ETV特集 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」

著者: 諸留能興 モロトメヨシオキ : パレスチナに平和を京都の会
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「ETV特集 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」
[2011(H23)年10月31日(月)PM19:15]
《パレスチナに平和を京都の会》の諸留です

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NHKETV特集 シリーズ 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」の全文「文字起し」です。
番組を見てない人にも解るように、画面の説明も、適宜入れてあります。
 
 例によって、NHKのあからさまな世論誘導の、意図的な独断と偏見、東電、政府、官庁などの原発推進派の代弁者たらんとする露骨な報道姿勢の箇所が、随所に散見します。その都度、[◆註:]の形で私(諸留)が、読者(視聴者)の注意を喚起しておきました。
 最近のCPRM方式など、見逃した方が、再度閲覧しにくい状況となってきています。見逃された方など、一人でも多くの方のお役に立てば幸いです。
  ご参考までに・・
 
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NHKETV特集 シリーズ 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」
 
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【テロップ】:この番組は2011年9月18日に放送したものです
 
【テロップ】:福島 1960年代後半
 
[解説]:この地方一帯は農業を主とする静かな田園地帯で、過去数百年にわたって、地震や台風、津波などの大きな被害を受けたことがない。
 
【テロップ】:黎明 福島第一原子力発電所 建設記録 調査篇 企画東京電力
 
[解説]:福島第一原子力発電所の記録映画です。1964年に始まった建設用地の調査から、運転開始に至るまでの6年半が記録されています。
 
【映画の解説音声】:高さ約30メートルの断崖が切り立つ茫洋たる台地。
 
[解説]:福島第一原子力発電所の敷地は、もともと海抜35メートルの台地でした。その高台を海面から10メートルの高さまで削って建設されました。理由の一つが、建設や運転にかかる費用を抑えるためでした。
 
【映画の解説音声】:ここで生まれる新しいエネルギーは、皆様の生活を支える大きな力となっているのです。
 
【テロップ】:東日本大震災による津波発生 今年3月 映像提供東京電力
 
[解説]:今年3月、東日本大震災が発生。
 
【テロップ】:東日本大震災による津波発生 今年3月11日 撮影陸上自衛隊[◆註:01]
 
[◆註:01]画面には福島第一原子力発電所の遠景及び上空からの撮影が映し出され、同時に字幕(テロップ)及び音声解説で、大震災発生と同時に、と津波発生が盛んに強調されている。今回の福島第一原発事故の原因が、地震だけで起こったのか、あるいは、津波も影響したのか、福島第一原発事故の真相究明が、未だ全く解明されていない現状であるにも関わらず、あたかも津波が福島第一原発事故の原因であったことを、匂わせようとする、NHKによる、国民世論誘導の意図が露骨に示されている。警戒すべき箇所である。
 
【テロップ】:福島第一原子力発電所 炉心溶融事故
 
[解説]:福島第一原発は高さ13メートルの津波に襲われました。地下に設置されていた非常用のディーゼル発電機が、浸水によって故障、全電源喪失に陥り、炉心が溶融する事故を起こしました[◆註:02]。
 
[◆註:02]この箇所では、明らかに、福島第一原子力発電所で発生した炉心溶融事故の原因が、津波の浸水で非常用ディーゼル発電機が故障→全電源喪失→炉心溶融に至った・・との結論づける、一方的な原因の解説となっている。津波襲来以前の段階で、既に原子炉系配管が破損し、そこから高圧高温の水蒸気が格納容器に噴き出し、原子炉が水位低下し、炉心溶融に至った・・という推定を、封じ込めようとする東電、政府側の見解に、一方的に組みしようとの意図が露骨に伺われる問題の箇所である。
 
【テロップ】:元東京電力副社長 豊田正敏さん
 
[豊田正敏氏]:「(高い場所の)上(のほうの場所)に造れば、津波を受けなかったかもしれないけれど、それで発電所が造れたかもしれないけど、高いものについたでしょうねぇ」
 
[解説]:国や電力業界は、事故に至るまでどのような安全対策を取ってきたのでしょうか?
 
[解説]:日本の原子力政策の裏側を記録した資料を所有している人物がいました。
 
【テロップ】:元通商産業省(後に科学技術庁) 伊藤義徳さん
 
[NHK記者]:「おはようございます。宜しくお願いします」
 
[解説]:旧通産省の官僚だった伊原義徳さん。原子力行政の中枢を担ってきた人物です。
 
[NHK記者]:「拝見して宜しいですか?」
 

(伊原氏が、段ボール箱一杯のカセットテープを持ち出してくる)
 
[伊原義徳氏]:「ええ、どうぞ、どうぞ、ご覧下さい」
 
[解説]:伊原さんが保管していたのは、非公開で行われたある会合の録音テープです。
 
(カセットの背表紙には「西堀栄三郎氏031」「金子熊夫氏003」「三浦氏004」「日佛原子力 武田外務審議官038」「高島氏039」「平尾氏講話041 テープ途中で終り」「分子法レーザー濃縮014」「電気料金改定について」・・・など30~40本のカセットテープの画像)
 
[解説]:会合の参加者は、政治家・官僚・研究者・電力会社やメーカーのOBたち。その100時間にわたる肉声です。そこでは、最優先にされるべき原発の安全性が、置き去りになった歴史が赤裸々に語られていました。
 
【テロップ】:元東京電力副社長
 
[元東京電力副社長]:「電力会社じゃコストダウンをやれ、やれ、と相当な圧力がかかってきている」
 
【テロップ】:元日本原子力研究所 研究員
 
[元日本原子力研究所研究員]:「電力会社あたりから安全性の研究なんかやってもらったら、いかにも軽水炉が不安全のようだからやめてくれと‥‥そういうような、プレッシャーがかかったような気がする」
 
【テロップ】:元通商産業省官僚
 
[元通商産業省官僚]:「後のことを考えないうちに、みんな、それぞれ既成事実でできあがっちゃったわけなんですな」
 
【テロップ】:元住友原子力工業重役
 
[元住友原子力工業重役]:「しょうがないじゃないですか。へへへ・・現実ですから」
 
(画面:「佐々木○○氏 住友原子力グループ009」のカセットテープ)
 
[解説]:これまで公にされてこなかった証言から、福島原発事故までの歴史的経緯をさぐる、2回シリーズ。前編の今日は、原子力発電の黎明期から、1970年代、大量建設を迎えるまでを辿ります。
 
【テロップ】:シリーズ 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」
 
【テロップ】:語り 広瀬修子
 
【テロップ】:東京 新橋 元通商産業省 伊原義徳さん
 
[解説]:旧通産省の官僚だった伊原義徳さん。伊原さんは退官後に就任した原子力委員会の委員として、テープに録音されていた会合に参加しました。会の名前は、原子力政策研究会。
 
【テロップ】:原子力政策研究会
 
(画面:ビルの一室のドアに「(財)原子力安全研究協会 原子力政策研究会」と書かれている)
 
[解説]:都内の雑居ビルにある会議室で開かれていました。
 
[元通商産業省 伊原義徳氏]:「十数人、メンバーの方が集まってですね、月に1回、勉強会をやっていたんですよね」
 
[解説]:研究会のメンバーは、官庁や民間企業、研究機関で日本の原子力政策を担った人々です。1985年から1994年までの9年間、非公開の会合を重ねました。主催者は島村竹久さん。
 
【テロップ】:元通商産業省 島村竹久さん
 
[解説]:旧通産省で、日本初の原子力発電所導入に携わり、その後、総理府で原子力局長などを歴任した官僚です。島村は原子力政策に関わった様々な人物を招き、当事者のみが知る、事実やホンネを後世に残そうとしました。
 
[元通商産業省 伊原義徳氏]:「会員制でしたけれども、毎月1回、会員十数名の方がお集まりになって、そこで、かって活躍された方々が講師としておいでになって、一時間くらいお話をされたということでして・・・。まぁ、昔話しの中にはですねぇ、当時は語れなかったけれども、今となって見れば、話していいようなことも含まれていましたから、聴衆にとっては大変興味のある話しも多かったと思います。表向きの記録は、立派な本になっておりますけれども、その裏に、どういうことがあったかというようなことは、なかなか記録には残らないで、散逸してしまいますから。それが惜しいというのが、島村竹久先生の、お考えだったと思います」
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1985年7月11日
 
[解説]:初めての会合が開かれたのは、1985年7月11日でした。話し手の一人として招かれたのは、東京大学名誉教授の茅誠司。戦前から原子力の研究に携わってきた核物理学の第一人者[◆註:03]です。
 

[◆註:03]茅誠司は、湯川秀樹と並び、進歩的民主的自由主義者として、戦後のわが国のアカデミズムの代表的人物と評された。
 
【テロップ】:東京大学名誉教授茅誠司
 
(画面:「学術会議と原子力事始め」の表題の書類)
 
[解説]:会合は原子力事始めをテーマに、日本の原子力政策の黎明期を振り返ることから始まりました。
 
【テロップ】:元通商産業省 島村竹久
 
[元通商産業省 島村竹久]:「この間、先生(茅誠司氏のこと)の米寿のお祝いが開かれたそうで、本当におめでとうございます。お元気で。私が今勉強している昭和30年、あるいはそれより以前のあたりになりますと、茅先生のお名前が随所に出てくるものですから、その頃の思い出をうかがいたいと・・・こう思ったのでしてね」
 
[東京大学名誉教授茅誠司]:「昭和27年に講話条約が結ばれましてね。この条約でもって、核分裂の研究をしてもいいとなって、原子力の研究が大きな問題となったんですね。で、その時にね、私は学術会議の第四部長だった。原子力の問題を取り上げるのは、自然科学の分野であるからね、責任が私にかかってきたわけなんですよね」
 
[元通商産業省 島村竹久]:「ははあ・・」
 
【テロップ】:日本学術会議
 
[解説]:日本が独立した1950年、茅誠司は、日本学術会議に参加していました。茅は戦後いち早く、日本は原子力の研究を再開すべきだと考えていました。茅は大阪大学教授の伏見康治と共に、政府に対し、研究の再開の申し入れをしようと、科学者たちに呼びかけました。
 
【テロップ】:当時 大阪大学教授 伏見康治[◆註:04]
 
[◆註:04]伏見康治氏は1934から大阪帝国大学理学部物理教室で原子核実験に携わり、湯川秀樹氏と並ぶ、わが国原子核物理学の草分け的人物。1942年の「確率論及統計論」は量子力学研究のための確率・統計論の名著。原子核物理学の啓蒙書「驢馬電子」の出版、ジョージ・ガモフの名著「不思議の国のトムキンス」も訳出。若手物理学者を生み出した。戦後、日本独自の原子力研究の重要性と、それを平和利用研究に限るとして「自主、民主、公開」の三原則を茅誠司らと提唱。「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。小出裕章氏等のいる大阪府泉南郡熊取町の京都大学原子炉実験所を創設したのも伏見康治氏。しかし、核エネルギーの危険性を十分世間に訴える事が希薄であった点では湯川秀樹博士と同様であった。科学者としての研究意欲の魅力に引きずられ、核の軍事利用と同様、その平和利用も「絶対悪」と認識するまでに至らず、国民の生命と安全最優先を軽視する傾向にあったことは、伏見康司・湯川秀樹らのグループが批判されねばならない点である。
 
【テロップ】:GHQ サイクロトロン破壊 1945年11月
 
[解説]:終戦直後、GHQが日本の研究所にあった、大型の放射線実験装置、サイクロトロン[◆註:05]を破壊する様子です。日本の物理学者は、この装置で世界最先端の研究を行っていました[◆註:06]。
 
[◆註:05]粒子加速器のこと。1917年設立の理化学研究所に装置があった。
 
[◆註:06]日本がこのサイクロトロンを使って「世界で最先端の研究を行っていた」とのNHKの解説は言い過ぎ。原子核構造を実験的に調べる程度で、欧米のそれとは比較にならない程立ち後れていたため、軍からの新型特殊爆弾(原爆のこと)開発要請にも不可能と断った程の低いレベルの核物理の実験研究であった。
 
[解説]:しかし戦時中、軍部から原爆開発を命じられていたことから、戦後7年間、研究は禁じられていたのです。一方、原子力研究の再開に強く反対する物理学者たちもいました。
 
【テロップ】:広島大学教授 三村剛昴
 
[解説]:その急先鋒が、広島大学教授 三村剛昴(よしたか)です。三村は広島に原爆が落とされた時、爆心地近くで被爆しました。三村は九死に一生を得たものの、同僚の研究者や多くの教え子を亡くしていました。
 
【テロップ】:被爆後の広島大学(当時広島文理科大学)
 
[解説]:その経験から、三村は原子力の研究は、原子力の研究が軍事利用されることを強く危惧。研究を再開すべきではない、と茅誠司に真っ向から反対しました。茅誠治は、「原子力研究の再開を巡り、三村剛昴と意見が真っ二つに分かれた」、と語っています。
 
【テロップ】:元通商産業省 島村竹久
 
東京大学名誉教授茅誠司
 
[東京大学名誉教授茅誠司]:「原子力ってものには、いろいろの問題がある。研究するにはずいぶん(欧米諸国に)遅れたから、研究に充てるだけの金がいくらかかるか、みんながしっかり調べるだけは調べて、それでやるかどうか検討しよう、と話し合った。彼(三村)は、中心(爆心地)からそう遠くない所に住んでいたんですよね。その時の光景を彼が言うんです。目が覚めたら、三途の川っていうのはこれかと。どの人もみんな裸でいた。皮が裂けて血が一杯出てる。真っ赤だった。三途の川ってこれかって・・・。彼の提案は、アメリカとソ連の仲が平和になった時に、初めて原子力の研究はすべきである。それより前にすべきではない、というのが彼の結論だった。その男にすっかり一座はやられたってわけ」
 
