直接自分がその中にいて体験したことではないが、新自由主義とグローバリズムが席巻した夢の間の50年に垣間見た風景の中から、80歳になった今、一とつながりになって思い返されることがある。
もう半世紀も前になるが、わたしが精神科病院から都立総合病院に転勤した当時は、敗戦直後の臨床経験がある看護婦がまだ残っていて、戦後間もなくチフスが流行した時、避病院(伝染病予防法に基づき、法定伝染病に当たる患者を隔離収容する公立病院、打木村治「天の園」第1部第2章にジフテリア流行時の様子を読むことができる)の庭にテントを張って病院に収容しきれなくなった感染者を収容した思い出や、当時起こった千葉大チフス事件という冤罪事件と同じようなマスコミを賑わせた事件があった(たまたまわたしの前職で同僚だった先輩がその当事者であった)話を聞けた。夢の島のゴミ処理従事者の出血性腎炎がネズミが媒介する伝染病ではないかと問題になったときは、図書館に所蔵されていた当時の伝染病学雑誌に731部隊の人体実験の詳細な報告が参照できたような病院である。わたしが入職した時はすでに避病院という名称はなくなっていたが、伝染病科がまだ都立病院としての看板の診療科で、一つフロワー全てが伝染病棟としてふだんは使われずに空いていて、その小さく区切られた一角に開設されて間がない精神科の外来があった。都立4病院に新設された中の一つとしての精神科外来は、ライシャワー事件をきっかけに地域医療を掲げた法改正に沿い地域の第一線としての役割を果たすべく設置されたのだが、一般科の外来から離れていて、外来患者から伝染病に感染るのではないかと恐れられたりした。伝染病院に相応しくというべきか、精神科病院の存在がそうであるように、施設収容の禁止(人権保護を理由に精神科の患者の一般科への入院を法的に禁止している)に対応してとも言えるが、一般診療科における精神科外来の位置は、隔離収容策の貫徹した構造の中にあった。精神科の医者の定数は2で、3人常勤がいたというのは、定数を増やすことは不可能ですから、うち1人は、伝染病科の定数を借りていて、そのように伝染病科は耳鼻科とかあちこちの科が定数を食うことによってスタッフの面で空洞化して行ったのです。時折、日本脳炎が入院してきて意識障害や興奮の見立てと治療の依頼があったが、ほとんどは脳炎疑いは触れ込みで、一般病院から法定伝染病の収容義務を盾にして依頼してくるアルコール離脱症への対応であった。そのような風景が、オイルショックを機に新自由主義政策が強まり、ワクチンの開発で日本脳炎が見られなくなったり、法定伝染病であった猩紅熱が強制収容なしに抗生剤の開発で一般外来で治療できるようになったように医療技術の革新の後押しもあり、広尾病院の改築に合わせてマールブルグ病やエボラ出血熱などに対する高度専門病棟が併設される一方で、いつの間にか、空いているベッドもスタッフも無駄で時代遅れと伝染病以外でベッドが活用され、伝染病科の人員も減り、1998年の伝染病予防法から感染症法への移行に至り、ウイルス性肝炎の治療を主とする感染症科に変わり、かつて病院の存在意義であった伝染病科は感染症専門医として内科のスタッフの一人になり、不時の感染爆発に準備して用意された専門病棟と専門スタッフは消え、抗生剤の開発に伴い防疫手技の徹底も疎かさが問題とされるようになった。
傍目で風景の変化として見た感染症対策の変遷の過程は自然に思えたが、今回のCOVID-19のパンデミック化に際会して思い直すと、無駄を省くという発想から新自由主義や市場原理主義の政策が介護施設など感染症弱者への援助を切り詰め、不時の災害防御の布陣を等閑にし、防疫体制を弱体化し、削減された医療資源、防疫品の備蓄が早々と破綻し、自助を強いられるのみに追い込まれ、感染拡大を防いだのは都市封鎖=隔離収容策のみという変遷として思い返される。
また、1970年代から精神保健相談に出ていた保健所は、平成12年の地域保健法施行以来、保健所から保健センターに対人サービスが移り、引きこもりの訪問、医学的対処に繋ぐ業務なども次第に縮小していったことを思い合わせると、COVID-19のパンデミック化は、グローバリズムと新自由主義政策の所産で、それにより変貌した世界が生み出した災禍という話も納得できる。
新型コロナのパンデミック化は、伝染病対策の縮小を繰り返してきた新自由主義政策とグローバリズムの所産としても、新自由主義政策の枠を外れて公助を拡大せざるを得ず、グローバリズムを阻害し破壊するものにもなる。そこにコロナ後の世界も見なければならないのではないか。(2021.01.10)
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