テント日誌9月12日…警察法を読みながら伊方での規制を思った

経産省前テントひろば1807日後 22日目

警察法を読みながら伊方での規制を思った。9月10日(土)

今日は国会前で集会もないようだし来る人は少ないだろうと思いつつ、Iさん、Tさん、そしてKさんの代わりにKさん(打ち間違いではありません)と座り込みを開始。しばらくすると例の片足を怪我した鳩も来ました。残念ながらこれ以上回復しそうもないけれど、片足でバランスをとるのも上手になって元気そうでした。

高齢の男性からイイノホールの場所を聞かれ道案内。これも大切な役目。おかげで自宅周辺より霞ヶ関周辺のほうが土地勘あるかもしれません。つい先ほど道案内した方が戻ってきたので説明が悪かったのかと心配になる。にこにこしながら「ねぎとろ巻」を差し入れてくださいました。多分、ご自身の昼食用に買ってきたのだろうに恐縮の限り。有り難く頂戴しました。(今これを書いていてやっと気がつきました。一人で全部食べてしまった。ごめんなさい。普通皆でわけて食べるよね。粗忽な振る舞いを反省中。)

やがてSさんもあらわれ全員集合。今日はこのメンバーで終わりかなと思っているとUさんが宮崎から駆けつけてくれました。久々の再会に皆大喜び。

盛り上がっているところに警察官2人があらわれ「歩道に物を置かないで」と私たち一人一人に告げていく。皆それぞれがさりげなく頷くと濃紺の1BOX車で去って行きました。

中断された話題を再開。Uさんから伊方で使ったプラカードを見せてもらいました。警察法が書いてあって恥ずかしながら初めてみるその条文に驚くやら感心するやら。なにしろ普段の行いと真逆だから。そのほかにも「通行人」と書いたプラカードも使ったとか。どんな規制を受けたのか想像できます。

遠くからテントの幟が見えたとき、もう嬉しくて、嬉しくて走ってきたというUさん。本当にテントを大切に思っているのですね。幟が見えたときの気持ちを想像すると映画「小さな巨人」の台詞「心が鷹のように舞い上がった」を思い出しました。座り込み終了の10分前くらいに女性が座り込みに加わってくれました。慌ただしくて申し訳なかったです。また来てくださいね。(O・O)

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経産省前は人々の歓声と笑顔があふれた 9月11日(日)

雨のマークが続く天気予報が気がかりだった。ずぅーと前に国会で座り込みをやりはじめたころ(10年程前である)、僕はNHKの天気姉さんのファンだと言ったら、俺もだという人がいて笑い合ったことがある。座り込みには雨が天敵で、天気予報をよく見るようになったのだ。異常気象のことを考えるようになったのはもっと後だが、天候のことが気になる。雨は一時、パラついたが、本降りにはならず、良かった。本日の経産省前フェスティバルは天も味方をしたのか、予想以上の盛り上がりだった。久々にテントに関わっていた多くの人に顔をあわせ、談笑もできたのがうれしかった。やっぱり、テントは5年近くあったのだと思わせてくれた。簡単な挨拶や笑顔を見るだけで十分だった。共に闘った人に出会えただけで、言うことはない、そんな気分にしてくれる一日だった。

経産省前では第二テントに設けられていた「脱原発テント美術館」の木版画作品贈呈式でオプニング集会の幕は切られた。宣伝カーの上のステージでは替え歌などが披瀝され、笑いを誘い、喝采があった。制服向上委員会初代リーダーで名誉会長の橋本美香さんの『DA!DA!DA!脱原発』の熱唱で締めた。続いておなじみの福島『会津磐梯山』の原形といわれる『かんしょ踊り』が「福島の女たち」の武藤類子さんや黒田節子さんの指導で開始され、経産省の前で展開された。そうだ、「かんしょ踊り」があって「福島の女たち」がやってきたのを実感したことを思い出した。かつてテントに駆け付けてくれ一緒に踊った「兵庫の女性たち」はどうしているのだろうか。

