テント日誌6月25日…函館から上京した方が/6・19東京高裁控訴審傍聴記

経産省テントひろば1381日商業用原発停止647日

函館から上京した方が寄ってくださった

今日は色々な方が寄って下さった。
神奈川足柄から来てくれた方、何となく習慣で自民党に投票したけれどとんでもないことになっている。
声を上げなくてはと時々官邸前などに来ているそうです。
函館から親戚の結婚式で上京し、一度テントに来なくてはと寄って下さった女性。大間原発反対の函館ウォークなどに参加されていると言う。
丁度大間原発反対の会のTさんが居合わせて情報の交換などしていた。
珍しく(?)若い女性が来てくれた。Anti nuke 281さんデザインのバッチを買いたいとのこと。

バッチのことはネットで知ったのだそうだ。
Tシャツは見本だけ見てバッチを買い、テントの写真をゲーム機で撮って帰った。
彼女がぽっつり「今何事もなかったようですね」とつぶやいていたのが印象的で
した。反対運動の場以外は本当にそう見えます。
彼女はあまり政治のこと勉強していなくて…
と言っていたけれど、これから関心もって呉れればいいと思う。
そしてテントにまた来てくれることを願う。

2時過ぎ東電株主総会から帰って来たTさんに寄れば再稼働反対の提案はすべて否決されたそうだ。
総会に出席しない金融業界などの委任状が力を発揮しているのですね。
がっかりです。これから反対運動の力が大切ですね。
6時からの関電前行動に参加して家路に着く。(I・K)

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テント裁判・東京高裁控訴審第一回公判を傍聴して

第一回公判は証人尋問と聞いたときには、問いただされるようなイメージを抱きましたが、検察側の質問は90分のうちそれぞれ最後の10分ほどで、亀屋幸子さんは河合弁護士との、黒田節子さんは大口弁護士との穏やかな質疑応答でした。いつもと変わらず落ち着いた声で、はっきりと話す二人。その口から、安住の地を奪われ転々とせざるを得なかった過酷な状況や、放射能について知らされないことへの恐怖、孤独感、そして心のよりどころとなったテントとの出会いが語られていく間、私は裁判長の顔をじっと見ていました。でも感情を見せない訓練を積んでいるのでしょう、その心の動きを読み取ることはできませんでした。

2人は最後に、もうこんな状況を生み出してはならない、原発の再稼働は絶対にやめてほしい、 再稼働しないことが明らかになれば私たちはテントを撤去する、と切々と訴えました。原発震災の被災者、しかも女性2人を尋問することで、方程式を解くように 裁判所が、テントを「占有」しているのは決して二人の男性ではないことを理解してくれればよいのにと思いました。結論を導くための複雑な道程、隔靴掻痒の感もある、でもこれが法廷闘争というものでしょう。ここで、裁判長を、裁判官の心を、動かさないことには勝てないわけです!

短い時間でしたが、立場の違う人間に話を分かってもらう、相手の心に届く言葉で話す、という事の大変さを改めて感じました。私は心の中で公判前のミニ集会でのテーマを反芻していました。 都合の悪いこと、忘れたいことをなかったことにしてはならない、なかったことにさせてはならない。しっかりと現実に向き合っていこう。

その言葉を、司法の場になんとか届けられるといい…裁判官は世論の動きに敏感ともききました。諦めずにいいつづけるほかありません。

また裁判の応援に行きたいと思います。(阿部めぐみ)

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裁かれているのは日本国の司法である。

6・19東京高裁控訴審傍聴記

6月19日、東京高裁第24民事部の「土地明渡請求、参加申出控訴事件 平成27年 第1309号」が102号法廷にておこなわれた。これすなわち、テント裁判控訴審第1回口頭弁論である。私は幸運にも傍聴券を入手することができた。テント側の主張はブログ読者には周知のことでもあり、証人尋問の推移は、詳しいリポートに委ねるとして、ここでは、現場に立ち会った一傍聴者の目線で感想を述べさせていただきたい。

第1回公判に先だって、16日に、7月21日、9月18日の公判日程が通知されていた。第1回即結審ではなく、審議をする態度を示した高裁側の姿勢に少し希望をもって入廷した。もちろん、最悪の事態は避けられたに過ぎないのではあるが。第24民事部は、高橋伸裁判長以下、渡邉和義、前沢達朗、国分隆文の三名の裁判官。通常は717法廷だが、この裁判は大きな102号法廷で午後はこの法廷にあててある。また、19日の傍聴券配布はテント裁判のみである。

裁判官の真正面、傍聴席から向かって左にテント側(控訴人)、右に国側(被控訴人)が居並んでいる。私は裁判官と国側の人員の様子を観察したかったので、中央通路際の後から2列目の席についた。

