無政府状態は非対称性ではなく、価値形態の第一形態・第二形態・第三形態は相互に「非対称的対称」である

ブルマンさん、今日のご返事、ありがとう。でも「ブルマンさん」とは、どなたのことでしょうか。・・・・・でも、せっかくなので、ご返事しましょう。

まずは、ブルマンさんのそのご返事から引用します[引用文の【 】は引用者補足。つぎの《》はブルマンさんの『資本論』からの引用文]。

「次の引用は、その『資本論』の単純な価値形態からのものですが、「非可逆性」を言明しているのでしょうか?私【ブルマンさん】には一つの商品は同時に相対的価値形態と等価形態の位置を占めることは出来ないが、それを入れ替えれば逆の関係成り立つと言っているようにしか読めません。

《むろん、リンネル20エレ=上衣1着、または20エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着=リンネル20エレまたは一着の上衣は20エレのリンネルに値するという逆関係をも含んでいる。しかしながら、上衣も価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、リンネルは上衣のかわりに等価となる。【したがって、同じ商品は価値表現においては、同時に両方の形態で現われることはできない。この両形態は、むしろ対極的に排除し合うのである】》(引用終わり)

内田さんは、マルクスは第2形態から第3形態の移行において、「前言を翻して」とされているが、上の引用箇所からすれば「前言を翻して」は全くおらず単純な価値形態で示した逆転関係をそのまま維持しているのではないだろうか。

実際第2形態から第3形態の移行は『資本論』では、

《(引用)B 総体的または拡大せる価値形態終端部分より」

《かくて、もしわれわれが、リンネル20エレ=上衣1着または=茶10ポンド=またはその他というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際には既に序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

C 一般的価値形態

・・・・・・》(引用終わり)

となっていわゆる価値方程式の逆転の論理が使われているのではないのか。」

[第一形態は単一の価値形態論に限定、逆関連は排除] 以上がブルマンさんの投稿からの引用です。まず、ブルマンさんは、上の引用文にあるように《[内田弘は]「前言を翻して」とされている》と書いていますが、それは恣意的な原文の意味を変更する引用です。私は先回の投稿で、「前言を翻したかのような記述をしています」と書いているのです。ブルマンさんの引用とは逆の意味です。ブルマンさん、この引用はアンフェアではないですか。

一見、マルクスが前言を翻しているかのようにその記述を読むと、それは誤読であると指摘したのです。そのことを、ブルマンさんの『資本論』からの引用文の最後に、私(内田弘)が記号【 】で補足したマルクスの文が、明確に指摘しています。すなわち、マルクスは【したがって、同じ商品は価値表現においては、同時に両方の形態で現われることはできない。この両形態は、むしろ対極的に排除し合うのである】と規定しています。いいかえれば、第一形態論では、

(a)リンネル=相対的価値形態、上着=等価形態

(b)上着=相対的価値形態、リンネル=等価形態

(a)と(b)のいずれか一つの価値形態に限定しなければならないと限定しているのです。第一形態のその限定=制約を離れて、一般的に(a)と(b)の両方の価値形態が可能であるからといって、あたかもマルクスが、第一形態論で、その「逆の関連」を主題として論じているかのように誤解してはならないのです。その誤解をブルマンさんは犯しているのです。ブルマンさんは、この誤解でもって、内田弘批判をなさっているのです。ブルマンさんの今回の内田批判も成り立ちません。

したがって、第一形態論では、単一の価値形態に限定しなければなりません。《リンネルを相対的価値形態にすえ、上着を等価形態にすえるのか、その逆か》、そのいずれかに固定することが、第一形態の前提であるとマルクスは限定しているのです。第一形態は、単一の価値形態です。相対的価値形態と等価形態とを逆にすれば、それはまったく別の価値形態になるから、そのうち一つに限定しなければならない、と指摘しています。第一形態論では「逆の関連」は主題にはなり得ません。マルクスが言及したからといって、それはそこで必ず主題であると誤解してはならないのです。

[第二形態論末尾の逆の関連] ところが、第二形態論の終わりでは、第一形態には主題たりえない「逆の関連」を「第三形態への移行可能性理論的な論証」に使います。第二形態では「複数の第一形態の集合」ですから、リンネルが存相対的価値形態である第二形態だけでなく、上着が相対的価値形態である価値形態も含まれています。いたがって、「逆の関連」を論じる前提が賦与されているのです。「逆の関連」は[1]第一形態では主題ではなりえないけれども、[2]第二形態の最後では主題になる。[1]で「逆の関連」に言及したのは、[2]への布石です。マルクスのこの沈着な論証手続きのための但し書きをそこの主題といて誤読してはなりません。同じ布石は、『資本論』の第1章第1節で交換価値を価値に分析するにあたって、我々はふたたび価値の現象形態である交換価値=価値形態に戻ることになるであろうと指摘する(S.53)際にも見られます。以上で、ブルマンさんの今回の(も)無根拠な内田批判への反批判は終わりです。しかし、つぎのような興味深い論点が関連しますので、もう少し書き続けます。