この「かんしょ踊り」と並行して、はるばる浪江町「希望の牧場」吉澤さんが牽いてきたオブジェ「望郷の牛」の神輿を先頭にしたデモが日比谷公園を出発し経産省ブロックを1周した。このオプニング集会はテントの闘いの楽しさを示していたが、おなじころには旧第二テントのHさんたちが用意していただいた、食べ物も振る舞われ好評だった。お祭りには神と共食することがふるくからのしきたりである。お祭りの要素を持つ闘いには重要なことではないか、闘いが場を作りだしていくことに関わりだせば、共に食べ、飲むことは歌うこととおなじように大事になってくる。この楽しみは大切にしたい。

17時半からの本集会は「伊方の家」&南予連絡会事務局長の八木さんのスピーチではじまった。「原発いらない福島の女たち」武藤さん、黒田さん、それに
鹿児島の「3・11実行委」川畑さんの発言が続いた。そして、沖縄からも大城さんの発言があった、またテント淵上さんや正清さん、「たんぽぽ舎」&再稼働阻止全国ネットワーク共同代表の柳田さんほかの発言があった。それぞれに熱のこもった素晴らし発言だった。

長くなるので武藤類子さんの発言を代表して紹介させてもらえば、彼女はゼブリ(サンカ)のことを例に出しながら、テントの話をされた。サンカの存在はいろいろの説があるが、国にまつろわぬ民として、独自の文化や生活慣習を持ちテントで生活し全国を漂浪していた。明治以降も戸籍も持たずにあったが、戦中の総動員法で戦争に動員されるために戸籍をもたされ、現在では独自の姿は消えている。その存在についての史実を含めた論議はあるが。こういうイメージが定説としてあるように思う。

サンカの存在とその歴史は、人々の生活圏の外にあった国家が生活圏に侵食し、それを包み込んでくることをイメージさせる。彼らはテントによって全国を自由に放浪して生きえた。抵抗ならぬ抵抗体としてあったのだともいえようか。彼女は国家にまつろわない人々のイメージとしてサンカを取り出あげたのだがが、国家にまつろうことを強いられれ、歴史的にはそう生きるほかなかった人々に重ねられる。沖縄や東北の地域住民の歴史はそうした歴史であり、琉球処分や中央(京)に東北の地域住民がまつろわされる蝦夷征伐はそうした歴史を象徴する事件だった。この地域的な事件は国家の日本列島の地域住民の支配と服従の歴史としてある事件の象徴だった。この列島に住む人々のうちから生まれたのか、外からやってきたのか史的に断定できないが、国家が人々の生活の外部にありながら、そとから支配と服従をやってきたことは疑いない。この列島に住む地域住民の生活を、簒奪し、生活の共同体を再編してきた。この国家の歴史の中でそれに抵抗する人たちがいた。それは国家にまつろわぬ人たちの存在と歴史としてある。それは現在も沖縄での基地創設に同意をしないで闘う存在、原発被災に闘う人々としてある。もちろん、これは具体的に顕在化してある例であり、この列島の地域住民はまつろうことを否定する抵抗体として存在している。

これは国家の所業に抵抗する人々は現在ではサンカのように自分たちの生活と慣習を守って放浪して行くことでそれをなすことは、現在では不可能に近い。意識的な抵抗者として存在し、様々の抵抗する運動者として生きるほかはない。

自分の生活や命を守り、その生を生として生きることは抵抗する存在として、抵抗を運動として様々の形態を作りだしながらやって行く他はないのである。僕らがテントを創出し、官僚の壁と向かい合ってきたのはその一つであるが、幸いなことは抵抗は場所を超えて響きあう。そして、人々の実存になって行く。

この抵抗が現在の国家を変え,真の公的な世界の創出に結びついていくのは長い射程を持つ道のりの中にある。抵抗の永続的な展開だけが道を開いて行くそれが確かなことだ。僕らは、生そのものとしての抵抗とイメージを紡ぐことでその道程を自由への道として開いて行く他ない、だが、これは、さしあたってというか、まだというか意識(自覚)せる抵抗者として生きることが可能性である。

