ともすれば文系の教養しかない人間には、新テクノロジーの抬頭はあたかもレバイアサン(怪物)の出現のように感じて恐れおののくか、過度に期待可能性をみてユートピアを描きがちです。現在の新しいテクノロジーの「めざましい」発展は、一面で人類に大きな便益を与えるにもかかわらず、他面で大きな災厄をもたらす危険性をはらんでおり、その意味でAIの有効性と安全性をバランスさせる探求が必要なのでしょう。とくに規制緩和やイノベーション奨励―投機もどきも横行―という新常識が闊歩する新自由主義的な土壌の上では、新テクノロジーの負の側面が無視される傾向あり、敢えてそのことを指摘することは、たとえ杞憂であっても起こりうる危機を回避する上で欠かせないと見ます。
そこで21世紀のテクノロジーであるAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーにまつわる一般社会の危惧をいくつか紹介して、議論の材料を提供したいと思います。
まずAIが先導する社会のデジタル化と生産・流通・サービス過程における作業プロセスの自動化が、近未来において職場から大量の勤労者を駆逐するだろうと予測されています。低賃金のもとでの労働集約的な産業の興隆によって、めざましい経済成長を遂げてきた東南アジア諸国では、生産ラインの自動化によって甚大な影響を被るだろうと言われています。低賃金と労働集約性をまずは生かしての産業化をねらっていた最後発のミャンマーなどは、そうならないうちに産業モデルが陳腐化して余剰労働力は行き場をうしないかねません。これでは政治難民の時代がようやく終焉したと思いきや、こんどは教育・職業訓練を受け新しい産業モデルに順応する間もなくて、国内で行き場を失い経済難民として再び海外をめざすことになるかもしれません。
「第4の産業革命」の象徴である「インダストリー4.0」を開始し、製造業のデジタル化によって画期的なコストダウンの実現をめざすドイツ―いまここで自動化の進むなか、ロボット化に課税をして社会福祉や労働者の教育・職業訓練に当てる原資を生み出そうとする議論が盛んになっています。元来課税対象であった人が職場から消えつつあるので、利潤の源泉としてのロボットに課税しようというのです。※
※2016年5月、欧州議会、コンピュータを「電子人」として分類し、その所有者または事業者に税金を払うように義務付けるとする議案を提出。 これは2017年2月に却下されたが、議会は、ロボット化の進展を規制するEU全体のルールを策定することを約束した。しかし「コンピュータ制御」の反対派は、そのような課徴金は技術的進歩を遅らせるだけであると主張している。「コンピュータ税の導入は雇用と競争力に非常に悪影響を及ぼすだろう」として、ドイツ労働組合連合(DGB)とドイツ工業連盟(BDI)も、このような税金の導入には反対している。(ドイツ公共放送「ドイッチェ・ヴェレ」)
ロボット課税の問題、つまりロボットに課税するのは、政治的にはともかく経済学的に正しいのか否かという問題は、マルクス経済理論上も興味ある課題です。マルクスによれば、経済価値の創造に関わるのは人間の労働力(可変資本)のみであって、生産手段たる機械体系(不変資本)は、価値の移転に関わるだけです。そうすると完全自動化した場合、経済的な新価値は誰がどのように生み出すのか、また課税対象はどこにどう求められるべきか等という問題が生じるのではないでしょうか。
さらにマルクスの場合、資本の有機的構成の高度化によって最終的に完全自動化しても、完全に人間が不要になるのではなく作業プロセスのregulatorとしての役割は残るとしています。しかし現在のAI問題は、人工知能の自己監視と自動調整能力によって、最終的な人間regulatorすら不要にするという議論でしょう。ロボットが、というより正確にはAIが人間のコントロールを離れ、自己学習と自己進化を遂げていく可能性と危険性について、十分な議論が必要でしょう。やはり何のための誰のための自動化か、という目的合理性や価値論的位置づけ―自由、自律、平等,共生等―に関しては、人間というか市民社会というか、やはり最終的にはヒューマン・ファクターの役割は決定的でしょう。カントは人間精神を機械的因果律の支配する領域と神、不死、自由などの形而上学的領域の二つに分け、最後に両者がどう関わるのかを追究しました。ガリレオ・ニュートンによって確立された動力学的な因果律の世界の認識可能性を哲学的に根拠づけるとともに、人間精神にはやんごとなき生きる意味と価値の探求を行なったのです。
AI知性の特徴について、いまのところ私はこう考えています。チェスや碁などのゲームの世界のようにルールが決まっており、指し手のパターンがたとえ無限にあるように見えても、実際は有限の範囲内にある場合、AIはきわめて有能であること。つまりAIの有能性は、数学化されうる、つまり計算可能性と予測可能性の領域で発揮されるのであって、人間に生き方や生きる意味を教えるわけではないのです。ガリレオは「自然は数学の言語で書かれている」として近代物理学の扉を開いたのですが、それは反面「幾何学的数学的に規定された世界」を世界そのものと取り違えたのだと、哲学者のフッサールは批判しました。そのうえで数学的物理学的な計算可能性の領域外にある原初的な生活世界へ立ち戻るべきであって、そこに近代精神の主客に分裂した状態を克服する鍵があることを示唆したのです。
