[はじめに] このネット「ちきゅう座」に、熊王信之氏の文章「藤田嗣治は、戦争協力画家ではないのか」(2018年11月6日)が掲載された。その掲載以前に、本稿筆者はこのネットで藤田嗣治論を戦争犯罪人として安易に規定することを批判する文を書いた(同年10月12日)ので、それへの批判であると判断される。以下、熊王氏のこの文章を読んでの感想を記す。
[《蛇足》文は示唆的である] 熊王氏の藤田嗣治論が端的に表現されているのは、熊王氏の寄稿文の最後の「蛇足」と熊王氏が称する2文節である。熊王氏は、「(藤田は)特定の猫に限りない愛情を注ぐことも無く、況(いわん)や終生飼養はしなかったのではないでしょうか。画材になった猫も彼を特定の人とは見ていなかったように思えます」と、憶測(ボールド部分)を含む文を書いている。
猫は藤田の好んで描いた対象である。熊王氏は藤田が描く猫が藤田を「特定の人」、いいかえれば、猫が自分に愛情をそそぐ人間とは見ていなかっただろうという。猫に愛される人間ならば、その人が描く猫の絵は絵として合格すると考えているのであろう。その観点を明示するように、熊王氏はその文に加えて、氏が飼っている猫が四本の足を上に伸ばして寝転んでいる写真にアクセスできるhttps情報を付記している。
[対象愛は不可欠か、いつも可能か] ネットで「藤田嗣治と猫」と入力すれば、藤田が実在の猫を描いている写真、猫の写実画、猫が空間を飛ぶ連続画がたくさん出てくる。各々、藤田の個性が表現された猫画である。
熊王氏は、愛情をもって飼育しないと、まっとうな猫画は描けないという。この「画家-表現対象愛の関係」は、猫に限定されないであろう。人間を描く場合も、その人間を愛しないと、まっとうな人間像は描けないことになる。一般化すれば、対象愛のない絵画は真実の絵画ではない、ということになる。
[戦争画に価値は無いのか] とすると、敵は描けないことになる。悪魔も描けない。敵や悪魔を描いた画家はまっとうな画家ではないことになる。地獄絵、武力闘争画、戦争画、悪魔を描く絵画は、絵画として価値がないことになる。戦争画を描いた藤田嗣治を論難する熊王氏の根拠は、この「写実対象愛前提論」にあると判断される。
[愛と技術は別の存在である] しかし、愛の存在は対象表現の技術の存在と必ずしも合致しない。愛そのものの表現にも、それに適合した技術が不可欠である。愛の身勝手な表現は、愛の喪失をまねくことがある。
[藤田は愛無き人格か] 熊王氏が飼っている猫に愛情を感じていることは何ら問題ではない。問題のひとつは、藤田戦争画の評価に、藤田嗣治を愛無き人格という、憶測による評価規準を持ち出すことにある。「蛇足」とはいえ、その「蛇足」は、熊王氏の藤田嗣治戦争画「アッツ島玉砕画」批判=戦争協力画規定を根拠づけ、さらに補強するためであろう。
藤田の最後の妻は、藤田が離日しフランスで死別するまで添い遂げ、藤田の死後も彼についての語り部であった。藤田は家庭料理づくりに勤しんだという。それでも、藤田は愛ある人間ではなかったのだろうか。
[猫まで動員する壮烈] 熊王氏は、自分が飼っている猫まで動員して、藤田戦争画批判を展開する。その熊王氏の論陣は、余裕があるように装いながら、実は壮烈ではないだろうか。その猫は自分が人間の間の公的な論争にまで動員されていることは全く分からない。ペットの飼主は、ペットを思うままにする。
[イギリスにペット犬がなぜ多いか] かつてイギリスに留学中、あまりにもペット犬が多くいるので、或るイギリス人に「なぜですか」と尋ねたら、にやりと笑って、「イギリスは奴隷制を廃止したからです」と答えた。イギリスの帝国内奴隷制撤廃は1833年である。私にとってイギリス滞在が楽しみなのは、このような痛烈な自己批評が聴けることにある。日本では、このようなユーモアを聞けるだろうか。
