七十七年にニューヨークに赴任したが、それまでは東京近郊に住んでいた。そのころ、既にDIY(Do It Yourself)やホームセンターがあったのかもしれないが、聞いたことがなかった。今日日、当時とは打って変わって、DIYの資材を提供するホームセンターと呼ばれる大型店をあちこちに見かけるようになった。この二十年(?)ほどで、日本でもDIYが定着した感がある。
七十年代後半のアメリカで目にしたのは、DIYがフツーの人たちの日常生活そのものというのか、あまりに当たり前になっている生活だった。そのDIY、日本のDIYと似ているようで、本質のところで違う。それに気がついたときは、ちょっとした衝撃だった。たかがDIY、本質のところでなどと、何を大げさなことを言っていると思われるだろうが、それはアメリカという国の成り立ち、生い立ちから今日のありようを体現しているといっても言い過ぎではないと思う。
機械の据付や修理に行って、全て一人でできればいいのだが、どうしても客の誰かに助けを頼まなければならないことがある。客の多くは町工場で保全担当者がいない。頼む相手は、機械を操作している作業者(オペレータ)しかいない。オペレータの給与は、一般的に基本給(時間給)+残業手当+出来高に応じたインセンティブの総計になる。残業やインセンティブは会社の経営方針や仕事量によるから、いつも期待できるわけではない。収入はほぼ時間給-何時間働いたかで決まる。
機械をフツーに使えるオペレータであれば、単位時間あたりの生産量はほぼ一義的に機械の性能で決まってしまう。作業者が一所懸命働いたところで、その努力が生産量の増加に寄与する割合は少ない。そのためインセンティブをもらえる可能性は低いし、もらえたとしても額はしれている。
ここで機械が故障したときオペレータがどう思うか?機械加工ができないのだから、もともと大して期待はできないにしても、多少でもと思う残業手当やインセンティブはもらえない。時間給は機械加工できようができまいが、固定給として支払われるし、雇用契約には手伝う作業など入っていないから、修理が終わるまでのんびりコーヒーでもすすって一服していればいい。
雇用契約に記載されていない手伝う作業をするかしないかは、職場の人間関係や文化の影響もあるが、なににもましてオペレータの善意(意思)次第になる。お互いの合意に基づく契約が基本のアメリカ社会のありようが日本人にはなかなか分からない。
契約に基づく作業しかしない、しようとしないオペレータの仕事ぶりをみて、多くの日本人がアメリカ人は勤労意欲に欠ける、真面目(一所懸命)に働こうとしないと考える。出張に行くたびに、その考えの通りのことを見て、その通りだと思っていた。何か腑に落ちないものを感じながらも、目の前のその通りの現実を否定する、あるいはその現実をもたらしている背景を想像するのは難しい。見えたものが見えたまでだった。
セールスマネージャーの息子、アンディが見習いサービスマンとして入社した。二十歳をちょっとでた、真面目とうより愚直と言った方があっている気のいいヤツだった。半人前のサービスマンに見習いをつけて一人前の仕事をしてこいという感じで、よく二人で出張にだされた。道すがら、仕事をしながら、食事をしながらアンディから一般的なアメリカ人の生活について、その生活から学んだ諸々のことを教えられた。
アンディによると、週末は家でやらなければならないことが多くて結構忙しい。家のあちこちのペンキ塗りや水周りから電気系のちょっとした修繕、車や芝刈り機の修理まで、さまざまな広い意味での大工仕事をやっていた。よく二人で一所懸命仕事をしていたが、週末はこっちにはただの生活と遊びの時間、アンディには娯楽もあるが、それ以上に家での労働の時間だった。
アンディに誘われて、何度かアンディの実家に遊びに行った。典型的なアイルランド系なのか、アンディは十二人兄弟姉妹の真ん中あたりだった。それだけの大家族、さすがに大きな家だった。大きさはあるのだが、階段や壁、窓など、どこを見ても質素というのか、素人の日曜大工によるものとしか見えない。アンディが言っていた忙しい週末が決して大げさではなかった。
アンディの話を聞いて実家を見て、多くのアメリカ人が平日帰宅してから、また週末にも、あれこれしなければならない家事があるという事情が見えてきた。そう言われてみれば、何をするようにも見えない大家ですら地下に卓上旋盤まで置いた作業場を持っていた。
ヨーロッパからの移民で始まったアメリカでは熟練労働者が不足していた。熟練した職人にいたっては、ほとんど皆無に近かったろう。素人が、あるいはその仕事に関しては経験の乏しい人たちが、個人のインフラから町のインフラまで自分たちで作り上げるしかなかった。そこから、フツーの人たちがフツーに作業すれば、間違いのない十分なものが作れて、修理できるシステムが作り上げられていった。フツーの人たちが自分たちで「できるシステム」は経験豊富な作業者や職人への需要を最小限に抑えた社会に発展していった。
そこには自分たちでつくる自分たちの社会、社会に対する責任は自分たちが負うもので、どこかの誰か-たとえそれが自分たちで作った行政だったとしても-からの規制は必要最低限であるべきという社会観がある。日本のように誰かが決めた資格をもっていなければ手をつけられない、誰かが決めた業界規格に適合していなければ販売してはならないという規制が少ない。そこに、規制に縛られずに、自分たちでという文化をかたちにする手段を提供するホームセンターがある。ホームセンターに行くと、日本人の目にはこんなものまで売っているのかと、その品揃えの種類の違いに驚かされる。家屋や庭でも、家具やプールや車でも日常生活を支える家庭のインフラに関するもの全てが揃っている。大げさではなく、家の一軒くらい自分で建てられるものが揃っている。
注)
アメリカのおそらく最大手のホームセンター「Home Depot」のホームページを見れば、何がどこまで揃っているか分かる。urlは、http://www.homedepot.com/
家のインフラの改善や修理を業者に依頼すれば、時間給か請負で働いている、自分と同じように一所懸命仕事をしたところで大して報われない、やる気の起きない作業者にまかせることになる。ホームセンターに行けば必要な素材はなんでもある。だったら、金を払ってあてにならない業者にまかせるより自分でやった方が安心で安上がりと誰もが思う。
フツーの人たちが自分(たち)のことは自分(たち)でやるところ-DIYからアメリカ社会が創られていった。それは日曜大工やその延長線のDIYに留まらない。極端に言えば、DIYはアメリカの民主主義-フツーの人たちがフツーに社会(政治にしても裁判にしても)を創って運用してゆく社会を日常生活として体現している。DIYの視野というのか領域をちょっと広げてみれば、(草の根)民主主義とは政治や社会におけるDIYに他ならないことに気付く。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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