越年 越冬

 今年の夏もとびきり暑かった。

 仲間の死という「喪失感」にさいなまれながら、それでも灼熱の路上を歩き続けていたら、一気に季節が変わった。

 「あんたら毎週、飽きずによくやるね~」との仲間の声に、「いやいや」と笑って返すと、真顔で「いやいやじゃないよ」「大変だよね」との労いの声。何だか立場が逆転しているようでもあるが、こんな関係もある。再び笑って「これも修業ですので」と、すり抜ける。何の修業だか分からぬが、半分冗談、半分本気。

 私たちの日常の活動はきわめて単調である。とりわけ大きなことがあるわけではなく、あるのは瑣末なことばかり。それでもそんなものを積み上げてきたので、当事者との信頼関係はできている。そんなものは橋にも棒にもかからないかも知れないが、長年やっているからか、そう云う関係性だけは、自信がある。なので、いつまで経っても「仲間たち」である。

 木枯らしが吹き、「酉の市」が始まれば、冬の訪れである。今年は紅葉の方が後回しになっているが、一気の冬はすぐに都会の姿を変えていくだろう。年月が巡るのは早い。

 冬は私たちの活動の中でも重要な季節。年末年始の特別な催しもあるが、そこだけではなく、冬全体を捉え、日常活動に緊張感を持たせ、越冬を考えている。
 東京の冬もそこそこ寒い。どういう立場に立とうとも、冷たいコンクリート上で横たわっている人々を見れば、痛ましく思い、何かをしたくなるのは人の「情」でもある。
 アンデルセンの「マッチ売りの少女」は、当時の欧州の国々では、ごくごく日常の「野たれ死」の姿であったようである。どのような時代であっても、それは心を痛める。家族とのつながりの希望を夢見て、その夢の中で静かに息を引き取ったと、嘘でもいいから、そう思ってみたい。「凍死」ともなると、その感覚を南国以外の人は誰もが知っているが故に、なおさらである。

 新宿も冬場には「野垂れ死」が多かった。もちろん今もその危険と隣り合わせで、160名近い仲間が毎日路上で横になる。冬とのたたかいはこれからである。

…………

 今年もそう大きな変化はない越年越冬になりそうであるが、数は変わらぬものの、全体的には「目立たなく」なったのは事実かもしれない。なので、東京都の調査の数は減っていく。
 今年の夏の「路上生活者概数調査」の結果を都が発表したが、都内で557名、1月調査と比較して8名減ったとされている。減ったとしても、そこは毎年の微減の範囲。まあ、増えるよりは喜ばしいことでもある。
 全体的には微減ではあるが、区別の調査では、新宿区が11名も減り、渋谷区が16名も増え、ついに新宿区は、長年保持していた「23区内トップ」の不名誉(?)な地位を、渋谷区に譲り渡した形となっている。しかし、これは夏前、都庁下の「ふれあい通り」の工事の関係で、そこに起居していた人々が分散し、渋谷区寄りに居住地を移しただけのことであるが、それもそんな事情を知る人のみが知ること。
 変貌を続ける大都会の中なので、居場所というのは限られてしまう。隣の区へ越境するなんてことはいつものこと。より良い場所を探して転々とし、そこをしばらく拠点にしながら、また移動していく。そんなものでもある。
 都の概数調査はご存じの通り「昼間の数」。目立ったところをピックアップした調査。夜の移動層はほぼ把握されていない。高市さんのように午前3時から仕事をするような熱心な人は都庁にはいないので、終電が終わった夜の新宿の街や早朝の新宿の街は、そう馴染みがない。目立たない時に眠りにつき、朝になれば去っていく。そうせざるを得ないという人々も、この街には多くいることには、残念ながら気がつかない。そして、そんな前提をつけて「概数調査」を見る人も、めったにいない。「概数」と書いてあるのに「実数」と勘違いをしている。「何だ新宿はたった65名か、減ったね」と思われてしまう。下手に勉強をしてくる議員さんともなれば、「減ったから実態にあった予算に減らしましょう」と来る。そうなると、公式の数字はこれしかないので、現場の役人さんが大慌て、となる。
 そんな中、今年は5年に一度の「国勢調査」の年。数字のギャップがとりわけ目立つのだから止せばよいのに、懲りもせず新宿区の統計課は「住所不定者」の分を私たちに依頼してくる。連絡会はマニアックなスタッフが多いので、こういう依頼があるとすぐに乗ってしまう。新宿区内をあちこち回り、正直かつ正確な数値を出す。結果、新宿区内で143名(男性133名、女性10名)の調査結果となった。ほぼ、私たちが日ごろ回っている数字と同じである。もちろん路上の全ての人が調査に協力してくれたわけではないが、その断った仲間の数も含めると、実数はもう少し多くなる。公式とされている東京都概数調査の数とは、かなりの乖離がある。