[私は偽善者です] その別例。イギリス滞在中の或るとき、静かなスーパーで支払の列の最後尾に並ぼうとして、初老の男性と鉢合わせになった。彼は筆者に「お先にどうぞ」といった。謝意を表すると、「いや、私は偽善者なのです」との返事が返ってきた。日本では、このように自嘲してみせる者は「変人」扱いされないだろうか。「なによ、気取ってて、いやね」という反撥が起こらないだろうか。
[藤田玉砕画と米国映画] 熊王氏は、藤田嗣治の「アッツ島玉砕画」「サイパン玉砕画」は戦争協力画であると規定する。そのために、熊王氏は「藤田嗣治の画と下記(youtune)に掲げました当時の記録映像とを比べれば、絵画の世界と現実との相違が明らかです」と断りながら、アメリカの映画にアクセスできるように、或るyoutubeを紹介している。それは、アッツ島日米戦の結果をアメリカ軍の記録班が撮った「記録映画」と、それとは異質な「カミカゼ劇映画」とからなる。
[藤田画と映画との関係の不可解] 熊王氏は、藤田戦争画と記録映画とは異なるといいながら、読者を映画(記録映画+劇映画)へ、なぜ誘導するのであろうか。熊王氏は何の説明もしない。その誘導の動機は、藤田は戦場の現実を描いてはいない、まったく別の想像画を描き、前者を後者にすり替えていると批判するためであろうか。
しかし、「戦争の現実をみよ」と称して、戦争の「劇映画」と「記録映画」をまぜて、それに読者を誘導する熊王氏の印象操作には、問題がないのであろうか。藤田はあの玉砕画を描いて、これは現実の玉砕の写実的な表現であると主張したことがあったであろうか。むろん、無い。
[藤田画はほとんど寓意画である] 藤田は、作品としては、写実画よりも寓意画を描いた。藤田の二つの玉砕画も写実画ではない。《絵にこと寄せて或る意味を伝える寓意画》である。寓意画は、ベラスケスの絵画が代表作であろう。神話画・宗教画はすべて、写実画ではありえず、寓意画である。
熊王氏には写実画と寓意画の区別がない。熊王氏が容認するのは、愛情をもって描く写実画である。絵画は、愛情をもって描く写実画であるべきであり、想像画は虚偽なのであろうか。熊王氏に存在しない概念「寓意画」は、藤田玉砕画を観て判断するときにも、存在しないから、カテゴリーとして機能しようがない。だから、藤田玉砕画を、記録映画にあるような厳しい事実を表現し損なった絵画である、と規定するのである。
[熊王氏の説明なしの「戦争協力画」規定] これまでみてきたように、熊王氏はなぜ藤田玉砕画が戦争協力画であるかの明確な説明がない。熊王氏が引き合いに出すアメリが軍の記録映画と劇映画も、氏によれば、藤田玉砕画とは関係が無い。存在するのは、熊王氏がただ「戦争協力画」と思うという無規定の思いである。そう思うのは、その思いに先行する既成の同種の思いに従っただけのことではないだろうか。
[虚画・藤田玉砕画は玉砕扇動可能か] 熊王氏は、藤田玉砕画は、玉砕の現実を表現してないといいながら、同じその藤田玉砕画を東條英機の「戦陣訓」を正当化するものであるという。熊王氏の観るところ、藤田玉砕画は戦場の実態を描いていない虚画である。藤田玉砕画は虚画であるのに、なぜ「戦陣訓」を正当化でき、玉砕を扇動できたのであろうか。熊王氏のこの論法では、ゴヤの集団銃殺画も銃撃する軍への協力画であるということも可能である。
[熊王氏に欠ける藤田玉砕画作品論] 熊王氏に欠如しているのは、肝心の藤田玉砕画そのものの作品論である。熊王氏の今回の文章は、藤田玉砕画とは関係の無いいくつかの事柄をその絵の周辺に配置し、なんとなく藤田玉砕画に戦争協力画であるかのような雰囲気を演出しているにすぎない。
