小伝 宇 野 弘 蔵(9-1)

著者: 大 田 一 廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
タグ:

第九章 遺稿「広域経済論」と戦時《転向》問題

 1)『経済政策論 上巻』「序論」と《社会的力》をめぐって

1936[昭11]年5月に刊行した『経済政策論 上巻』で宇野が強調したのは要するに、西ヨーロッパにおける近代社会を資本主義社会として成立させ、さらに駆動させたとみられる資本蓄積の様式あるいは構造が、いかなる歴史過程の社会的諸条件によって可能になったのかを問うことであり、この社会的諸条件を解明する基軸として導入されたのが〈労働力商品の組織化〉という視座であった。帝国主義はこの〈労働力商品化〉を「経済的国家主義」(遺稿「広域経済論」)によって組織する金融資本の蓄積様式に基づいて形成された資本主義の新しい歴史的段階である、というのである。そして、近代資本主義社会の歴史的性格を原理―段階という認識装置によって確定し経済学体系の構造と根拠について自身の思考を紡ぐことが、宇野の理論的課題となる。以後、〈労働力商品化〉の問題構制は宇野弘蔵の学問的思考の根拠をなす隅の首石として通奏低音になるであろう。

近代資本主義の世界史的過程においては、宇野にしたがえば、資本蓄積の三類型(商人資本―産業資本―金融資本)はそれぞれ時代を画する典型的な経済諸政策(重商主義―自由主義―帝国主義)との相互制約関係を通じて展開したのであった。とりわけ帝国主義段階における金融資本の蓄積様式は、固定資本の巨大化を促進させた産業技術の進化と国民国家に必然的な株式市場への資金の集中を介した大衆の動員システムとともに確立したのである。それは、金融資本が「資本の中心勢力」ないし「支配的資本」として備える「経済的力」そのものを国民国家の統治に対する「政治的力」としてストレートに妥当させるといった、いわば高度の政治的性格を内在させた「経済的国家主義」を媒介にして可能になった、というのである。

『経済政策論 上巻』「序論」には以上の事態を簡潔に表明した一文が次のように記されてある――「重商主義の時代には政治的力が直接経済的力に転化したのに対して、帝国主義の時代は経済的力をして直接政治的力に転化せしめる社会的基礎を有している」。近代資本主義社会の動態を「支配的資本」の動向を基軸にして経済過程と政治過程とのいわば力学的な相互制約関係として把握すること――これが『政策論』における宇野の論点のひとつであった。

しかし、資本の蓄積様式にたいして「経済的力」と「政治的力」のそれぞれの機能を歴史的条件に応じて「転化せしめる社会的基礎」とは、そもそもいかなる実質を備えたものだろうか――。これが、ここでの問題なのである。

たとえば、近代初期におけるイギリスの場合、「商人資本」の蓄積様式は植民地交易や国内産業の統制と保護を専らとする重商主義に特有の国家権力による「政治的力」に支えられ、それを通じて一定の“産業基盤”を得て可能になる資本形態であった。その場合、「商人資本」が依拠したイングランド毛織物産業の雇用関係においては、それが前提する《労働力商品の組織化》は産業革命以前のイギリス社会において、いわゆる「残虐立法」に典型的な一連の法的強制による政治的暴力によって「資本の原始的蓄積」として行われたのであって、この過程を通じて産み出された原生的労働関係は他ならぬ農村社会に展開する《生活世界》のあり方を文化的・制度的に制約する慣習的秩序の強制的な“転回”とともに可能になったものである。

こうして、資本蓄積の可能性とその社会的諸条件を捉えるに当たって宇野は、近代資本主義の動態を構成する「社会的活動」(マルクス/エンゲルス)がどのような形態の「経済的力」と「政治的力」の交錯過程として現われるのか――言い換えれば、《力の論理》として繰り広げられる「社会的活動」の次元に即して、資本蓄積をめぐる「支配的資本」と経済政策の相互関係がいかなる妥当な形態に「転化」しながら機能するのかを問い質したのではないか、と考えられる。そうであれば、こういう宇野弘蔵の考え方には――これが彼のいう唯物史観の解釈的適用かどうか問わないとして――、ひとつの可能性としてマルクス/エンゲルスの《社会的力》(soziale Macht)の論理に連なる余地があるように思われる。すくなくともこの《社会的力》概念の援用によって、資本の蓄積様式と《力の論理》をめぐる宇野の思考がいかなるものか、その輪郭の外延を多少とも隈取ることができるだろう。