[元通商産業省 島村竹久]:「ああ・・」
 
[東京大学名誉教授茅誠司]:「それから、いろいろな議論が起こってね。結局、茅の提案は取り下げろ、となった。こんなに大勢の人が取り下げてくれと言うので、取り下げたんです」
 
[解説]:茅と三村の論争が行われた頃、アメリカとソビエトは、東西冷戦に突入していました。
 
【テロップ】:アメリカ核実験 1951年
 
【テロップ】:ソビエト核実験 1949年8月
 
[解説]:米ソ、両国の核実験研究は、強力な核兵器の開発を主な目的として進められていたのです。茅誠司の主張した原子力研究再開の提案は、学術会議で圧倒的多数から反対され、却下され、時期尚早ということで、継続議論ということになりました。同じ頃、研究者たちとは別の立場から原子力に注目していた人々がいました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1988年3月18日
 
[解説]:島村研究会では、日本で最も早く原子力の導入に向けて動き出した一人の人物をとりあげています。
 
【テロップ】:[話]当時 中央公論社 森一久
 
[中央公論社 森一久]:「昭和23年12月の終わりに、後藤文夫さんが、巣鴨拘置所から出てきたので、迎えに行ったら、『大変だ、アメリカでは原爆で発電をしているそうだ。日本はエネルギー獲得で戦争をやったから、日本も考えなければいけないのではないか。英語の新聞にそう書いてあった』と言ったのが、原子力との初めての出会いだと。あの方は英語も非常に勉強していたし、巣鴨拘置所で英語新聞も読んで、そんなことに気が付くくらいでしたから。むこう(アメリカ)の新聞には、かなり出ていたと思うんですね」
 
【テロップ】:後藤文夫
 
[解説]:会合で語られていた人物は後藤文夫。戦時中、東上内閣の国務大臣を務めた人です。戦後A級戦犯となり、巣鴨拘置所に拘留されていました。後藤文夫は、戦後日本の主力エネルギーとして、いち早く原子力に注目しました。
 
【テロップ】:(財)電力経済研究所設立 1952年10月
 
[解説]:日本が独立した1952年、電力経済研究所を設立、原子力発電の調査を始めました。後藤について証言した森一久は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の門下生。当時、科学雑誌で原子力分野を担当していました。
 
【テロップ】:物理学者 湯川秀樹
 
【テロップ】:当時 中央公論社 森一久
 
[解説]:森一久は、政財界が研究者に先駆けて、原子力産業に乗り出すことに反発し、後藤文夫に抗議しました。
 
[中央公論社 森一久]:「財団法人電力経済研究所がここにございます。これが昭和28年の6月に、日本で原子力平和利用を大いに推進すべきで、それにはコレコレ‥‥といった、建議書みたいなものを出したのが新聞に出まして、私ども、くちばしの黄色いガキですから、実は抗議に行ったんですよね。けしからんということで。財界の人が原子力をもうけのためにするなんてとんでもないと。(当時の私は)まあ、28歳でしたから・・。そしたら、行ってみたら、何か知らないけど、薄暗い場所で、丸の内の洋館の赤レンガの建物が並んでましたよね、あの頃は。そしたら新聞で見たことがある、後藤文夫さんが、論語だか孟子だか読んでるわけですよね。それで「お前たち、よく来た」っていうわけで、「俺たちは戦犯でもあったんだけど、戦争で日本をめちゃくちゃにしちゃったので、原子力が日本のこれからの復興にちゃんと役立つなら、と考えてやっているわけなんで。そんなケチなことは考えていないと。まぁ、外で文句なんか言ってないで、中に入ってこい」と言うような話から、まぁ、ミイラ取りがミイラになったようなわけでした。」
 
[解説]:この後、元中央公論社の森一久は、原子物理学の専門知識を買われて、後藤のもとで政財界と研究者とのパイプ役を果たしていくことになります。
 
[(当時の)ニュース映画の画面と解説音声]:各地の工場では停電続きで仕事にならず、農家でも脱穀機のモーターが回らず、手回しで稲こきです。
 
[解説]:後藤一久が原子力発電に注目した1950年代始め、日本は深刻な電力不足に陥っていました。節電の為、計画停電がたびたび行われていました。戦後復興の中での、増え続ける電力需要に発電量が追いつかなかったのです。一刻も早く安定した電力を。それが国民の願いでした[◆註:07]。
 
[◆註:07]高度経済離陸期前夜の昭和30年代前半の電力を始めとするエネルギー不足という時代背景を、強調することで、原子力発電へと業界がシフトしていったことを、「時代の流れとして仕方がなかった、時代の必然的流れであった」とする、NHKが頻繁に使用する、時代の流れ迎合論、国民世論誘導報道である点に留意すべき。こうした歴史観、社会観に立脚する以上、大東亜戦争肯定論、原子力発電所必要論に必然的に至る。ここにNHKの公共報道を大義名分にした、露骨な世論誘導の姿勢が鮮明に示されている。
 
【テロップ】:火力発電所
 
[解説]:各電力会社は、アメリカから最新鋭の火力発電所を導入し、不足する電力を補おうとします。
 
[(当時の)ニュース映画の画面と解説音声]:火力発電所でも精一杯の運転をしていますが、高まる需要に追いつけず、いよいよ電力の危機が深まってきました。
 
【テロップ】:水力発電所
 
[解説]:発電の主力は水力でした。しかし夏場の渇水期には、発電量が落ち込む上、大型のダムを造る場所も限られてきていました。こうした中、水力、火力に代わる新たな電力の供給源として、原子力発電への期待が高まっていました。当時、世界で原子力発電の先陣を切っていたのはソビエトでした。
 
【テロップ】:ソ連オブニンスク原発建設開始 1951年9月
 
[解説]:第二次世界大戦後、世界で初めて大型原発の建設に着手。原子力の平和利用を掲げ、東側陣営への拡大を図ろうとしました。ソビエトの平和利用の攻勢に危機感を抱いたアメリカは、世界に向けてメッセージを発します。
 
【テロップ】:国際連合 アイゼンハワー「平和のための原子力」演説 1953年12月
 
[解説]:国際連合での、アイゼンハワー米国大統領の「平和のための原子力」演説です。
 
[アイゼンハワー米国大統領]:私は次のことを提案したい。原子力技術を持つ各政府は、蓄えているウランなどの核物質を、国際的な原子力機関を創設して預け、平和のために使う方法を考えよう」[◆註:08]
 
[◆註:08]このアイゼンハワー米国大統領の演説の中に、現在に至るまでの、国際連合やIAEA(国際原子力機関)、それと密接に連動している国際放射線防護委員会(ICRP)や、WHO(世界保健機構)など、一連の国際機関の政治的独善性が鮮明に示されている。アメリカを中核とする西側自由主義陣営大国による核エネルギーの、軍事及び平和両面での独占的支配と、その開発・推進の絶対的主導権(それには放射能の人体への影響度の基準値のモノサシの絶対的決定権も当然含まれる)がアメリカのコントロール下にあることを、明白に世界に向かって宣言したのが、このアイゼンハワー米国大統領の演説であった。アイゼンハワーの「国際的な原子力機関を創設して預け、平和のために使う」が、いかに「タテマエ論」「美辞麗句」でしかなく、「国際社会の普遍的正義と秩序」を装った大ペテン演説であったか。それは、その後の湾岸戦争、イスラエルによるイラクのオシラク原子炉空爆、イラク戦争での劣化ウラン弾の大量投下、イランや北朝鮮の原子炉開発への疑惑の強化とは裏腹に、イスラエルの核開発、わが国の97%純度プルトニウム50kg~60kg保有は、黙認する国連やIAEAの実態が雄弁に物語っている。
 
[解説]:アメリカは世界に向けて原子力の平和利用を打ち出し、ソビエトに対抗しようとしたのです[◆註:09]。
 
[◆註:09]こうした世界の流れ迎合論から見れば、3・11の福島第一原発事故も、東西冷戦対立が産み落とした「鬼子」であったとも言える。
 
【テロップ】:超党派 原子力予算案作成 1954年2月
 
[解説]:この動きに即座に反応したのが、政治家たちでした。1954年2月、改進党の衆議院議員、斉藤憲三を中心に、自由党、日本自由党の議員が超党派で集まりました。目的は国内に原子炉を建造する予算案の作成です。メンバーの一人に、自由党衆議院議員の前田正男がいました。
 
【テロップ】:自由党衆議院議員 前田正男
 
[自由党衆議院議員 前田正男]:「原子力の時代、放射線の時代が来るから、とにかくやらきゃいけないということで。それで、できたら予算をつけるとか、何とかしようと言っていたのは(改進党)の斉藤君です。昭和29年の予算の時に補正(予算)でやることになって、特に中曽根(康宏)さんでしたか、斉藤憲三さんが中心になって原子力関係の予算を作られた」
 
(画面:朝日新聞紙面「予算折衝ついに妥結」三党で共同修正案。科学技術振興費三億円(原子炉製造費補助二億六千万円、ウラニウムなど新鉱床探鉱費千五百万円。ゲルマニウム精錬技術および応用研究費八百万円その他)・・の記事)
 
【テロップ】:原子力予算案国会提出 1954年3月
 
[解説]:アイゼンハワーの国連演説から僅か三ケ月後、斉藤憲三、中曽根康宏らを中心に作成された二億六千万円の原子力予算案が国会に提出されました。当時、通産省で科学技術の調査を担当していた堀純郎(すみお)によると、予算案提出は、政治家が研究者の議論に見切りを付けた結果だと言います。
 
【テロップ】:元通商産業省 堀純郎
 
(画面に「元通商産業省 堀純郎026」のカセットテープ)
 
[元通商産業省 堀純郎]:「一部の人間が原子力の研究をやるか、やらんかで議論したのは確かです。論議の内容はやるべきだという人間と、やるべきじゃないという人間と、それから、やりようによってはやったらいいという、何と言いますか、賛否中立といいますか、その3論に分かれて、小田原評定を繰り返した。これは、まさに小田原評定。時間だけが喰っていたので、中曽根康宏さんなんかがやきもきして・・。まさに、そういう現象だった」[◆註:10]
 
[◆註:10]「長引いて容易に結論の出ない会議・相談」「長時間の会議をしても、いつまでたっても結論が出ない」ことを「小田原評定」や「現象」の言葉を引き合いに出すような元通商産業省官僚堀純郎の見識不足もさることながら、国策を左右する重大な議論に際し、原子力の危険性の専門知識を全く持たない政治家や官僚家の「鳩首会議」を揶揄し、高所批判をするがごときNHKの報道姿勢も含め、それら無責任さが、現在の福島被爆者たちの悲劇を招いたことを銘記すべき。
 
[解説]:原子力行政の再開には慎重な議論が必要だ、と考えていた研究者たちは、突然の予算案に愕然とします。
 
【テロップ】:当時 大阪大学教授 伏見康治
 
[解説]:研究再開を強く望んでいた大阪大学教授の伏見康治。その伏見康治でさえも政治主導のこの予算案に、ショックを受けたことを研究会で語っています。
 
(画面:「伏見(康治)先生」001」のカセトテープ)
 
[当時大阪大学教授 伏見康治]:「朝目を覚まして新聞を見たら、そしたら、そこに中曽根予算が書いてある。慌ててビックリ仰天してですね、学術会議で原子力問題を議論している時に非常に思い上がったといえばそうなんですけれど。つまり原子物理学者がイニシアティブ(主導権)を取らなければ物事が動くはずがないという大前提を、(原子物理学者の)みなさんが持っていたんですね。つまりアメリカのマンハッタン・プロジェクトは、原子物理学者のイニシアティブで始まった」[◆註:11]
 
[◆註:11]ここでの伏見康治氏の指摘は、極めて重要な指摘だ。山本義隆の近著『福島原発事故をめぐって~いくつか学び考えたこと~』みすず書房(2011年8月)で、山本義隆氏も明晰に指摘している通り、ケプラーに始まる「16世紀文化革命」と、それに続く17世紀のデカルト、ニュートンの力概念による機械論の更なる拡張で、「自然に秘められた自然の力を人間が使役しうる可能性」に目覚め、その「数学的把握、近代科学技術の自然からの独立」が飛躍的に進化した17世紀でも「科学理論に基礎づけられた技術は未だ誕生せず、18世紀後半のワットの蒸気機関改良と実用化に突入時でさえ、五感で感知可能な自然現象の力の技術的応用が常にまず先行し、その後から科学理論が追いつく状況が19世紀中頃まで続いた」こと。とりわけ、原子核エネルギーの場合、「まず最初に純粋理論的に原子核物理学理論として展開された最先端の科学理論の先行」があり、その後から「その理論成果を工業規模に拡大させ、原子核エネルギーの技術的利用が追いついたという点で、近代科学技術史上でも、極めて特異な技術体系。それが核開発技術(軍事および平和利用を問わず)である。しかも、この技術は「官軍産一体の、技術者・労働者・科学者を国規模で総動員させた超巨大科学技術体系への移転」であり、巨大な利益と人名の殺傷を必然的伴う産軍複合体に依拠せざるを得ないものであった。このことは、単にアメリカのマンハッタン計画だけでなく、その後の現在に至るまでの、「財界・業界・官僚・学者・マスコミ」の鉄壁の五角形のスクラム、いわゆる「原子力ムラ」を伴って推進されてきたことでも雄弁に証明される。原子力の研究者を抜きにした、「原子力の平和利用」の美名で、国策として遂行される原発(平和利用)であれ、原爆(軍事利用)であれ、「両者は紙一枚すらの相違さえない」との山本義隆氏の指摘は、当時の学術会議の危機感にも一脈通じるものがある。
 
