犬養健関係裁判記録と風見章日記:尾崎秀実の政治的影響力とその背景-岸道三・牛場友彦秘書官と風見章に焦点を当てて-(現代史研・レジュメ)

著者: 進藤翔大郎 しんどうしょうたろう : 京都大学博士課程
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現代史研究会報告

2019・6・8

進藤翔大郎

犬養健関係裁判記録と風見章日記:尾崎秀実の政治的影響力とその背景-岸道三・牛場友彦秘書官と風見章に焦点を当てて-

 

Ⅰはじめに

本報告発表要旨

・犬養健関係裁判記録および風見章日記を通して尾崎秀実の政治的影響力がどの程度だったのかを探る。その過程において、尾崎の政治的影響力を拡大させたファクターとして風見 章と近衛秘書官組(牛場友彦・岸道三)に焦点を当てる。

主な資料①

「軍機保護法違反事件裁判記録:犬養健関係」

・京大人文研所蔵 古屋哲夫教授が宗文館書店で購入

・ゾルゲ事件の裁判の際に、犬養健側が自己を弁護するために提出した雑多な史料

→犬養は自身の尾崎への情報漏洩の違法性阻却事由として近衛内閣において情報を提供すべき政治的立場にあったという事例を列挙。

犬養健関係裁判記録を扱った先行研究

・尾崎秀実 [著];今井清一編著『開戦前夜の近衛 内閣』青木書店, 1994

・田中悦子論文(田 中悦子 「尾崎秀実の汪兆銘工作観」『日本歴史』 吉川弘文館 1997 年 9 月号。

・春日井邦夫『情報と謀略』国書 刊行会, 2014。

・進藤翔大郎「犬養健関係裁判記録から見た尾崎秀実の政治的影響力」『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』第45巻、2016年。

主な資料②

風見章日記

・昭和11年から22年までの風見章の日記、手記、論考を復刻したもの

・2016年8月23日、風見章日記中にある秘書官人脈、細川嘉六と近衛を結びつけた事例、風見と伊藤律会見および人物評に関係する記述が多数みられることを、三鷹駅北口ルノアールにて加藤哲郎教授、渡部氏に報告。

風見章日記を用いたゾルゲ事件関連の記述のある先行研究

・北河賢三、望月雅士による解説『風見章日記』

・渡部富也「尾崎秀実とゾルゲの2・26事件(渡部富哉講演記録)」2017年2月26日 戦前戦後史人権フォーラム

「太田耐三関係文書」との関係

  • みすず『現代史資料』第二巻6予審判事訊問調書(証人・風見章訊問調書、証人・近衛文麿訊問調書含む)、みすず『現代史資料』第三巻13西園寺公一の手記(証人・牛場友彦訊問調書含む)、14西園寺公一に対する予審訊問調書(証人・牛場友彦訊問調書含む)は太田耐三関係文書には含まれていない

②太田耐三関係文書5月11日上奏案との関係

(1)第一次近衛内閣嘱託後の、尾崎と第二次・第三次近衛内閣との関係が全く書かれていない。上奏案全体の情報量から朝飯会との関りなどが全く触れられていないのは奇異。

  • 西園寺公一、犬養健への配慮(「情を知らずして」)

問題意識

〇尾崎秀実の政治的影響力

→尾崎が内閣嘱託として迎えられる頃は、尾崎の中国情勢に対する論調に変化が見られた時期。こうした中国情勢認識、東亜共同体論がどの程度近衛内閣の政策決定に影響力を持っていたかを考える際に重要となる。