公判では、テント側代理人による亀屋幸子さん黒田節子さんの証人尋問が、途中、裁判官や被控訴人側代理人によって遮られることなく、時間をかけておこなわれた。それぞれ約90分かけて、亀屋さん、黒田さんが被災者の代表として、気力を振り絞って、心の底から、文字通り渾身で訴える後ろ姿を、私たち傍聴者は固唾を呑んで見つめ、時の経つのを忘れていた。お二人の証言をとおして、私は「経産省前テント広場」の設営の原因と正当性をあらためて認識し、臍が据わる思いであった。

亀屋さん(主尋問は控訴人側の河合弁護士)は、被災したその時からテントに関わるまでの経緯を克明に語られた。原発事故はその人のモノとコトのすべてを破壊したのみならず、もう二度と回復できない、文字通りの喪失に突き落としている。真っ正直「せいいっぱい」に訴える亀屋さんは、「苦しみ」そのものであるとともに、その苦しみを引き受け、さらに前向きに生きようとする人間の尊厳を体現している。亀屋さんは「ちゃんと責任をとってくださいよ!」と訴える。全てを失ってなお、被災者が生きてゆくために、責任の追求は必要不可欠の手続きだ。原発を廃止しなければ未来はない。同じ間違いを犯すことは、われわれ全ての終末に他ならない。

黒田さんへの尋問(大口弁護士)では、「原発は要らない・フクシマの女たちの会」の発足から第二テント設営の経緯が説明され、それが“女たち”であったことの必然性が了解された。裁判上のカンどころとしては、「原発は要らない・フクシマの女たちの会」は第二テントの基軸であり、かつ、テント広場に集う自発的グループの“一つ”であって、すべてではないことが示された。第一テントも第二テントも、脱原発を目ざす諸グループ、個々人それぞれが、自発性に基づきながら緩やかに寄り合うことで、「テント広場」としての運営が保たれている。自発的に集っている「場」であって、「組織」ではないのだ。

黒田さん曰わく「原発は男社会の一里塚」。「福島の女たち」を、テントに集う女の一人一人を突き動かしている「何かしなくては」という想いは、男社会に対する怒りの発露でもある。しかるに、国側はテントの女たちを等閑視している。「男リーダーに指揮されて立ち働いている女」、哀れで無力な被害女性たち、という女性蔑視の構図にあてはめて平然としている。311ははからずも、「女おしだし」(黒田さんの証言)を促した。今は日本の女性史の画期である。控訴審は女たちの発言を以て開幕した。控訴審は国側および地裁判決による女性蔑視を弾劾でもあるのだ。

そして黒田さんは、「フクシマの現実、悲惨を直視することなくしては何も始まらない!」と力説された。これこそ福島の“女たち”が、第二テントの“女たち”が、そしてテント広場の人々が抱く共通認識であろう。冷静沈着で理路整然と語る黒田さんの言葉は、身体に愼怒と悲しみのマグマを圧して析出されている。そう感じた。電気を断たれた避難所のトイレの有様を述べかけて、黒田さんの言葉がつまった。法廷全体の音が消えた。いきなり真空と化したようなあの光景を、私は忘れないだろう。

さて、被控訴人席には12人いるように見えた。モノモノしいのは頭数だけで、いかにも軽輩の集まりという感じである。控訴審を迎え撃つ国側代理人というよりは、就職セミナーのディベート研修に集うインストラクターと受講生という方が似合っている。経産省やら文科省やら環境省やらの記者会見や市民との面談に応対役=はぐらかし役で使われている役人もこんな感じだ。まずこの陣容に、控訴審に対する国側の了見が透けて見える。

亀屋さん黒田さんの証言は、誰もが真剣に聞かずにはいられないはずだが、控訴側のペースに呑まれてはならじというわけで、何かシッポを掴めないかと、表面は事も無げに、言葉尻に神経を尖らせて聞き耳をたてているのは直接の担当者。その他大勢は厳めしさの演出要員、と見えた。彼らはズラっと2列に居並んで座り、前列奥から二人目のいかにもリラックスした様子の男がチームリーダーっぽい。はたして、亀屋さんに反対尋問したのはこの男(川村某)であった。手前から二番目は神経質そうに書類のチェックに没頭している。彼は黒田さんの時に、リラックス男と席替えして、反対尋問した(山田某)。後列には大きめの男が大きな顔を突き出して、終始身じろぎもせずジーっと控訴人側を見つめている。異様な感じが注意を引く。目ヂカラで圧力を送っているつもりだろうか。後列の女は亀屋さんの時はずっと下を向いていて、頭しか見えなかったが、黒田さんの時は顔をあげて聞いていた。なんだか薄笑いを浮かべているように見える。国側の余裕を演じているのか?大方は、争点に関係無いが聞いています、というふうで、中には真面目に聞いているように見える人もいた。