武藤さんの話は原発被災に晒される中で、意識せる抵抗者としての現在を、その模索も含めて語るものだった。その現在を語るものだった。そのイメージを出しながら話は感銘深いものだった。短い時間の中だったのが惜しまれるが、いいスピーチだった。他の人の話も良かった。久しぶりにひとつひとつに聞き耳を立てていた。ステージはやがてヒューマン‣チエン(人間の鎖)による経産省包囲に移って行くが、隣の人の手のぬくもりが後後まで残るものだった。これは約600人の参加で成功裡に終わった。 (三上治)

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祭りの成功、そして新たな祭りの創出へ 9月12日(月)

昨日の「脱原発9.11怒りのフェスティバル」は600人近い参加者を集め成功裏に終わった。

テントは新たな心意気で結集し、6年目の脱原発への取り組みを全世界に発信した。休刊日で紹介は夕刊となったが東京新聞は今日の夕刊に写真入りで「「脱原発あきらめない」経産省前 テント撤去後 初集会」として40行で紹介した。

歌、かんしょ踊り、みこしデモ、そしてスピーチ、三種の蒸し芋とカンパ煎餅、飲み物が振る舞われた。誰もが笑顔で近況を語り合い、スピーチに拍手し、ヒューマンチェーンも昨年を確実に上回った。

圧巻は「希望の牧場」吉沢さんの「望郷の牛」による神輿担ぎとデモで、日比谷公園から経産省、テント前、外堀道路をまわり一周した。途中交代で担ぐが重さで全身から汗が噴き出すが何とも心地よい。

上下揺さぶり担ぎはグッと我慢のしどころで吉沢コールに合わせホイッスルを吹くが、安笛は途中で引っ掛かり上手く音が続かない。

希望と望郷、二度と戻らぬ環境のはく奪への怒りはまさに「怒りのフェスティバ
ル」にふさわしい。次回も可能ならかんしょ踊りと一緒にねり歩きたい。テント2000日は来年の3.11直前になる。

9月22日(祝)の「さようなら原発代々木公園大集会」にも「望郷の牛」神輿は参加するという。テントブースからも担ぎ手への参加も可能かもしれない。

事務所は昨夜の後片付けがしっかり行われ整頓されていた。今日は台車に椅子6脚(一式)をのせ運び出したが神輿以上の重さで閉口した。テント前に10分近く遅れたがすでに4人が待機していた。

宮崎から駆け付けたUさんはカプセルホテル泊りで安眠できなかったという。節約しながら上京なのに地元菓子まで届けてくれた。7人で円陣を組み簡単な自己紹介をする。「安倍靖国参拝違憲訴訟」が東京地裁103号法廷で午前、午後を使い意見陳述が行われ、一瀬弁護士が中国の女性教師を伴い記念撮影した。スマホカメラでツーショットを依頼されたがなんとか撮れたようだ。

女性はお札のカンパをしてくれた。裁判の模様は座り込みに訪れたAさんに聞く。午後も傍聴すると出かけた。
1時前に背の高い若い警察官が訪れ、「椅子をどけてほしい」と伝える。身長185cmという彼は「どこから持ってきたのか」を聞くが適当にやり過ごす。右翼の街宣車が1台罵声を浴びせながら通り過ぎる。

3時からは「鎮魂 死者が裁く 呪殺祈祷僧四十七士(JKS47)」の月例祈祷会が20名を超す集まりで行われた。

初めて体験したがそのユニークな経産省抗議は興味深い。新しい鎮魂歌「海つばめ」の作詞は足立正生氏だった。

「俺は 暗闇で 爪を研ぐのだ ここは 俺たちの 戦場 ここは 静かな 最前線」のフレーズがグッとくる。

怒りの祈祷にチャーリー・パーカー並みのサックスが加わる。全員で三拍子の太鼓を連打する。太鼓も神輿同様心地よい。祭りの続き、新たな祭りの創出、テントの多様な展開を示すにふさわしい2日間だった。 (I・M)

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9/16(金)抗議行動 経産省抗議行動 17:00より18:00
場所:経済産業省前 主催:「経産省前テントひろば」
9/16(金)抗議行動 再稼働反対!首相官邸前抗議 18:30より20:00主催:首都圏反原発連合 

★海外からのテント応援メッセージ(その4号・5号)