さて、「社会的力」についてマルクス(およびエンゲルス)は『ドイツ・イデオロギー』――当時、この遺稿はすでに邦訳されていた――のなかで「協働」の「物象的な所産」として次のように規定していた。

……社会的威力(Macht)、すなわち幾重にも倍化された生産力(Produktionskraft)――それはさまざまな諸個人の分業の内に条件づけられた協働によって生じる――は、協働そのものが自由意志的でなく自然発生的であるために、当の諸個人には、彼ら自身の連合した力(Macht)としてではなく、疎遠な、彼らの外部に自存する強制力(Gewaltとして現われる。(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、小林昌人補訳、岩波文庫、2002年、69頁。)

ここで『ドイツ・イデオロギー』の著者は、《社会的力》(「社会的威力」は以後《社会的力》)なるものを《協働によって幾重にも倍化された生産力》として捉え返すことによって、この《社会的力》がほかならぬ諸個人による「協働」の「連合した力」としてではなく、ある局面で「自然発生的なもの」と見做され当の彼らに対して「外部に自存する暴力」として現われると規定する。資本主義社会においては、「協働の様式」が暴力を伴う《社会的力》として現われるというのである。もう少し正確に言うと、この一節をふくむ前後の文脈で強調されているのは――彼らにとってはM.シュティルナー言うところ一回性を原理とする個体化の論理との対質をひとつの理論的課題としていたことは記憶すべきではあるが、ここでは触れない――、当事者たる諸個人に対して暴力を伴う「物象的な強制力」として現われる《社会的力》とは、「社会的活動の自己膠着」の所産であるということであった。

ういう限定をもつ《社会的力》の概念ではあるけれども、それを本稿の観点から誤解を畏れず転用すれば、つぎのように言えるのではないか。この《社会的力》の概念を、――『ドイツ・イデオロギー』の著者は直接的な労働=生産過程で機能する工場内協業の集合的な技術的生産力を想定しているように考えられるのだが、それは留保して――この協業論的な生産力の単なる機械的な拡張としてではなく、社会的分業として展開する「協働によって幾重にも倍化された生産力」、言い換えれば「協働の様式」としての「生産力」の高次における社会的形態と考えることも可能ではあるまいか。この限りで言えば、宇野が19世紀末から20世紀はじめにかけての〈科学技術〉の進展に基づく「固定資本の巨大化」を、帝国主義段階を画する資本の“技術的構成”の特質として位置づける場合、この「固定資本の巨大化」は「幾重にも倍化された」高次の「生産力」を構成する技術的契機の一形態と見做しうるのであって、それは《社会的力》の展開形態のひとつの歴史的段階として意義をもつといえるだろう。

とはいえ、宇野が《社会的力》というマルクス/エンゲルスの用語を使用しているわけでも、ましてそれを方法概念として自覚的に扱っているわけでもない。そうではあるが、宇野の含意を汲んで敷衍すれば、彼のいう「支配的資本」の蓄積過程をめぐる「経済的力」と「政治的力」との関係は、《社会的力》を構成するいわば《力のキアスマ》であって、それはイデオロギー的契機を含む〈協働によって倍化〉された広義の「生産力」の社会的な形態であるといえるだろう。