[第一形態・第二形態・第三形態は並進対称の関係にある] 実は、ここで面白い論点が浮かび上がります。価値形態論の第一形態と第二形態とは、同質で並列に存立してはいないということです。「個別的で偶然な価値表現」である第一形態と、「相対的価値形態の商品を除くすべての商品の使用価値による全体的で無限の系列をなす等価形態による価値表現」である第二形態とは、「非対称性」の関係にあります。しかも第一形態も第二形態も、同じ価値形態という対称性の内部に存立しますから、第一形態と第二形態とは「非対称的対称性」=「並進対称」の関係にありますその「非対称的対称性」は、第二形態と第三形態との関係に継承されます。つまり、価値形態全体が「非対称的対称性」をなすのです。価値形態のこの「非対称的対称性」は、価値形態論の直前の冒頭単純商品からして「非対称性(使用価値)と対称性(価値)」の統一物である事態の展開形態です。マルクスの「非対称的対称性」=「並進対称」は、このように根源的に一貫して『資本論』体系を貫徹します。ブルマンさん、眼が眩みませんか。《対称性だけでなく、非対称性もみること》、《非対称性だけでなく対称性をみること》、これが『資本論』解読の要点です。

従来、価値形態論の焦点が第二形態から第三形態への移行は如何なる事態かに焦点が当てられ、第一形態と第一形態とは、ブルマンさんの誤読に見られるように、厳密に議論されてきませんでした。拙著『《資本論》のシンメトリー』や「ちきゅう座」への私の投稿をきっかけにして、第一形態と第二形態の異同も、より厳密に考察することが必要ではないでしょうか。

では、第二形態から第三形態への「移行の論証」を、第二形態の最後で論じることができる理論的根拠は何でしょうか。ブルマンさんは、第一形態と第二形態とで「逆の関連」を同様に論じていると誤解し、両者の質的構造的な差異はまったく存在しないと誤断しています。しかし、この点は私の先回の投稿で指摘しましたが、第一形態の等価形態と第二形態の等価形態との決定的な差異があります。第二形態の等価形態の商品種類n-1からなる「無限の系列」は、第一形態の等価形態の、たった一つの商品の使用価値による価値表現の「個別的偶然性」とは決定的にちがいます。第二形態の等価形態は、第三形態への理論的移行の極限に接近しています。それは第三形態への極限的移行可能態です。第一形態と第二形態のこのような決定的な差異があります。第一形態と第二形態とに質的な差異がないのなら、マルクスはなぜ第一形態と第二形態を区別したのでしょうか。第一形態の等価形態の数1と、第二形態の等価形態の数n-1とは、けっして、質的に同等な単なる量的差異ではありません。質的な決定的な差異(単なる偶然性と移行可能性の極限形態との差異)が存在します。それが第三形態への移行を論じる理論的根拠です

[無政府状態は非対称性ではない] 念のために付言すれば、非対称性は対称性を前提にする概念です。ブルマンさんの力説するところの、第二形態から第三形態への移行を根拠づける「無政府状態」は、対称性が存在しえない状態ですから、その状態では、対称性を前提とする非対称性も不存在です。第二形態から第三形態への移行を、ありえない「無政府状態=非対称性」では根拠づけられません。ブルマンさんのその論証は不可能なのです。「無政府状態」とは、欠如している欲しいものは何でも生まれる万能機なのでしょうか。このような想定では、経済学の「科学的根拠づけ」は危うくないでしょうか。

[理論と実践の区別と関連] ブルマンさんは「価値方程式の逆転の論理が使われているのではないのか」と指摘し、あたかも私が「逆転の論理」が使われてはいないと判断しているかのように指摘していますが、それは誤解です。すでに指摘したように、私は「逆転の論理」の第一形態と第二形態での取りあげ方に決定的な差異があり、しかも価値形態論の理論的証明と交換過程論のその実践的な実現とは異次元に属する、と主張しているのです。この異次元こそが、マルクスをして価値形態論と交換過程論を区別させた根拠です。カントは『純粋理性批判』で、普遍的な条件で無制約な理論的論証と、特殊な諸条件に制約された実践的実現とは、次元が異なると指摘しています。この区別をマルクスは価値論に援用して、価値形態論と交換過程論の次元を区別している、と私は判断します。このことは前の投稿で、カントの『純粋理性批判』第2版(B版)のページ数を示して、明言しています。そこをよく読み返してくだざい。