[当時大阪大学教授 伏見康治]:「そのことが皆さん、日本の原子物理学者(や学術会議)の頭にあるものですから、日本では、日本の原子物理学者が始めなければ始まらないとの前提があったものです。ですから、研究開発から原子爆弾を作るまで全段階に対して、原子核物理学者に責任があって、原子核物理学者さえ動かなければ、一切動かないものだ、という前提でやってきていましたから・・ですから、中曽根康宏さんたちのやった原子力予算が、非常なショックになったわけです[◆註:12][◆註:13]。
 
[◆註:12]この伏見康治(当時)氏の発言はそのまま肯定出来ない。学者(研究者)といえども、「人間として当然な抑え難い真理探究という本能的な欲望」を犠牲にしてでも、間違った方向に科学技術が用いられようとする時は、それを阻止する義務があった筈。政治家と違い、学者には国政の流れを左右する力は無いかもしれない。しかし、当時の学術会議の科学者たちが一斉に辞職してでも、原子力の平和利用の危険性を、国民に徹底的に説明する運動を展開していたら、原発導入の阻止の道も開かれた筈。しかし、学者生命を失ってまで、国政に抵抗し、核エネルギーの平和利用の危険性を訴え原発を阻止するには至らなかった。学者といえども、サラリーマンであり、真理探究も所詮は「飯の種」である。真理探究の象牙の塔に閉じこもり研究に明け暮れ、社会や政治と没交渉の生き様に対する根本的反省を自己に問うことも無く、周囲から問われる事も無かった。そうした研究者の姿勢が厳しく問われた1970年代の大学紛争を経た後でも、アカデミズムは「原子力ムラ」「産軍複合体」の圧倒的国家権力の津波に飲み込まれ、埋没し、沈黙していった。
 
 「核エネルギーの軍事利用と平和利用は一体であるとの考えを拒絶」し、「科学的真理探究を制約することは非人間的行為であり愚か。最新の科学技術を駆使して原子力利用を進めるのが、真理探究という人間の本能に即した正しい道」と考える吉本隆明氏の発言の背後には、旧左翼の教条主義的な硬直した思考への嫌悪感があるとしても、明らかに原子力ムラへ迎合する思想である。吉本隆明氏まではいかずとも、核兵器廃絶運動に力を注いだ湯川秀樹氏でさえ、原子力の平和利用そのものに疑いを挟むことはなく、1960年代には、原子力委員の核融合専門部会長を務めた。長年湯川秀樹氏の傍にいた慶応大学名誉教授小沼通二も「(湯川先生は)核兵器廃絶の決意は固かったが、原子力政策の批判を聞いたことはない」と証言している。
 
 この点、同じ原子核物理学者でも、「三段階論」で名高い武谷三男氏の場合は「核エネルギーの平和利用は必ずその軍事利用に通じ、両者の区別は出来ない」と、一方では明確に指摘した。しかし、そんな武谷三男氏も、他方では、「だからこそ」の論理(「被爆国だからこその原子力利用」という論理)の陥穽があった、と加納実紀代氏(日本近現代史研究者)は指摘する。「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号論攷
http://wan.or.jp/reading/?p=4424
加納実紀代氏の指摘する武谷三男氏の「だからこそ」の論理とは、「日本人は原子爆弾を自分の身に受けた世界唯一の被害者であるから、少なくとも原子力に関する限り、もっとも強力な発言の資格がある。原爆で殺された人々の霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも人を殺す原子力研究は一切日本人の手では絶対行わない。そして平和的な原子力の研究は、日本人がこれを行う権利を持っており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなす義務がある」(「日本の原子力研究の方向」『改造』1952年11月増刊号)というものであった。加納実紀代氏は上記の武谷三男氏の「だからこそ」の論理が行きついたところが、「被爆国にもかかわらず、ではなく、被爆国だからこその原子力利用だ」というのだ。この文章は彼の持論『平和・公開・民主』につながるものだが、広島ではこの部分だけが一人歩きする。武谷の言うように、「もっとも原子力の被害を受けた国がもっとも恩恵を受けるべきだ」とすれば、直接被害を受けた広島こそ権利がある。1955年1月27日、アメリカのイェーツ下院議員は、広島に原子力発電所を建設するための予算2250万ドルを下院に提案した。前年の1954年9月、アメリカを訪問した浜井信三広島市長(当時)が働きかけた結果である。浜井はその理由として、『原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う』と述べた(『中国新聞』1955年1月29日)。原爆という悪は、平和利用という善によって償えるという」(同上)ことになってしまう、と加納実紀代氏は指摘する。
 直接他国民を殺傷する兵器でなくても、自国民や周辺諸国民の生命、財産、祖国の大地を破壊し、汚染し、殺傷し「根こぎ」にするという点では、原子力発電所も、核兵器も、その本質は同であることは、今回の福島第一原発事故からも明らか。湯川秀樹氏や伏見康治氏、茅誠司氏など、学術会議学者の学者としての責任は極めて大きい。
 
[◆註:13]国会での原子力予算可決を新聞報道で知った茅誠司等の学者グループは、当時中曽根が所属していた改進党の議員室まで急いで出向いた。茅誠司は中曽根ら議員に、現在の日本の技術では原子力開発を本格的に取り掛かるレベルに無いこと、学会では反対派も多いこと、等を理由に、原子力予算の取り下げを要望したが、中曽根は断固拒否した。その時の中曽根は「あなたたち学者がぼやぼやしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」と発言したという。中曽根本人は「それを言ったのは別の代議士の方で、私ではない」と否定したが、当時はそれほど緊迫したやり取りがあった。
 
【テロップ】:原子力予算案成立 1954年4月
 
[解説]:予算案は提出から1ケ月後に成立。日本の原子力政策は研究者たちを飛び越し、政治主導でスタートを切っていったのです。初めての原子力予算の使い道を決めるように任されたのが、通産省の官僚たちでした。
 
【テロップ】:元通商産業省 伊原義徳さん
 
[解説]:元通商産業省官僚の伊原義徳さんは、予算配分の決定に携わった一人です。当時、伊原さんを始め、通産省の職員は、ほとんどが原子力の専門知識を持っておらず、慌てて勉強を始めたといいます。
 
[元通商産業省 伊原義徳:「その当時の役所(通産省)の立場はですね、日本学術会議で原子炉の研究をどういうふうに再開するかということを議論しているんだから、その結論が出るまで(通産省は)待っている、という・・・そういう立場だったんですね。通産省の方から、自分で動いて仕事を始めようという発想は、全然、無かったんですね。突如として、天からおカネが降ってきたわけなんですから、最初は戸惑ったのは事実なんですね」
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1988年12月21日 元通商産業省 堀純郎
 
[元通商産業省官僚堀純郎]:「予算が成立しますと、その仕事を業務としてやらなければならない立場になったのです。その当時、通産省には原子力の知識というものはございませんでした」[◆註:14]
 
[◆註:14]ここに典型的な役人の限界、問題点がある。一旦予算化すれば、その仕事の孕む問題性の有無とは関係なしに、とにかく何が何でも、与えられた予算を消化せねばならい・・という不合理的桎梏から逃れられなくなる。国民にとって当面する仕事が有意義か、危険か、無益かの評価は、政府の決定の前で、どこかへ消し飛んでしまう。消滅しなくても、与えられた仕事の評価や意義への思考停止が始まる。官僚の暴走が始まる。問題が起きそうな時や、実際起こった場合でも、彼ら官僚の言い訳は常に同じだ。いわく「この仕事は政府、国家の決定事項だから。だから我々はそれを実行するだけだ。責任や評価云々は我々の管轄外だ!」こうした考えは税金や事故などに際し、兵隊でも、警察でも、国民でも同様である。
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「要するに、その時、通産省は逃げた。あなたが言うようにね、通産省全体としては原子力に取り組む意欲は、その頃は全く無かった」
 
[元通商産業省官僚 堀純郎]:「うん。全く無かった」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「それはね、今の通産省の悪口を言うわけでも、なんでもないけれども、ちょっとうっかりしていた所があったんだな、当時の通産省には」
 
[元通商産業省官僚 堀純郎]:「うん。見通しを誤まってましたね」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「うん。その面から考えると、尊敬すべき我が先輩がちょっとうっかりしていたと・・いうことですよねぇ」
 
[元通商産業省官僚 堀純郎]:「その後のことは、みなさんもご存じのことじゃないかと思います。当時、まぁ、2億3500万円(の予算が)つきましたが。準備段階で大半のカネを、この2億3500万円を(使わずに)余してしまったわけでございます」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「これを、どうやっていいのか。役所側から出したのなら根拠があるが、昭和29年度で使った(予算)が六千万円だった記憶がある」
 
[元通商産業省官僚 堀純郎]:「六千万円だったですかねぇ?」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「ええ。あとは、みんなキャリーオーバー(持ち越し)してしまった」
 
[解説]:その後、原子力予算は一気に急増。4年後の1958年度には一気に、30倍を超える77億円にまで達しています。
 
【テロップ】:原子力予算
 
【図 棒グラフ】
昭和29年  2・5億円
昭和30年  2・0億円
昭和31年 20・1億円
昭和32年 60・0億円
昭和33年 77・9億円
昭和34年 74・2億円
昭和35年 77・3億円
昭和36年 76・8億円
 
[解説]:予算の使い道がはっきりしないまま、額だけが増えていったといいます。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1988年5月31日 元経済企画庁 村田浩
 
[元経済企画庁 村田浩]:「いやぁ、これね。19億くらいの予算を積み上げてきたんですよ。原研(日本原子力研究所)の方からですね。ところが、それじゃぁ少ないんじゃぁないか、50億くらい要求しろという話で。ところが、どう積み上げても50億円にならなくって」
 
[某氏(?)]:(笑い声)「ワハハ・・」[◆註:15]
 
[元経済企画庁 村田浩]:「結局36億何千万円で通っている。ほとんど満杯(予算請求の満額通り)で通っているんですよ」
 
[◆註:15]確かな科学的根拠も無しに、国民の血税を、こうした形で湯水のように予算化させ、その結果が今日の未曽有の悲惨な事態をもたらしていきながら後日談として、笑い飛ばす・・これが我が国の官僚行政の実態!
 
【テロップ】:ビキニ水爆実験 1954年3月
 
[解説]:原子力導入が動き始めたその年、日本を震撼させる事件が起きました。マグロ漁船第五福竜丸の乗組員たちは、太平洋上で実験による放射性降下物を浴びて被曝。白血球の減少や、髪の毛が抜けるなどの放射線障害に襲われました。
 
(画面:久保山愛吉氏 面会謝絶 主治医)
[解説]:事件の半年後、乗組員の久保山愛吉氏が亡くなりました。
 
(ニュース映画:主治医の画像と音声「久保山愛吉氏は6時56分逝去せられた。まことに残念でした」)
 

(ニュース映画の画面:水爆マグロは使っていません 店主)
 
[解説]:太平洋で取れたマグロからは放射能が検出され、日本中がパニックに陥りました。事件は全国的な反核運動へと発展します。平和利用を訴えながら、核実験を続けていたアメリカに対し、反感が高まっていました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1985年7月11日
 
[解説]:この時、経済界から、その後の原子力政策に大きな影響を及ぼす、一人の人物が現れました。
 
【テロップ】:当時大阪大学教授 伏見康治
 
[当時大阪大学教授 伏見康治]:「講演会を聞いていたら、私は職業野球をやった、民間テレビもやった、その次は原子力だ、と言う講演を聴かされたな」
 
[元日本原子力発電役員]:「中身は解らなくても、やる必要があるんだと、国会答弁しておられましたよ」
 
[某氏(?)]:「うん。それだけですよね」
 
【テロップ】:正力松太郎
 
[解説]:島村研究会で語られていた人物。それは正力松太郎でした。戦前、内務官僚[◆註:16]から、読売新聞の経営者となり、戦後は日本テレビの社長もしていた。正力松太郎が恐れたのは、ビキニ事件で巻き起こった反米・反核感情が、共産主義の高まりに繋がることでした。その対策として正力松太郎が取った行動、それが原子力平和利用のキャンペーンを張ることでした。アドバイスしたのは秘書の柴田秀利でした。
 