もっとも、これはひとつの仮説にすぎない。だが、〈労働力商品化〉が近代資本主義社会をひとつの社会体制として存立させる基礎条件、つまり資本蓄積を可能にさせる構造的根拠たるかぎり、それが実現される諸条件はこの「協働の様式」(およびその分節化)として繰り広げられる《社会的力》の形成と体制化がどのように編成されるかにかかっているに違いない。とすれば、この《社会的力》の編成様式は、ひとつの作業仮説ではあるが、《暴力》(Gewalt)をともなう「体制化の原理」(村田純一)としてのゲシュタルト(Gestalt)と捉えることもできるだろう。この意味で、宇野が先の引用でいう「社会的基礎」とは、彼がそう自覚しているわけではないが、そうしたゲシュタルトとして編成される「社会的活動」とその「自己膠着」の構造そのもの謂いではなかろうか。とはいえ、直ちに一定の留保を付けねばならないが、宇野には、後に触れるように〈資本の物神的性格〉に関する所論(とりわけ資本利子論)はあるけれども、『ドイツ・イデオロギー』の著者が規定する「社会的活動の自己膠着」という論理は明確にはみられない……。

こういう視座に立って、改めて産業革命以降に展開するイギリス資本主義の主軸として綿工業を領導する産業資本の運動を見れば、その蓄積の様式自体がすでに当の「社会的活動」としての《社会的力》を或る種のイデオロギーを伴いつつ産出するという意味で、この産業資本形態を資本蓄積の一般的様式として規定することもできるだろう。だが、ここで言う資本蓄積の一般的様式というのは、19世紀中葉のイギリスの「自由主義」段階における「支配的な」産業資本の蓄積について宇野が規定する事態と同じではない。宇野によれば産業資本は、「自由主義」段階の資本の類型規定としては、景気循環のうちにその資本構成の高度化によって産み出す「相対的過剰人口」の諸形態を通じて「労働力商品化」を実現するのであるが、そのような産業資本はこの〈労働力商品化〉の論理をあたかも内部労働市場の機能であるかのように「内面化」しつつそれ自身「自立」して展開する、と想定されているからである。だが、事柄の実態はそうではないだろう。マンチェスター派に典型的な自由貿易論や「工場立法」の規範に親和的な「支配的」産業資本のイデオロギー形態の強制による労働力人口の包摂と排除といえども、資本蓄積の根拠たる《労働力商品の組織化》は構造的には自己の外部に展開する広範な社会的諸条件に俟つほかはないからである。後に宇野はこの事態を、資本にとって自己再生産できぬ労働力商品化の「無理」と捉えるのだが、果たしてそうなのだろうか……。

ところで、若き宇野が福本和夫を一定程度評価しいていたことはすでにみた。その福本が、『資本論』体系を構成する次元的・段階的な論理構造をいわゆる「経済学批判体系プラン」との関聯において構想する際に、ローザ・ルクセンブルクの「社会的過程としての資本蓄積」視角に触れて「純経済過程」の次元を超える「非資本領野」つまり〈資本蓄積における「非資本制的構造」〉を指摘していたことを、ここで想起すべきかもしれない。この論点に関しては、宇野の意図がどうであれ、すでにみた「資本主義の成立と農村分解の過程」(1936[昭11年)で、さらには後の「わが国農村の封建性」(1946[昭21]年)、「所謂経済外的強制」(1947[昭22]年)という戦後の論文においても、農村における労働力人口の流動化、慣習的な〈家の構造〉とこれに親和的な〈土地所有〉に制約された「小農自身が保有する封建的思想・感情乃至慣行」としての「農民のイデオロギー」をめぐる所論の裡で積極的に論じられていたものである。したがって宇野の関心が、資本主義社会における、否それを“構成する”「非資本制的構造」という社会秩序の慣行的性格、つまり《生活世界》に深く根ざす秩序意識の膠着性にあったことは先ず間違いないだろう。

こうした資本主義社会における〈非資本制的構造〉という問題については、〈日本資本主義論争〉ないし「封建論争」のひとつの論点とされたいわゆる〈経済外的強制〉をどう捉えるかにも関聯する。小作料の現物形態や高率小作料などの「封建遺制」とみられるものを〈経済外的強制〉と見做し、これを他律的な外在的実体としての「公力」(Gewalt)と規定する山田盛太郎の天皇制権力論に対して、宇野は、「封建的土地所有に対する農民による土地の占有」を基盤にする農民の「封建的」意識が慣行として制度化するという事態を対置して、〈経済外的強制〉とは異なってより根源的な農村に根づく秩序意識の封建的制約を指摘するわけである。