[追悼画としての寓意画] 藤田は、アッツ島玉砕やサイパン島玉砕の報道を聴き、その情報を糧に想像力を発揮して玉砕画を描く。描いているうちに、玉砕画は戦死者を追悼しないではいられない気持ちを藤田に醸成してくる。
その追悼心を表すために、線香を焚いて、描き続けたと述懐している。図らずも、追悼画・鎮魂画を描くことになったのである。その作用は、玉砕自体が潜在する人間生存の極限の顕現であろう。藤田の内面には追悼画を描くモチーフが潜勢していたのである。
[藤田玉砕画に合掌する国民] その玉砕画を観る者たちも、思わず合掌した。そこに、「戦陣訓」に促された戦意高揚のための表現ではなく、戦死の意味喪失の極限を観たのである。藤田の玉砕画が国民の間で大変な評判になったのも、藤田玉砕画の観る者の心を追悼に導く、藤田自身の追悼心を表現する力による。その表現力が、多くの者がこの藤田画に導いたのである。藤田玉砕画が、数多ある「戦争宣伝画」のひとつにすぎないものなら、多くの人々を引きつけはしなかった。その決定的な差異を正確に弁別し、藤田の表現力の深さを認識しなければならない。
熊王氏の藤田玉砕画論は、このような弁別も認識もなく、藤田玉砕画=「戦争協力画」へと導くために、関係の無い事柄を藤田玉砕画の周辺に散布する印象操作に始終している。まことに曖昧模糊としたものである。
[無力画家の陰惨な集団嫉妬] 他の画家には、藤田のそのような追悼心も表現力が無かった。画家たちの中には、国民に圧倒的に注目される藤田の能力を隠微に嫉妬する者がいた。このことを藤田は気づいていたので、敗戦直後、その隠微な集団心理を指摘したのである(このことは先回の拙稿でやや詳しく指摘した)。
[戦後の藤田批判の再生産] 隠微な嫉妬心は、その醜悪な実態を露呈したくない警戒心が存在する。それ隠蔽するために、あれやこれやの合理的な仮装をする。その狡猾さが、藤田嗣治のみを「戦争犯罪画家」として突き出す、才無き画家たちの行為として表出したのである。その突き出し行為が、藤田嗣治展のたびに復活する。陰でその復活を演出するものがいないだろうか。
同時に浮かぶ疑念もある。ほぼ定期的に開催される藤田嗣治展には、藤田評価をめぐる論争で話題を喚起し、フジタ画が高値になるように演出する商業的動機がないだろうか。ネットには《フジタ画を鑑定します》との広告が出ているが、その動機とは無関係であることを希望する。
[アッツ島玉砕ショックを共有した藤田嗣治と仁科芳雄] 相継ぐ玉砕の報道を受けて、戦争停止を日本軍に直接に提言できる者たちがいた。理化学研究所で原子爆弾製造の研究を指導していた仁科芳雄(1890-1951)はその代表者である。藤田嗣治(1886-1968)も仁科芳雄も、アッツ島玉砕・サイパン玉砕に同じようにショックを受けた。藤田は玉砕画を描き、仁科は原爆製造の可能性を探った。
戦時日本の原爆製造の中心人物・仁科芳雄は、1945年8月6日の広島へのウラン型原爆投下を科学者して認識しながら、彼と昵懇な陸軍幹部に戦争停止を提言しなかった。日本政府がポツダム宣言を受諾しないので、同年8月9日、アメリカ軍は長崎に、今度は遙かに強力なプルトニウム型原子爆弾を投下した。
戦争の極限にありながら、仁科を含めて、戦争停止要求が国民から出なかった。なぜであろうか。結局、秘密情報ルートで広島・長崎への原爆投下を知っていた天皇裕仁の判断で「敗戦」が決まった。大多数の日本人は、上部(終局は天皇)が決定しなければ、重要な行為を停止できない心性に呪縛されている。この心性を自覚し克服することが、「同じ誤りを繰り返さない」拠点となる。
[藤田への論難と仁科への賞賛] ところで、藤田嗣治と仁科芳雄とは、戦後の評価が全く反対である。戦争画を描いた多くの画家のなかで、ただ藤田嗣治のみが、「日本美術会」など「にわか民主主義者たち」の政治的策動で「戦犯画家」に指名され孤立し、結局フランスに帰化した。いまなお「戦争協力者である」との波状攻撃を受けている。