Ⅱ 『木戸日記』に見る木戸の近衛周辺・西園寺に対する防衛姿勢

木戸幸一『木戸幸一日記 下巻』

昭和17年(1942年)1月29日

三時半、原田男来訪、西園寺公一氏の件につき話あり、暫く静観を勧む。

昭和17年(1942年)2月19日

湯澤内相参内、拝謁後面談、選挙対策、西園寺公一氏の件等を聴く。

昭和17年(1942年)3月17日

二時、留岡警視総監来庁、西園寺公一氏国防保安法、軍機保護法関係にて拘引せられたる旨内話あり、驚く。

昭和17年(1942年)3月20日

三時半、官邸に於て近衛公と西園寺公一氏の件を中心に懇談す。余は極力自重を希望す。

昭和17年(1942年)3月21日

一時半、富田健司氏来訪、西園寺公一氏の件につき懇談す。

昭和17年(1942年)4月24日

法相参内、面談、尾崎の件につき連絡す。

昭和17年(1942年)5月7日

一時半、橋本伯の来訪を求め、武者小路総裁、松平侯と共に尾崎(秀実)事件に関連し、西園寺家の問題につき相談す

昭和17年(1942年)5月13日

十一時半、岩村法相来庁、ゾルゲ(Richard Sorge)の件につき話あり。拝謁、内奏せらる。

昭和17年(1942年)5月18日

御陪食後、近衛公来室、スパイ問題其外につき懇談す。

昭和17年(1942年)5月25日

留岡総監来訪、スパイ団の件の影響につき情報を聴く。

昭和17年(1942年)12月5日

午前九時半、野村毛利家総務來邸、西園寺の件につき相談ありたり。

十時半、武者小路総裁を其室に訪ひ、西園寺公家の件につき相談す。

昭和17年(1942年)12月18日

岩村法相よりゾルゲの件年内に予審終結の筈云々。

昭和18年(1943年)11月9日

武者小路総裁来室、西園寺公一の件につき相談す。

・木戸幸一のゾルゲ事件に関しての焦点は一貫して西園寺公一(西園寺家)の問題であった。

・木戸の西園寺公一への捜査を最小限に留めておきたい姿勢

Ⅲ「軍機保護法違反事件裁判記録:犬養健関係」

(1)「軍機保護法違反事件裁判記録 : 犬養健関係」(上告趣意書より抜粋)

(二)尾崎秀実は支那問題の研究者にして其の支那に関する豊富なる知識と見識 とは世情一般より高く評価せられ居りたるものなるところ、昭和十三年七月支那 事変処理を使命とせる第一次近衛内閣当時其の支那通たるの故を以て挙けられて 内閣嘱託を命せられ支那事変処理に関し種々献策に務め、或は昭和十三年五月極 秘裏に行はれたる当時の汪兆銘側和平陣営の重要人物たりし高宗武の第一次来朝 に際しては被告人等日本側和平運動の有志数名の者と共に選はれて其の対談の席 に連なり或は同年十二月には「事変処理方針」に関する近衛声明の文案の起草 を命ぜらるる等、日支和平問題処理に関する枢機に参画し、昭和十四年一月第一 次近衛内閣の退陣と共に其の内閣嘱託の地位を退き、同年六月南満州鉄道株式会 社の高級嘱託なりたる後たる第二次近衛内閣に於ても、支那問題に関する限り依 然被告人西園寺公一等と共に所謂内閣の内輪者として該問題に関する其の意見は 常に尊重せられ居りたるもの

→①昭和 13年5月高宗部来日の際の尾崎の列席

・犬養健によれば、影佐などの軍人以外で面会を行ったのは、松本重治、西園寺公一、尾崎秀実、犬養健の4名のみ。

・「後年両国間に締結したる日華基本条約は斯かる両国間の有志が胸襟を開いて互いに語り合いたる和平案件の具体化し成文化したるものなり」

・この時、高宗部の極秘の来日に際しては、「高宗部滞京中の日程及び面接者接触は陸軍当局に於いて厳重に監督したるものなり」→軍部からの尾崎に対する信頼

②第三次近衛声明(近衛三原則)の尾崎への起草命令

③内閣の内輪者として遇されていた尾崎

(2)「軍機保護法違反事件裁判記録 : 犬養健関係」(犬養健手書き原稿からの抜粋)

風見氏と尾崎との特殊関係

風見氏が昭和十四年一月第一次近衛内閣総辞職に伴い内閣書記長辞任直後静養の為 に別府の旅館(茨城県人斎藤茂一郎氏懇紀の旅館のなと記憶す)に暫く滞在の際も、尾 崎一人を伴い行きたり。

