「最強寒波」がいくつも列島にやって来、例年になくとてつもなく冷たい新宿の路上となった今年の2月7日。あの時と同じよう寒かった。
いつもの通り早起きをし、前日に揃えた「献花」や「供え物」を持ち新宿駅西口地下に向かった。29回忌となる。
火災現場となり、4名もの仲間を亡くした、通称「インフォメ前」も、小田急本店を中心とする再開発で工事中の箇所も多い。都庁へ行くバス停も場所が変わり、あの独特な形をしたロータリーも噴水も今はない。車道は狭くなり、交番側と、京王、小田急側が、かつてのようスムーズに行き来できない。分断され、渡り廊下のようなエントランスとなり、かつてを知っている人は、そこでまずは戸惑う。今は西口と東口を結ぶ広い通路が出来、名物でもあった地上のバス停も閉鎖されたり、場所が変わったりで、選挙カーは止まれないし、群衆も集まれない。観光バス乗り場は「新宿バスタ」や「都庁下」に移動し、今はスキー客が「ガラガラ、ゴロゴロ」と足早に通り過ぎるだけとなった。
火災現場は直後の修復工事の後、ガラス張の広場となり、昼間は「物産展」や「矯正展」が開かれ、かつてのよう身体を休められる広場ではなくなった。通称の語源ともなった東京都の「インフォメーションセンター」(案内所)もその後、移転。今は「新宿バスタ」の中にある「案内所」が、その名残であろうか。「インフォメ前」は広場と云うよりイベント会場。今やそこで何が起こって、そうなったかなどは誰も知る由もない。
そう言えば、西口地下から都庁へ向かう「動く歩道」が出来て、ちょうど30年でもある。幻の「都市博」で活躍するはずだったこの設備、巡り巡ってホームレス排除のために使われるとは思ってもいなかっただろうが、今日も歩きたがらない都庁の職員を乗せ、必死に動いている。ちなみに私は一度も乗ったことはない。そこを通り過ぎる度に、大人げなく唾を吐く。あの時の恨みは生涯消えるものではない。

「動く歩道」の建設を名目にした以上、その工事対象の4号街路以外は「排除」は出来なかった。行政は、色々とかこつけて、本当の目的を隠すのには長けている。その裏をかいて「インフォメ前」は、収容施設への移動を拒否した人々が、多く着の身着のまま集まった。これは東京都にとってみても思わぬ誤算であった。貧者の生活や居住への希求と云うものを過小評価した結果でもある。家がなければ作る。その能動性は私たちでさえ驚愕する程であった。見事なまでに半年も経たぬうち「インフォメ前」には100名以上が暮すダンボールハウス群、「村」が誕生した。
そして、その「村」は、失火による火災で崩壊し、自主退去を余儀なくされた。ま、火災がなくても自壊しただろう。それだけ楽しくもあったが、酷くもあった。「ダンボール村」なんて云う言葉は発展途上の負の言葉でしかない。そこには希望はなかった。外部の者達がチヤホヤするだけの場でしかなく、それに振り回され続けた。
今年はミラノで冬季オリンピックがあり、7日土曜日がその開幕式であったが、28年前は長野オリンピックの開幕式の朝でもあった。今と違ってシンプルな競技ばかりで、スキージャンプの「日の丸飛行隊」が盛り上がっていた頃である。他方でオリンピックと云えば、「警備」強化である。警察はピリピリしている。そんな日の朝に新宿のど真ん中で大火事を起こしたものだから、上層部も激怒。「そんな危ない人々を駅前に置いとくわけにはいかない」と云う話しにもなったようだ。
防火素材ならまだしも、燃えやすいダンボールを材料に小屋を乱立させたのだから、どうみても「非」はこちら側にある。しかも中に石油ストーブなどを持ち込んでもいたら、火災だけでなく一酸化中毒の危険もある。寒いから「たき火」をすると云うのは古くから人々の風習であったが、「寄せ場」でさえその風習も少なくなった頃、そんなことを都心部でやられたらたまったものではない。

事実、その後の聞き取りなどで、その原因は石油ストーブからの引火であることは分かっていた。放火説をあえて唱える「陰謀論者」もいたが、そうではないことは現場に居た人々はだいたい知っている。この強いられ、放置された「村」は「失敗」だったのである。単に懐かしがるだけでは4名の仲間を弔えない。96年の「強制排除」から「ダンボール村」に至る経緯の中で、その「必然」があったのである。「火の用心」一般ではない。「悲劇」一般でもない。運動を作り、運動から発した「責め苦」を我々は背負い続けている。