[原爆製造に関わる仁科芳雄] ところが、仁科芳雄はその二つの玉砕にショックを受けて、それまで不可能であると陸軍に断ってきた原子爆弾製造計画(二号研究)を実現しようと態度を翻した。玉砕したサイパンに原爆を投下し、サイパンを奪還するという陸軍の原爆製造戦略に協力していたのである。「昭和19年[1944年]の夏、あるいは秋に入ってから、仁科研は『ウラニウムの研究』という段階にとどまらず、『原子爆弾製造』に移行した状態になった」(保阪正康『日本原爆開発秘録』新潮文庫、2015年、158頁)。
[戦中原爆研究から戦後原発実用化への連続性] 仁科芳雄は、敗戦直後の1946年に文化勲章を受章する。この慌ただしさは、なんのためであろうか。原爆製造計画に海軍サイド(F号研究)で協力した湯川秀樹は、すでに戦時中1943年に文化勲章を受賞し、敗戦直後の1949年にはノーベル物理学賞を受賞する。
文化勲章授与は日本の原爆製造に直接関与した仁科たちを公的に権威づけ守り、戦後の原子力エネルギーの「平和利用」への安全回路を敷設する一環であろう。そこに終戦直後の日米の強かな協力関係が伺える。
[アイゼンハワーから中曽根へ] 湯川のノーベル賞受賞の翌年の1950年、アイゼンハワー大統領は、国連で原子力エネルギーの平和利用を提言する。中曽根康弘がまもなく国会で、平和利用への道を開拓すべく国家予算を請求する。
[ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ] 戦時中に原爆製造計画にかかわった科学者たちは、戦後になると、ほとんど、原子力の平和利用=原発に協力する。その帰結が2011年3月11日のフクシマである。現代日本のこの問題性からして、藤田嗣治よりも仁科芳雄のほうが、遙かに問題的人物である。
にもかかわらず、仁科芳雄の戦時日本における原爆製造協力の問題性を、保阪正康など、まことに少数の者しか、指摘していない。仁科のこの問題性を知らず、知っていても知らんふりをし、ただ藤田を一方的に論難する。
これが現在の日本になお根を張る、世論誘導に無自覚に乗る思想体質である。その思想体質は、冤罪者・被曝者・水俣病患者を白い目で見る冷酷さに如実に表れている。そこには、「被害者となったのは《忌み》が取り憑いたからだ」という不合理な原始的思惟が生息しているのではなかろうか。
[神格化した仁科芳雄] 仁科たちの原爆製造協力の事実を論じることは、日本の科学界ではタブーである。このことを保阪正康は『日本原爆開発秘録』(新潮文庫、108頁)で指摘している。日本が被爆国であるだけでない。少なくとも原爆を製造して敵国アメリカ(の基地サイパン)に投下したいという強力な意思をもつ者が戦時日本に存在したのである。日本は潜在的な原爆投下国である。
特に仁科は部下に原爆製造を命じている。詳細はその保阪の著作を参照してほしい。保阪は『昭和陸軍の研究』(朝日文庫・下)でも、戦時日本に原爆製造計画があったことを明らかにしている。
藤田嗣治と仁科芳雄をめぐる全く反対のこのような評価は、戦後日本史を根本的に再検討する必要を提示している。このような歪みを知らず、まして知っていても知らないふりをして、藤田に焦点を当て根拠曖昧に批判することで、平和に貢献することになるなどと思う態度に、根本的な疑念を筆者はいだく。
[原爆製造意思の現場・福島県石川町] 特に原爆の原料(ウラン235)の欠如が決定的制約で、日本陸海軍は原爆製造に成功しなかった。福島県石川町の旧制中学生に、至極微量のウランを含む岩石を積んだ「もっこ(畚)」を担がせ、すぐ破れる草履を履かせ、血だらけになった足で岩場を歩かせ、1945年4月から8月15日の敗戦の午前中まで、毎日7時間も酷使したのが、軍部=仁科理研である。フクシマ受難はここから始まっている。