○近衛声明に関し 昭和十四年十二月二十二日発出の近衛首相談話(所謂近衛声明)の原稿は当夜陸軍海軍 外務省等立会にて首相手許に於て執筆したるものなるも、尾崎の原文にはあらず。(太田耕造 氏は尾崎が執筆したるもの、少くも試案の一は執筆したりとの噂を当時聞き 居りたりと云はるるも執筆者にはあらず)但し当夜は同じ首相官邸に勤務せる横溝情 報部長にすら秘密にし居たるに不拘、尾崎は何時風見書記官長より諮問あるやも不計 として首相秘書官室(近衛声明執筆の室)の直下の自室に夜まで居残りゐたり。而して □□記録にもまも その前後に於て風見書記官長に対し最も親しく、且つ周密に対支意見、及び近衛声明に関する意見を述べたるは尾崎にして、牛場秘書官執筆の声明試案につき文章等に関し不満を述べゐたりと記憶す。要するに、尾崎は単に当時特に近 衛内閣対支政策の推進力たる風見書記官長に対しては単に献策のみならず諮問にも答 へゐたり。

近衛声明原案を尾崎は牛場首相秘書官と共に執筆したり。この時執筆はせざりしも同室に在りて意見を述べつつありし者に西園寺公一と岸秘書官有り。この声明案は文章等に付陸軍方面に異論有り。異論の有する事を影佐軍務課長より風見書記官長に対して述べたる結果、更に一の試案を中山優氏相書き首相の意見を加へ、最後に之を 基として陸海立会の上にて清書したるものが十二月二十二日発出の近衛声明なり。この声明発出当夜の模□に付して過日記述して発出せり。

・「○風見氏と尾崎との特殊関係」にあるように、風見と尾崎の異様なほどの親密性

・茨城県関城見学には10人くらいの規模で、近衛も同行(『ゾルゲ事件(二)』401-403項)

・西園寺公一予審訊問調書(『ゾルゲ事件(三)』)によると、第三次近衛声明の起案の依頼は、牛場秘書官岸秘書官、松本重治、尾崎秀実西園寺公一に対してなされ、しかも近衛首相からの依頼であったとしているが、上記の犬養健資料からは風見章を通しての対支政策への積極的な提言・関与だけでなく、尾崎と牛場が共同で第三次近衛声明の起案にあたっていた。→「秘書官組」としての尾崎秀実。

・「近衛内閣対支政策の推進力たる風見書記官長に対しては単に献策のみならず諮問にも答へゐたり」という文面からもわかるように、尾崎が風見を通して近衛内閣の対支政策に大きな影響を与えていた、もしくは、少なくとも与え得る政治的立場を有していたと考えられる。

(3)「内閣参政官設置要領(案)」につながる「内閣の内輪者」としての尾崎

・「内閣の内輪者」

犬養健関係文書にある上告趣意書には「内閣ノ内輪者」に関して次のような記述

所謂内閣の内輪者とは獨り近衛内閣のみならず歴代内閣に慣習的に存したるものにして 内閣総理大臣又は書記官長の事実上の相談相手として選はれ、随時或は其の諮問に答へ或 は献策を為す者にして、書記官長、総理大臣、総理大臣秘書官又は内閣嘱託等に任官することなくして自由に内閣総理大臣官邸に出入りし、其の内の或者は官邸内に特に一室を興 へられ又内閣保管の機密書類等らも閲覧せしめらるることある者を謂ふ

