『帝国の慰安婦』と日韓合意:Lさんのコメントによせて~「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(4)~

2016年1月13日

連載中の「『従軍慰安婦』問題をめぐる日韓政治『決着』を考える」の2回目の記事(「韓熱日静」:日韓合意をめぐる両国世論の落差は何を意味ずるのか?)に対して、Lさんから長文のコメントをもらった。この記事ではLさんのコメントを全文、掲載するとともに、私からのとりあえずの返信(いずれも、このブログの当該記事のコメント欄に公開済み)も添え、その前後に私の追加の感想を添えることにした。
なお、Lさんのコメントは文体上、引用文とご自身の感想を判別しにくい箇所があるが、原文のまま掲載する。

Lさんからのコメント
こんばんは。
今回、国内での評価が高いこと、共産党が肯定的に評価したことに非常に不審に思っていらっしゃるご様子ですね。しかし、先日のパクユハ名誉毀損起訴抗議声明を補助線とし経緯を考えに入れれば自然な反応だと思います。
>「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」に対する違和感と本来何を問題とすべきだったかについてhttp://d.hatena.ne.jp/scopedog/20151128/1448732567

>抗議声明の主目的が、朴裕河「帝国の慰安婦」に対する賛美であり、朴裕河路線での“慰安婦問題”の最終解決に手放しで賛成することであり、韓国における言論の自由の状況を日韓市民で共有し協力しようというものになっていない、と評せざるを得ないんですよね。
また、日韓両国がようやく慰安婦問題をめぐる解決の糸口を見出そうとしているとき、この起訴が両国民の感情を不必要に刺激しあい、問題の打開を阻害する要因となることも危ぶまれます。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/26/park-yuha-charge-remonstrance_n_8659272.html

この一文がそれを物語っています。韓国における言論の自由の状況を憂いているというより、(朴裕河路線での)“慰安婦問題”の最終解決が遠のくことを恐れているという感じです。
引用終了

※朴裕河路線での“慰安婦問題”の最終解決

原則論的な挺隊協を黙らせた上で元慰安婦のみなさんの頭越しに日韓のボス交で、日本の国家責任と謝罪を曖昧にした形でアジア女性基金の延長のような仕組みで手打ちして慰安婦に金を握らせて終わったことにする路線らしい。たぶん水曜デモと少女像の禁止も込みで。

>朴裕河教授は日本の右翼でもなければ容易に試みない真に独特な挑戦に乗り出した。 ~日本政府に法的責任はないという点を論証しようと努めている 原文は
2015/02/27 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/19811.html
と。
>慰安婦がこうした苦痛を受けた1次的原因は当時の不幸な社会像のせいであって日本政府の責任ではないという点を強調
>著者の見解は、日本政府に慰安婦を作った構造的な“罪”に対する責任を問うことはあっても、それが法的責任を負わなければならない“犯罪”ではないということ
>日本政府の法的責任を追及できる端緒である慰安婦動員過程で広範囲に行われた人身売買に対する軍の黙認と慰安所設置に関する軍の指示などに対する言及は消極的に扱っている。
>日本政府が「法的責任」を負わなければならないという主張を曲げない挺対協に非難の矛先を転じる。
>挺対協が自分たちが考える運動の正義のために
>実際には日本を「容赦」し「和解」する意志のある慰安婦被害者の小さな声を死蔵させた(と主張)
>しかも「併合(韓日併合条約)が両国の条約締結を経たことだったので法的には有効」であり「植民支配という不法行為に対する他国の国民動員に関する賠償」を通じて慰安婦に対する賠償を主張できず、1965年の韓日協定で個人請求権が消滅し個人補償を要求する根拠もなくなったという指摘も忘れない
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/19811.html

もちろん、日本で教育を受け日本で活躍しているパクユハ世宗大学教授だけが悪いわけでなく、彼女の提起は安倍自民的政治家のみならず、日本のインテリたちの受容体に特異的に結合したからこそこのようなことになったのだけれども。
>なぜ、こういうことが起こるのだろうか? その理由を推測するに、朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。
徐京植、「和解という名の暴力−−朴裕河『和解のために』批判」
(『植民地主義の暴力』、高文研、2010年)
http://readingcw.blogspot.jp/2015/02/blog-post_18.html

というわけで、11月末に「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」に賛成したみなさんは、(12月の末に)「朴裕河路線での“慰安婦問題”の最終解決」で野合することを予期し希望していたわけです。先月発売の?「世界」の和田春樹さんの記事には、10月の段階で日韓の話が進んでいた旨が書いてあるそうです。