[◆註:16]例によって、NHKの正力松太郎の解説は、彼が、戦前、戦後を通じ、日本現代史の暗黒面を代表する人物であったことを、完全かつ意図的に黙殺して紹介・報道している。国民を欺き、愚弄するNHKの報道姿勢は厳しく糾弾されねばならない。正力松太郎は、戦前には内務省特高幹部として関東大震災事の際に「朝鮮人が井戸に毒物を流した」との悪質なデマを流し、朝鮮人大量虐殺事件を工作した人物としても有名(これは当の正力松太郎自身「あれ(デマを流したこと)は失敗だった」と告白している)。この正力松太郎は、戦犯釈放後の戦後に起こった第2次読売争議(1946年)でも、「正力松太郎の懐刀」の異名を持つ柴田秀俊を駆使し、労働者の権利といのちを蹂躙した現代暗黒史の怪物。この正力松太郎の死後も、原発導入により、フクシマ県民を始め日本国民の健康といのちが再び脅かされたのだ。
 週刊新潮(2006年2月16日号)で、戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後の正力が米国中央情報局(CIA)の意向に従って行動していたことを、早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館保管)を基に明らかにし反響を呼んだ。アメリカ中央情報局(CIA)と、日本へのテレビの導入と、原子力発電の導入の3点で利害が一致していたので協力し合い、その結果、アメリカ中央情報局(CIA)より「podam」、「pojacpot-1」(poは子供用語でchamber potおまるのことでCIAは金を要求する「汚い物を入れる器」と軽蔑されていた。jackpotは「大当たり」という意味だが、元はポーカーの「積み立て掛け金」の意味だが、誰かが二枚のジャックまたはそれ以上の手を持つまでは開けない)というコードネームを与えられていた正力松太郎は、まぎれもないCIA諜報部員であった。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残されている。CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント米上院議員だった。カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表。まさにその翌年に、正力松太郎はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日の日本初の民間テレビ開局となった。その名称が「日本テレビ放送網株式会社」であった。
1999ya.isis.ne.jp/1434.html参照。
(ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』講談社2010年3月ISBN9784062161244,Page238)
 戦後、アメリカは、敗戦後の日本国民に広がっていた共産主義や反米感情・・ビキニ水爆被曝事件で反米感情が一層高まった・・を、メディア操作により和らげ、親米的世論を形成する活動を行っていた。CIAはアメリカに有利なニュースを提供する組織として、正力松太郎の率いる読売グループに注目し、正力松太郎に接触して重要な協力者として取り込んだ。
 ちなみに、元A級戦犯の容疑者で投獄され、戦後に56、57代総理大臣(安倍晋三の祖父)となった岸信介も、CIAのスパイであったことも、アメリカ側の公文書公開後明らかにされた。
 
【テロップ】:柴田秀利
 
[柴田秀利]:「原子力はもろ刃の剣だ。原爆反対を潰すには原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、希望を与える他はない」「日本には”毒は毒をもって制する”という諺がある」
 
[解説]:このとき、柴田秀利がアメリカの諜報機関(CIA)に送った極秘文書が残されています。そこには柴田と正力松太郎による具体的な提案が書かれていました。
 
(CIAへの英文極秘文書:)
ABRIDGER SHIBATA MEMO FOLLWS:
……
EMINENT ATOMIC SCIENTISTS TO COME TO JAPAN
SHORIKI MATSUTARO
HIS PAPER AND HIS TV NETWORK
PROPAGANDA PROGRAM
「最も効果的な方法は、原子力の最も著名な科学者を来日させることである。正力松太郎は、彼の新聞とテレビ・ネットワーク最大限に啓蒙プロパガンダを行う用意がある」
 
【テロップ】:原子力平和利用使節来日 1955年5月
 
(ニュース映画の画面と音声:「ホプキンス氏一行来日」アメリカから読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間使節、ホプキンス、ローレンス、ハウスタットの3氏が5月9日来日、読売新聞社社主と堅い握手を交わし、花束を受けました)
 
(この画面に続き「原子力平和利用大講演会」の立て看と詰めかけた聴衆が大写し)
 
【テロップ】:原子力平和利用大講演会
 
[解説]:東京日比谷公会堂の前に出来た長蛇の列。団長のジョン・ホプキンス氏は原子力の平和利用が、無限の未来を約束すると演説しました。
 
【テロップ】:ジョン・ホプキンス
 
[解説]:実はホプキンス氏の本当の狙いは、肩書きはアメリカを代表する原子炉メーカー、ゼネラル・ダイナミクス社(GE社)の社長でした。読売新聞は、原子力発電の将来性を伝える記事を連載。原子力で電力不足を解消するだけでなく、水力、火力より低いコストで発電できるため、電気料金は格段に安くなる、と紹介しています。[◆註:17]
 
(画面:当時の読売新聞記事:「ついに太陽をとらえた」「我が輩はウラニウム」「今日から英国に原子力開発公社」「米国では原子潜水艦」「原子力で停電解消 ”貧乏国日本”の名前も返上」「電力料二千分の一 ~原子力発電所を作った場合~ 一銭銅貨が必要になる!?」)
 
[◆註:17]これらが、いかに間違ったデマ宣伝、原子力の真実の知識を全く知らされていなかった日本国民を欺く大ペテン、大嘘であるかは、私(諸留)が今まで届けた様々の資料からも証明済み。一民間会社GEの社長を米国使節として扱うのも大ペテン。
 
【テロップ】:原子力平和利用博覧会 1955年11月
 
[ニュース映画の画像と音声]:「第二の産業革命と言われる原子力の平和利用博覧会が1日から東京日比谷で開かれました」
 
[解説]:正力松太郎はキャンペーンの決め手として、アメリカ情報局(CIA)との共催で、原子力平和利用博覧会を開催しました。
 
[ニュース映画の画像と音声]:「夢を掻き立てる原子力飛行機の想像模型など、数々の展示品が新しい時代を示しています」
 
[解説]:東京で始まった博覧会は、一年をかけて全国で11カ所の都市を巡回。およそ300万人が訪れました。
 
【テロップ】:広島・原子力平和利用博覧会 1956年6月
 
[ニュース映画の画像と音声]:「広島の原子力平和利用博覧会で、6月1日、100万人の入場者を迎えました。被爆地ヒロシマでは、平和記念資料館が会場となりました。被爆者の写真や遺品を撤去して、原子炉の模型が展示されました[◆註:18]。
 
[◆註:18]あろうことか、原爆の悲劇を後世伝える為のヒロシマの平和記念資料館の会場そのものさえもが、原子力発電所推進派と、被曝加害者であり、巨大な軍産複合体国家アメリカの背後からの後押しで、聖地ヒロシマは汚されたことを、ヒロシマ市民も、全国の日本国民も理解できなかった。原爆で犠牲となった死者の魂は、ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸、そしてこの時の原子力平和利用博覧という、見せかけの原子力平和利用キャンペーン会場として、4たび蹂躙され汚され、今回の3・11福島第一原発事故によって、五度までも汚された。まさに、国民的規模での「倒錯洗脳劇」が演出された。原子力飛行機など、もし、墜落したらどうなる?!子どもでも解る話だ!
 
【テロップ】:元経済企画庁 村田浩  元通商産業省官僚 島村武久
 
[解説]:島村武久ら、原子力政策を担当する官僚たちは、博覧会が世論を変えていく様に、目を見張りました。
 
[元経済企画庁 村田浩]:「正力松太郎さんが力を入れて、アメリカからいろんなものを持って来まして、原子力平和利用博覧会というものを、おやりになってですね、多大の一般日本国民に感銘を与えたものを初めて開いたんですよね。原子炉の模型なんかも出てましたよ」
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「平和博というものが相当なものであったのは確かだろうな。ずいぶんPRになったことは確かでね。時あたかも、第五福竜丸の久保山愛吉さん事件(ビキニ事件)が起こっているわけで、杉並の主婦から出た反原子力・反核運動も、ずいぶん広がり始めている頃の、昭和31年のあの頃に、あれだけ華々しく原子力がスタートできたというのは、国会議員のあれ(行動)だけじゃなくって、それ以前に耕した何(もの)が、相当生きていると思う[◆註:19]。我々役所サイドにいて、あまり大して評価も、関心も、読売ほどには持たなかったけれどね。実質的には(この原子力平和利用博覧会が)かなり役だっているという気がしたんですよね」
 
[◆註:19]この元通商産業省官僚の島村武久のような、「上っ面の評価」を、断じて許してはならない。この島村武久官僚の言葉は不気味ですらある。ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸と被曝を繰り返してきた日本国民が、原子核エネルギーの利用のうち、軍事的利用とは切り離してその平和利用面だけを、国民的規模で、老いも若きも歓迎したのは何故だったのか?この現象の解明には、通産官僚島村武久ごとき者の分析に任せておいてはならい。島村が言う「それ以前に耕した、相当生きているもの」とは、一体、何なのか?正力松太郎や。中曽根康弘に代表される、国家権力や業界側の巧妙な世論誘導のキャンペーン工作が功を奏したことだけだったのか?
 それ以外に、われわれ日本人国民大衆の胸の内に秘められていた、目には見えない、無言の、深い深い潜在的欲求も働いていたのではないのか?その欲求とは一体何だったのか?
 1950年代半ばという、その当時の日本国民だけの問題であった、と果たして言い切れるのか?敗戦の混乱と貧しさから抜け出て、アメリカナイズされた、より快適な生活を希求しようとの欲望も働いていたことも確だろう。武谷三男氏の[◆註:12]でも触れたように「だからこそ論」的心情も働いていたとの指摘も、もっともにも思える。
 原爆で肉体的にも精神的にも、深く傷ついた我が国の国民感情が、平和産業国家としての再出発にしようとする新生国家日本を導く希望の灯、価値ある新エネルギー源、それが核エネルギーであって欲しい・・との、平和と繁栄希求の国民的エネルギーの新たなる象徴として受け入れられたのか?
 その後約半世紀に及ぶ、原子力発電時代を経て、3・11福島第一原発事故という第4回目の原子力災害の被曝国民となった私たち日本人、一人一人に突きつけられている、深い深い疑問、根本的問いかけである。
 3・11福島第一原発事故を経た私たち日本国民が、今度こそ、脱原発・脱核エネルギー社会を目指して真剣に、国民一人一人が決断し、努力しないなら、現代科学技術をもってしても制御不能な核エネルギーと放射能汚染国家へと逆戻りする愚行を重ねるであろう。
 原子力発電に手を染めた40年前も、福島第一原発事故を引き起こした今現在も、核兵器も原子力発電も、双方とも肉体も精神も損ない、地域社会の日々の生業も、文化も、家族も何もかも根こそぎに、徹底的に「根こぎ」、人間性を破壊する核エネルギーは、私たちの「いのち」そのものに対する正反対のもの、市の恐怖以外の何ものでもないことを、一人一人がはっきり自覚せねばならない。
 核エネルギーの研究、開発、応用に手を染めてきた欧米社会が目指してきたる豊かさや、ライフスタイルなど、その文明の基底となっている価値観の根本まで掘り下げ、それと厳しく対決する新しい文明、価値観を逆提示させることで、核エネルギーには依存しない社会、国家を築かねばならない。
 
 核の問題だけに限定させても、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・沖縄・フクシマで被爆した人々に、どう関わっていくのか・・その問いにどう答えるか、その答え方次第で、被爆者たちを再生させるか、更に破滅へと追いやるのか・・・その全てがかかっている。
 
「深い疑問」の所在と、「対決、決別」の行方との結びつきを、ぜひ分かり易く表現していただきたい。松元要望。
 
[解説]:ヒロシマ、ナガサキ、そしてビキニ(第五福竜丸事件)。3度の被曝を経験した日本国民は、いかなる真理で原子力の平和利用を受け入れたのでしょうか。
 
【テロップ】:森瀧市郎
 
ヒロシマで原水爆禁止運動を立ち上げた森瀧市郎。始めは平和資料記念館が平和利用博覧会の会場に使われることに、強く抗議していました。しかし、森瀧市郎は博覧会の後、原水爆禁止世界大会で、原子力の平和利用を支持すku驍ニ宣言しました。
 
[森瀧市郎]:「破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を、人類の幸福と繁栄の方向に向かわせることこそが、私たちの生きる唯一の願いであります」
 
【テロップ】:森瀧春子さん
 
[解説]:森瀧市郎の次女、森瀧春子さんは、博覧会の後、考えを改めた父や、多くの被爆者を見ていました。
 
[森瀧春子]:「やはりその、アメリカの文化センターというようなものが、広島にも設置されていて、まぁ、ソフトな形で、やっぱり広島市民に新しい文化をもたらす、という形で、浸透してきていた頃ですし。まぁ・・あの・・やっぱり悲惨な目に遭っているからこそ、ある意味では、そういう原子力が人類の未来に平和と繁栄をもたらすものではないか、という願いがあったからこそ、広島だけじゃなくて、全国何カ所か、沢山人が見に行って、一大ブームを巻き起こして、原子力の平和利用に対する、いわゆる夢というものを、洗脳されたという言い方の方が良いのかも解らないですけど・・」[◆註:20]
 
[◆註:20]彼女森瀧春子の見方が、正しいか、間違っているかを決定的にするものは、核エネルギーに関する正確な科学的知識の有無如何にかかっている。被爆者に悲劇をもたらした原子力エネルギーの平和利用が、人類の未来に平和と繁栄をもたらすものなのか?はたまた再び未曽有の災禍を引き寄せるものなのか?それを判断する決め手は、原子力に関する正しい科学的知識(情報)の有無如何である。ウラン原石の採掘・精錬にはじまり、その原子炉で生じた高濃度放射性物質の再処理と永久閉じこめ処理の段階に至るまの、全行程を見通し、例え事故が無くても放射能被害はあり、何百年も安全管理の出来ない「死の灰」を出し続けて将来世代、他生物種、社会の最底辺で被曝被害に苦しむ人々への大量存在も含めた思考が出来るか、否かにかかっている。
 
【テロップ】:広島大学教授 三村剛昴(よしたか)
 