→「内閣の内輪者」という言葉は、ブレイントラストと同じ意味で使われており、当該史料には、「ブレイントラスト」も「内閣の内輪者」という語も使われている。

・「弁論要旨」からの抜粋

四.被告人は正当なる業務行為を為したるなり

(略)被告は当公廷に於て本件条約案及付属文書案等を尾崎秀実に示したるはそれも 自分のつとめなりしと考へたりと述へたるが被告の此の公判劈頭に於ける此の主張は 公判審理の進行に従ひ刑法上正当なる業務行為に該当するものなるの全貌は一点の疑 なく立証されたり 既にして被告が 尾崎 西園寺 松本等と共に其の第一次第二次 第三次近衛内閣を通して所謂ブレイントラスト又は所謂内輪者を形成したることは予審□の記録に依りても明白に看取せらるる所なるが当公廷の審理に及び更に証人牛場友彦 木原道雄に依り立証され書されたり 証人富田健治は西園寺松本犬養の近衛内閣に於ける所謂内輪者なしも尾崎秀実のみは第二次近衛内閣以後に於ては内輪者ならざらんと言ふ 富田証人が之等内輪者中より尾崎一人を排除したる心理は何人にも首肯し得るところなるが之を排除したる形式的理由は尾崎が第二次近衛内閣に於て内閣嘱託に非ず而て富田書記官長は之等内輪者とは直接の交渉希薄なりし点に求めたるものなり 而も富田証人は尾崎の第一次近衛内閣に於る内輪者たる関係を認めて第二次近衛内閣に於ては尾崎が内閣に出入りしたる内輪者たる実質を認むるものにして尾崎の内輪者たる関係を全面的に否認するに非ざるなり 若し夫れ富田書記官長邸に於 ける所謂朝飯会の幹事役が尾崎秀実にして被告等が同人により招集され居りたる事実 に想倒すれば富田証人の形式的否認の理由無きは明白なり

朝飯会は第一次第二次第三次近衛内閣を通して存続し首相官邸日本国総理大臣秘書官 邸等に於て開かれたるが之等の会員中更に厳選されたる者の朝飯会が即ち富田書記官 邸に於けるそれにして松本西園寺尾崎及び被告は右厳選されたる会員にして所謂内閣 の内輪者として最も緊密なる地位関係に在りしものなり

予審終結決定は被告が南満州鉄道株式会社東京支社調査部嘱託尾崎秀実に対して軍 事上の秘密を漏洩したる旨如くなせるを認定し被告が恰も路傍の人に秘密を漏洩した るが如くなせるもこれ耳を掩いて鈴を盗むの□にして尾崎が満鉄嘱託なるを奇貨とし 彼の内閣内輪者たる本質を無視せるものなり

被告が本件書類を尾崎に示したるは彼が満鉄嘱託たるが故に非ずして内閣の内輪者 所謂ブレイントラストとして被告と同一立場に於て内閣より委託されたる支那問題に 関する業務上の処理の為めに外ならず このことは既に予審調書に於ても明瞭なると ころなり 即ち予審第五回二三回答に於て尾崎は第一次内閣に於て内閣嘱託をして居り其後も引き続き内輪の関係にありし故他の問題は兎に角支那との和平工作問題に付ては絶えず同人も努力して居りたる関係上条約案の出来せる頃は西園寺と尾崎との扱ひに支那問題に関する限り差別を付けざりし旨を供述し居るなり この供述を追求すれば被告人の行為が正当なる業務に因る行為なることは直ちに判明したるなり

懸る内閣の内輪者たる地位関係は歴代内閣に於て必ず存在する慣習的実体にして無 之しでは政治の実際は運行し難きものなり 内閣書記官長総理大臣秘書又は内閣嘱託 は之等内輪者の法制化されたるものにして法制化されざる書記官長総理大臣秘書官又 は内閣嘱託は即ち之等内輪者なり

弁護人より提出せる証拠中「内閣参政官設置要領(案)」は松本西園寺尾崎犬養等の内輪者を法制化せんとしたる一試案にしてその第四項に掲げられたる参政官会議は 即ち前述朝飯会の法制化にして第七項に掲げられたる特別任用に少壮者をも登用すとは正に松本西園寺尾崎及び被告人らに該当するものなり 而て第三項に閣議其他重要 なる会議に参政官を帯同すとあるも被告は既に屢々懸る会議に招致されたる事実あり 其の法制化されたる者の行為なるとき即ち刑法第三十五条の法令に因り為したる行為なるが其の未だ法制化されざる者の行為なるとき即ち同上の正当の業務に因り為したる行為に外ならず即ち正当なる業務行為たる為めには法令の存在を必要とせず されば被告が仮に軍事上の秘密を尾崎に漏洩したりとするも這は被告が近衛内閣に於て尾崎に之を示すべき当然の地位関係に在り尾崎亦同内閣に於て之を示さるべき必然的地位関係に在りしものなれば両者間に於ける業務行為として違法性を阻却し被告の行為の無罪たること洵に当然なり