「本当のことなど誰にも分からない」。

 この問題も「知ったかぶり」が多くなったが、こんな数字を根拠にしていると恥をかくのがオチである。

 さて、その国勢調査、新宿区内の「住所不定調査」では、平均年齢は63歳、最年少32歳、最年長87歳、70代が最も多く、60代、70代と合わせると全体の64%にもなる。これは国の令和3年「ホームレス生活実態調査」の傾向とほぼ同じ。若い年齢層が集まるとされていた新宿のホームレス者も、「長期・高齢化」の波は進んでいる。女性もまた目立つようになった。
 ここでは、新宿区の「推進計画」でいう「見えにくいホームレス」は反映されていない。総務省もそこを気にしてか、「住居不定者等調査」に「夜間又は24時間営業店舗に寝泊まりする住居不定者」の内数を求めてきてもいるのであるが、各自治体、国勢調査では、そこは難しいだろうとスルーとなって、特別な調査はしていないようなので、数目は分からない。この、稼働年齢層を中心とした人々の実態は、あまり把握されていない。まあ、無理に把握することもないのであるが…。

 その「見えにくいホームレス」の仲間は、情報を知った時、「シェルター」や「自立支援センター」を活用する。生活保護の申請に来ることもあるので、そこで福祉事務所に「発見」され、申告し、対応をするのであるが、就労支援を中心にしたホームレス対策には、かなり順応してくる。結果として「就労自立」するかしないかは、また別物ではあるが、それはそれで、チャレンジし続けるのであれば良いことである。なので問題は、この「見えにくいホームレス」とどうやって接し、情報を伝達できるかなのか?であるが、そもそもどこに暮らしていて、何をしているのかすら、バラバラな人々なので、一層その把握は難しくなる。

 路上をとにかく見続け、その先をも見通せるよう努力をし続けるしかない。

 そして、路上の夏から秋の、私たちが見てきた数字は、そのまま冬に持ち越しである。

 寒くなると、雨露しのげる場所に集まるのは当然。冬場の雨は命取り。ガード下であるとか、比較的暖かな地下街で寝るようになる。それが目立たないのは、新宿は他の区と違い移動型の仲間が多いからである。寝床の場所はあるが、そこは昼間はもぬけの殻。夜になると段ボールや寝具を取り出し、寝場所を作る。定住したとしても、一日その中で引きこもっているわけではなく、「エサ」や「チャンス」を求め、あちこちと移動する。アルミ缶やらの都市雑業、また東京都の「特出し」(段ボール手帳仕事)や、今は建築に限らずサービス関係の日雇いの仕事をしているものも多い。ずっといるように思える人も時間ごとにいなくなったりする。居場所が生活基盤となる人はそんなに多くはなく、居場所は単なる寝場所でしかないが、冬場はとにかく寝られる場所と装備をしっかりと確保できるか否かが問題で、冬が初めての仲間はたいていそこでつまずいたり、失敗したりする。なので、情報はとても大事。チラシに単に行政施策だけを載せるのではなく、どうやったら自力で、また仲間同士の力で冬を越せるのかを伝えていくのかは冬の大きな仕事。ネットの時代にチラシなど時代遅れという向きもあるが、最後の最後にはやはり「紙の爆弾」。発行するだけでなく、どれだけ隅々に渡し歩けるかでもあるが、それもまだまだ有効な手段。 
 信頼関係を作り、情報ネットワークを構築すれば、それはそれで、「いざ」という時には安心でもある。