[解説]:広島で被曝した三村剛昴は原子力研究の再開に強く反対してきた三村も、キャンペーンの後、沈黙していきます。研究者の間では、日本の科学技術の進歩の為には、積極的に研究を進めていくべきだ、という意見が主流に代わりました[◆註:21]。政財界の動きに研究者が合流したことで、日本の原子力導入の動きは実現に向け加速していきます。
 
[◆註:21]1950年代後半の、この時期、何故、我が国の原子力関係の研究者の間では、日本の科学技術の進歩の為に、積極的に核エネルギー研究を進めていくべきとする方向に、路線転化したのか?この問題は、原子力及び核物理学研究者や学者だけの問題ではなく、我々日本人、一人一人が問われている問題である。3・11福島原発事後の、今現在でもなお、日本の科学技術の進歩の為には、積極的に原子力エネルギーの研究を進めていくべきだという考えが、研究者の間でも、国民大衆の間でも、後を絶たないのか?この問題は、もはや原子核物理学や、原子炉工学の知識や情報の有無の問題ではなく、人間のいのちをどう考えるかの問題である。その意味で、極めて常識的で、普遍的な問題、まともな常識を持つ人間なら、誰にでも回答の出せる、極めて単純明快な問題である。
 
 それは戦前の、戦艦大和の建造の必要性の有無を巡る議論にも共通する問いである。また沖縄を始め日本国内への基地と駐留米軍の必要性の有無の問題とも共通する問いでもある。あなたは、それを「絶対悪」として退けますか?あるいは「必要悪」としてやむを得ず認め受け入れますか?積極的受け入れ者を始め、「必要悪」として核エネルギーや沖縄駐留米軍を受け入れるあなたに言う。「あなたの頭上に高濃度放射能が、爆弾やミサイルが降ってくるその日まで、必要悪の幻想からあなたが解き放たれることは無いでしょう・・・貴方の弱さが全否定されない限り、近視眼的に自分の周りの欲望を満たすことしかあなたが考えられない限り・・・」
 
【テロップ】:原子力担当大臣 正力松太郎
 
[解説]:正力松太郎は政治家に転身。衆議院議員に初当選すると、原子力担当大臣に就任しました。正力松太郎は宣言します。「五年以内に実用的な原子力発電を始める」
 
[ニュース映画の画像と音声]:「我が国原子力行政の最高機関として生まれた原子力委員会は1月1日に発足」
 
[解説]:正力松太郎は原発建設の第一歩として、原子力委員会委員長に就任しました。
 
【テロップ】:原子力委員会
 
【テロップ】:物理学者 湯川秀樹
 
[解説]:学術会から、研究者として、湯川秀樹を委員に招きました。しかし、就任早々、湯川と正力は、正面から対立します。湯川は「原子力発電の実現は急いではならず、まずは、基礎研究から始めるべきだ」と主張しました。これに対し、実現を急ぐ正力松太郎は、「外国から開発済みの原子炉を輸入すべきだ」として、湯川の主張を退けました。森一久は、恩師の湯川から突然呼び出されました。
 
【テロップ】:当時 中央公論社 森一久
 
[中央公論社 森一久]:「私の家に湯川さんから電話がきたんですよ。ちょっと来いと。原子力委員辞めようと思うから、ちょっと出て来いということで、福田家(宿泊先)に呼び出されたんです。ええ、そうなんです。基礎研究なんてしなくていいという(正力松太郎の)声明を読んで(湯川さんは)頭に来て、『おまえたちが(原子力委員)に入れというから入ったが、もう辞める』と・・・。『いくら何でも、今日(原子力委員会に入って一日目で辞めるってことはないでしょう)』と、私(森一久)が言って、もだめでね」
 
 
 
–以上前編(その1)「文字起し」オワリ–
 
 
 
**転送転載歓迎**

「原発事故への道程(前編その2)」
[2011(H23)年10月31日(月)PM19:30]
《パレスチナに平和を京都の会》の諸留です

**転送転載 自由**
 
前回に続き、
NHKETV 原発事故への道程(前編その2)「置き去りにされた慎重論」
をお届けします。
 
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[解説]:結局、湯川は正力松太郎の考えと、相容れず、僅か一年で原子力委員を辞任しました。
 
湯川さんが原子力委員会を辞めたのは、何が原因だったのですか?」
 
[当時 大阪大学教授 伏見康治]:「私なりに解釈すれば、学者らしい生活と相容れなかったということじゃないですか。とにかく、湯川さんは、毎日来ては嫌になられた。心配事が多すぎて」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「要するに嫌になった」
 
[当時 大阪大学教授 伏見康治]:「というのは、湯川さんは、原子力のことは何でもご存じと、人は思っていたかもしれないけれども、(原子炉については)何のことやら、先生自身も、わけがわからんのですよ。良いのか、悪いのやら。とにかく、責任が重いのに、解らないという点があった。それを、普通の人だったら、『良きに計らえ』でいいかもしれないけど、それを(湯川さんは)心配されたんですね」
 
[元通商産業省官僚 島村武久]:「なるほどね」
 
[当時 大阪大学教授 伏見康治]:「だから、(原子力委員の仕事が、湯川さんには)合わないということだよ」
 
[解説]:湯川の言葉です。
 
[湯川秀樹]:「情勢の急変が今後も予想されるが故に、発電炉(原子力発電のこと)に関しては、あわててはいけない。我が国には「急がば回れ」という言葉がある。原子力の場合には、この言葉がぴったりとあてはまる」
 
[解説]:湯川の門下生の一人、元 東京大学原子核教授の藤本洋一さん。湯川の辞任をきっかけに、国の原子力政策と距離を置く研究者が、相次ぐようになった、と言います。
 
[元 東京大学原子核教授 藤本洋一]:「湯川先生のアイデアを生かそうとか、ああいう気持ちは、ほとんど無かったですよね。ただ、その、政府が作ったものに、湯川さんの署名が欲しいだけで・・それで、湯川先生は随分憤慨されて、それで結局辞めてしまわれた。専門家の意見というものを、非常に重要視しなければいけないという、(原子力発電とは)そういう分野であるにもかかわらず、そういう理解が、政府にはなかったんだと・・そういうふうに私は思っています」
 
[解説]:時間のかかる基礎からの研究よりも、早期の実現。そのかけ声の下、科学的な観点を軽視する体制が作られ、原子炉導入は進められていきことになりました。科学者たちと入れ替わり、原発建設を目指す流れの中に、新たな集団が続々と参入してきました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1990年1月11日
 
【テロップ】:元 通商産業省官僚 島村武久
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「私が色々勉強としたのではね、商社の動きというのは、無視出できないなぁ・・とう気がするんですよね。商社、商社が先に動いているんですよ」
 
[某人物(?)]:「そうですよね。技術導入ですから」
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「商社がね、どこかが火を付けてね、これは本当に面白い現象なんですよ。何ヶ月かの間に、5グループが揃ったんですね。三井、三菱、住友さんあたりがね[◆註:22]。まだ技術導入なんてところまではいかないが、とにかく商社が先を行った」
 
[◆註:22]三井、三菱、住友・・言わずと知れた、旧五大財閥系の商社である。我が国の原発の技術開発の「火付け役」、それに真っ先に手を染めたのが、旧財閥系であったことは、決して偶然ではない。この事実を「面白い現象だ」と、平然と言い放つ、元通商産業省官僚島村武久の思考レベルのお粗末さが、伺える。戦前、不沈戦艦と称された戦艦大和や武蔵の建造に手を出したもの、旧財閥の三菱であったことと、ピッタリ重なっている。近代科学の総力を挙げての国家的巨大プロジェクト、それも軍事的色彩の極めて濃厚な企画には、必ず財閥が関与してることは、戦前も現代も全く変わっていない。金儲けのためには、やみくもに我利我利亡者の奸商、官僚、それに群がり集まる曲学阿世の学者たち・・ちゃんと研究をしていたら危険があり、問題が起きることは判っていたのに、金儲けの為にそうはさせなかった政財界の貪欲さ・・。何時の時代でも変わらない。
 
【テロップ】:元 住友原子力工業 佐々木元増
 
[元 住友原子力工業 佐々木元増]:「自分でやりましたけれど、持ち込んだのは商社。商社を通じてやってます。みなそうですよね」
 
【テロップ】:三菱商事
 
[解説]:海外からの技術導入に名乗りをあげたのは、旧閥系の企業でした。先頭を切ったのが三菱商事です。元三菱商事の商社マン、浮田禮彦(のりひこ)。
 
【テロップ】:元 三菱商事 浮田禮彦
 
[解説]:島村研究会に招かれた浮田禮彦は、三菱商事が、原子力ビジネスに参入したきっかけについて語っています。
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「三菱の場合は、一体、原子力というものに、誰が関心を持ち、どんな経緯があったのだろうか?そういうことも伺いたいのだが。役所のことだとかは、記録に残っているものもありますけど。また、研究成果なども文献でわかるんだけども、原子力産業のことになると、全然残ってないんだな。今思い出される範囲でいいですから、自由に(そのへんのお話を)お願いします」
 
[元 三菱商事 浮田禮彦]:「はい、はい・・・浮田でございますが、どうぞ宜しく。えー、私は商事出身なんだけれども、三菱商事は、ご承知の通り、戦後(三井)物産と相並んで、解散(財閥解体)を喰っちゃったわけですよね。昭和22年のことですね。それで、まぁ、力がぐーっと弱くなったわけですね。その日暮らしで、毎日どうやって暮らすかと、もう本当に、いつ会社が倒れる(破産)する」か、心配な時期もずいぶんありました。要するに(三菱)商事としては、世界的な視野で考える力を失い、その日暮らしになっていたわけですね。そこへ、さっきお話した、原子力の国家予算が昭和29年に付いて、また、何と無しに、新聞の論調や学会のほうも、原子力ムードが追々出来て、相当強い刺激になって、少なくとも三菱グループについては、原子力について勉強しようじゃないか、という機運が生まれたと、そう(私は)思ってます。
 
[解説]:島村研究会は、浮田に続いて、住友グループの元重役、佐々木元増(げんぞう)を招いています。
 
(画面:「佐々木元増氏 009」のカセットテープ)
 
【テロップ】:元 住友原子力工業 佐々木元増「(その当時は)臨界実験装置ってなんじゃ?という知識しかないぐらいでして・・。そういうことでございましたもので、何をしていいか、わからないというのが事実でございました。ただ、三井も三菱もやるよ、また、日立もやるよということで。それじゃあ、我々もやるかと・・・我々もバスに乗り遅れるな、というのが正直なところ[◆註:23]。だから何かやらなきゃいかんのじゃないか、というような形でございました」
 
[◆註:23]周りの皆が始めてることだから、同業者がやることだから、自分たちも始めないと、バスに乗り遅れるようなことにでもなったら大変だから・・という、極めて日本ムラ的な発想から、我が国の原子力発電事業が始まった事は、非常に象徴的である。科学的知識も、合理的採算性の見通しも全く無しに、ただその時の、周囲の雰囲気に引きずられる形で、ズルズル物事に着手してしまう・・・我が国社会の弊害の典型例である。原子力三法に基づく、巨額な国家予算という莫大な量の砂糖の猛毒性に関する科学的、客観的知識など、まったく持たず、ただそのうまみだけを求めて、蟻のごとく旧財閥が群がり集まったのである。戦前、戦中、大陸の資源を奪い、国民を塗炭の苦しみへ追い込んだ大東亜戦争を惹き起こした旧財閥が、戦後、再び原発事業に食い付くことで、再び国民を放射線汚染という塗炭の苦しみへと追い込んだのである。解体され瀕死状態だった財閥を回復させ、再生させたのが原発事業だった。
 
[解説]:企業にとって原子力の導入は、大きなビジネスチャンスでした。メーカー、建設会社、銀行、僅か一年で、日本の主要企業が雪崩を打って参入してきました。
 
(画面:「原子力産業新聞」の紙面記事より「日米原子力産業合同 世紀の火をはぐくむ」「原子力産業使節団帰朝記念号」の見出し)
 
【テロップ】:正力松太郎
 
[解説]:こうした財界の動きと密接に関わっていたのが、正力松太郎でした。正力は政界と財界の結束を図るため、ある準備を進めていました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1988年3月18日
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「私が総理官邸にいた記憶だと、私が見たこともない爺さんが、ひょこひょことやって来て、正力さんの部屋に入っていかれて、その後、私が呼ばれたのは確かなんです。つまり、総理官邸に財界人を集めろ!と、言って。まず名簿を作って持って行くと、正力さんが見て、あれはいい、あれも呼ぶと・・。下のほうはどうでもいいんですよ、正力さんは。大物でないといけない。そして次々と口説いて、経団連会長の石川一郎を筆頭に66人を網羅して、4月28日に、工業倶楽部で発会式を行い、正力が代表に選ばれたと・・・いうことだったんだよね」
 
【テロップ】:原子力平和利用懇談会設立 1955年4月
 
[解説]:正力が結成したのは、原子力平和利用懇談会。原子力の早期導入を実現させるための組織でした。懇談会には日本の主要企業が名を連ねました。正力を中心に政財界が一体となり、ついに原子炉導入が決定しました。
 
(画面:正力松太郎、以下の肩書きが続く・・
日本経営者団体連盟代表常任理事・秩父セメント株式会社社長、
経済同友会代表幹事、
共立女子大学名誉校長・慶應義塾大学教授・王子、十条、本州三製紙株式会社相談役、
日本国策銀行総裁、
帝国石油株式会社長・衆議院議員、
東京急行電気株式会社長・武蔵工業大学理事長、
電力中央研究所理事長、
電源開発株式会社総裁・電力経済研究所理事、
電気事業連合会会長・東京電力株式会社長、
株式会社安川電機製作所会長・原子力発電資料調査会長、
東京芝浦電気株式会社長、
・・・・・)
 