→・第一次近衛内閣嘱託後も、対支政策に関して、尾崎は絶えず内閣から意見を求められ政策立案に当たっていたと考えられ、しかも、尾崎は内閣に於ける政策立案者としての法的地位を得る寸前までいっている(→「内閣参政官設置要綱案」)また、「風見章日記」では岸・牛場秘書官組と一体化した行動。

秘 陸軍 内閣参政官設置要綱(案)

一、内閣総理大臣の幕僚として官民武官の実情を具申し(実際に触れ)国策の創意発案並びに国政指導の補佐に任せしむる為内閣に参政官を置く

二、参政官は内閣総理大臣に直属す

三、内閣総理大臣は閣議其他重要なる会議に臨むに当り通常先任及所要の参政官を帯 同す 四、参政官の補佐は通常参政官会議に依る 参政官会議は内閣総理大臣統理の下に内閣書記官長之を主宰す

五、参政官の定員は十五名以内とす

六、参政官は軍官民中より適任者を簡抜す

七、参政官は内閣総理大臣の指名に依る特別任用とす (各年代層の動向を確実に把握し得る為軍官民共に少壮者をも登用)

八、参政官に関する庶務を掌る為書記官を置く

備考 本官制制定に至る迄の期間参政官たるべきものを嘱託とし或は其他便宜の方法に依り速に本制度の運用を始むること

・証拠書類の「内閣参政官設置要領(案)」外枠には、「秘」「陸軍」という表記があるため、陸軍方面にも提出されたものと推測できる。

・この内閣参政官の発案者はどうも風見章であったらしい。(矢部貞治『近衛文麿』266項)風見は第一次近衛内閣時代から、昭和12年6月14日近衛首相と協議の上、永井逓相、中島鉄相、とも打合せを行っており、6月15日には馬場内相とも協議を行うなど参政官制度について熱心に取り組んでいた、とあり風見は第一次近衛内閣発足直後から、尾崎に対し法制化で以て政策立案者としての地位を与えたかったのではないか。(矢部は実際に

は法制上その他の点で困難な事情があるために、構想は中止になったとしている)

Ⅳ 『風見章日記』から見える「岸・牛場秘書官組」としての尾崎および「風見氏と尾崎との特殊関係」

(1)

みすず『現代史資料』第三巻

13西園寺公一の手記(証人・牛場友彦訊問調書含む)

14西園寺公一に対する予審訊問調書(証人・牛場友彦訊問調書含む)

・みすず『現代史資料』には含まれるも、太田文書にはない。

・岸道三に対する訊問調書はみすず、太田文書にも見られず、橋本乙次編『岸道三追悼録』によると、岸はゾルゲ事件に関して取り調べを全く受けていなかった模様。(石田啓次郎回想部分)

・13西園寺公一の手記(証人・牛場友彦訊問調書)では冒頭で、「西園寺公一に対する国防保安法違反並軍機保護法違反被疑事件及尾崎秀実に対する治安維持法違反被疑事件」においての訊問とあるが、内容はそのほとんどが西園寺公一に関するもので、日米交渉関係が主。

・14西園寺公一に対する予審訊問調書(証人・牛場友彦訊問調書)は、「被告人西園寺公一に対する国防保安法違反並軍機保護法違反被告事件」に関しての訊問であり、尾崎に関することは全く触れられていない。但し、朝飯会に関しては訊問内容あり。「尾崎秀実が昭和13年7月頃内閣嘱託となりました以後は原則として毎週水曜の朝ひらいて居蔦のであります。(略)そして第三次内閣総辞職の当時続けて居り総辞職の前日の水曜日に開いたのが最後でありました。其の時に尾崎が出席しなかつたので如何したのだろうと云ふ話が出ましたが、後に聞くと尾崎は検挙されたことが判りましたので其の時で其の会は打ち切つた訳であります。」とあり、検挙時に朝飯会が開催されていたこと、及び、朝飯会打ち切りの決定の理由が尾崎逮捕であることを述べている。→太田耐三文書 尾崎供述に同様の記述あり。(110-13)但し。後述の昭和研究会外交委員会及び小委員会における牛場と尾崎の活動に関しては全く触れられていない。