 食事の問題は、新宿界隈で多くの民間団体や宗教団体、また個人で動いてくださる方々も多くいて、こちらも安心である。それぞれ、いろいろな事情があり、継続するのは大変ではあるが、そこはとっかえひっかえ。人の善意はこの非情な都会の中でもそこそこ残っている。
 新宿福祉の方でも相談所「とまりぎ」では非常食も出してくれているので、それも最後の最後の手段。寒くて死ぬことはあっても、空腹で死ぬということはなくなった。それはそれで良いことである。もちろん私たちも「おにぎり」を毎週配り歩き、年末年始は連日の暖かい飯の炊き出しの提供を、それが新宿の越年風景として、あたかもそれが当たり前のように、粛々と行う。

 能書きと空回りの決意だけでは冬とたたかえない。まさに官民合わせた総力戦で挑まなければならない。その「自覚」と「決意」は東京都にはなくても、新宿区には、先の「推進計画」のように、あるように思える。それだけはとても心強い。

 新宿の西口再開発は順調に進められている。名物の西口地下ロータリーが半分になり、地上に向かう道路も壊され、バス乗り場も転々し、車よりも「人中心」の広場にすると言っているが、どうなることやら。絵図は出ているものの、いまだ感覚として全容が分からない。この再開発でかなり仲間の寝場所は縮小されてしまっているが、そこはいろいろと工夫して、不文律があるのかないのか。なんとなくの力関係が続いている。日々変わる通行の動線もようやく落ち着いたようで、しばらくはこのままのようである。
 都庁の下、「ふれあい通り」の歩道の張り替え工事も順調に進み、移動を余儀なくされた仲間は「まだか、まだか」と、戻る気まんまん。中には見切りをつけてしまった人もいるので、元の状態にはならないような気もするが、こちらも、どうなることやら。段ボールハウスの小屋の作り方などの継承が今はまるでなく、材料があまり捨てられていないので、その点もあって、ちょいと見た目が不自然になりがちである。見てくれが悪いと、さすが都庁の下だけあって、都知事がトランプさんのよう(見てくれだけの理由で排除しようとする)になってしまう保証はない。そのトランプさんの来日やら、秋のイベント類も終わり、あとは毎年恒例の東京マラソンがあるので、その頃まで今のままか。
 新宿の中央公園は園内がかなり整備されてきたが、テントは一軒もなく、天気の良い日は昼間横になる程度。戸山公園もアスファルトで埋め尽くす「除染作業」がかなり進んで、立ち入り禁止地区も小さくなったが、ついでの工事もあちこちで。とうてい昼間、いられる場所もなく、深夜に10名程度の人々が目立たぬよう横になる。
 駅の南口の方も、新大久保近辺は、だいぶうるさくなった。苦情などが多いとのことであるが、役所に苦情を言って自分では何もしないのは、ちと違うのではないかとも思うのであるが、目立つ場所、長くいる場所は往々にしてそうなる。
 そういえば、とある駅前の「お方」は、なんだかんだ、地域や警察や鉄道会社を巻き込んで騒がれ、最終手段で「入院」となり、しばらくは忘れられていたのであるが、この夏、また戻ってきた。だいぶすっきりとした姿で戻ってきたので、リフレッシュにはなったのかもしれない。また、騒ぎが始まらないことを祈るだけである。

 そっとしておいて、見守るだけも支援の仕方。安否確認だけは大事。

…………

 この夏、新宿が含まれる第一ブロックの「自立支援センター」が神田にあった「千代田寮」から、月島の「中央寮」に変わった。こちらも最近の時流に乗り、ネットカフェのように個室化となり、女性も歓迎(センター直接ではなく、センターが契約する借上げ住宅の方に入るようだが)となったので、若い「目に見えない」人々には大人気。すぐに満床になったようである。飯場経験などがない若い仲間、特に対人関係に難がある仲間は個室を好む。体育会系の合宿だと思えばどうでもないのであるが、そこは大人の世界。同学年の者だけでなく先輩も後輩もいたりして、気をつかうのは当然。それができないと、トラブルになったりもする。個室化のおかげで定員が減ることになったのであるが、そこは仕方のないところか。

