「マルクス主義の創造的適用とは何か」に関する雑感――「実践的唯物論か実践の哲学か?」を例に――

 マルクスの唯物論はドイツ古典哲学の観念論的転倒とフォイエルバッハの唯物論の受動的な性格を両面的に批判し、実践による現実の変革を肝心なことであると見なしがゆえに、我が国では「実践的唯物論」と呼ばれている。ちなみにドイツ語ではpraktische Materialismusという言葉は用いられておらず(そもそもマルクスはpraktische Materialistとは言ったが、praktische Materialismusとは言っていない)、Philosophie [von] der Praxis, Materialismus der Praxis, philosophy of praxis [practice], などと表現され、日本語に訳すとほぼ「実践の哲学」を意味している。この違いにおいて重要な点は、前者が「唯物論」であり、後者が「哲学」であるということである。というのは、欧米ではマルクスの言葉の中にpraktische Materialismusという言葉がないからだけでなく、グラムシがマルクス主義(の運動)または社会主義(運動)を「実践の哲学」と呼んだこと、さらにこの名称を使うことがスターリンの「弁証的唯物論」への対抗上必要であることだと見なしたのであろうと思われる。
ところで、なぜグラムシは「唯物論」という言葉を使用しなかったのか。私が考えるには、唯物論の名のもとに他のブルジョア的な哲学を観念論として批判するにはそれらの哲学がヘーゲルの観念論の主要概念である抽象的な概念や理念、感性を欠いた意識や精神などの純粋に精神的な存在をそのまま哲学が扱うことに飽き飽きして、キルケゴール(実存)、シュティルナー(唯一者)やニーチェ(超人)などを介して、たとえば、フッサールの現象学では「事象そのもの」、ハイデッガーの実存哲学では「世界内存在」や「ダス・マン」、サルトルなどの実存主義では「本質に先立つ実存(Existenz)」、プラグマティズムでは「真理=役立つもの」、および分析哲学や論理実証主義では、観念・知識とは異なる記号や言語などからなる「情報」がそれぞれの主たる哲学の対象となったからであろう。このように哲学がヘーゲル観念論から離れて独自な発展を遂げている現代に、いまだにヘーゲル哲学の根本性格をなす観念論の批判・反対としての唯物論に自己の哲学の形態を封じ込めることは、これらの「ブルジョア」哲学がそれなりに現実存在を捉えようとした努力と独創的試みにたいして、ひけをとるものである。これらの諸哲学が時代の精神的状況に進展に応じて問題を把握した独創性に劣らず、むしろそれ匹敵し凌駕するマルクス主義の創造的な精神に基づいて、現代の精神的問題情況の発展に適応した独創的な哲学を展開することこそがマルクス主義哲学の発展と言えるのではないか。19世紀の後半において生の哲学が発展してきた時点で「史的唯物論」の基礎的概念である「生産的生活」に対してすでに「生命」が哲学の対象としての基本的存在となってきたのである。それ以降の「ブルジョア的観念論哲学」として批判された哲学は、しかし、哲学としてヘーゲルの「観念」とは異なったそれぞれ独自の根本概念を哲学の独自の対象として作り上げているのである。それに対して、「実践的唯物論」は「唯物論」と名のるがゆえに、いまだにヘーゲル観念論との関連に捕われ、それとは質的に離れたマルクス主義独自の哲学を創造できなかった。したがって、ルカーチの『理性の破壊』のように実存哲学や生の哲学には外在的な批判に終始せざるを得なかった。故芝田新午はルカーチのこの著作を荒っぽいとしてあまり評価していなかったと記憶している。こうして、ホブズボームは、”How to change the world ?”のForewordにおいて、「この本で具体的に論じられたマルクス・エンゲルス後の唯一のマルクス主義者はアントニオ・グラムシである(The only post-Marx/Engels Marxist specifically discussed in this book is Antonio Gramsci)」と語ったのである。この言葉が語っていることは、グラムシが、不破哲三の言うように、唯物論と観念論の区別をあいまいにしたがために、科学的社会主義の継承者とは見なされなかったにもかかわらず、グラムシが唯物論を標榜せずに「実践の哲学」のもとに「合意」、「ヘゲモニー」、「知的道徳的指導」、「政治社会」から区別された「市民社会」という上部構造の存在を発見してマルクス主義〔哲学〕の独創的な発展を成し遂げたことは、「唯物論」という言葉や観念がいまや19世紀後半以降においてマルクス主義の独創的発展の妨げとなったことを表わしている。
このように「唯物論」という言葉が時代にそぐわなくなっていることは、すでに故古在由重先生が1970年に岩波講座『哲学1』で「唯物論」という言葉に代わって「現実主義」という用語を推奨している(筆者の記憶による)ことからも明らかである。マルクス主義は自己の哲学的形態を時代の精神的な発展に適応して、その時代が抱える独自の問題にどの哲学よりも先に取り組み、マルクス主義的な解明を提示しなければならない。以上で明らかのように、「実践的唯物論」ではなくグラムシが発展させた「実践の哲学」がマルクスの哲学の現代的な創造的発展の形態である。
以上を総括するに、マルクスの思想と理論の原点に戻ること、そしてマルクスの思想・理論の研究を行なうことは、原点としてのマルクス思想の精神を把握することであり、重要であるが、それよりはるかに重要なことは、このマルクス研究――マルクソロジー――を基礎に、たとえば、マルクスの物質代謝論や疎外論・物象化諭および自由論の研究に基づいて、現実の現代の発達した労働形態と産業の発展の在り方において、人間の物質代謝や労働と生活がどのように破壊され、労働を含む生活の疎外や文化・教育においてどのように物象化が進展しているか、それらの克服の方向はどこに見いだされるかを解明することである。自戒を込めて。

2018年6月6日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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