この宇野の指摘は正鵠を射ているといってよいだろう。だが、むしろここにひとつの論点が浮び上がる。一般に、資本の蓄積様式を政治権力による統制と規制(あるいは強制と保護)をめぐる社会統合の形成と分節において捉え、それを近代資本主義社会の特質と見做す『経済政策論 上巻』「序論」の宇野においても、近代社会の公権力論ないし国家論は論理上、理論的課題となるはずであったというべきなのである。

ところが、この頃――つまり「治安維持法」違反容疑で保釈中に――、宇野はロンドン金融市場を扱った『エコノミスト』紙の第二代編集主幹W.バジョットの『ロンバート街』(1873年。岩波文庫、1941[昭16]年)を邦訳しているのだが、バジョットの『イギリス国制論』(1867年)に文献の指示はあるが、内容には触れていない。バジョットはそのなかで、イギリスの国制(constitution)は政治にたいする民衆の「尊厳」意識と統治技術の「実効」性の両面から構成され、それが議院内閣制においていかに達成されうるかを論じていたのである。だが、この時点で宇野の関心は〈国制〉の問題には及んでいない。それはおそらく社会科学的思考をめぐる学問観に対する宇野の自己限定、つまり経済学の学問としての限界設定に根ざしていたにちがいない。

ただし、念のために言えば、宇野は「国家論」一般を無視しているわけではない。例えば戦後の論攷ではあるが、「それ自身で動く純粋な対象」つまり「純粋資本主義」を認識対象とする経済学に対して、国家論はそうではない。それは、「それ自身の法則性」をもたぬより複雑な諸関係によって転変する国家(法律や政治)を対象とするからである。そして「……ブルジョワ国家やブルジョワ法律が、それ自身にはもはや階級的なるものとはいえない形態をとりながら、しかも階級的機関であること」――いわば《形態の構造論的両義性》という視座によって国家の構造を明らかにすることが、「マルクス主義国家論」の課題であるというのであった(「社会科学としての国家論」『思想』1951[昭26]年5月号)。この国家のイデオロギー論的な形態分析については後に触れるだろう。

いずれにしても、『経済政策論 上巻』「序論」の論点が、近代資本主義社会の構造形成の枠組みを《社会的力》の体制化として作動させるゲシュタルトの編成様式において把握すること、そして経済政策に媒介された、あるいはそれを“内在化”した「支配的な」資本の蓄積過程は《社会的力》を産出するゲシュタルトの変容、言い換えれば「協働の様式」の変容に俟つこと――この点にあるのではないか、というのがわたしの理解である。

もしそうであるとするなら、資本の蓄積を媒介するこのゲシュタルトの編成様式はいわば《形態の構造化》として捉え返すことができるだろう。そしてこの《形態の構造化》は、宇野のいう「経済形態」規定視角と類比的な関係にあると考えられる。すなわちこの類比的関係は、「社会的事実としての形態」(『資本論五十年 下』)が資本主義社会を「経済原則」的な根拠とされる「実体」の〈包摂〉をつうじてその総体において〈把握する〉ということ、言い換えれば「形態が歴史的過程を規定する」という「経済形態」の論理に連なっている。だが、この経済諸関係としての「形態規定」の構造化あるいは体制化という視座が、発生論的にも機能論的にも、資本の蓄積様式の構造とその根拠、すなわち歴史的世界において存立する資本制的生産様式を体系的に解明する方法として有効な装置であるかどうか、なお検討しなくてはならない。その際、近代資本主義社会の存立構造とその再生産過程を《形態の構造化と構造の形態化》を視軸として解明すること――これがひとつの有効な視座になるであろう。