 そんなこんなの「中央寮」、場所が月島と聞いて、「歴史マニア」「底辺下層マニア」の私などは「石川島人足寄場」の名がすぐに浮かぶ。開設前ではあったが、興味本位で施設の見学をした後、歩いて人足寄せ場の跡地に赴いた。たまたま、今年のNHKの大河ドラマの時代設定で、鬼平こと「長谷川平蔵」が頻繁に出てくるのだが、ある回の番組最後に流れる「紀行」で、ちょうど今の「石川島人足寄せ場」の「灯台」などが紹介された。けれど、説明がまったく良くない。江戸時代の「石川島人足寄せ場」と明治政府以降の「石川島刑務所」の違いが分かっておらず、説明もなく、単なる監獄として紹介されていた。この研究の第一人者であった瀧川政次郎先生が、きっと草葉の陰でお怒りになっていることだろう。
 「長谷川平蔵」が尽力した「石川島人足寄せ場」の思想は、今の「自立支援センター」の思想につながっている。と、勝手に思っていたが、Wikipediaで調べてみたら、「加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)とは、江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設である。一般には人足寄場(にんそくよせば)の略称で知られている。」と記されている。
 江戸時代、無宿人の問題は幕府を悩ませた。軽犯罪も増え、治安は乱れ、保安処分的性格の強い「無宿養育所」ができたが、教化するどころか、逃亡者が続出し、閉鎖の憂き目となった。
 その反省のもと、時の大老松平定信が、火付け盗賊人改長谷川平蔵宣以(のぶため)に命じ作らせたのが石川島人足寄せ場で、こちらはその効果をしっかりと果たし、幕府崩壊まで、変遷はあったとしても、その「機能」は維持し続けた。
 農村の凶作や災害など、様々な理由で江戸に流れてきた者や、やさぐれ生活の果てに野宿になった者でも、それは罪人としてではなく、それらの人々の能力を生かし、自主性を尊び、教育もし、社会復帰の道を就労を軸として見いだそうとした刑罰主義ではない「人足寄せ場」の日本独特の発想は、瀧川先生の研究でも明確になっており、これをそのまま現在に持ってきたら(保安処分的性格の部分を除いてみれば)今の「自立支援センター」ととても似ている。
 「自立支援センター」の絵を描いた一人である都庁職(退官し、その後不慮の事故で亡くなってしまったが)の方に、かつていろいろと話をしたこともあるが、もちろん彼らは「石川島人足寄せ場」を意識はしておらず、戦前の「労働下宿」であるとか、戦後の「更生施設」の延長で設計をしたようである。けれど、それも含め、明治以降の社会福祉の歴史の中でも、また戦後の制度の中でも、江戸時代の「人情」を軸にした、滝川先生いうところの「日本的ヒューマニズム」に基づく思想は脈々と受け継がれているように思える。
 これらは、儒教の教えでもある「孟子の性善説」に基づいていると考えられているが、そう云えば、今の生活保護制度も、同じく「性善説」に立っている。これも同じ流れなのであろう。

 まあ、「中央寮」がへばりつく運河の向こうには「晴海フラッグ」がそびえ立って、なかなかその絵図は「貧富の格差」を象徴しているかのようであり、これもまたとても面白い光景であるが、普通の人は何の施設か分からないから、そう気にもとめない。

 施設というのは嫌われ者であるようであるが、今ある施設のそういう面を知るのは楽しいことである。施設の職員というのは日々、そのために働いている。ボランティアが時たま現場に顔を出すのとは違い、日々、真剣勝負そのものである。そして、様々なケースに出会うことで悩み、成長していく。こういうプロがいることを社会はどうしても忘れがちである。「長谷川平蔵」も実際は「小役人」であったようだが、池波正太郎のお陰もあり、今や「ヒーロー」の扱いとなった。山本周五郎の小説「さぶ」の舞台は、まさに「石川島人足寄せ場」である。当時のある意味、破天荒な施設のあり方が、生き生きと描写されている。

