ベオグラードの日刊紙『ポリティカ』の3月24日と3月25日の紙面は、主に18年前のNATOによるセルビア大空爆に関する記事で占められている。3月24日はDan sećanja「記憶の日」とされている。
私自身、1999年3月23日、現地時間では24日であるが、NATO空爆が始まったと知るや、ただちに旅の手配をして、3月27日(土)に成田を発ち、28日16時にブタペストに着き、陸路ベオグラードに向かった。4月1日13時40分に戦争最前線のコソヴォはコソフスカ・ミトロヴィツァ市の冷雨降る人影なき通りに一人バスから降り立った。印象に残って消えない日々である。しかし、ここでは私の個人的体験を書かない。
3月24日の『ポリティカ』に戦争当時のユーゴスラヴィア連邦共和国(セルビアとモンテネグロから成る)の国連大使であったヴラディスラフ・ヨヴァノヴィチが論稿「NATO侵略の主目的はコソヴォ国家の創設であった」を執筆している。主旨を抄訳・紹介しよう。
アメリカを先頭にしたNATO空爆18周年。国連安保理の承認なき空爆だ。国連総会の侵略定義の全構成要素に照らして侵略である。侵略は平和に対する犯罪、最大の犯罪である。
宣戦布告もせずに、狂ったNATOは、自己の規約を踏みにじり、自己の責任領域の外へ遠距離から78日間にわたってセルビアに向けて死と破壊を投げ付けた。騎士道に悖る。セルビアは、二つの大戦において西側諸列強の信頼でき、犠牲的にたたかった同盟国であったのに。それは、セルビアの南部州コソヴォ・メトヒアを物理的に分離し、新独立国を急いで製作するためにだった。
カセット爆弾や劣化ウラン弾が市民的環境に対して使われた。ガンの発病とそれによる死が多発増加した。一般市民に対する戦争犯罪である。しかしながら、NATOとその最も責任ある人々はいかなる国際裁判にもどの国の刑事法廷にも立たされていない。
ハーグの旧ユーゴスラヴィア戦争犯罪国際法廷のカナダ人主任検察官は、恥知らずにも「NATOが何等かの戦争犯罪を犯したと言う主張は根拠がない。」と声明を発した。
NATO諸国の高官達の戦争責任が公衆世論の中で全く問われることがなかったのは、前代未聞の意識的・持続的になされたセルビア人悪魔論の故だ。セルビア人は民族として有罪だ。コソヴォ・アルバニア人10万人を殺した。否、おそらく50万人を殺した。セルビア人を跪かせねばならない。こんな調子だった。
しかし、戦争は永遠に続きはしない。平和と協力の時間がやって来る。協力には相手が要る。NATOとその指導諸国と協力できるか。残念ながら、否だ。
彼等は現在もコソヴォ・アルバニア人を依怙贔屓している。安保理決議1244のアルバニア人に適う諸規定の実現を優先し、セルビアとコソヴォ・セルビア人に適う諸規定を無視する。
コソヴォ独立こそがNATOがユーゴスラヴィア連邦を侵略した主目的であったわけだ。
こうして、NATOは攻勢的な軍事同盟に転化した。多民族国家の一部分を独立国家化する国家創設者となり、国境線の強力な画定者となった。多くの多民族国家がこのような前例を恐れるのも由なしとしない。
コソヴォの実例は、NATOとEUの指導諸国の仮面をはいだ。彼等は、私達の友人にはなれない。しかし、交際は出来る。
NATO空爆当時を振りかえると、日本市民社会の大部分、リベラルもレフトもセルビア悪玉論であって、NATO空爆肯定論であった。私が知る例外は、新右翼の一水会と新左翼の小党派「戦旗」派ぐらいであった。私自身、坂本義和東京大学教授・平和主義者の「苦汁」にみちた、しかし空爆肯定に到る論理を事実に基づいてある講演会で反対討論者として反駁したことがある。
2003年、サダム・フセインのイラクに対する米軍の一方的攻撃に関しては、日本市民社会の意見が割れて、アメリカの軍事侵攻に批判的になった。対セルビア大空爆作戦は北米西欧の市民社会が一体となって実行されたのに対して、対イラク侵攻作戦の場合西欧の独仏が米英に反対して参加しなかった。それ故に、自前の情報・知識と自分の歴史感覚で判断するよりは、西欧市民社会の良識を信頼して行動しがちな日本市民社会は、安心してアメリカの対イラク作戦を非難することが出来た。
ところで、1999年のNATO大空爆期、ドイツは社会民主党と緑の党のいわゆる赤緑連立政権であった。いわゆる「1968年世代」の活動家達が政治の実権を握るようになっていた。
ここに、参照材料として、ドイツの本流知識人、『ディー・ツァイト』紙の編集長テオ・ゾンマーが政権についた1968年世代と彼等が断行したNATO空爆とをどのように評価しているのかを示す文章を引用する。
(引用開始)
コソボ戦争は、ヨーロッパの人々にとって酔いを覚まされるような経験であった。それはヨーロッパの基盤を築くための戦争であり、EUにとっての決定的瞬間であり、一体性のある「ヨーロッパ」を生み出す触媒でもあった。そしてコソボ戦争は、ヨーロッパの指導者や世論への警鐘でもあった。コソボ危機は、ヨーロッパのアイデンティティに疑問を呈した。EUは人間の尊厳性が自宅の戸口で踏みにじられている恐ろしい事実に目をつぶるのであろうか。当時のNATO事務総長ソラーナの言葉を借りれば、コソボ戦争は「ヨーロッパについての二つのビジョン」の間の戦いであった。ミロシェビッチのビジョンは、「人種的に純粋な国々で構成されるヨーロッパであり、ナショナリズムのヨーロッパであり、そして独裁主義と排外主義のヨーロッパ」である。これに対するビジョン、すなわちNATO同盟諸国のビジョンは、「統合されたヨーロッパであり、民主主義と人種的多元主義のヨーロッパ」である。
ヨーロッパ人が戦いを決意したのは、キリスト教徒やイスラム教徒の権利を護るためではなく、人間の権利を護るためであり、そのためにバルカン戦争を戦ったのである。新しい指導者世代は、一九六八年に「ピースニックス」と呼ばれた人々で、その多くは「戦争はもうご免だ」と叫びながら育ったが、今度は全く違ったスローガン「皆殺しはご免だ」を掲げて行進した。彼らは青春時代に叫んだ平和主義に背を向けたのみならず、バルカンは「ポメラニアの一兵卒の骨にも値しない」と断じたビスマルクの暴言も否定したのである。コソボ戦争に賭けられたのは、まさに二十一世紀ヨーロッパのイメージとアイデンティティであった。
『不死身のヨーロッパ――過去・現在・未来――』(テオ・ゾンマー著、岩波書店、2000年)pp.79-80
(引用終わり)
最後に一言。セルビアとの連邦・国家連合を破談にして、現在、事実上NATOの加盟国となったモンテネグロでは、マスリニナとダニロヴグラードの兵営内に設置されているNATO空爆犠牲者記念碑前における18周年記念式典がモンテネグロ国防大臣によって禁止された。セルビアでは大統領も首相も参加して国内各地の空爆犠牲地で集会・式典が実行されている。
平成29年3月30日(木)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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