(画面:「JRR-1(JapanResearchReactorNo.1)」と大書きされた記念石碑)
 
[解説]:日本初の原子炉が、茨城県東海村にあるJRR1です。JRR1は原子力発電の建設に向け、技術の習得や、人材の育成を目的として、アメリカのメーカーから購入しました。何もかもが未知の技術である原子炉。各企業は、一から原子炉について学ぶため、多くの社員を出向させました。
 
【テロップ】:当時 日立製作所 神原豊三
 
[解説]:日立製作所の神原豊三は、JRR1の建設から運転までの総責任を任されました。
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「原子炉というのを見たことのある人も何人か、ということでしたよね」
 
[当時 日立製作所 神原豊三]:「そうですね。一人もいないんですからね。メーカーから何人か、日立からも、私を入れて3人くらい出向しました。それから三菱さんや、東芝さんからも2~3人ずつ来られて、相当いろいろな人が集まったんですが。何といったって僅かで、原子炉の方をやるといっても人がいないと、とにかく、1号炉、2号炉の(燃料は)濃縮ウランでやると決まって、アメリカから買うことになったわけで。アメリカから買うとしても運転員がいない。建設する人もいない、というあんばいですから」
 
(ニュース画像と音声:東海村JRRー1 竣工記念碑
 
竣工式の映像と音声
 
(映画の画面と音声):昭和32年9月18日  日本原子力研究所
 
「JRRー1。つまり、日本実験原子炉第1号と刻まれた、黒い御影石のプレートも新しく、正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れます」
 
【テロップ】:JRRー1運転開始 1957年8月
 
[解説]:1957年8月、JRRー1は運転を開始します。しかし、運転開始直後から、トラブルが続出。神原達は手探りで対処に当たらなければなりませんでした。
 
[当時 日立製作所 神原豊三]:「コントロール関係は、向こう(アメリカ)から指示があって、こちら(日本側で)テストしていくわけですが、やっていると、リレー[◆註:24](制御のための部品)が、ポンポン、パンクするんです。湿気でね。(原子炉が製造されたアメリカのロサンゼルスでは)乾燥しているから、あれで持つんですかねぇ。これじゃしょうがないなぁ、どうしようか・・って困って、リレーがどうした、と(日本からアメリカ側に)言うと、(そんなやり取りのために)また(作業が)遅れます。
 
[◆註:24]リレーとは、電気信号を受けて機械的な動きに変える電磁石と電気を開閉するスイッチで構成される制御に使う部品のこと。
 
[当時 日立製作所 神原豊三]:「もうこれ以上遅らせるわけにはいかんから、今ならとてもOKしてくれないようなことですが、神田に行ってですね、ジャンク屋[◆註:25]へ行って、電話用のリレーを買ってこいと。あれは40ボルト~50ボルトだけれども、100ボルトは絶対もつと・・日本製のやつはね。それでテストして大丈夫というので、電話用のリレーにどんどん変えていった。
 
[◆註:25]ジャンク品(英語:Junk)とは、製品としての利用価値は無いが、その部品だけを取り出して再利用できそうな物品のこと。ジャンク屋は、「スクラップ屋」「ポンコツ屋」「もぎ取り屋」とも呼ばれる店のこと。
 
[元 通商産業省官僚 島村武久]:「今は規則も多いし・・・ワハハ・・、なあなか(当時のような)あんなことは出来ないと思いますよ」
 
[解説]:神原の下でJRR-1の運転に立ち会った技術者がいました。
 
【テロップ】:元 日本原子力研究所理事 佐藤一男さん
 
[元 日本原子力研究所理事 佐藤一男]:「うん。ここが、かっての制御室です。で、ここが制御机ですね。ちょっと、この辺が(当時とは)変わってしまっているかなぁ・・」
 
[解説]:当時、大学の工学部を卒業したばかりで、JRR-1に飛び込んだ、佐藤一男さんです。
 
[元 日本原子力研究所理事 佐藤一男]:「まぁねぇ・・・まぁ、ようこんな所でようやったねぇ、というような感じはありますよねぇ、正直言って」
 
[解説]:佐藤さんは、運転開始直後、建屋の中に、地下水が溢れ出すトラブルに見舞われたことを覚えています。
 
[元 日本原子力研究所理事 佐藤一男]:「水浸しになりかけたんで、なんとかその水を排水しなきゃいけない・・っていうんでね。なんともはや、しょうがないわけなんですよね。地下ですから。それでどうにもならなくって、消防団にちょっとお願いしてですね、消防団が持っていた、手押しのポンプを借りたんですね。その借りた手押しのポンプをジープで引っ張ってきて、それで建屋に運び込んで、それからホースを垂らして、下げてね、それで、入れ替わり立ち替わり、エッサホイサ・・っていう具合に、その手押しポンプを、必死になってそのポンプをついて、やっと排水に成功したんですね。後で、(東海村の地元の)土地の人に聞いたら、土地の人が『いやぁ、あそこ(JRR-1の建設された場所)はね、地下水の水脈の上に建てられているんだ。そんなのは、(JRR-1の建てられている周囲の風景を)こう見渡して見れば解るように、松の木がいっぱい生えているから、その松の木の背丈を見れば解るじゃないか。この場所は、昔は一面の砂地で、そんな所には木が無いから。しかし、地下水がある所には木が良く育つから・・こう見渡して木の高さを見れば、(これだけ背の高い松の木が良く茂っている場所だから)地下水があるってことぐらは、解る筈だ』って・・・。(地元の人から、それを聞かされて、(自分たちJRR-1の関係者)たちは、えらく腐った・・っていうような、そんな、珍談、奇談の類は、かなり山ほどあったですよねぇ」[◆註:26]
 
[◆註:26]これは佐藤一男氏が笑って語っているような「珍談、奇談の類の話し」では決してない。近代科学技術を駆使した最高度の科学技術を実行する際でも、その技術を導入する地元の古老等の「伝統と風土に根ざした庶民の生活の智慧」に謙虚に耳を傾けようとせず、最先端科学技術の知識に奢り高ぶり、その結果、根本的な技術的誤りや欠陥を見落とし、大事故の誘因を見逃してしまう事例の典型例。こうした「愚かな過ち」の実例は、我が国の近代科学技術発達史に、実に数多く散見される。欧米の最新式の科学技術の導入・模倣にのみ熱心で、その背景にある科学技術思想やそれを生み出した母胎の歴史観、価値観、文化の理解の仕方・・にまで目を向けようとはしない、上辺だけの「近代化」が、如何に根の浅いものかを、よくよく熟考すべきである。大学卒業しての間もない、まだ若い駆け出しだった佐藤一男氏が、「珍談・奇談」と言うのはまだしも、日本原子力研究所理事の重職を勤めた後の、現在の佐藤一男氏にしても、なお、これを「珍談・奇談の類」としか理解できないのには呆れる。所詮、彼もまた「科学屋・技術屋」ではあっても、真の「科学者・技術者」でないことは確かだ。
[解説]:実際に始めてみると、原子炉は想像以上に扱いにくいものである事が解ってきました。そんな現場の混乱をよそに、ビジネス界は活気づきます。
 
【テロップ】:三菱商事
 
[解説]:三菱商事は、次の研究炉の契約を獲得しました。
 
【テロップ】:元 三菱商事 浮田禮彦(のりひこ)
 
[元 三菱商事 浮田禮彦]:「我々としては、当時、非常に光栄に思いましてね。まぁ、とにかく、三菱商事としては、鬼の首でも取ったというと変だけれども、(次の研究炉の契約を三菱商事が獲得したことを)非常に喜んだわけです。これが非常に強い刺激剤になりまして、三菱グループ全体として、CPー5(研究炉)(の契約)を取ったことが、非常なジャンプ台になったわけです」
 
[解説]:三菱グループは、その後も、次々に原子炉を納入。日本有数の原子力関連企業となっていきました。浮田禮彦を傍らで支えてきた、妻の久子さん。夫から毎日、仕事の話を聞かされていました。
 
【テロップ】:浮田久子さん
 
[解説]:久子さんは、そのうち、夫が扱っている商品の特殊性が気になり始めた、と言います。
 
[浮田久子]:「いやぁ、だから、主人が素直に話してくれて、どこそこの会社と、どういう点で違ってて、どういう点で競争している・・とか、いったような、そういう、いろんな裏話をしてくれるわけでございますよね。そういうのを聞いていると、まぁ、放射能とか、原子炉だとか、そんなものを、商売のあれにして怖い・・って、本当にいけない!って思いましたね」
 
[解説]:研究炉での試行錯誤。過熱するビジネス。しかし、安全性をどう確保していくか、主体的に考える存在はまだありませんでした。研究炉の導入を実現させた原子力大臣正力松太郎は、次なる目標として、商業用原子力発電所の建設へ向けて動き出し始めました。
 
【テロップ】:日本原子力発電株式会社設立  1957年11月
 
[解説]:その母胎となったのが、日本原子力発電株式会社。原電です。正力の主導のもと、民間出資8割、国の出資2割で設立されました。原電が検討したのは、イギリス製の原子炉でした。
 
【テロップ】:英コールダーホール原発運転開始 1956年10月
 
[解説]:前の年、世界最大の原子力発電所が運転を開設していました。コールダーホール型原発です。その魅力は発電コストの安さ[◆註:27]でした。
 
[◆註:27]ここでも、NHKの世論誘導の意図的欺瞞報道が仕掛けられていることに注意を促したい。「原発の発電コストは、火力発電や水力発電と比べて安い」という評価計算は、完全に間違いである。福島第一原発事故後、多くの識者によって、原発の発電コスト(1ワット当たりの単価)は、火力発電や水力発電と比べ格段に高額であり、高くつくことが証明、指摘されている。
 コールダーホール型であろうと、コールダーホール型以外の軽水炉型であろうと、原発の発電形式の相違如何を問わず、原子力発電であるかぎり、火力発電や水力発電と比べて最も高コストであることは、子どもにも解る話しだ。にもかかわらず、原発事故後の現在でも、なお原発の発電コストは、火力発電や水力発電と比べて安いという、数ある「原発神話群」の中の一つを、性懲りもなく、未だに垂れ流すNHKの世論誘導、一億国民総洗脳化の野望を、棄てていないことに警戒せねばならない。原子力の場合に限らず、我が国では国家による手厚い財政保護の影響が大きい。国家財政による交付金制度があることが、日本企業の「甘え」や「横暴」、またそうした交付金に「おもねる」たかり体質の自治体活動を産む一因ともなっている。ちなみに、アメリカの公共放送は、自らが大衆からの募金を募って経営されている。
 
[解説]:正力は、コールダーホールと同じ型の原発を日本に輸入すると決定しました。
 
【テロップ】:コールダーホール型原子炉正式購入契約 1959年12月
 
[正力松太郎]:「ご承知の通り、今度英国からコールダーホール型(原子炉)を入れるということ(になりました)。火力の値段に大体匹敵していく(ということです)。原子力はこれから段々安くなるのみ[◆註:28]。火力は安くならん」
 
[◆註:28]原発は火力や水力より、最も高くつくということを科学的にキチンと立証もされていなかった。正力のこの発言のインチキ性を当時の政治家も、財界も、科学者も、マスコミも、当時の国民の圧倒的多数が「盲信」していた(あるいは知っていても故意に黙殺した)に過ぎなかった。以下に語られているように、コールダーホール型原発は日本では火力発電よりも高くつくだけでなく、事故の際の補償や使用済み核燃料の再処理や保管費用などは、全く考慮されないコスト計算であったという点にも、圧倒的多数の日本国民は無知であった。そうしたことは現在も全く同様である。
 
[解説]:しかし官僚たちからはコールダーホール型原発の導入に疑問の声が上がっていました。コストを計算し直してみたところ、コールダーホール型原発は日本では火力発電よりも高くつくことが解ったのです。
 
[元通商産業省 伊原義徳:「イギリスでは、石炭の値段が非常に高かったのですね。石炭だけを燃やす小さな発電所では石炭の値段が高い。それと比べれば採算に合う。しかし、当時の日本ではアメリカから最新鋭の火力発電機を導入していまして、発電所の規模も、イギリスの3倍位の規模の大きさで、非常に能率(燃焼効率)が良かったのですね。従って、日本の火力発電所のコストは、コールダーホール型原発のコストよりかなり安かった。そういうことがあったんですね」
 
[解説]:イギリスでは炭坑が国営化されており、石炭の値段が割高でした。そのため火力発電所の燃料代が日本より高く見積もられていました。これに対し、日本ではアメリカから燃焼効率の高い、最新鋭の火力発電機が導入され、発電コストは大幅に下がっていました。敢えて原発を導入するメリットは無いと、伊原さん達、官僚は考えたのです。
 
テロップ】:プルトニウム
 
[解説]:見積もりの手違いは他にもありました。イギリスでは核燃料が燃えた後に出来るプルトニウムを政府が核兵器の材料として買い上げていました。その売り上げが、(イギリスの場合)電力会社の利益として計上されていたのです。プルトニウムの売り上げが、上乗せされていると知った伊原さんたちは、正力大臣のもとへ説明に向かいました。
 
[元通商産業省 伊原義徳]:「日本はそういうことはあり得ないわけです。プルトニウムを日本政府が買い上げて爆弾を作る、というようなことは、あり得ないわけです」[◆註:29]から、そういう面からも、勘定が合わないわけなんですね、日本の発電原価は」
 
[◆註:29]NHKがこの箇所で伊原氏の口を借りて「日本ではプルトニウムを日本政府が買い上げて爆弾を作るようなことはあり得ない」と言わしめていることに、NHKの露骨な世論誘導の意図が仕掛けられている。十分注意すべき点。確かに現時点では「日本ではプルトニウムを政府が買い上げて爆弾製造することは行われてはいない」が、しかし、「核拡散防止条約(NPT)への参加すると否とにかかわらず核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(潜在力)は常に保持する」との1969年9月25日の、日本外交の重要課題を議論する外務省外交政策企画委員会の、極秘報告書「わが国の外交政策大綱」をまとめ、報告している。この時の外務省内議論には、佐藤栄作首相(当時)の側近であった外相愛知揆一も参加していた。原子力平和利用の背後にちらつく「核オプション」の事実上、歴然と温存されてきている!
 