 そんなことを思いながら、土産に江戸から続く老舗「丸久」の佃煮を買って、甲州街道を歩かず、地下鉄に乗って「内藤新宿」の地に戻った。

…………

 「長期・高齢化」した新宿の路上の仲間には、生活保護を勧めるのが一般的である。
 が、その生活保護制度で路上生活を脱却できたとしても、そこからが試練となり、我慢がきかなくなると、そこから出てしまい、再び放浪、なんてこともある。
 生活保護の側がまだまだ不十分な点も見落とされがちである。住宅問題などもそこには絡み、都心部では低所得の単身高齢者が暮らせる場所が、「開発だ」「土地活用」だと、少なくなり、その家賃も高騰し、生活保護の基準額で暮らせるアパートもなくなりつつある。公営住宅もなかなか増えないとなると、ここはもう泥沼である。
 安易に幻想を与えそこに流す前に、生活保護の側の環境整備をしっかり整えるのも必要である。

 施設なのか、アパートなのか、どこに住むのか、ではなく、「そこで何をするのか?」「どう生きるのか?」ということが問われるのであるが、そこまで行き着くには、それはそれ相応の苦悩や葛藤や修業が必要となる。なので、たいていの人は考えるのを止め、惰性に流される。その方が人間臭くて良いのであるが、役所の世話になると、そうともいかず、真面目に生きることを強要される。それが嫌なら「自分でどうにかなさい」と言われ、「そんなこたぁ分かっとるわい!」と啖呵を切って、つまるところは路上暮らし、場末の街で金を拾い、後楽園で三連単の馬券を100円単位で買って夢を見る。

 それはそれで、イソップ寓話の「アリとキリギリス」のようだが、この物語、後世、結末が「野垂れ死に」ではあまりにも可哀想だ、教育的にも良くないと、パンを無償で与える話になったよう、計画性がないのは罪ではない。寒くて震えていたら、暖かいスープと防寒着やら毛布を、誰であろうと、黙って渡すのは世界共通。

 今の路上の仲間は、病気になったり、持病が悪化したり、怪我をしたりと、救急車などで病院に行く、そしてそこへ福祉事務所が赴き生活保護の申請を勧め、退院した後の厚生施設などを探す。そのようなケースが多くなった。また、巡回相談や私たちのパトロール隊に頻りに声をかけられ、「もう歳だから、野宿は厳しいわな」と諦めて福祉事務所で申請の手続きをする。

 生活保護を受給したからとそれで終わりではない。無年金・低年金の問題、住民票の問題、債務の問題、家族の問題、そこを根気強く、その人がより良い暮らしに戻れるようしていかねばならぬから、ワーカーや施設の職員、相談員さんは、それはそれで大変である。

 他方、「今は路上で良い」という意思は尊重しなければならないし、期せずして作られてしまった「炊き出し文化」(今やそこを転々としていけば食うには困らない)ともいうようなものも仕方がないのであろう。防寒着や毛布の放出、まさに「バラマキ」は、「野垂れ死」だけはならないようとするものである。それでは根本的な解決にならないのは無論である。その弊害は私たちが一番よく分かっている。が、死んでしまったらお終いである。なので、分かっているが、それをやり続ける。「応急援護」とはなかなか難しきものでもある。

 人生に落胆した人々は新宿の街に来れば何とかなると思ってそこへ行く。来てもどうにかなるものではないのであるが、どうにかなる場合もある。「捨てる神あれば、拾う神あり」。ま、そこが新宿の底力。

 「黙って野たれ死ぬな!」は、山谷、釜ヶ崎の闘士であり、沖縄で単身決起し29年の短き人生を終えた船本修治氏の遺稿集のタイトルでもあり、オイルショック以降、毎年取り組まれている全国の「寄せ場」の越年越冬闘争のスローガンでもある。
 世代が違うので船本氏を直接知らないが、山谷で働き山谷争議団活動をしていた頃、その激しさは、昔の活動家からよく聞いていた。
 「確信を持って前進せよ!」と、労働者解放への道筋を言葉と実践で示し、他者の同情を快く思わず、自らの力で時代を切り開こうとした、その重い言葉は、今でも圧巻である。

 かなり亜流ではあるが、その系譜の上に立つ私たちは、何となくでも良いから、その思いだけは引き継いで行きたいと思う。
 なので 、 新宿の越年越冬は、「 黙って野たれ死ぬな!」と仲間に呼びかけ、その具体的な行動を創意工夫をもって実践して行きたい。
                                      (了)

初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL.94」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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