鎮魂の旅路」は今も続いている。
午前5時、京王線の始発に向かうまばらな人を避け、いつもの柱の下に祭壇らしきものを作り献花。一分間の黙祷。共に再会を祝しワンカップで献杯。死者と二言三言語り合う。それだけで、この式典は終わる。
通り過ぎようとしていた若いカップルが何気に手を合わせてくれた。あの頃には生まれてもいなかっただろうが、ここで生きていた人がいたこと、そして非業の死を遂げた人がいたことを感じてくれたなら、それだけで浮かばれる。
「ここで生きてきた。だから、これからも生きる」
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遡って昨年12月、高田馬場の事務所に10数名の仲間が集まり、酒を飲み飲み気勢をあげる「クリスマスパーティ」が開かれた。これが今や「25-26新宿越年闘争」の総決起集会。
機材係の岡ちゃんが倒れ、コック長の太田さんが亡くなり、その他の仲間も諸々ありと、今期のシフトはとても大事。一人でも欠けると物事が動かなくもなる正念場。なのでこう云う「親睦会」もとても大事。酔っぱらって「基調」も「情勢」も「意義」もヘベレケになってしまうが、そこはいつものメンバーは既に承知。何も言わなくとも、それぞれの役割は分かっている。そんな不思議な組織が連絡会でもある。
最近は路上酒禁止、年末なのに毎日やらない、飯も炊かない、物品だけなど、コロナ以降、路上支援活動界隈も何かと変わった。出来ることをではなく、それが必要だと思ったらトコトンやる。人が居なくても、金がなくても、借金してまでもやる。冬とのたたかいは、それぐらいの覚悟を持って臨まないとならない。そんな昭和の時代の古い組織が連絡会でもある。
「新宿越年越冬闘争」は底辺下層労働者の拠点闘争である山谷や釜ヶ崎など寄せ場の冬のた遡って昨年12月、高田馬場の事務所に10数名の仲間が集まり、酒を飲み飲み気勢をあげる「クリスマスパーティ」が開かれた。これが今や「25-26新宿越年闘争」の総決起集会。機材係の岡ちゃんが倒れ、コック長の太田さんが亡くなり、その他の仲間も諸々ありと、今期のシフトはとても大事。一人でも欠けると物事が動かなくもなる正念場。なのでこう云う「親睦会」もとても大事。酔っぱらって「基調」も「情勢」も「意義」もヘベレケになってしまうが、そこはいつものメンバーは既に承知。何も言わなくとも、それぞれの役割は分かっている。そんな不思議な組織が連絡会でもある。最近は路上酒禁止、年末なのに毎日やらない、飯も炊かない、物品だけなど、コロナ以降、路上支援活動界隈も何かと変わった。出来ることをではなく、それが必要だと思ったらトコトンやる。人が居なくても、金がなくても、借金してまでもやる。冬とのたたかいは、それぐらいの覚悟を持って臨まないとならない。そんな昭和の時代の古い組織が連絡会でもある。「新宿越年越冬闘争」は底辺下層労働者の拠点闘争である山谷や釜ヶ崎など寄せ場の冬のたたかいに範を取り、それをバブル崩壊後の「路上生活者版」としてアレンジしながら、形を変えながらも毎年続けている。冬のたたかいは我々の主戦場でもある。そして冬のたたかいは生きるためのたたかいであり、厳しいなかでも仲間を思いやり、団結を強化していくたたかいでもある。たとえ路上の仲間が少なくなっても、時代が変わってもそれだけは変わらない。
今期の年末年始は暦の関係で、日曜日から日曜日までの8日間。寒い時は暖かいものをと、馬場ハウスの調理場で米を炊き、具を作り、保温をしながら車で公園に運び入れる。車両は2トントラック箱車を一週間レンタル。これを物資車両にし、人の関係はNPO新宿の軽バンを使わせてもらい、これでスタッフを往復させたり、夜のパトロールに使ったりする。
今の新宿は、かつてのような「公園拠点」「常駐」での越年ではなくなり、昼から夕方まで公園の一角で「相談」「衣類・毛布等配布」「炊き出し」を集中的に行ない、夜はそれぞれ路上パトロールに出、遠方の仲間は高田馬場に泊まりながら越年の活動を集中的に行なう形となっている。新宿の仲間は夜はそれぞれの寝場所に帰る。寝場所がない仲間は毛布やら必要なものを渡して、皆と一緒に地下広場などに寝てもらう。そんな活動が28日から、役所が開所される翌5日まで、延々と続けられる。メリハリは大晦日のイベントぐらい、あとはひたすら地味な活動である。