 「牛場信彦外務事務次官(当時)と考え方は同じ。(条約加入時には)安全保障に関するあらゆる問題を検討しなければならない。核武装の可能性も含め」と、その当時調査課長として議論に加わった評論家岡崎久彦の証言もある。[『京都新聞』2011年(H23年)10月28(金)原発と国家 第5部 抑止力新たな「神話」 (7)核技術堅持の推進論]
 
 原発の存在と日本の核武装は、表裏一体の歴然たる国家政策であるにもかかわらず、こうした伊原の語りを借りる形で、「我が国は核武装国家ではない」を自明の事として国民意識への「刷り込み報道」「洗脳化」報道を垂れ流すNHKを警戒せねばならない。
 
[元通商産業省 伊原義徳]:「それで、正力松太郎大臣に、イギリスでは採算に合うでしょうけれど、日本では採算に乗りません、っていう結果を上げた(報告した)んですよね。そうしたら正力さんが『国会議員には黙っておれ!』って、それで終わりました。
 
[解説]:しかし、その後、より深刻な問題が発生しました。原子炉の耐震設計が全くなされていない事が解ったのです。コールダーホール型の原子炉は、核分裂の速度を抑えるために、黒鉛のブロックを使っています。この黒鉛のブロックは原子炉の中で積み木のように積み上げるだけの構造になっています。もし地震で崩れれば炉心溶融を起こす可能性があると指摘されました。当時東京大学原子核研究所教授だった藤本陽一さん。
 
【テロップ】:元 東京大学原子核研究所教授 藤本陽一さん。藤本さんは参考人として招致された国会で、コールダーホール型の原発は大量の放射能漏れの危険性があると証言しています。
 
[元 東京大学原子核研究所教授 藤本陽一]:「イギリスはあまり地震のない国ですから、グラファイト(黒鉛)のレンガを積み上げただけでいいわけですけれども。日本は、そういうわけにはいかなくって、耐震性をどうするかが(当時)大問題だったように記憶しています。それ(黒鉛を積み上げたコールダーホール型の原発)に、すぐに飛びつく理由は、何も無いんじゃないか、というような事を僕は申し上げたように記憶しています」
 
【テロップ】:原子力委員会
 
[解説]:指摘を受けた国の原子力委員会は、急遽、科学技術庁に安全を検討するように指示します。検討を任された官僚たちは、直ちに研究者たちを集め、安全対策の立案に乗り出しました。しかし、じっくり研究する事より、研究者たちには急いで結論を出すことを求められたといいます。
 
【テロップ】:元 通商産業省 伊原義徳さん
 
[元通商産業省 伊原義徳]:「お役所の偉い方が、箱根の寮で泊まり込んで、皆さんが勉強してた所にやって来られて、つい口を滑らせて、『まぁ、何とか早くやってくれませんか』っていうふうな、そん言い方をしたもんだから、先生方が大変、激高されましてね。『俺たちは、こんなに真面目にやっているのに、ただ格好をつければ良い、って言うような、そういうような発言では、我々はもう仕事は出来ない』というようなことでしてね。大変お叱りを受けた記憶があります」
 
[NHKの約束記者(の質問)]:「正力さんご自身の口から、そういうような、安全が第一、というようなことをおっしゃられたことがありましたか?」
 
[元通商産業省 伊原義徳]:「いや、それはありません。安全第一ではなくって、進めや進めでしたね」
 
【テロップ】:元 通商産業省 島村武久
 
[元 通商産業省 島村武久]:「コールダーホール型を入れる(導入する)ってなったから、そっちへワーッと行っちゃったでしょう。後のことを考えないうちに、みんな既成事実でできあがっちゃったわけですな。へへへ・・[◆註:30]」
 
[◆註:30]科学的検証をキチンとせず、その時の雰囲気に組織全体がズルズルと引きずられていき、結果的に国民全体に甚大な被害を生む結果になる・・という我が国のこうした体質、国民的精神風土は、大東亜戦争の陸海軍省参謀将校らの戦争遂行計画時と、全く変わっていない事に注目すべき。
 
[元 通商産業省 島村武久]:「あの、どさくさの間に、すべて決まっちゃったんですね。決めたというのではなく、決まっちゃった、という気がするんですがね」
 
【テロップ】:元 住友原子力工業 佐々木元増
 
[元 住友原子力工業 佐々木元増]:「しょうがないんじゃないですかね。現実、振り返ってみるとね。(笑い声)[◆註:31]」
 
[◆註:31]最先端の科学技術を駆使する我が国の産業界を代表する住友工業の言葉が、『しょうがない』の一言。しかも笑いながら・・である!責任をとろうという気など、サラサラ無いこと、科学技術者としての謙虚さも、誠実さも今現在でも、全く無いことが、この一言に露呈している。
 
【テロップ】:コールダーホール改良型原発運転開始 1966年7月
 
[解説]:コールダーホール型原発は3年がかりで耐震対策を施し、ようやく運転開始に漕ぎ着けました。それが東海発電所です。
 
【テロップ】:東海発電所
 
(画面:コールダーホール型原発の運転開始を万歳で喜ぶ関係者の画像と音声)
 
[解説]:国内初の商業用原子炉は、送電開始早々、原子炉の緊急停止に見舞われました。その後も、様々なトラブルが相次ぎ、毎年修繕や修理に1億円から6億円もの巨額な費用が必要とされました。東海発電所の総責任者だった原電の社長[一本松たまき]は、手記にこう記しています。
 
【テロップ】:当時 日本原子力発電社長 一本たまき
 
[当時 日本原子力発電社長 一本松珠き]:「日本では原子力の経験が無く、原子力発電も火力のボイラーが原子炉に代わったくらいと考えた。しかし、この両者は多くの異質の要素を持っていることが漸次明らかになった。考えてみると、これだけ複雑な新技術、未知の工学分野に挑んで、しかも利潤を上げるというのは無理であろう」
 
[解説]:東海発電所は、建設費と修繕費の増加から、発電コストが、当初の見込みを大幅に上回ってしまいました。この経験からその後の導入計画ではコストが、より厳しく問われることになります。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1994年 夏
 
[解説]:1994年夏に開かれた島村研究会。話し手に招かれたのは、民間電力会社の元副社長でした。
 
【テロップ】:元 通商産業省 島村武久
 
[元 通商産業省 島村武久]:「私なりに見ていますとね、豊田さんに一貫してずっと以前から流れている考え方で、他の方にあまり見受けられないのは、”経済性”ということなんですね。
 
【テロップ】:元 東京電力副社長 豊田正敏
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「私もね、原子力発電所のコストを安くしないと、やっぱり、あの・・・他の電源(会社)に対して太刀打ちできるようにしないといけない」
 
[元 通商産業省 島村武久]:「豊田さんは、そういうお考えで、一貫して、その経済性を頭の隅に置いておられまして、それに基づいて・・」
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「隅じゃないですよ。真ん中ですよ」
 
[元 通商産業省 島村武久]:「えへへっ・・ワッハッハ・・」
 
[解説]:島村研究会に参加した元東京電力副社長豊田正敏さんです。豊田さんは東海発電所に出向し、設計から発電まで携わっていました。会社からは原発導入に備え、経験を積んでおくようにと命じられていました。
 
【テロップ】:元 東京電力副社長 豊田正敏]
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「日本のメーカーなんか、その当時は、全然頼りにならなかったんだ。随分、だから、勉強材料にもなったんですよ」
 
【テロップ】:東京電力
 
[解説]:1960年代始め、東京電力は、自社で原発を保有する計画を立てていました。しかし、東海発電所の実態を目の当たりにし、建設には踏み出していませんでした。一方、国は原発を大幅に増やす事を目指していました。
 
(画面:「原子力研究開発利用長期計画」、科学技術庁図書館「原子力開発利用長期計画」の表題の政府の書類)
 
[解説]:1961年に発表した長期計画。今後20年間で新たに増やす発電量の内10%を原発で賄うよう定めています。
 
【テロップ】:1961年「原子力長期計画」 今後20年間で増やす発電量の内10%を原発で賄う
 
[解説]:当時、高度経済成長期を迎えていた日本では、毎年10%の勢いで電力需要が増え続けていました。こうした中、国は原発を本格的に普及させることにしたのです。原発導入に積極的な日本政府と、慎重な電力会社の[◆註:32]、両者にギャップが存在する中、アメリカで新たな形式の原発が開発されます。
 
[◆註:32]ここでもNHKの原発を推進してきた電力会社を擁護し、当初は電力会社は原発導入には慎重であった事を強調報道することで、原発推進してきた責任を少しでも減らすことで、その責任を少なくさせようとの、露骨な援護射撃報道姿勢が見られる。原発会社が、当初、原発着手にためらったのは、上記の元東京電力副社長豊田正敏や、元通商産業省島村武久の証言からも明瞭に確認できるように、発電コストの高さ故であって、決して、原発の安全性への危惧故のためらいではなかった!コストさえ安ければ、銭勘定さえOKであって旨味が確かであれば、安全性に致命的欠陥が有ると解ってもどんどん開発、導入、運転を行っていった、その後の各電力会社の歴史が、如実に物語っているではないか!
 
【テロップ】:アメリカ 高出力の「軽水炉」型原発運転開始 1960年7月
 
[解説]:軽水炉型原発です。出力が大きく建設費も低額のため、日本の電力会社も注目しました。
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「勿論、コールダーホールが、最終的に日本の電力会社が採用するものだとは、その当時は思ってもいなかったです」
 
[NHK記者の質問]:「思ってもいなかったのですか?」
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「うん。いずれ、軽水炉の時代が来るだろうと」
 
[解説]:日本の電力会社はアメリカの軽水炉メーカーが主催する現地ツアーに、こぞって社員を派遣しました。ツアーに参加した関西電力の板倉哲朗さんはアメリカのメーカーの歓迎ぶりを覚えています。
 
【テロップ】:当時 関西電力 板倉哲朗さん
 
[当時 関西電力 板倉哲朗]:「僕くらのことを、(アメリカ側は)『お前達は、ポテンシャル・カスタマー(potentialcustomer)、潜在的顧客になり得る人だ』と・・いうことで、(我々訪問した日本団に)一生懸命、サービスしたんですよね。そういうことでね、(日本各地の)各電力会社から十何人、東京電力から3名とか、関西電力からは2名とか、東北電力からは、当時まだ若かった八島(俊章)さん、後に東北電力の社長にも会長にもなった人ですよね。そういう人たちが、サンフランシスコに集まって、各電力会社の首脳が、できたら早く原子力発電をやりたいという、そういう雰囲気に、もうなったんだよね」
 
[解説]:日本の電力会社を最も引きつけたのは、この時、アメリカのメーカー側が提示してきた契約方法、『ターン・キー契約方法』でした。
 
【テロップ】:ターン・キー契約
 
[解説]:ターン・キー契約とは、建設から試運転成功まで、全責任をメーカーが一括して引き受けてくれるという契約です。電力会社は、すべてを原発メーカーに任せ、受け取ったキーをひねって運転を始めるだけで良いというわけです。
 
【テロップ】:東電 GE社とターン・キー契約締結 1966年12月
 
[解説]:東京電力は福島に計画した初の計画を、アメリカのゼネラル・エレクトリク社、GE社から、ターン・キー契約で購入することにしました。建設に当たりGEと打ち合わせをする東京電力の社員。そこに豊田正俊さんも参加していました。
 
【テロップ】:元 東京電力副社長 豊田正敏さん
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「経済性だと。決め手は経済性だということだったんですよね。当時(アメリカのGE社は、日本以外にも)スペインからも発注を受けていたんですよね。(スペイン向けの)それ(原子炉)と同じものに(して日本もGE社から買う)すれば、設計も政策図面も使えるから、安くなりますよ・・ということで、かなり安くなったんですよね。それでねぇ、40万キロで400億円って言うんだから、結構安かったです」
 
[NHK記者の質問]:「安いということが、ひとつの決め手になった、ということだったんですね?」
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「ええ、安いだけが、経済性だけが決め手だったんです[◆註:33]。それでGE社に決まったんです」
 
[◆註:33]この時、安全性を全く考慮することなく経済性のみを導入の判断基準としたとが、3・11福島第一原発事故の誘因となるとは、当時誰一人思ってもいなかった!電力会社も、政府も、学者も、安全性を最優先に判断すべきの声が起きなかった。我が国の原子力産業の野放図な動きは、原発出発の時点から、すでに始まっていたことが解る。
 
