right、「権利」、そして「権理」に関する諸氏の論、大変参考になった。私の説は、「権利」は誤訳ではなく意訳的であり、「権理」は直訳的であるというものであった。
ところでここでは、両訳語に共通する「権」を考えてみたい。「権」の第一義は、先の拙論に述べたとおり秤の重り、分銅のことである。そこから権衡(つりあい、はかりの重りとさお)、権量、権度という直接関連語が生じ、更に権力、権利、権理、権能、権限、権勢、権原、権門、権威なる間接関連語が創られた。「権」の原義から社会的秩序価値の基準、正当性の基準という意味が生じるのは自然であろう。
それゆえ、「力」に「権」が接頭されると、単なる暴力や自然力ではない、社会的に承認された力、すなわち権力となる。「利」に「権」が頭付されれば、即自的な、即物的な利害を越える社会的に正当化される利、すなわち権利となる。「門」に「権」が前置されると、単に門構えが壮大な豪邸ではなく、社会的に価値ある一門一族、つまり権門となる。「原」についても、単なる原因や源ではなく、ある行為を正当化する法律上の原因、つまり権原となる。上述の「理」、「勢」、「能」、「限」、「威」についても同様の社会哲学的語義論が可能である。こう見てくると、rightを「権利」と訳するにせよ、「権理」と訳するにせよ、「権」の字が接頭しているところが大切なのである。「利権」のように、「利」が前、「権」が後となれば、「利」の即自性・即物性がその社会的正当性に勝っている様子を視覚化して巧みである。
諸氏の論の中にrightには正義の意があるという指摘があった。すなわち、justiceの面を考慮に入れれば、「権」の原義との重なりがより明瞭となる。周知のように、ギリシャ神話の正義の女神テミスは、目隠しをして秤と剣をもっている女性像に形象される。秤=権が正義の本質であり、剣=力によって守られるという含意である。秤と一対の剣とは、まさに権力である。
さて、孔子が編集した中国最古の詩集『詩経』に物事の初めを意味する「権輿」なる表現がある。「権」は秤の重り、分銅のことであり、「輿」は車の荷台のことである。秤を作るにはまず重りを、車を作るにはまず荷台を作ることから、「権」=重りと「輿」=荷台を組み合わせて、ものごとの始めという意味になったという。「権」の第一義の古さを理解する上で知っておいた方が良い話であろう。
以上の解釈は、私、岩田の素人談義であり、別に中国語学者の権威ある研究とは関係ない。