普遍的な理論的な考察の対象は、具体的で特殊な形態に実現します。例えば、同じ言語といっても、極めて異なる文法構造をもつ言語が多様に存在するので、それぞれの文法構造を解明しなければなりません。それと同様に、「桜貝が貨幣である世界と、金が貨幣である世界と、単なる電子情報も貨幣である世界の区別」を経験的具体的な諸条件で説明しなければなりません。価値形態論一本槍では、それができません。逆に、交換過程論だけでは、貨幣が或る特殊な自然物になる一般的な理論的根拠が不明です。この両方の欠如を埋めるのが、マルクスがカントから学んだ「理論的考察と実践的考察の区別と関連」です。

ブルマンさんが私との論争で、価値形態論と交換過程論の関係に論究しないのは、ご主張に重大な理論的な空白=欠如を生みます。第二形態の等価形態は価値表現の「無限性」を満たしえない欠如態です。この無限性が《貨幣発生→貨幣の資本への転化→価値増殖→剰余価値搾取→剰余価値の蓄積→・・・レント(利潤・利子・地代)取得》へ、と展開します。価値形態論はそのような体系展開の根源的ポーテンツを秘めています。このポーテンツの動因が「非対称的対称性」です。カントが「無」を4つに区分したように(B348)、第二形態の「欠如(Mangel)」に問題(第三形態への移行可能態)を見る、これがマルクスです。「欠如を欠如させること、これが超越論的演繹である」(ヘーゲル)、これもマルクスの念頭にあるでしょう。価値論は価値論、転化論は転化論・・・というようなバラバラな『資本論』の読み方は誤読です。

[無政府状態の科学的把握] どうやら、ブルマンさんはつぎのように考えているようです。マルクス自身は『資本論』で「逆転の論理」を上記の理論的次元と実践的次元を区別しないで、第一形態=第二形態と第三形態とを対称的なものとして考えている。その限りでは廣松渉の対称性説は正しい。けれども、宇野理論の立場からは、その「逆転の論理」は、「無政府的競争」によってしか説明できない「非対称性」の関係にある、とお考えのようです。この無政府状態=非対称性説では、論証が破綻することは、すでに指摘しました。あたかも無政府状態として現象する事態に資本主義制度の理論的根拠を見いだすことこれがマルクスの経済学批判、特に「資本一般」論としての『資本論』でしょう。ここにも、プルードンたちへの批判が存在します。無政府状態説の論証なるものは、暴力原蓄説が《どこでも・いつでも暴力を振るえば、近代資本主義が生まれるという暴力原蓄説》が理論的に無根拠であるのと同じです。

[物象化・仮象・対称性] 宇野学派に属すると思われる研究者が最近「物象化」語を肯定的に使用しているのを見掛けますが、「物象化」は廣松「価値=関係態」説と不可分です。価値=関係態説は脇において、物象化論は展開できるのでしょうか。しかし同時に注意すべき点は、「物象化(Versachlichung)」語は『資本論』の貨幣論でただ1回だけ(S.128)、使用されているという事実です。その文献上の事実は無視して、物象化を論じ続けられるでしょうか。私は『資本論』第1部に26回も規則的に使用されている「仮象(Schein)」こそが、従来「物象化」語で意味してきた事態を表現する用語であると判断しています。「仮象」語はカント『純粋理性批判』からの継承です。『純粋理性批判』では97回使用されています。『資本論』以外に「仮象」語をこのように頻繁に使用する書物があるでしょうか。因みに、拙著が力説する「『資本論』の対称性(シンメトリー)」説は、『資本論』自体に出てくる、symmetria、鏡(Spiegel)、鏡映する(sich spiegeln)、関数同士が対称性をなす微分積分学への言及、マルクスの『数学草稿』に出てくる用語Symmetrie などの文献的諸事実をふまえたものです。対称性は『資本論』の「外部から恣意的に導入した基準」ではありません。

[カントは補助線] 私がマルクス理解に援用するカントは、マルクスを理解するための「補助線」です。三角形が規定する平面が安定しているように、「マルクス―読者」という二者関係よりは、「マルクス―カント―読者」という三者関係のほうが安定した関係です。他の条件を一定とすれば、誤読の可能性が二者関係より少ないでしょう。そのカント・バイアスを承知のうえで、その三者関係で『資本論』を読む。つぎにスミスに入れ替える。リカードウに入れ替える。・・・こうした手続きが重なる範囲に『資本論』の存立する問題域が存在するのでしょう。

最後に一言。これまでの3回の投稿で「ブルマンさん」と書いてきて実感するのは、相手が不明なため、闇夜で空気を相手に話しているような奇妙な不確かさです。実名が分かっていれば、ブルマンさんの論文も読むことができて、より議論が適確に展開するのに、と残念です。《科学的探求には具体的表象が前提になる》とは、マルクスの明言です。「実名(内田弘)―筆名(ブルマンさん)の関係」は、それこそ、ブルマンさんの好む用語「非対称性」ではないでしょうか。そんなわけで、今回でブルマンさんとの議論もやめにします。それでは、ブルマンさん、お元気で。

2015年11月5日(木)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study671:151105〕