ここで、以上の文脈の限りで言えば、『経済政策論 上巻』とほぼ同じ頃に執筆された宇野の論文「フリードリッヒ・リストの『経済学』」(1934[昭9年)が参考になる。そのなかで宇野は、F.リストの「生産力の理論」に触れて、彼の「国民的生産力」概念は実質上工場内協業の「組織的生産力」を、一国の社会的分業へとその規模を単に拡大した観念にすぎず、それは「資本家的商品経済」の特殊な形態規定を無視した「価値の理論」を欠くところに由来する、と批判している。だが、リストの「国民的生産力」論を「価値の理論」を基礎とすべき経済学の逸脱と見做す宇野ではあるが、その一方で彼は、いわゆる「広域経済」を「強化せられ確立せられた国民経済の集団的経済」と規定していることに注意しなくてはならない(遺稿「広域経済論」)。

ほぼ同じ頃には、高田保馬が、階級関係ではなく「勢力」という社会的・政治的統合力が「経済の根柢」に「因子」として介在し経済過程を領導するという「社会的勢力」論(『経済と勢力』1936[昭11]年、『勢力論』、1940[昭15年)を主張していた。この高田保馬の「社会的勢力」論が、『経済政策論』を構想する宇野の思考、とりわけ「資本の中心勢力」を《社会的力》の実体と見做す所論に、なにがしかの影響を与えた可能性もある。さらに、近代の国民国家が「総資本の代弁者」として遂行する社会政策ないし労働立法を「労働力の保全・培養」、「その確保と配置」と規定することによって、それが「経済機構」の再生産構造に「生産力」として積極的に関与すると見做す大河内一男の「社会政策学」(『社会政策学の基本問題』1940[昭15年)、およびその応用篇たる『戦時社会政策論』(同年)で主張する「労働統制」論に対して、《労働力商品の組織化》を標榜する宇野が「政策論」の文脈でいかなる立場をもって応じたのか、この点も検討に値するだろう。おそらくリストの「国民的生産力」論はもとより、高田保馬の「社会的勢力」論や大河内一男の「生産力理論」も、宇野にとっては「価値の理論」を欠いた社会技術論にすぎない、と見做されたのではなかろうか。

ここで、1930年代のワイマール期ドイツにおいて、O.シュペングラーとともに前に多少触れたE.ユンガー(1895-1998)がポピュリズムとテクノロジーの時代における「ゲシュタルトとしての労働者」なる特異な世界像を提出していたことに触れておくべきかもしれない。第一次世界大戦以降、西欧近代の没落しつつある市民的文化様式を超えて、とりわけ瀕死のドイツ帝国において、「ゲシュタルトとしての労働者」が「総動員体制国家」を支配する「英雄的リアリズム」の実体として立ち現れ、その「決然性」によって「部分の総和を超える全体性」を志向する新しい「ドイツ的イデオロギー」が実現されると見做すE.ユンガーのいわば《ゲシュタルト革命の歴史哲学》(『総動員』1930年、『労働者』1932年)を、ユンガーの評価はともかく、宇野が承知していたかどうかは分からない。だが、《労働力商品の組織化》を近代資本主義の構成原理と見做し、金融資本の蓄積を根拠に展開する帝国主義の段階的特質を技術と動員を契機とする「経済的国家主義」に媒介された歴史的過程と規定する宇野が、「生きた活動としてのゲシュタルト」としての「全体性」を構想するユンガーとともに同世代として同じ時代を洋の東西において生きたこと――この事実は記憶しておいてよいと思われる。

ところで、論文「資本主義の成立と農村分解の過程」の執筆と『経済政策論 上巻』の刊行は1936[昭11]年2月に起こった二・二六事件を挟む前後半年の間に集中的になされたものであって、この時期の政治的・社会的文脈は学問的関心の背後に潜む宇野の意図がどうであれ、厳に留意しなくてはならない。宇野がこのようにして帝国主義段階論の構想と経済学原理論の体系化について思索を重ねていたのは、明治憲法に法形式の範をとった緊急勅令による「治安維持法」の強権的な改正(1928[昭3]年)から、陸軍皇道派によるクーデタを挟んで、第一次近衛文麿体制下における「国家総動員法」(1938[昭13]年4)の発動へと至る、喧噪と混迷と卑猥の坩堝と化した「国体」をめぐる “沸騰する狂気の臨界”ともいえる政治過程の激動の渦中においてなのである。

