私の手元に、NATOとユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロから成る連邦国家)の戦争(1999年3月24日-6月10日)における、ユーゴスラヴィア側が主張する人的・物的犠牲に関する記録本(英文)が三冊ある。
NATO Crimes in Yugoslavia Documentary Evidence 24March-24April 1999 Ⅰ、Federal Ministry of Foreign Affairs、Belgrade、May 1999 (『ユーゴスラヴィアにおけるNATOの犯罪 1999年3月24日-4月24日 Ⅰ』、連邦外務省、ベオグラード、1999年5月)。417ページに及ぶ大部の資料だ。そのⅡは、1999年7月に刊行されており、4月25日から6月10日までをカバーする。552ページの大冊である。
Trace of Inhumanity NATO Aggression on Civilian Population and Facilities in Yugoslavia、Novinsko-informativni centar “Vojska”、1999、Beograd(『非人間性の足跡 ユーゴスラヴィア一般民衆と施設に対するNATO侵略』、軍情報センター、ベオグラード、1999年)こちらは94ページの小冊子。
北米西欧市民社会の軍事力NATOは、コソヴォ・アルバニア人をユーゴスラヴィア≒セルビア共和国の軍事力・警察力から救済する建前で、1999年3月24日に大空爆を開始した。しかるに、救済対象のコソヴォ・アルバニア人が、NATOのF16戦闘機によって大量殺害されてしまったのだ。1999年4月14日の事だ。
4月14日午後1時30分、コソヴォ地方のジャコヴィツァ―プリズレン街道に千名ほどから成るトラクターとトラックの車列が進んでいた。避難先(山か森か:岩田)から自宅へ戻るコソヴォ・アルバニア人達の車列であった。丁度メヤ村を通り抜けようとしていた。そこに突然NATOのF16機のミサイル攻撃を受けた。車列を狙われて散り散りになったコソヴォ・アルバニア人達は、メヤ村とビストラジ村の間で街道沿いのアルバニア人の家々に逃げ込んだ。午後3時30分、そこでも再びミサイル攻撃された。
『NATOの犯罪 Ⅰ』(p.1)によれば、死者73名、負傷36名である。そして、『NATOの犯罪 Ⅰ』(pp.2-38)に、セルビア側による詳細な現場検証文献と42葉の現場写真が載せられている。生々しく無残な遺体、老幼男女を問わない突然殺。
『非人間性の足跡』(p.83)によれば、コソヴォ・アルバニア人の死者は75名、負傷者は約100名。
『非人間性の足跡』(pp.82-92)に14葉の現場写真が見られる。そして特筆すべき事に、攻撃決定に到るNATO軍機間の交信記録が明記されている(p.86)。
――こちらCharlie Bravo(F16パイロット)、我位置10にあり。地上に動きなし。赤のミグ機の情報を求む。
――Charlie Bravo、こちら母機(AWACS機)。北西へ哨戒せよ、プリズレン-ジャコヴィツァへ、赤の機影なし。
――O.K. 3000フィートへ降下。
――母機からCharlie Bravoへ、10分後に後援が来る。ジャコヴィツァ南方に注目すべきものあり。
――C.Bから母機へ:雲の外へ出るところだ。まだ何も見えない。
――母機からC.Bへ:280を保って、北へ進め。
――C.Bから母機へ:3000フィートを維持、眼下に車列あり、トラクターかも。何だ?指示を乞う。
――母機からC.Bへ:戦車が見えるか。繰り返す、戦車は何処だ?
――C.Bから母機へ:トラクターが見える。私が疑うに、赤達は戦車をトラクターのようにカムフラージュしていると。
――母機からC.Bへ:この怪しい隊列は何だ?一体全体何が文民だ、全部セルビア人がやってるんだ、標的を破壊せよ。
――C.Bから母機へ:私は何を破壊すべきなのか、トラクターをか?普通の車をか?繰り返す、戦車はみえない。更なる指示を乞う。
――母機からC.Bへ:それは軍事目標だ、完全に正当な目標だ。標的を破壊せよ。繰り返す、標的を破壊せよ。
――C.Bから母機へ:了解。発射・・・。
ユーゴスラヴィア/セルビアは、この出来事を1949年ジュネーヴ条約違反の戦争犯罪と見る。NATO/米英独仏伊等の市民社会は、collateral happening 副次的事象と見る。そして日本の市民社会も後者に同調した。2008年にコソヴォ国家が独立した後、NATOがこの誤爆について新国家に謝罪したかどうか、私は確認していない。
令和5年8月27日(日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13204:230829〕