小人といえども勉強のできるお利口な人たちのはずだが、反対尋問はお粗末だった。証人から淵上・正清が仕切る組織だとこじつけられる言質をとる、その一点張りの尋問だ。「相談する」「頼りに思う」という言葉を引き出し、それを「指揮に従う」という意味に誘い込もうと、無能無策に四苦八苦する様子は滑稽であった。健全なコミュニテイならば、長老を尊重し、その経験を頼りするものだ。落語も知らんのか?傍聴席では、亀屋さんへの反対尋問に対しては、その姑息さに侮蔑の声を発した人が裁判長に窘められた。黒田さんへの反対尋問に対しては、そのあまりのアホらしさに失笑が沸いた。

 一方、裁判長は誠意をもって証人に対峙しているように感じた。向かって右側の裁判官もまっすぐ向き合っているように見えた。左側の裁判官はたえず左手で顎をさすり、首をかしげたりしながら聞いていた。注意深げ、ではある。この渡邉和義裁判官が亀屋さんに尋問した。渡邉裁判官は、亀屋さんに親類縁者の動向を細々と尋問し、親類縁者のうち福島県内で避難生活を送っている人々も少なくない事を確認した。思うに、渡邉裁判官の質問は、亀屋さんをレア・ケースとし、テント設営の必然性を減却する意図があるのではないか。亀屋さんは双葉で築きあげてきた人と人との繋がりこそ、最も大きな喪失だと訴えている。となると、福島に戻れば親類縁者と繋がれて、テントに頼らずともよいではないか?というふうにもってゆく糸口にはなるだろう。もちろんフクシマの現実を無視しての話だが、渡邉裁判長の質問はなかなかにクセモノだ。油断大敵である。渡邉裁判官の亀屋さんに対する口ぶりは、まるで大人が幼児に質問しているようであった。普段からこういうしゃべり方の人なのだろうか?だとしても公式の場に相応しくない。証人に対して無礼である。ものすごく気色悪かった事を、付け加えておく。

控訴審が実現し、即日結審ではなく三回の開廷が決まった時点で、テント裁判は姑息な<スラップ訴訟>の次元を超え出たと思う。第一回の公判は、国側が拒否してきた「テント設営の原因と正当化する事情」と、国側が特定しようとする男リーダー二人ではなく、第二テントに集う“女たち”の証人尋問を取り上げられた。ここにすでに、高裁の地裁とは異なるスタンスを見てとるのは甘いだろうか? 地裁判決直前に提出された内藤光博氏の意見書は、経産省前テントの設営は、憲法の保障する「表現の自由」であると主張している。国側の意図するありきたりの不動産や物品の帰属や使用料といった民事裁判の次元(借金、不渡り、破産といった揉め事)でありえないばかりか、事は憲政にかかわる大問題なのである。しかるに、国側は地裁の時とまったく同じ論法で押し切れると思っているのか?あるいはもしや敗訴と観念したのか?まさかそうではあるまいが。

内田氏の控訴審での証言は見送られてしまったが、裁判所側が「意見書等の書証で見解を明らかとすれば足りる」としたということは、理解したということになる。それは希望的観測としても、問題の存在は知っているわけで、避けて通るにもせよ、すでに裁判官は鼎の軽重を問われている。

争点を低次元に貶め、小役人に担当させて、裁判所=司法を道具(おもちゃ)に使う国=行政に対し、東京高裁裁判所はどのように応じるか?試されているのは裁判官である。髙野伸裁判長に申し上げたい。あなたに割り当てられたこの法廷を姑息にするも高邁にするも、あなた自身の采配にかかっている。あなたの判決を毎度毎度のケチな判例にするも、憲政史上に残る指針にするも、あなたの見識如何である。真に裁かれているのは、司法なのだ。

最後に、印象的だった速記者について付記したい。速記は女性二人が、前・中・後3交替であたっていた。前・後を担当した速記者(女性)は私にはとても印象的だった。集中して聞き取るのが仕事とはいえ、それ以上の真剣さと、共感がにじみ出ているように見えた。証人尋問は、その重みを受けとめた人によってしっかり記録されただろう。裁判記録を通じて、テント広場の事跡は消せない歴史となる。国側のいいがかり<スラップ訴訟>を受けての、前途多難な裁判だが、今後いかなる判決が出ようともこの裁判は意義がある。 (森瑞枝)