4号

テラサキです。
「ヒロシマ同盟ハノヴァー」からの連帯メッセージです

連帯のメッセージ

脱原発テントの強制撤去は、政府に批判的な世論を締め出すという昨今の政治状況を改めて具体的に示すものです! 政府の指示による警察のやり方は、内容的に政府に批判的で、他に発表の場を持たない見解は締め出されることを可視化したことにほかなりません。福島事故の大惨事についての貴重な意見や警告は締め出されるのです。重要な背景情報に支えられた、表面には出てこない批判的な意見の表明を出来なくさせることは、現在の政府がこれからも、これまでのように人間を尊重しない、無責任な原子力政策を(非理性的に)続けていくことを示しています。パワーポリティクスの結果として、初の核兵器使用がなされた唯一の国、日本が核エネルギーにしがみついているのです。

核廃棄物の問題は世界的にも未解決だし、放射能汚染がエコロジー面にもたらす影響は人間の生存基盤を壊滅させます。

このような形態のエネルギーがもたらすネガティヴな結果を知っているにもかかわらず、経済的関心のみを追いかけ、それによって社会の未来をみすみす失っていくような政治の無能ぶりをさらけだしています。

「ヒロシマ同盟ハノヴァー」はこれからも皆さんと連帯します

ハイデマリー・ダン、2016年9月8日

*「ヒロシマ同盟ハノヴァー」は広島と姉妹都市関係を結ぶハノヴァーの市民グループです。ハイデマリーは緑の党が(西ドイツ)連邦議会進出を果たした1983年に同党議員として日本を訪問して以来、何度も来日し、埼玉、大阪、広島、長崎などの市民グループ・個人との交流を深めてきました(議員は1期のみ)。

5号

テラサキです。

ドイツ公益社団 (日本でいうNPO法人)「さよなら原発デュッセルドルフ」の理事さん(フックス真理子さん、ミュラー・柴 勵子さん、高岡大伸さん)から応援メッセージをいただきました。

(すでにMLで公表したミュラー・柴 勵子さんのメッセージと内容的に重複した部分があります)。

添付されたシュテフィー・リヒターさんの原稿も翻訳が完成したら、またMLで公表出来れば、と思います。

テントひろば 寺崎様
8月21日(日)午前3時40分、テント設立1807日目の深夜の強制撤去に対して深く憤りと遺憾の意をドイツからも表明させて頂きます。
私たち自身も来日の度に足を運んでいた、あのテントが、撤去されたというニュース は衝撃でした。

福島原発事故への深刻且科学的反省も無く、地震火山国である日本で、満足な避難計画もなしに進められる原発再稼働と海外への販売、8000ベクレルの汚染土の全国への拡散、大人から子供までが年間20ミリシーベルトという放射線管理 区域で働く作業員と同じ場所へ進められる帰還政策、それこそ人権無視と言える状況下で、「やっぱり来たか」との思いはありますが、日本から、ひいては世界から、原発がなくなるまで、あきらめない決心を新たにしました。在日本のときは以前と同じく、旧テント跡詣でをします。

原発と核武装は同じメダルの裏表であり、海外在住だからこそできることを考え共に手を取り合って活動を続けてゆきたいと思います。

そして「撤去後も、経産省前テントひろばは、くったくなく闘い続けている」とのご報告を読むにつけ、私たちも勇気を与えられると同時に、より一層脱原発の思いを新たにさせられます。以上、ドイツ公益社団「さよなら原発デュッセルドルフ」からも世界の人々と共に応援・連帯のメッセージをお送りさせていただきたいと思います。
また、この件に関して、ライプチヒ大学教授のシュテフィ・リヒターさんより添付の原稿が寄せられました。 撤去されたテント広場の人々に連帯の心を持つドイツ語が理解できる人々に広めてください、とのことです。

活動家としてではなく、日本を愛する文化人にも読んでもらいたい内容です。
残念ながら翻訳版はまだ用意できておりませんが、併せてお伝えいたします。

ドイツ公益社団 さよなら原発デュッセルドルフ 理事
フックス真理子
ミュラー・柴 勵子
高岡大伸