橋本乙次編『岸道三追悼録』岸道三追悼録刊行会

経済同友会(座談会 岸道三幹事をしのぶ)

水野茂夫「近衛内閣のとき、牛場友彦と岸道三が秘書官やって、その下に内閣書記で尾崎秀実というのがいた。それといっしょになって、その時分の岸というものは、これはきぜんとしていた。」

矢部貞治日記 銀杏の巻

昭和15年6月28日

昭和研究会の大山君がやって来、近衛新党問題について牛場、尾 崎、等の所謂「秘書官組」や西園寺や角田順や、穂積兄弟、木原、 後藤などといふ右翼連中などが、恰も組織本部などかの如き顔をし 何らの命令企画系統の一貫性がないことを訴へてゐた。

新政治体制の大綱を書いてくれといふ。

前に電話で、小石川の岸道三の宅で、岸、牛場、尾崎の三人で新党の組織を立案中なので、僕にも是非来て貰ひたいと申込みがあっ たので、五時頃行く。大体次の様な案を四人で考へた。

→・上記の記述から、尾崎を牛場・岸の「秘書官組」に含まれるものと解釈できる記述

・特に「矢部貞治日記 銀杏の巻」では、昭和研究会の外交委員会および外交小委員会では、尾崎が出席の場合ほとんどが牛場も出席しており、矢部は上記二つの委員会で尾崎と牛場両者との関りが際立っている。この点、牛場は証人尋問で全く追及されていない。

・昭和同人会編『昭和研究会』によれば、外交小委員会のテーマは南方政策および南方政策研究要綱案であったと思われる。

(2)『風見章日記』に見る近衛秘書官組としての尾崎秀実および風見章との「特殊関係」

6日記 昭和14年5月―9月

・昭和14年5月19日

ニューグランドにて岸、牛場、尾崎と茶会。

・昭和14年5月26日

正午延寿春の会、西園寺、尾崎、牛場氏の外、小島一氏、和久田氏、熊谷村司氏、秋田県経済部長白石喜太郎氏参加。

・昭和14年6月3日

正午アラスカ、尾崎、牛場、西園寺、平井、林広吉同席。

・昭和14年6月9日

午前10時より散歩。正午多喜山にて、、尾崎氏と会食。

・昭和14年6月13日

夜は桑名にて近衛公に招かれ、影佐大佐、岡海軍大佐、岸、牛場四氏同席会食。

・昭和14年6月16日

午後交詢社にて山浦貫一氏、細川嘉六氏、尾崎秀実氏と面会。

・昭和14年6月17日

細川嘉六氏旅行の件につき、尾崎氏を通し千円支出

・昭和14年7月1日

出井にて昼食、、尾崎、渡辺、西園寺

・昭和14年7月11日

正午築地錦水にて関口泰、近衛文隆、西園寺公一牛場尾崎会食。

・昭和14年7月15日

午後三時過列車にて帰京。喜文にて西園寺尾崎氏送別会。佐々、笠、後藤龍(隆)之介、牛場参加。

・昭和14年7月17日

正午出井にて真藤、緒方、松本健次郎氏と会食。尾崎氏に西園寺氏の分とともに二千円選別。

8日記 「備忘録 昭和14年9月以降」(昭和14年9月―10月)

・昭和14年9月22日

細川嘉六氏農村視察了る。その視察談を日本クラブにてきく。同席、尾崎、西園寺両氏。別項にもあり。

△細川嘉六氏、農村視察の結論。

一、現在の経営形体における負担は限度に達したること。

一、非戦的意識の発生漸く顕著にして、その傾向は漸次に昂まりつつあること。

・昭和14年9月23日

細川嘉六氏農村視察聴聞の都合をきくため、近衛公に書信

△細川氏語る、「山陰道の車中にて、商人にして内乱が起るかも知れませんねと平気で漏らし居りたり」と。

・昭和14年9月30日

午後3時華族会館にて、近衛公とともに細川氏の農村視察談を聞く。

(略)