公園には昼過ぎから三々五々、仲間が集まってくる。本部テントを建てると、「献立表」を見せろと、今日のチラシに人が群がる。けれど「献立表」は残念ながら公表していない。知りたい仲間にはこっそりと教える。あまり公表すると「ただより怖いものはない」ので、関係のない人々まで集まってしまう。連絡会の炊き出しは、味が良い。質も高い。うまくいけば2杯は食える。そんなコアな情報は仲間内で共有していれば良い。本当に必要な人々を食の面で励ますのが目的なので、自分で食える人の分までは作らない。
あまりに堅苦しい場は作りたくはない。整理券配ってなんてのはとても嫌である。何時間も前から順番とって、この寒空の中で待っているのも、これも酷いものである。待っている人にはカイロ類を渡す。列は直前まで作らせない。本部に集まるご祝儀のお酒は、すべて仲間のもの。こっそりとコップを渡して身体の中から暖まってもらう。冬の酒は身体を温めるもの。お酒を飲むと追い出される「炊き出し」の場もあるとのこと。民間だ、ボランティアだといいながら、まるで役所と一緒のところも多い。まあ、人が集まると、様々なトラブルが想定されるものであるが、イベントを打ち、ハロウィンなどで人を集めておきながら、しまいには「来ないで下さい」と云うどこかの区のレベルと同じでもある。
そうしないために情報統制も必要であり、また、工夫も必要である。カメラを持ったものはマスコミにしてもユーチューバ-にしても滅多に立ち入らせない。「人権活動家」だとか「人権ボランティア」だとか、そう云う肩書きが欲しい人は、カメラを連れて別の団体のところで「出来レース」のよう、やってくれ。知ったかぶりの者には、今の状況は理解も解明も出来ないと思うが、世間がそれを求めているからなのか、いつも単純な物語にしたがる。

冬の路上は仲間だけのもの。そこでひたすら耐え、必要なことは何でもしながら、そして活用しながら生きていく。
炊き出しなんぞ毎日やっているが、たかが一食だけ。人は一日3食は食わなければならない。その一助になっただけ。なので、炊き出しやって、いかにも支援してますと豪語している人も、何かがちょっと違うのであろう
年末のイベントは、ここ数年、人が少なくなったのと同時にこじんまりと、けれど何だか洗練されたのか、それとも酒が入るからか、やけに盛り上がる宴に毎年なる。玉三郎や桃山さんが亡くなっても「さすらい姉妹」の皆さんは新宿に懲りもせずに来てくれる。コマまわしの「コマたん」のパフォーマンスもこれはもう世界レベル。それを間近で見られる。五十嵐正史&ソウルブラザーズは「生活バンド」と名前を変えたが、引き続き楽しい音楽を路上に運んでくれる。その後、炊き出しがあり、年越しそばがあったようだが、飲みすぎて記憶がない。気がついたら西口地下広場にとめたトラックの荷台で寝ていたのを起された。年越し記念のメロンパンと甘酒の配布である。ここに予想以上に仲間が集まったようで、スタッフは大わらわ、「なに寝ていやがんだ」と叩き起された次第。あらま。今年も年越し蕎麦を食いそこねた。
防寒衣類や毛布配布も大人気。この間、集めに集め、地下倉庫に保管していたものもこの時ばかしと、一気に放出。冬に衣類はとにかく必要。しかも防寒着は買うと高い。必需品は需要がある。夜中路上で寝るにせよ、「ダンボール」「寝袋」「毛布」はこちらも必需品。ついでにホカロン類があると、冬の寒い日での何とか寝られる。
越年後の「最強寒波」が何度も押し寄せ、滞留し、東京も雪が降り、氷点下を記録したが、その時期に一人の仲間が亡くなった。ここまで「越年越冬」を周到に準備をし、実施したとしても、こんな気候ともなれば路上死を止めるのは至難の技である。いくら対象が少なくなったとしても、それが故に見落としがちな側面もある。「医療班」の面々も体制の問題があり、すべてを回りきれてはいない。言い訳がましいが、新宿は意外と広い。そこに転々とし、かつ移動している仲間を把握するのは労力的にもボランティアでは無理である。その主体の弱さに、厳しい季節がつけ込む。「医療班」の面々も体制の問題があり、すべてを回りきれてはいない。言い訳がましいが、新宿は意外と広い。そこに転々とし、かつ移動している仲間を把握するのは労力的にもボランティアでは無理である。その主体の弱さに、厳しい季節がつけ込む。