また確かハイエクの議論だったかと思いますが、ソ連におけるゴスプラン(中央経済計画機関)は経済動態や需給動向の完全な予測可能性の上に立って経済計画を策定したが、それは完全に予知することの不可能な人間行動を予知しうるという建前でハードな枠組みの中に押し込め、その鋳型の中で行動するよう人々に強いることになった。その結果人間から自由を奪う全体主義に帰結したとする批判も参考になると思います。AIの万能性を強調する人々には、人間を機械の奴隷にしかねない傾向、いや実際はAIを駆使する支配者への多数者の従属を避けられないとする傾向がみてとれます。
以前英紙ガーディアンで、ロブ・F・ウォーカー博士はAIの進化状況をいくつか紹介していました。
例えば、AIはヴィバルディの作品の解析をもとに新曲を作曲して、それを作曲家の未発見の作品として音楽評論家たちに聴かせたところ、みなはそれを信じた、つまり見事に騙されたといいます。また2016年に、AIはオランダのマスターの既存の作業部会の分析に基づいて、レンブラントの絵を偽造する方法を学んだといいます。しかしそれをもってして、AIが人間のように創造性を身に着けたとはいえないでしょう。芸術作品に含まれる固有の要素やパターンを解析し、さらに総合して疑似的な作品を創ることは模倣の域内であって、本当の意味でのオリジナリティを発揮したことにはならないと思いますが、どうでしょう。
バイオテクノロジーの領域では、遺伝子組み換えの危険性は早くから警告されてきました。だがここへきてアメリカの科学者が発明した「CRISPR-Cas9システム」がゲノム編集に「イノベーション」をもたらし、あらゆる生物のDNAを正確にかつ容易に改変させる能力を科学者に与えたといいます。その結果でしょう、朝日新聞の記事(6/30)によれば、「大学や企業の研究室に属さず、自宅でバイオテクノロジーの実験を繰り返す『バイオハッキング』や『DIYバイオ』と呼ばれる活動が、米国で話題になっている。遺伝子を改変するゲノム編集を手軽にできるようになったことなどが背景にある。だが、自分の体を実験台にする「過激」なケースも登場。規制は後追いになっている」
さらに同記事によれば、遺伝子を自在に操作できるゲノム編集技術の一つ「クリスパー・キャス9」を使うと、DNAの一部が意図せずに消えてしまう恐れがあること―がん発生の危険性増大(野上)―を英国の研究チームが発見したそうです。医療への応用が期待される新技術の信頼性がゆらぐ結果で、チームは、編集された遺伝子を徹底して調べるべきだと警鐘を鳴らしているのです。それは制御されていないAIを不用意に使用すると、とんでもない不測の事態を招くかもしれないという危惧が危惧でないことの証でしょう。
<日本の技術開発の盲点>
ソフトバンクが開発した、相手の心を読み取り、それに応じた行動をとるPepperが話題になり、実際にソフトバンク店で案内に使われていると言います。このことについて、7/18朝日新聞「メディア私評」によると、新井紀子氏は、海外の識者から「日本のロボット・AI(人工知能)研究開発はジェンダーバイアスを助長している。なぜ社会は問題視しないのか?」と指摘されたそうです。受付嬢ロボットは、「受付という労働を担う人=従順そうで美しい風貌(ふうぼう)の若い女性」というステレオタイプを許容し、ジェンダーバイアスを助長している、というのです。欧米では考えられないことだそうです。新井氏は日本のAI開発の盲点を突いた厳しい指摘を行なっています。
「日本経済が鉄鋼や半導体で生きていた時代は、ジェンダーの観点から製品の良しあしを考える必要はなかった。しかし、社会の中で活躍するロボットやAIの研究開発では、包摂型社会を目指す上で妥当かどうかが死活問題になり得る。うっかりガラパゴス開発※をしないためには、女性を含むマイノリティーが研究開発チームに参加するだけでなく、十分な発言権を持ち、フェアに研究開発にあたることがひとつの解決策になりそうだ」
※例えば、せっかく共感能力ある特殊なロボットを作っても、オリンピックで来た外国人に不快感を抱かせ、拒否されては役に立たず、お蔵入りになりかねないということ。
また新井氏は別の「メディア私評」(4/18)でこうも言っています。
「ヨーロッパでは哲学も倫理学も黴(かび)の生えた教養ではない。自らが望む民主主義と資本主義のルールを通すための現役バリバリの武器なのである。
振り返って、我が国はどうか。「人間の研究者が『人工知能カント』に向かっていろいろ質問をして、その答えを分析することがカント研究者の仕事になると私は予想する」(「AIは哲学できるか」森岡正博寄稿、本紙1月22日)。
これでは、日本の哲学者の仕事は風前の灯(ともしび)と言わざるを得ない」
引用されているカント研究者云々の話ですが、AIに迎合するあまりカント哲学の基本的テーマを台無しにする「カント研究者」がいることに驚きを禁じ得ません。おそらく一般社会でのAIブームに大学の研究者ですら足を取られて自分を見失っている現状なのでしょう。
新井氏はまたべつのところでAIに対する欧州の構え方の特徴を次のように言っています。
「ヨーロッパはそういう安易な『後追い』はしないんです。ずっと老獪で戦略的です。『どんな社会を私たちは志向するのか』を起点に『何のためにAIを使うのか』『何が許容され、何は拒否されるべきか』を演繹し、イノベーションと共に法整備をしていくんですね」
AIバスに乗り遅れるなと浮き足立っている日本人には頂門の一針となることばです。明治以来の「内発性」に欠けた先進文化の追っかけ癖をどう修正していくのか、AI問題の根柢でで問われているのはまさにこのことのようです。
2018年7月18日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion7841:180719〕