こうした文脈においてみれば、『経済政策論 上巻』の「序論」で宇野が、「社会的発展の自然的動力と自由実現の社会的基礎」を基盤にした「社会的発展の新たな動力としての社会運動」に触れこれを肯定的に指摘していることは注目すべきだろう。この「社会運動」の含意は必ずしも明かではないが、戦後に刊行された『経済政策論 改定版』(1961[昭36年)ではこの「社会運動」が「社会主義運動」と置き換えられそれと明示されたことから判断すれば、ここでの「社会運動」という言説を宇野は、当時の言論統制を配慮して意図的に “韜晦”のニュアンスをもって遣った可能性もある。もしそうだとすれば、この「社会運動」に託された政治過程の展開は宇野にとって、「自然的動力」を備え「社会的基礎」に定位した「社会的発展と自由実現」を構築すべき「社会主義運動」に対するひとつの可能的な希望への期待として意義をもつものであったように思われる。実際、すでに触れたように宇野は「経済学批判の立場」に立つことよって、それが可能であるとみていた形跡がある。間接的ながら、労働運動の内部における「農村の運動」や「プロレタリアートのヘゲモニー」に対する穏やかな共感と期待に宇野は触れていたからである。

おそらく『経済政策論 上巻』の構想と執筆の過程で宇野が抱懐していたのは、とりわけ帝国主義段階における金融資本の蓄積様式が政治過程を内在させた《社会的力》のダイナミズムの歴史的所産であること、そしてこの《社会的力》のダイミズムに一定の「社会運動」つまり「社会主義運動」が「社会的事実の形態」形成として関与しているということ――これらの論点ではないかと思われる。(この点は、『経済政策論 改定版』の「補記」で、「既に社会主義経済の出現をみた」ロシア革命[1917年]以後の世界史的段階が経済学研究の対象となっている、という宇野の歴史的判断にも関聯する。)

 ところが、「社会的発展の自然的動力と自由実現の社会運動」を巡る宇野の思考は、予定された『経済政策論』の下巻「帝国主義」の執筆をふくめて、いわゆる人民戦線事件に連座した「治安維持法」違反容疑による検挙・拘束によって中断を余儀なくされたのである(但し、この「帝国主義」をふくむ“準備稿”である「経済政策II」[1931]は宇野が拘束される前に書かれていた。なお、研究ノート[プーゲ法律エンチクロペディ]の巻末には「経済原論(582枚)」とあり篇別と目次[第一篇流通論、第二篇生産論、第三篇分配論]が書かれてある。これについては後段で触れる)。

それとともに、「国体」を奉ずる国家権力によって不当にも強制的に拘禁された異常な体験が、官許の帝国大学に職を奉ずる宇野の思考を、奏任官たる帝大教員としての職業上の屈折を伴いながら、経済学の性格とその根拠をめぐる社会科学論、さらには政治的実践とイデオロギーの問題、宇野が半ば冗談交じりに口にする「理論的理論と実践的理論」をめぐる学問論などの再検討に向かわせる機縁になったと思われる。宇野弘蔵はこの治安維持法違反容疑による政治的拘束と公判過程をつうじて、兼ねて抱懐していた自身の学問観あるいは「科学的研究」の方法論を反芻しながらその基本的な骨格と方向をほぼ固めていったのではないか……。

結論から言えば、それは近代科学流のスキエンティア・モデルとしての《科学的認識の客観性》であり、党派の政治活動およびそのイデオロギーの制約から自由な「公共の学問」としての社会科学であって、「それ自身で動く純粋な対象」として自立した「法則性」を解明する《科学としての経済学》であった。そして、宇野の脳裡には、明治期以来の国家学としての社会政策(学)とは異なった帝国大学における正規の講座たるべき「公共の学」としての経済学、すなわち《経済原論》を構築するというオブセッションが去来していたことだろう。

 2)「宇野弘蔵と治安維持法」以下は次稿で検討する。(続)

202636

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1383:260307〕