夜細川氏をねぐらふため、延寿春にて会食。

・昭和14年10月12日

午後3時日本クラブにて小山亮氏と会見。同4時尾崎秀実氏と会見。尾崎氏曰く、先般近衛公を訪問したるに、細川嘉六氏の話はつまらなかつたといはれたる由、心外也。話術下手なりとも深刻なる細川氏の話がつまらぬとありては、政治的感覚を疑はざるを得ざるに至る。農村の事情は遂に近衛公にして斯の如くんば、余はもとより言ふに足らざる也。国政の前途、ついに戦慄を禁じ得ざる也。

・昭和14年10月14日

正午星岡茶寮にて西園寺公一、牛場、尾崎、犬養健、松本重治氏等と会談。犬養氏より汪政権問題を聴取、甚だ思はしからざる情勢といふの外なし。

「9日記 「備忘録 14年自10月至11月27日」(昭和14年10月―11月)

・昭和14年10月27日

正午日本クラブ、尾崎、西園寺、牛場、松本、伊東氏。

・昭和14年10月31日

正午延寿春、細川嘉六、山浦貫一、岩淵辰雄、尾崎秀実氏同席。

・昭和14年11月24日

正午出井にて西園寺公一、尾崎、牛場と会食、ともに時事を語る。西(西園寺)氏曰く、影佐少将等は汪政権成立後の大使としては、永井柳太郎等を可とするものと真面目に考慮し居れりと。以て軍部の政治に於ける幼稚なる認識を知るに足る可し。

10日記 「備忘録 14年11月28日三郎闘病記」(抄録) (昭和14年11月―15年2月)

・昭和14年12月1日

岸道三氏支那よりかへる。古野氏、牛場氏、松本氏と共に出井にて報告をきく。

(略)

岸道三氏帰京談、汪兆銘側は日本政府側の提案を容れ難しとて新政権問題停頓中なるが、事実また日本側案を容れしめたる新政権なりとすれば、却つてその成立のために蒋勢圏を強化するの傾向をすら生むべしと。

又曰く、汪氏は近衛内閣と新政権問題も取りきめたき意向也と。

併乍近衛内閣を相手としたときは実行可能の政府を冀希するに由り、従つて阿部内閣の如きを以てしては汪も信頼し難かるべく、而して阿部内閣を辞職せしめ近衛氏をして出馬 せしむるの機会をつくり得べきか、事容易ならず。

・昭和14年(1938年)12月11日

正午交詢社、平貞蔵、尾崎秀実、伊藤述史、大西斎、早水重親氏来会。

橋本乙次編「岸道三追悼録」岸道三追悼録刊行会

・牛場友彦回想「岸は軍務課長の影佐中佐と一番親しくなり、正規の政府機関中では望めない緊密な連携提携このチャンネルを作り上げた。のちに興亜院となった対支事務局の設立準備をしたのは二人であり、また汪兆銘工作にも二人は大きな働きをした。」

・小池厚之介回想「興亜院の創設などは彼の建築によるものと思われる。影佐大佐と彼は刎頸の交わりを結んでいた。」

・花野吉平『歴史の証言』龍渓書舎

花野吉平は岸道三の口利きで風見章から内閣嘱託として、上海で情報活動の任務要請を受ける。後日、風見、佐々弘雄、尾崎秀実、早水重親らと会合を行い、現地上海で軍機関に新施設班を設置させそれを拠点にする案を案出。尾崎は早水と花野に上海での軍機関の諜報活動を策案と明記。

・昭和14年2月15日

正午アラスカ、細川嘉六、牛場、西園寺、、是松、尾崎氏同席、昼食。

・昭和14年2月15日

安田徳太博士訪問。長男又男氏を通じて、三郎のため薬を分ちくれたるお礼に行きたる也。長島氏同道、金百円を謝礼す。

→・風見章日記中の尾崎秀実が登場する記述の大部分に、牛場友彦・岸道三両秘書官のうちいずれかが登場。尾崎は昭和14年1月4日、第一次近衛内閣総辞職と共に内閣嘱託を解かれ、の後、内閣嘱託を解かれ、同年6月に満鉄調査部嘱託となるが、その後も風見と頻繁に接触し、その際には、牛場・岸両秘書官の内少なくともどちらかが同席しているケースが多数。

