過去を引きずって

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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ざっとした計算しただけだが、このままやっていっても、なんとか食ってはいけそうだ。ねっからの能天気、いくつになっても先はどうにかなるだろうとしか思わない、というより考えられないといったほうが正しいかもしれない。先は誰にもわからない。大雑把でいい。こまかなことをあれこれ考えれば、余計な(?)心配が先にたつ。

先が明るいとも思わないが、人並みはずれて暗くもなさそうだ。ふつうの老後はついてまわってくるだろう。何がおきるでもない平穏無事な生活があるのなら、楽隠居を決め込めばいいじゃないかと思わないわけでもない。ところがそう思おうとしても、もって生まれた性分なのか育ちからくる貧乏性なのか、おとなしくしていらない。贅沢言うなといわれても、穏やかなうす曇のような毎日でいられるような性質じゃない。

まだまだ知らない世界もというより、知ってることなんかほとんどないといっていいほど世界は広いだろうし、どこにいっても、こんなことあるのかというのもあるだろうし、そんな生き様もありなのかという人たちもいるだろう。できることなら、そういう世界に行って、いろいろな人たちと会って話を聞いてみたい。そして今までの自分とは違った自分もあるということを体験してみたい。

日本とアメリカとヨーロッパの会社を渡り歩いて、世間一般の目でみれば、ずいぶんいろんなところで、いろんなことをしてきた人なんだと思われるだろうが、そこには仕事を通して見てきたとだけという限界がある。かかわった仕事で後ろ指をさされるのもいやだし、請け負ったからにはプロとしても意地もある。とんでもない状況からでも、これ以上はしようがないという仕事をし続けてきた自信もある。一見無茶をしているようにみえても、そこには私生活を犠牲にしてでも仕事をしなければという自己規制が働く。

そもそも何かの縁か、いきさつでしてきた仕事。自分なりに状況に応じてしてきたことで、自分からこうなりたい、ああしたいという思いがあったわけじゃない。傍からみれば、やりたいようにやってるように見えたかもしれないが、それは仕事としてしてきたことでしかない。

海外駐在員のありようを思い浮かべれば、わかりやすい。ほとんどすべてといっていいと思うが、駐在は会社や組織の都合でしていることで、会社や組織の後ろ盾があって始めて成り立つ。いくら格好をつけたところで、傍からどう見えようが、仕事の都合でしていることでしかない。こんなことをいうと、中には、自ら希望してという人もいるじゃないかと言い出す人もいると思う。でも、ちょっと後ろに引いて全体像をみてほしい。希望とはいっても、会社や組織の後ろ盾もなにもなしで、旅行者のように自分の能力や才覚を頼みにしてのものとは違う。駐在なんてものは、何をするかどころか、住むところまで個人の都合を横において組織の都合に合わせてのことでしかない。

どんな仕事でも三年もやれば、良かれ悪しかれ目処もつく。三年四年とやってどうにもならなければ、十年かけても目処も立たないだろう。そんなところで骨を埋める? 冗談じゃない。後ろ髪を引かれることもあるが、そこは傭兵家業、三、四年も経てば転職している。新しい、知らないことを知りたいと思えば、いつまでも似たようなことを繰り返しているわけにはいなかい。傍からは、まったく落ち着きのないというのか、飽きっぽいヤツに見えただろう。その毛がまったくなかったわけでもなし、否定はしない。ただ、転職は自分の都合でやみくもにできることじゃない。なんらかの形で、仕事で培ってきた知識と個人で築きあげた知識の延長線でしか動けない。二十代でもなし、何も知らない世界に身一つで飛び込むような転職はない。たとえ望んだとしても、三十半ばを過ぎてからの転職は、それなりのポテンシャルがあると相手に認めてもらっては初めてなりたつもので、雇う側の事情が優先する。

漫画の世界でもあるまいし、ただの冒険心から始まることじゃない。そこには常に過去を引きずった自分がある。自分の過去を一切合財切り捨てての転職は、よほどのことでもない限りありえない。どうでもいい仕事ならいざしらず、なんからの知的生産活動に関与する、多少なりとも価値のあるものと思えば、何ももまして過去の実績とそれを生かす知恵がある、あるいは少なくともあるように見えなければならない。

傍目にはとんでもない業界から業界への飛躍にみえたかもしれないが、過去を引きずった転職でしかない。手の届くちょっと先への、言ってみれば、船から船への乗り換えのようなもの。乗り換えたところで、新しい環境で置かれた状況と立場から次の自分の再構築が始まる。ただ次の自分といったところで、ちょっと後ろに下がってみれば、新しい形も過去の延長線から大きく外れはしない。環境に順応しただけの自分、変わったようにみえたところで、要素要素を細かくみてゆけば、なにが変わったわけでもない。あれこれ要素を手直しして、あれやこれやの要素の組み合わせ、一見かつての自分とはかなり違うように見えても、状況に合わせた外面でしかない。自分の自分はほとんど何も変わっちゃいない。

経験と経験に基づく知識なりを生かそうとすれば、過去を引きずった自分のままでいなければならない。なにもかも新しい自分をと思えば、過去を一切合財捨てて分水嶺を飛び越える勇気が、そしてそれを許してもらえる環境にいるのかという二つの条件を満たさなければならない。

自分を捨てられない限り、とんでもなく違う世界を見ることはできない。たとえ自分では捨てられても、受け入れてもらえる自分があるとは思えない。そこには受け入れる側が過去の自分をどう評価するかという、過去に引きずられた先方の視点がある。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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