(原発宣伝映画の画面と音声):「黎明」の文字(大写し) 福島原子力発電所 建設記録 調査篇
 
「この太平洋を眼下に望む台地上に、新しいエネルギー源による、福島第一原子力発電所が建設されようとしている」
 
【テロップ】:福島第一原発 建設開始 1967年1月
 
[解説]:1967年1月、東京電力は福島第一原発の建設を開始します。
 
【テロップ】:マークI型原子炉
 
[解説]:原子炉はGE社が初の量産型軽水炉として開発した、マークI型原子炉でした。外側を覆う格納容器が小型な為[◆註:34]、建設費が安いというのが、セールスポイントでした。
 
[◆註:34]この格納容器が小型であったことが、3・11福島第一原発事故の致命傷になった。格納容器の容積が大きいほど、トラブルが発生し圧力容器内の高温水蒸気や気体が格納容器内へ漏れ出る事故が起こった場合でも、それだけ耐圧度が増すからである。むろん格納容器がより大型の場合でも、自ずから設計限界はあるが、少なくともより小さな格納容器より、より大型の格納容器のほうが、緊急時に格納容器に加わる負荷が、より少なくなる。そこことは、福島第1原発1号機~5号機で使われている「Mark I」原子炉の設計者で元GE(ゼネラル・エレクトリック)社員だったデール・ブライデンボー(Dale Bridenbaugh)氏及び、同原発の基本設計士であり、同原発6号機工事現場監理者でもあった菊地洋一氏の証言(『週間現代』4月16日号)などからも明らか。
 
[解説]:コストの安い軽水炉の登場が、電力会社が原発建設に踏み出す、きっかけになりました。しかし、この時、政府内部では、方針転換が図られていました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1994年 夏
 
[解説]:その事が、研究会で語られています。
 
【テロップ】:元 通商産業省 谷口富裕
 
[元 通商産業省 谷口富裕]:「軽水炉に関しては、国があまりお金を出していないですよね」
 
[元 電力会社重役]:「軽水炉に金を出してないっていうのは、昭和42年ですね。あの時に、まぁ、これは今言うとまずいことになるかもしれませんが・・・(周囲からアハハの笑い声)・・・軽水炉は確立された技術で、売り込みも来てるんだから、そっちの方(軽水炉)へお金を出さなくてもいいだろう、という説が、ある有力な筋から来て[◆註:35]、それで、そちら(軽水炉へ出す金)は切って、という経緯があるんですよ。時が経つと、皆忘れちゃってるんだけど、基本はそこにあったんで・・」
 
[◆註:35]発言者も不明で、こうした発言の発信源も「ある有力な筋から」と、責任の所在を曖昧にし庇い合う、無責任体制が、3・11事故後の現在でも、臆面もなく、笑いながら語られるのが、我が国の国策としての原子力産業の実態である。3・11の事故の責任は、今後も一切誰一人問われることなく、全て有耶無耶、闇の中へ閉ざされていくであろう!日本社会の底知れない闇を見せつけられる。
 
[解説]:この時、国は将来原発が増えていくことを見通し、原発から出る使用済み核燃料の処理について、具体的な方策を考え始めていました。使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを燃料とする高速増殖炉や、重水炉。
 
【テロップ】:高速増殖炉 重水炉
 
[解説]:国はこうした新たな形式の原子炉の開発に着手することにしました。
 
【テロップ】:核燃料サイクル計画
 
[解説]:この核燃料サイクルに原子力予算を重点的に配分することにしたのです。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1994年 夏
 
[元 電力会社重役]:「次は再処理の問題だというので、再処理の方へ、お金がずっと流れ始めたような記憶があるんですよね」
 
[元 通商産業省 谷口富裕]:「あれの非常におかしな話で、国が出しているお金ってのは、ほとんど高速炉とか、重水炉の関係に・・そっちの方がネタとしては大きいんでしょうね。その他の新型炉や(核燃料)サイクルにいっている分が、むしろ2千億円とか、一桁違いますよ」
 
[元 通商産業省 島村武久]:「基本的な方針が無いから、何に使っていいか、わからんという問題があるんじゃないか」
 
[発言者不明]:「だから、無駄な金を二重、三重に使ったような感じがしないでもない」
 
[元 通商産業省 谷口富裕]:「原子力の場合は、最初から電力と政府の綱引きと、それから政府部内の科学技術庁と通産省との綱引きと・・・その中で、非常にゆがんでいる気がしますよね」
 
[解説]:政府の方針転換によって、電力会社は軽水炉の建設に当たり、国に資金面での援助を望めなくなっていたのです[◆註:36]。
 
[◆註:36]このNHKの報道解説も非常に問題。元来私企業が始めた原発事業である以上、国からの資金援助が有ろうと無かろうと、安全対策を万全に施した建設をする責任も義務も電力会社にはあるのが当たり前。NHKのこうした解説報道は、国が資金を出し渋ったが故に、安全面で東京電力側が十分な配慮が出来なかったのは、資金不足故である・・と解説することで、東京電力側の責任を回避(または軽減)させようとの露骨な世論誘導を意図した報道姿勢。政府国側の責任も免れないが、事業主体である東京電力の責任は、国からの資金援助の有無如何によらず、決して免れたり薄められるべき筋合いでないことは明らか。
 
【映画の解説音声】:「高さ約30メートルの断崖が切り立つ茫洋たる台地。その台地を削り取るブルドーザーの作業中の映像」
 
[解説]:福島第一原発の建設に当たり、真っ先に始められたのが、海抜30メートルの台地を10メートルまで掘り下げることでした。理由のひとつが、この深さにある岩盤に炉を設置し、耐震性を高めることでした。実はもうひとつの理由がありました。GEの設計したポンプでは、35メートルの高さまで冷却水を汲み上げる事は、不可能でした。ターン・キー契約は、一括契約の為、ポンプの変更などの、追加要求は受け付けてもらえません。その為、東電はGE社の企画通りに建設できるように、海面近くまで台地を削り取ったのです[◆註:37]。
 
[◆註:37]ここでもNHKの国民を欺き東電、政府原発推進側の一方的な事故原因津波説を、こうした解説報道を垂れ流すことで、世論誘導を意図していることが見え透いている。予算不足で、海面近くまで台地を削り取ったことで、福島第一原発の位置が海面すれすれの低い位置に建設を余儀なくされたことで、3・11の津波被害を受け、それが事故の原因となった、との津波原因説を国民への「刷り込み」「洗脳」「情報操作」の意図が露骨に示されている箇所。
 
【テロップ】:元 東京電力副社長 豊田正敏
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「追加の要求を、こちら(日本側)が出したらねぇ、それこそ、ひどい、高い追加費用を(GE側は日本に)要求してきますよ」
 
[NHK記者]:「あぁ・・そうなんですかぁ・・」
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「うん。向こう(GE側)に任せているから、それでやってくれてるであって、こちら(日本の方)が「これをこう変えろ!」っていうようなことをやったら、「(支払い代金を)追加しろ!」っていうことで、途端に高いものになっちゃうんだよね」
 
[解説]:「ターン・キー契約の盲点は、他にもありました。GEの設計では、非常用電源となるジーゼル発電機は、海側のタービン建屋の地下に設置されることになっていました。この設計もターン・キー契約であったことから、見直しが行われる事なく、企画通り建設が行われたのです」
 
【テロップ】:福島第一原発 営業運転開始 1971年3月
 
[解説]:「1971年3月、福島第一原発 は営業運転を開始しました」
 
[映画の音声と解説]:「ついに臨海に達した原子炉。ここに第三の火といわれる原子の火が灯り、新しいエネルギーの黎明を迎えたのです」
 
[解説]:経済性を重視し、ターン・キー契約で建設された福島第一原発。その後、非常用電源の位置は、変更されることのないまま、(3・11の)事故の日まで運転を続けてきました[◆註:38]。
 
[◆註:38]この非常用電源の設置場所云々・・も、[◆註:47]で指摘した同様、NHKの「津波原因」誘導の「情報操作」「意図的洗脳報道」!ジーゼル発電機の地下設置は安全を全く考慮していなかったことの証しである。当初の海抜35メートルの高台に原子炉や建屋を建てても、35メートルの高さがあってもポンプでの揚水は不可能ではなかった、と現場の技術者も証言している。35メートルの高さへの設計変更すれば揚水が出来ないというのは言い逃れ。また、設計変更すれば余分な金がかかったから、というのも言い逃れ。ブースターを付ける等、大した金をかけなくてもやれた方法もあったであろう。安全第一を貫くなら金の問題は二の次であった筈。所詮は、ソロバン勘定優先、安全は後回しであったことは明らか。
 
[元 東京電力副社長 豊田正敏]:「やっぱり、アメリカGEから(原発を)入れた時は、ターン・キー(契約)であったこともあってね、少し任せっぱなしにした点もありましてね。それが、ジーゼルがタービン建屋にあった事にも気が付かなかったと・・・・。私も気が付かなかったのも、なんかおかしいんだけどもねぇ・・・私だけでなくって、誰も気が付かなかったっていうのも、本当かなぁ、って思うんだけれども・・ともかく」[◆註:39]
 
[◆註:39]この発言も極めて重要。東京電力の最高責任者も含め、誰も気が付かなかったとすれば、東電が全くの無能集団だということ。またもし誰かがその危険性に気付いていたとしても、コストやその他の社内事情を理由に、対策を怠り放置し続けたとしても、やはり東電の無責任さ、安全対策への感覚麻痺を証明する以外の何者でもない。いづれにせよ、この程度のお粗末極まるのが、近代科学技術の総力を尽くした原発が、いかにお粗末極まる実態であるかは明らかになった。
 
[解説]:日本への原子力発電の早期導入を国策として進めた国と財界。基礎から研究すべきだとの主張をしりぞけられた科学者[◆註:40]。
 
[◆註:40]基礎から研究すべきだとの主張を政府や財界からしりぞけられた科学者たちの責任も非常に重い。退けられた後でも、科学者の立場から、一人の人間の良心に従って原子炉の危険性を、自らの職を賭けてでも、国民に広く訴え、周知徹底させる責務が科学者にもあった。湯川秀樹、茅誠司、伏見康治、武谷三男など・・日本の原子核物理学者たちも、また、自らの学問研究、真理探究を最優先させることで、核の危険性、その安全管理の警鐘を強調すること、安全性の点検確認の強調に怠慢であったことは、明らか。
 
[解説]:「経済性を優先せざるを得なかった電力会社。それぞれの思惑の中で、一人置き去りにされたのが安全性でした。島村たちは日本の原子力政策の欠陥について語り合っていました。
 
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1991年 夏
 
【テロップ】:元 通商産業省 島村武久
 
[元 通商産業省 島村武久]:「大きな方向というものが無い。どこにも。電力会社は将来をどう思っているのか。その辺もはっきりしないし、メーカーさんも言われれば作るというだけでね。何とかいいものを作るということに間違いはないんだけれど。こういう風にして、こういう方向に進むべき、という意見は、日本のメーカーから出てこない。政府もまた原子力委員会が基本計画を立てることになっているけれど、従来決まっている中に、情勢の変化を少し加味する位の程度でね。抜本的なことを考える事態にない・・・っていう、そういう状況じゃないですか?」
 
【テロップ】:元 日本原子力研究書研究員
 
[元 日本原子力研究書研究員]:「輸入技術だから、日本のメーカーは基本を知らないのじゃないか?だから、日本のメーカーも自信がない。昭和40年代はそうだった。基本をがっちり固めて軽水炉ができたのではなくて、それまでにそんなに大したことをやっているとは思えないですよ。それで出来た技術で、そのままになっている部分が結構あって、そうじゃない部分について、最初(の段階で)設計して、これでうまくいっているから・・っていうことで、基本が解明されていない部分が、残っているんじゃないですかね。ただ問題は、そういうことを言い出すと・・『今更そんな事が解って無くて何してる!』と、叱られるのが非常に怖いから、誰も言い出さない、というのが残っているんじゃないですか?」[◆註:41]
 
[◆註:41]「叱られるのが非常に怖いから、誰も言い出さないで来た」のが事実の一端を示しているとするなら、こうした「原子力ムラ」を構成している国・政府・官僚・東京電力を頂点とする業界・メーカー・学者・杜撰な原発建設工事に安全のお墨付きを与えてきた(それも自らの判断でなく原発推進派の御用学者の意見だけを一方的に横流しするだけの)無責任な司法当局からなる「ムラ人同士の傷の舐め合い」「なぁなぁ!」「まぁまぁ!」が、こうした「原子力ムラ」の総無責任体制が、3・11の悲劇を生んだ。
 

取材協力
原子力政策研究会
原子力安全研究協会
日本原子力産業協会
原子力資料情報室
東京電力
日本原子力研究開発機構
広島平和記念資料館
川本俊雄
日映科学映画製作所
読売新聞
共同通信社
毎日新聞社
朝日新聞社
アメリカ国立公文書館
京都大学基礎物理学研究所
日本学術会議図書館
語り;広瀬修子
撮影:入江領
音声:鈴木彰浩
映像技術:小林八万
音響効果:細見浩三
編集:須山秀司
リサーチャー:高柳陶子
取材:森下光泰
ディレクター:松丸慶太
政策統括:増田秀樹
 
NHK オンデマンドで配信
 

—-以上(前編)「文字起し」オワリ—-