[戦時中の石川町から敗戦直後の石川町へ] 敗戦直後アメリカ軍が調査にやってきたのはヒロシマ・ナガサキだけではない。石川町のその現場にも、アメリカ軍が調査にやってきた。日本の原爆製造努力の実態の情報をそれに関わった者たちが教えたのであろう。
仁科芳雄たちに原爆製造の意思が存在していたことは事実である。その原爆製造意思と藤田玉砕画を比較するとき、その思想的問題性には、深刻な断層が存在しないだろうか。
むろん、だからといって、藤田玉砕画の評価を回避してはならない。仁科の原爆製造関与問題とは独立に、藤田の玉砕画はそれ自体として、厳密に評価すべきである。
[藤田追悼画批判への反批判は現今の復古傾向への同調か] 熊王氏は、愛する猫のエピソードに端的に示されているように、絵画といえば、現実に存在する対象、しかも愛情を持って相対する対象を描く絵画こそ、絵画に値するものであるという独自な写実主義的な確信をもって、とはいえ藤田玉砕画作品論なしに、藤田玉砕画を「戦争協力画」であると判断する。
その判断とは異なり、藤田玉砕画を、筆者のように《条件つきで肯定的に評価する者》を、「最近の復古傾向にある世情に適合しているかのようにも見えます」という婉曲な文体で、批判する。先回および今回の拙稿は、そのような根拠薄弱な決めつけで、藤田問題が決着すると考える安易さを批判するものである。
[反戦平和者たちの追悼集会] 本稿筆者は、藤田のその二つの戦争画は鎮魂画、慰霊画としての寓意画であると観る。玉砕を描きながら、藤田はその絵を描いているうちに、線香を立てないではいられなくなった。それを観た多くの戦時下の者たちも、鎮魂画・慰霊画として観た。この慰霊は、戦後の8.15の国民慰霊祭につながる。
その慰霊祭にはいろいろ問題があろう。できれば、反戦平和を希求する者たちが主催する、日本内外の戦没者への追悼集会が開催できればと希望する。そのような道徳的ヘゲモニーの構築に、国民的・国際的な結集力があると思われる。そのような思いで、南京虐殺記念館を2回訪れたことがある。
筆者は、このような観点から、後年の歴史の高見から、しかも政治的に演出された藤田批判の枠組に無意識に加担していることを自覚しないで、意味不明にアメリカ軍記録映画(・劇映画)と対比して、藤田玉砕画を「戦争協力画」と規定する熊王氏には、与し得ない。熊王氏には肝心の藤田玉砕画の作品分析がない。
[入管難民法改正の二重戦略] 現今の「復古傾向」は熊王氏の考えるよりも、もっと深く巧妙な手法で展開しているのではなかろうか。
特に、外国人労働者受け入れ緩和策は、低賃金外国労働者導入で高利潤を求める経団連に協力し、同時に内外の低賃金労働者を労働市場で競わせ、生活水準低下の危機感から日本人が排外主義的に右傾化することを目論み、右派勢力の要求にも応える。この二重戦略は、欧米社会と同型の分断社会を日本にもたらすのではなかろうか。
[なぜ藤田嗣治を弁護するか] 念のために記せば、本稿筆者自身は、藤田嗣治の絵ではなく、セザンヌやゴッホの絵が好きである。特にゴッホの絵は、アムステルダムのゴッホ美術館まで赴き、観たことがある。
本稿筆者は、藤田絵が好きだから、藤田擁護をしているのではない。上に記した不可思議な仁科評価のような日本近現代史の歪みに気づき、それを正したいと思う観点から、藤田嗣治の玉砕画評価を再検討し、条件つきで弁護するのである。渡部富哉の一連の画期的な仕事が明らかにしてきたように、いわゆる革新系の正史も含めて、正史には虚偽が存在する。その虚偽は批判しなければならない。(以上)
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