・なお、第一次近衛内閣後、岸道三は秘書官ではなく満鉄調査部の嘱託に採用されているが、この時期、岸と尾崎は満鉄調査部の一室で机を並べていたことを目撃されている。橋本乙次編「岸道三追悼録」岸道三追悼録刊行会(石田啓次郎回想、磯井雄三回想)

・さらに、「6日記 昭和14年5月―9月」「・昭和14年7月17日正午出井にて真藤、緒方、松本健次郎氏と会食。尾崎氏に西園寺氏の分とともに二千円選別。」とあるように、第一次近衛内閣後も風見は尾崎、西園寺による情報調査活動の費用を支出していた。この点、「・昭和14年6月17日 細川嘉六氏旅行の件につき、尾崎氏を通し千円支出。」は風見章の尾崎秀実を通した情報収集活動の一環と見られる。なお、風見は昭和14年9月30日、細川に近衛に対し農村視察の報告を行わせており、さらに、昭和14年10月12日の記述から、尾崎は近衛から直接細川嘉六農村視察報告の感想を聞き、その内容を風見に報告。

・細川嘉六については、昭和19年12月6日に「細川嘉六事件につき証人とし て予審判事の訊問に応ず細川氏検挙後生活困難ときゝて千円程援助したる事に関して也」(19日記「昭和19年4月起」)さらに、昭和十八年には伊藤律が風見を訪問し、相川博の検挙後、相川に代わって伊藤律が細川嘉六の消息を伝えている。その後、「伊藤氏が昭和十八年末刑務所入りをする頃まで細川夫人への毎月の援助はこの伊藤氏を煩はして届けて貰った」

→・昭和15年3月―昭和16年12月の間、尾崎との会合、尾崎検挙に関する記述が皆無。

(3)Cf. 尾崎逮捕後の風見章

15 日記「備忘録 昭和16年」(昭和16年5月―17年6月)

・昭和17年5月16日

尾崎秀実問題、けふ発表さるといふので警官二名づつ昼間監視に来る。やむなく当分家居することとして書斎の整理す。

18日記「閑居雑記 昭和18年8月1日」(昭和18年8月―19年三月)・

昭和18年9月29日

尾崎秀実死刑判決あり。

昭和18年12月11日

高田判事午後来訪し、尾崎秀実事件の全貌を説明してかへる。

19日記「昭和19年4月起」(昭和19年4月―12月)

昭和19年11月11日

松本慎一氏夕刻来訪、尾崎秀実七日午前死刑執行されたる趣を聞知す。

20 論考「ソ連と太平洋戦争との関連についての若干の考察」(昭和19年9月27日)

→・ソ連による平和斡旋に対して悲観的

・ソ連の対日参戦の可能性の大きさを指摘し、早期講和を主張

21 論考「日ソ中立条約に関する若干の考察」(昭和19年9月29日)

→・ドイツ敗北の場合、日ソ中立条約は無意味との指摘

24 「ソ連革命記念日に於けるスターリンの演説に関する若干の考察」(昭和19年11月15日)

→・スターリン演説からソ連の対日参戦が確実になったと指摘

⇒・近衛上奏文の対ソ観に近い印象。・(牛場・岸両秘書官組を通して時局認識を共有していた可能性)

結論

①『木戸日記』に見て取れるように、木戸は近衛周辺および西園寺への捜査の波及に一貫して消極的であった→近衛周辺(岸、牛場、風見への捜査に影響?)

  • その証左として、牛場秘書官は、西園寺公一の証人尋問でしか呼ばれておらず、岸道三に至っては証人尋問でさえも呼ばれなかった。→西園寺公一、犬養健に留めて近衛周辺に捜査を波及させなかった可能性。
  • しかし、『犬養健資料』『風見日記』『矢部貞二日記』から見て取れるのは近衛秘書官組としての尾崎という側面
  • なお、岸・牛場秘書官組以外に、近衛内閣において尾崎の政治的役割を高めたファクターとして風見章が挙げられるが、風見も証人尋問で呼ばれるのみ
  • 尾崎秀実の政治的影響力を高めた主要因は、岸・牛場秘書官と風見章であった

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1045:190616〕