で、かの「抗議声明」の賛同人は
浅野豊美、蘭信三、石川好、入江昭、岩崎稔、上野千鶴子、大河原昭夫、大沼保昭、大江健三郎、ウイリアム・グライムス、小倉紀蔵、小此木政夫、アンドルー・ゴードン、加藤千香子、加納実紀代、川村湊、木宮正史、栗栖薫子、グレゴリー・クラーク、河野洋平、古城佳子、小針進、小森陽一、酒井直樹、島田雅彦、千田有紀、添谷芳秀、高橋源一郎、竹内栄美子、田中明彦、茅野裕城子、津島佑子、東郷和彦、中川成美、中沢けい、中島岳志、成田龍一、西成彦、西川祐子、トマス・バーガー、波多野澄雄、馬場公彦、平井久志、藤井貞和、藤原帰一、星野智幸、村山富市、マイク・モチズキ、本橋哲也、安尾芳典、山田孝男、四方田犬彦、李相哲、若宮啓文(計54名、五十音順)

小森陽一さんのような共産党系な方をはじめ、国会前で「安倍政治を許さない!」とスピーチなさってる方も少なからず含まれていますし、朝日や毎日などの偉い人もいます。自民や社会の重鎮も。
ですから、野合後の反応自体には不思議はないのです。むしろ不思議は、沖縄ノート裁判を戦った大江を含め、なぜ彼らは野合を望みそれが正当だと考えたか?でしょう。(翻訳してもらった大江辺りのように深く考えないまま、義理で署名した人も多かったろうとは思いますが。しかし、さすがに柄谷行人さんは断ったようで)
それは、ソキョンシク先生が指摘する”日本のリベラル派の秘められた欲求”を探ればきっと分かるのだろうと思います。で、先生のような階層の方なら、きっと上記の人々のハラを知ることが出来ると思います。とりあえず、本郷に行って後輩の小森さんと、対照として高橋哲哉さんにインタビューしてみては如何でしょう?
期待しています。

私からのとりあえずの返信コメント

L様
いろいろと示唆に富むコメントと情報をお知らせいただき、ありがとうございました。『帝国の慰安婦』と著者の朴裕河さんが検察に告発された件、それについて日韓の識者が抗議声明を出したことについては、私も関心を持ち、今回の日韓外相の共同声明以前に何人かの知人と意見交換をしました。
コメントを拝見して、目下、連載中の記事の一つとして『帝国の慰安婦』と日韓「合意」の関わりを取り上げ、上記の抗議声明が日韓「合意」の補助線になったというLさんの指摘についても吟味したいと思います。
抗議声明についての私の意見を言えば、同調しないということです。その理由は、声明が、言論の自由に過度に重きを置き、『帝国の慰安婦』の歴史認識それ自体、同書の記述が元「慰安婦』の人権と尊厳を正当に扱っているのかどうかの検討がおろそかにされていると考えるからです
今回の件の示唆も含んだと思える徐京植氏の論説として、「ハンギョレ新聞」2015年9月19日に掲載された「寄稿 他者認識の欠落――安保法制をめぐる動きに触れて」
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/21990.html
を興味深く読みました。
取り急ぎ、お礼と返信をいたします。

謝罪しない国家の主権者としての責任
 ~徐京植さんの『ハンギョレ新聞』への寄稿より~

徐京植さんは、上記の私の返信コメントで記した寄稿の中で次のように述べている。下線は醍醐が追加。

「近代日本においては『他者』は自己認識を更新するための批判的参照軸としてではなく、対抗的な自己肯定や自己賛美のための素材としての役割を負わされてきた。そのもっとも醜悪な到達点が、現在の反中・嫌韓論の横行である。」

「目の前で起きている事象をその由来にさかのぼって反省的に考察することができない。このような、合理的判断力と歴史認識を欠いた人間は、人種、民族、国籍、性別、階層といった属性によって相手を決めつけること(差別)や、国家に無批判的に自己同一化して他者を一律に敵視すること(戦争)に役立つ存在なのである。さらに寒心に堪えないことは、こうした政府と資本の企図に対する広汎な批判や抵抗が、知識人の間からさえほとんど起こって来ない現実である。」

「ジャン=ポール・サルトルはその著書『ユダヤ人』で、反ユダヤ主義(ひろく人種差別主義)は思想ではなく、『ひとつの情熱である』と述べている。そうだ、それは実証性や論理的整合性とは無関係な、ひとつの非合理的な情熱なのである。いわゆる『安保法制』をめぐる昨今の安倍晋三首相の発言や国会での政府答弁を聞いていて、私は安倍氏とその支持層の執拗な『情熱』に息を呑む思いがする。筋の通らないことをオウムのように反復する能力を持つ彼らは、その非合理的な情熱ゆえにどんな論戦にも不敗なのだ。」

「『安倍談話』は、その結語部分で、『あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』と述べている。だが、謝罪すべき主体はまずは国家であり、謝罪しない国家の主権者であるという限りにおいて、戦後生まれの世代は応分の責任を負うことになるのである。若い世代を国家の共犯に引き入れ、『謝罪を続ける宿命』を負わせているのは日本政府そのものではないか。」

最期の一節は今回の日韓合意を評価するうえで示唆に富んでいると思える。

初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載

記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3224:160113〕