「親」「母」を考える(1)― 山崎ナオコ-ラ『母ではなくて、親になる』を読んで
- 2020年 5月 1日
- 時代をみる
- 山崎ナオコーラ池田祥子
これまで、男性中心の「家父長制的家制度」を引き継ぐ、日本の戦後の「戸籍」「家族」をめぐる問題をテーマにしてきた私にとって、この山崎ナオコーラの上記の本は、ずっと気になっていた。もっとも、「気になる」というのは、好感を持って、ということである。
蛇足気味になるが、「戸籍」「家族」の問題というのは、「世帯」中心、「世帯主」という存在、同姓を強いられる「結婚」制度、さらには、「母」という神話が下支えする根強い「性別役割」の思想と構造の問題だからである。
山崎ナオコーラの最初の小説『人のセックスを笑うな』も、直観的にオモシロソーと思ったものの、無精のせいだかまだ読んではいない。コロナ騒動で、図書館まで貸し出し休止になっていて残念ではあるが、それでも近々是非読もう、とは思っている。
さて、「コカコーラ」を連想させる奇妙な名前の「ナオコーラ」さん。著者経歴を見ると、何といくつもの「ご縁」が見つかった。生年の「1978年」は、私の4男と同じだし、出生地の「福岡県北九州市」は私と同じ。また、彼女の今回出産に当たって直面したという「前置胎盤」は、私も4男の出産の時、いざ分娩、というベッドの上で、いきなり担当の医者に言われたものだ。「いいですか、落ち着いて聞いてください。あなたは前置胎盤です。ただ、もうお産が始まっていますから、このまま続行します。次にいきみが来たら、上手に(!)息んでください」と言われた。
「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」
いま一つ、彼女は上記の目標を、著者経歴に書いている。ただ、後半の「誰にも書けない文章を書きたい」というのは、少々「若さ」と「気負い」を感じさせられるけれど、それもOKだろう。
同じようなことを、さすがに年齢を重ねただけあって、静かにとつとつと語っていた井上ひさしの次の言葉を思い出す。
「自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書く」「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」。
性別は赤ん坊のプライバシー
妊娠・出産・育児に関するエッセイは、書く方はどうしてもニヤニヤ顔になってしまって、「幸せ感」を周囲にまき散らしてしまう。妊娠も出産も、事故は多いし、未経験者も多く居る。「子育ては大変、大変」という愚痴めいた小言も、子どもの居ない人には、時に冷たい刃にもなる。
にもかかわらず、人にはそれぞれの幸・不幸がある。そのことを十分に認識しながら、ごく自然に、自分の体験を正直に語ることは、大切なことだろうと思う。
ナオコーラさんも、35歳の時に流産を経験している。それは、「それまで生きてきた中で一番悲しい出来事だ」と思っていたようだが、その半年後に父親を病気で亡くし、「あぁ、父の死んだことの方が悲しいなぁ」と思い、でもすぐに、「これらは比べることではないよな」と思い直したそうだ。
そしてその後、さまざまな不妊治療(タイミング法、人工授精、顕微授精など)を経た後、36歳で妊娠した。ラッキーだったと思う。しかし、それがたとえダメだったとしても、それはそれでまた彼女の別の人生が始まっていたことだろう。
妊娠中に、「母ではなくて、親になろう」ということだけは決めたという。これはとても大事な決心だと、私も思う。世の中の「母」にまつわるややこしい思い入れから解放されるからだ。
いま一つ、お腹の中の子どもの性別について、彼女は「それは赤ん坊のプライバシーでしょう」と言う。私の母の時代や、私の若かった時代は、竹筒を妊婦のお腹に当てて、子どもの心音を聞いては、「元気ですよ」と看護婦さんがにっこり伝えてくれた。さまざまな器械もなかった時代は、お腹の中の子どもの性別は、周りで想像するだけだった。「つわりが酷かったから男の子」「お腹がとんがっているから男の子」「平べったいお腹だから女の子」という具合に。
しかし、お腹の中を隅々まで映像化できる今の時代に、「性別は赤ん坊のプライバシー」と尊重するナオコーラさんは素敵だと思う。LGBTなど多様なセクシャリティまでもが自覚化されている時代、やはり親と言えどもセンシブル(繊細な配慮)でなくてはならないのだろう。
「赤ん坊の情報は、『障害』についても性別についても、妊娠中は知らないで過ごすことにしようと夫と話し合った・・・(だから)そういった情報はすべて生まれた後に知った。」(p.17)
「新生児」の赤ん坊から
ナオコーラさんの、赤ん坊観察は面白い。
「赤ん坊は、私のことを親だと捉えていないのはもちろん、人間とさえ思っていない。抱き上げても、なんにも感じていない顔をしているし、たまに目が開いたときも、まったく私のことなど見ず、あさっての方向に視線を向ける。/相手に認識されずに世話をする。それはすごく面白い行為だ。/新生児にとって私は親ではなくて、世界だ。世界を信用してもらえるように、できるだけ優しくしようと思った。」(p.67)
何という事だろう、「母ではなくて、親になろう」と決めていたナオコーラさん。生まれて来た赤ん坊にとっては、それは「人間」でも「親」でもなく、まさしく「世界」だったのだ。そして、やがて、赤ん坊は「人間」と出会い、その赤ん坊によって人間は「親」として認知される。
いきなり飛んでしまうが、9カ月になった頃、赤ん坊と一緒にスーパーに出かけた時、「知らない老婦人が『まぁ、可愛い。何カ月ですか?』とベビーカーに乗っている赤ん坊の頭を撫でてくれるのが、むしろ嬉しくなる。いろいろな物に触り、様々な人と触れ合って、大きくなっていくといい。」(p.225)
そうなのだ。赤ん坊(人間)は、見知っている人、見知らぬ人、さまざまな人と出会い、触れ合って、大きくなっていく。いろいろな物に触り、口に入れ、汚れながら大きくなっていく。
話は極端になるが、いま現在、私たちの目の前で展開している「新型コロナウイルス」による「異常事態宣言」下の人間の振る舞い―人に近づくな、適当な距離を置け、他人の子どもに触るな―これらは、「新型コロナウイルス」に未だ有効に対応できない人間社会の、とりあえずの緊急対応策なのだ。それを忘れてはならないだろう。人間とは、人間が大きくなるためには、私たちは、人間を求め、人間に触れ、たくさんのスキンシップが必要だという事を!
〈つづく〉
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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