私が所属している関西福島県人会は、修学旅行で関西を訪れた中学生との交流会を大切な活動の一つに位置づけている。今回お会いしたのは、福島県双葉郡富岡町にある富岡第一中学校である。2011年3月11日に勃発した東日本大震災と福島第1原子力発電所の3度にわたる水素爆発と火災発生で、第2原子力発電所が所在する富岡町全町民が町外への避難を強いられることになった。郡山市や三春町に避難された町民の様子については、テレビ等で広く紹介されており、三春市街地から三春の滝桜の中間地点にある仮設住宅に暮らす旧町民の姿には胸つぶれる思いである。町民は、春になるたびに故郷にある夜ノ森公園の桜に思いを巡らしていたであろう。
今回の修学旅行は、本年7月9日(火)から10日(木)の3日間、富岡第一中学校の中学2年3名(男子1名・女子2名)と同3年(女子1名)の全生徒4名、そして校長・教頭・教諭・第二中学の講師の先生方4名、計8名の震災後、初めての修学旅行である。しかし、本来の行事であったら対象者は3年生のAさん一人だけである。
旅程としては、初日早朝に常磐線富岡駅を立って新幹線を使い大阪に入り、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター」等のアトラクションで終日楽しんだそうである。2日目は京都に入り、金閣寺から清水寺まで生徒4人だけの自由行動の時間で、彼ら彼女らは公共交通機関を駆使し1日楽しんで、宿舎である阪急京都線大宮駅前のアークホテル京都に戻ってきた。お昼ご飯は清水坂で京風醤油ラーメンを食べたとのこと。
交流会では相互に自己紹介をした後、私は大学時代に男声合唱団で学校訪問をしたときに覚えた旧富岡中学校の校歌を歌い、みんなに拍手を受けた後、大相撲の立行司・41代式守伊之助さんから託された色紙をやや疲れ気味の先生方に手渡した。避難解除を受けて昨年4月に富岡町に戻った園児・児童・生徒たちを千人の町民が出迎えてくれたという話もあった。
生徒の4人は「富岡町・学校の今~私たちが大切にしていきたいこと!~」を分担して報告した。震災と原発事故により日常が破壊された彼ら彼女らは、富岡町の自宅や友人たちへの思いや突然の環境の変化に、どれだけ苦しんだであろうか。
富岡第一中学で毎日、放射線線量計の当番をしていた女子生徒は卒業し、その役目は2年生のB君に引き継がれていた。B君は会場で私たちの前で線量計を作動させ、「富岡町より高いです」と報告した。CさんやDさんは、全国から心温まる支援を受け、芸能界では秋元康さん、指原莉乃さん、リリー・フランキーさん、古舘伊知郎さん等との交流や千葉大学の学生との合同運動会の思い出について語ってくれた。
日常生活では、車で1時間強の距離の三春町にある富岡第二中学校との遠隔授業や合同学校行事のこと、富岡町の同じ敷地にある保育園から中学校までの合同行事や合同給食等、同じ時間を仲よく楽しく、そして何よりも大切にしていることが語られた。複式授業やワン・ツー・マンの授業など、昔の分校のような授業と最先端の技術を駆使した授業が混在している。いま1年生は6人いるが、三春町にある富岡第二中学から移ってくる生徒はいないであろうとのことであった。実際、富岡第一中学に戻ってきた生徒は三春町以外の避難地から、元気なDさんにいたっては海外から父親を説得して転校してきた生徒であった。
唯一の3年生であるAさんは、林修一さんや小泉進次郎さんら著名人が教育復興応援団に名を連ねる「ふたば未来学園高等学校」への本格的な受験勉強を始めなければならないと話をした。「まだまだ時間があるよ」と話を向けたところ、「あと20年もしたら、私は死んじゃうし」という言葉に私の心は凍り付いた。
Aさんの発言の真意を確かめる勇気もないまま交流会は終了した。のちに物理学の高名な先生に話をしたところ、「なぜ、その場でその発言をきちんと訂正しなかったのか、それは風評被害でしかない」との忠告を受けた。正直、私自身はそう言い切る自信はない。
最終日に生徒たちは北野天満宮・二条城・東寺を見学して、富岡町への帰路についた。「助けられる人から助ける人へ」、生徒たちが交流会で最後に結んだ言葉を何度も反復しながら、富岡町に暮らす彼ら彼女らの未来にエールを送った。
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