉えなおす必要がある、とわたしには思われる。

日本語の連綿たる物-語を無視できぬ〈われわれ〉の現在の状況からみれば、定型音数律の言語構制を問うことはなおひとつの有効な方法ではないか。「戦後八十年」はいまや、多様な観点から自在に論じられるべきだろう。

〔一〕

・そら豆の莢青みをり「四千の日と夜」すべて空の空なる

・青銅の聖母観音鎮めれば村はいちめん緑に犯され

・四、五本の垂直に立つ木賊かなひと節ごとに何を負ひたる

・踏み迷ふあかのまんまの咲きゐたる泥道にわが「神曲」のはじめ

・原初なす荒ぶるこころ古詩に雅歌わが書の扉には〈希みを捨てよ〉

・定型こそはわが刃裂かむかな地平をもたぬ非在の在を

・いちめんに黄の花冰る湖の笛ほのかたらひし根の國の涯

・名づけえぬものを名づけむ薄明に柹の花々散りゆくものを

・言の葉の笹浮き舟にまどろみて古りにし戀をひそかに戀ひつ

・群青の沖の上に海市ゆらぎつわが水脈は初夏の奢りを

・風待ちて世を俟つこともなきひとの鞆の浦廻の常夜燈かな

・まなうらに葛の花顕ち夢の邊の夜ごと崩るるふれぶみの束

〔二〕

・風が立つさあ祝祭だ踊れ闇の傀儡たち斑猫のごとくに

・パリ燃ゆと五月の真昼Aux armes 少年兵の眸は昏し

・「武器をとれ、バリケードへ!」ボナパルト街は午睡に猫は欠伸を

・〈青年死して五月輝やけり〉游魂はなほ眞紅に朽ちゐたるを

・八月の篠懸の蔭に伏しをれば地鏡に泡立つ原国家

・涯もなき虚在の海へ、蜂起はやコルビン劇場は幕間に

・夢に叛ほのかたらひし蝋燭のひとつふたつ消ゆカフェ・ブダペシュト

・藍青の地平に浮ぶEtwasを戀に戀ひたる未来混沌派

・刃毀れの九寸五分をば懐に雜藝の末、妖變の果て

・見えぬ顔夜ごと日ごとのテロリスト法-外なるは透明国家

・十月も殘酷なるに凍土に鎖されゐたる緋の烏瓜

・ゲバラ死す十月の霧なほ深し自他の閾を踰ゆとは言はぬ

・蓑笠に柹帷子の遊行者ら飛礫に興ず叛の いづこへ

・途切れつつ蜂起の檄かあてやかに黄楊の撥の音枇杷の殘り香

・結氷期垂直に堕つ瀧の蝶しづかなるかな蜂起に到らず

・忘却のかげを流るる革命者呑みたる匕首に銀の菊の香

・奔る廻文quid pro quoまさか逆さま愛しきやし円環の罠

〔三〕

・紅旗征戎斃るればわが秘曲「啄木」を遊撃のはなむけに

・ゆふぐれに氷の果てを橇の馬露地栽培の球根を捨て

・五月の朝斃れゐたるホモ・ポレミクスふと想う穂麦の針を

・裕仁問へり「愛國者」がなぜ自死を。しづかに焚きぬ真夜の紅葉を

・夏麻引く真間の手児奈の観世音きみにふた心われあらめやも

・世も人もかく果てにけり草の背をひよろろひよろろと風の葦笛

・寂寥の空を統べたる瀧櫻みづからそそぐ時間の束を

・奢りたれ葦原の死霊たち滲む血のうけひの束の狂るごとく

・見る見ぬはひとのこころぞ絞りたる鼓の紐ににじむ真紅は

・秋の暮れ噴水つひに定まらず汲み盡くしえぬいのちなりけり

・塹壕の兵士は蝶を蝶は藍青の罌粟を戀ふ樂興の時

〔四〕

・負ひながらちぢにちりゆくさくら花かたちも色もひとひらごとに

・他序の譜を學知に問はば紫陽花の狭間に暗し〈汝とわれ〉は

・けものにも人間の性ありぬべし末期の叛さへ機械仕掛けに

・春の潮しんしんと這ふ銀の笛ふいに崩るるわがゲシュタルト

・紺紺と降る牡丹雪赤き帆の垂直に見ゆ夜の燧灘

・無月こそ叛のたましひ涼やかに坩堝のなかの緑色硝子

・藪深く老いたる雲雀歌はずに飛び逝くらしも瞋りを遺し

・見渡せば水無瀬の春を惜しむらむ沖に帆の切継のくれなゐ

・ひと待ちて待ち待ちかねて瀧枕薄の契りと啼く杜鵑

・夜の土間に藁のそら豆散らばれり死ぬるなら藁のやうにではなく

・薔薇、屈辱、自同律――母貝の胎児は「このもの性」に訣かれを

・水甕に酒中花一枝わが波郷癒えむためより生きむためとや

・落ちにけり身馴れ世馴れの綾藺笠離るるるるが戀の鼓よ

〔五〕

・逝きし世の朱の埋み火を花として後の世を狩る詞俟たなむ

・風も身も色なき花のふる舞ひも振りの倣ひも仕舞ひて候

・花に遇ひ一枝を胸に酔ひどれのまなうらにふる誰が柹の花

・物がらにあひ渉る世の柄あらばあれ鷗外言へり「かのやうに」

・道化こそ成らずの役柄つねに花、世にふるままにあるかのやうに

・暮るる間のゆららさららにしら梅を巫祝と紛ふ祇園何必館

・ひとごとを過ぎたるゆゑの夢のはて夢なればなほ夢を夢みむ

・きのふの生は今日の死者とやされば明日のむかしは今宵の夢魔ぞ

・〈聞いてゐるか、地熱よ〉かつて十字舎坊の鬱寥たる呟きを

・歌論の果てたるしらじらしき夜明け七竈の薄雪も融けゐつ

・今宵振る机上に賽を七日夜の二十五時に十三回目の

・ゆやみの癲狂院にふつふつと発酵のおと叛と覚えず

・寂寞を極めて涼し夏の庭――「それもこころごころですさかい」

・そしてその秋、地平は美しく発狂した 遺言執行人も

        ******

 近代にとって「統治できぬもの」があるとすれば、それはフーコーを俟つまでもなく、言語・思考・暴力の諸形態として社会諸関係の隅ずみに根を張って、そこに常に〈措かれて〉あるに違いない。近代の構造にはその都度すでに、「より以上のあるもの」が制御不能の虚在としてポジティヴに働いているように見える。

〈不可能なこと〉をさえ存立させる意味としての事の世界を言挙げする山内得立の炯眼や、魯迅の「掙扎」概念を「自分の意図」が状況の流れによって現われてくるのを見るという考え方だと捉えた鶴見俊輔の洞察は、記憶に値する。そして「現実的であれ、不可能なことを求めよ」というブランショの決意にはたしかに首肯すべきものがあるだろう。これらはみな「社会的力」として機能する地上の出来事なのである。

吉岡實『薬玉』(一九八三年)の「巡礼」から一部を引いておきたい。

*地上で起る事は地上で終る

 そして、塚本邦雄の絶唱を掲げて、記憶の縁としたい。

 *柹の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか

                             (2025年3月26日)

初出:季報『唯物論研究』第171号、2025/5より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture1404:250802〕