年末の「相談会」も、連日やることに意義がある。不安定な生活故にいつ何時、何があるのか分からないのが路上生活。何かあったときは「新宿福祉」なり「とまりぎ」に行くのが不文律の決まりごとでもあるが、年末年始はそこはお休み。ちょっとした怪我をしたとか、病院に行くまでもないが風邪を引いたとか、胃が痛いとか、寒くて仕方がないので福祉にどうやってかかれば良いのか、喧嘩があったとか、何があったとか、路上の人間関係も世間と同様むずかしい、その対処のしかたがなど、ちょっとした「よろず健康生活相談」。こちらは有資格者の有志の方々にやって頂いている。昔は怒号が飛び交う野戦病院のような時もあったが、今は流石にそうでもなく、のんびりとした空間。やたら説教したがる支援者も、仲間もおらず、相談と云う名のサロンのようなものである。話しあえる、そして笑いあえる関係は、とても良いものである。
かくして越年の集中的な取り組みと、後段の越冬がほぼ終わり、三寒四温の季節となり、東京マラソンも終わると「花見」の季節の頃となる。
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さらに翻って、12月初旬、都内の東の果てで暮していた義弟が亡くなった。いわゆる「孤独死」であった。
管理会社が連絡をしたが、連絡がつかず、警察と一緒に入ってみたらと云う、我々の世界でもよくあるパターンであった。特殊なのは、58歳とまだまだ若かったことと、老犬のトイプードルを飼っていたこと。
死後10日ほどのようであった。そのトイプードルが義弟の最期を看取ってくれたのだと思うが、それは同時に餌がなくなると云うことで、飲まず食わず、動かぬ飼い主の骸を見続け、さぞかし辛かったであろう。動物ながらこんな不幸もあるのかと思ったが、この犬、親族は誰も引き取ってはくれず。結局私が毎日、餌をやりに行かなければならなくなった。それが、なかなか、なつかない。途方に暮れたある日、「とまりぎ」の職員さんに相談したら、流石、社会福祉士、年末間際に引き取りに来てもらい、それから色々あったが、年が明けてから「里親」にまで辿り着き、今は無事にそこで暮しているとのこと。辛かった思いを忘れ、老後はのんびり暮してもらいたいものである。
そんなこんなで、越年の段取りやら、仕事をしながら、犬の餌やりをしながら荼毘に付し、親族の調整や、寺とのやり取り、そして遺品整理と、多忙な日々であった。普段乗ることがない都営浅草線に頻繁に乗ることとなったが、成田空港や羽田空港に行く大きなキャリーケースを引くインバウンド(訪日外国人)の多さに圧倒され、今の東京のまた別の側面を暗い気分で見ることも出来た。
義弟は日本文学の研究者で、博士号をもった学者でもあり、長く高校の教師をしていたが、くも膜下出血で倒れ退職。リハビリ後は母校の大学の非常勤講師として、熱心に教鞭をとっていた。身内だからといって、そう、深いつきあいもなく、何かあったら面倒を見に行くと云う関係でしかなかったので、仕事の話しはほとんどしていなかったのであるが、遺品整理と云うのは、その人の過去との対話となり、その人の生き様が見えてしまう。今は業として「遺品整理士」と云うものまであるが、何とも辛い仕事である。
論文やら、授業の資料やら、色々な書類があり、どれも専門的なものであったが、その中に「日本寄せ場学会」に送金したと思われる振込用紙が見つかった。どうやら会員であったようである。
「日本寄せ場学会」は、山谷や釜ヶ崎など「寄せ場」を研究して来た学者の集まりで、年報「寄せ場」が毎年発行され、は2021年の30-31号が「終刊号」となっているので、今はなくなったようである。
新宿の活動のことは義弟に話したこともないが、何だか知らぬ内に、どこかつながっていたようである。遺品からすると、彼の興味は「釜ヶ崎」にあったようで、その昔、一時期京都に暮していたので、もしかすると現場にも足を踏み入れていたかも知れない。パソコンの中にあった大学の授業の資料には、野宿者の排除に抗議するかのようなものもあり、そんなことも生徒に伝えていたのであろう。被差別部落の資料もあったりして、人権感覚はしっかりとあったようだ。母方が会津の方なので、その反骨の精神も引き継いでいたのであろうか?
