出てきたのは英語だった-はみ出し駐在記(85)

一週間の仕事を終えて、やっとニューヨークに帰ってきた。バッゲージクレームに向かっていて、先に用を足そうとトイレに入った。荷物を持ってトイレより、手ぶらでトイレの方がいい。急いだところで、どうせバッゲージクレームで待たされる。チェックインした工具箱をピックアップしなければならない。出てこないことはめったにないが、毎度のことながら、出てくるまで、なんでそんなにかかるのかという時間待たされる。

ニューヨークに帰ってきてほっとしたこともあって、小便をしながら軽いため息をついた。それに気がついたのか、右隣から「お疲れのようですね」と日本人の日本語で声をかけられた。隣に日本人がいるとは気がつかなかった。日本人の日本語というのもへんなのだが、それは勉強して修得したのではない、日本人が言ったとしか思えないネイティブな日本語だった。事務所で上司や先輩と話すときか「扇」や日本メシ屋で話をするときぐらいしか日本語を話すことも聞くこともなかった。仕事でも私用でもほとんど一人だったから、聞くのも話すのも英語だけだった。

日本語ならぼんやりして、聞こうと気持ちの準備をしてなくても聞こえてくるが、英語ではそうはゆかない。英語にどっぷり浸かった生活をしていると、いつの間に意識的に何をしているわけでもないのに、聞こえてくるのは英語、その英語を聞きとろうと身構えているような感じになる。

そこに、唐突に日本語で話しかけられると、聞こえた言葉が日本語であることに気がつくまでに、気づいたとしても聞こえたことを理解するまでに、ちょっとした時間がかかることがある。話してくる人が見えていれば、相手が日本語で話しかけてくることを予期して日本語の準備もできるのだが、目は便器の下の方を向いていた。隣は景色としてのアメリカ人、どこにでもある景色に特別な注意は払わない。

「お疲れのようですね」と言われて、聞こえたのはネイティブの日本語だったが、何を言われているのか分かるまでに一呼吸かかった。そう、確かに言われる通り疲れている。あとは工具箱をピックアップして、駐車場から車を出せば、もうすぐ下宿だという安堵感もある。フツーに聞けば、多少なりとも思いやりの響きのある言葉。言葉をかけてくれた人を見たら、アメリカ人にしか見えない。このフツーにどこにでもいるアメリカ人がネイティブの日本語を話したのかという驚きで多少はしゃんとした。「お疲れのようですね」はいいが、そのお疲れというのは、小便をしている身体全体の疲労、外見で見える疲労を指して言っているんだろうな。まさか小便が出ている身体の一部を指して言っているんじゃないだろうなと、くだらないことまで考えてしまった。

ネイティブの日本語で声をかけられたにもかかわらず、口をついて出てきたのは英語だった。これには自分でも驚いた。「Why you can speak Japanese so well?」相手がちゃんとした日本語で話しかけてきたのだから、日本語で訊き返せばいいものを、出てきたのは英語だった。

「十年以上宣教師として日本に住んでいたから」と、また日本語で言われた。「Where? Which city?」とまた英語で訊いてしまった。アメリカ人が流暢な日本語で話して、ブロークンな英語しか話せない日本人が英語で話すという、ぶざまなことをしている自分に呆れた。「意識的に」日本語で話し始めた。

英語にずっぽりはまってしまっていて、とっさに日本語に切り替えられない。意識的に日本語に戻す、なんとも情けない気もちの上での作業が必要だった。英語の習熟度が低いから、こんなことが起きるのか?習熟度が上がれば、日本語への切り替えが楽になるのか?かえって難しくなるのか?もし、習熟度などというレベルを超えてしまったら、日本を忘れてしまうのか?分からない。

バッゲージクレームで荷物が出てくるまで、三重県での思い出話を聞かされた。ニューヨークに日本人は珍しくないから、日本語で話をする機会はいくらでもあると思うのだが、ありそうでなかなかないらしい。勉強した日本語を忘れてしまうのではないかと心配していた。

後日、日本語に自信のあるアメリカ人やインド人、アルゼンチン人やアイルランドの人たちと仕事をする機会があった。誰もが、強い方言があったり、口下手な日本人よりはるかに流暢な日本語を話す。日常会話であれば、英語と日本語のどちらでもかまわない言語能力に聞こえる。それでも、それはある程度までの話であって、ちょっと時間が経って、ちょっと込み入った話になってくれば、そこはやはり外国語というのが見えてくる。

それでも流暢過ぎる日本語、英語で似たようなレベルに達することはないだろうが、もし近づいたら、日本語と英語の敷居のようなものがなくなって、右を向いて日本語で考えて、左を向いて英語でなんてありなのか。そうあってほしいと思いながらも、どうも、どちらも外国語である限り、ある程度の能力までのバイセミリンガルまでではないかと思う。いくら言語能力に長けた人でも、思考の深いところまで複数の言語ではありえないだろう。外国語はどんなに流暢になったところで外国語。流暢を求めるあまり、母国語がおろそかになったらと思うと、求める流暢もほどほどにと、言い訳がましく思ってしまう。

アメリカでは言葉の不自由な東洋系、日本に帰ってくれば英語のできる人材。いつまで経ってもその程度、その程度でいいじゃないかって。思考のもとにある日本語の方が気になる。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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