書籍の一番前には、読書中だったのであろうか、壇一雄の「家宅の人」が横にして置いてあり、その後ろには宮沢賢治全集がずらりと並ぶ。芥川龍之介のお弟子さんや佐藤春夫や大宰治につながる、医師であり詩人であり評論家でもあった林富士馬と交流し、彼を師と仰ぎ、伊藤静男を研究し、呉智英や江藤淳からもらった色紙が飾られた部屋で愛犬と共に文学とは何かを、日々思索し続けて来たのだろうと思うと、その早すぎる死に目頭が熱くなる。
出世欲のない学者は、おうおうにして生活力が足りない。必要な連絡はしてこない。無頼派よろしく酒におぼれる。それが欠点であったが、おそらく死んだ本人が一番驚いた最期になったであろう。
「寄せ場」の人々に興味をもった、そんな学者先生が割と近くに居たことが、ひょんな発見であったが、その世界とは決して無縁ではない私が諸事を計らったことで、少しは供養になったかも知れない。
いつか「日本文学」と「寄せ場」を結ぶ物語や論文を読んでみたかったが、それは叶わぬ夢。
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「死」の話しばかりで、恐縮。
何か希望となるような話しはないのかと言われそうであるが、それがなかなか見当たらない。希望をもって生きていけるのは若き頃だけ。何度も挫折を繰り返し、失敗を繰り返して来た者は夢などは持たない。
何だか立派そうな活動の「裏側」はこのように「真っ暗」でもある。誇るものなどなにもなく、それこそ人を諭すのが、はばかれる、そんな「闇黒史」でもある。
が、書かなければ「闇黒史」にもならない、そこで生きて来た者を、必死で生きて来た仲間を、忘れないためにも、こんな雑記を書き溜める。『「日本残酷物語」〈現代篇〉』 (1961年) の「不幸な若者たち」が、その後の高度経済成長の中、どうにか生き残ったもののバブルがはじけ、結局、不幸な路上に至ったのがホームレス問題とも言える。歴史と云うものはどこかつながり繰り返される。底辺下層もまた同じく。その編集者でもある民族学の偉人宮本常一の代表作は「忘れられた日本人」(1960年)。その後書きにはこうある。「一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではなかろうか。またわれわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の悲痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う。」
辺境の地でも、橋の下の乞食暮らしであろうと、そこには、懸命に生きて来た人々の歴史にがあり、力がある。それを肯定したところから、なにごとも始まる。その人が生きていたことを忘れてはならないし、その力から学ぶことを怠ってもならない。

「同情」を「武器」に世間に媚びているようでも、そこにはしたたかさが宿っているし、そのしたたかさを知ったとしても、それを咎めることはしたくもない。それこそが生きる知恵である。
主体はそんな甘っちょろい「ロマン主義」。対象者はその先を行き、好き勝手放題。しかし、それで我らの関係が成り立っているのであれば、まあ、それはそれで良いと思ったりもする。
「不幸」の源流を辿ってみたくなり「羅生門」を何度も読む。
底辺下層に「赦し」はあるのだろうか?
(了)
初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL.95」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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