ドイツ通信第154号 新型コロナ流行のなかでドイツはどう変わるのか。(2)
- 2020年 5月 8日
- 評論・紹介・意見
- T・K生ドイツのコロナ流行
ドイツのコロナ流行がピークを過ぎ、感染者数統計が右肩上がりから横ばいに移り、続いて下降気味になってきたころ、政府の対策本部のメンバーから、〈世界の中でも最高水準を誇るドイツの医療・保健制度〉というフレーズが何回となく語られていました。それを語る政治家の顔は、晴々としていたように思われます。ドイツの医学水準を判断する資格は、私には毛頭ありません。私が知っているのは、その「最高水準」の下で医療サーヴィスを受給している市民の姿と生活状況です。それについて、ここでは書いています。
10日ほど前に連れ合いの同僚の義父が、介護施設で亡くなりました。私は、彼といっしょに食事をしたこともあります。
コロナ感染ではなく老衰によるものですが、最期を見届けられなかったと彼女はいいます。高齢者が生活しているホーム、施設への立ち入りが厳禁されていたからです。ロック・ダウン以降、外部とのコンタクトをシャットアウトするために訪問・面会は全面禁止されました。コロナ流行前に義父に面会した時は、「これが最後の見納めになるだろうとは思わなかった」と、彼女は医者の冷静さで話していました。そして、誰にも見送られることなく息を引き取った彼女の義父の思いはと考えると、頭の中は真っ白なります。何を、どう言っても、この現実の前には意味がないように思われ、事実を語り切れないもどかしさだけが残ります。同じ事態は、各人にいつ訪れるとも限らないのです。それが、人をしてエモーショナルにし、事実を前にして狼狽させるのです。
感染経路を絶つ必要性は、氾濫し、交錯する情報と専門(家)議論の中でも迷うことなく誰にも理解できるところです。ただそこでは、各人に規律が求められてきます。この点に関しては、「社会的コンタクトの最小限化」と「公衆衛生の励行」として実行され、現在までドイツのコロナ対策が実績を残してきたことは間違いないでしょう。しかし、なぜ、年配者、老年者の最期が、〈そうでなければならなかったのか〉と考えたときに、実に大きな問題と議論の欠陥が浮かび上がってくるように思われてならないのです。
ホーム、施設から聞かれる実情は、
1.医療、施設従事者自身の感染、
2.彼(女)らへのPCR検査が行われていない、
3.人手不足、
4.防護服、防護具の不足、
5.施設全体への感染拡大
というもので、今に始まったことではなく、長年議論され続けて何一つ解決されず持ち越されてきた課題です。
私は、現場の最前線に従事する人たちを批判しているわけではありません。彼(女)たちが働いている労働条件と医療・保健制度を、今こそ見直す必要があり、そうすれば家族、親しい人たちに見送られることなく孤独に生涯を閉じていく老齢者、年配者の存在を避けることができたのではないかと考えるからです。
「感染経路を絶つ」ための「リスク・グループの隔離」政策には、何か別の可能性があったのではないか。
防護服、防護具が整っていれば、少なくとも家族、親戚の人数と時間を制限した訪問・面会は可能であったはずです。なぜ、それができなかったのか。答えは簡単です。そもそも、何もなく、何も準備されていなかったからです。それによってホーム、施設内の感染が起きています。私は、その見返りが、実は「リスク・グループ」の隔離と孤独な死だろうと、今、考えています。
連日イタリア、アメリカ、フランス等からメディアから流されてくる映像を見ながら、連れ合いと議論を重ね、状況を判断して、行き着いた先が、このような結論でした。
〈彼(女)らを守る〉といいながら、実は感染の責任を、結果的に守られなければならない「リスク・グループ」、そしてその家族に転嫁されているように思えてなりません。私の誤解でしょうか。
同じことは、保育園、幼稚園、そして小学校低学年の子どもたちにもいいえるでしょう。学校が再開されましたが、子どもたちの、そして子どもたちへの感染の危険性を理由に、この分野では、まだ明確な運営方針、規則、計画が立てられていません。
経済界と共に家族、両親の中には忍耐の限界が伝えられ始めました。
その間隙に極右派が、「憲法に保障された個人の自由」を叫びながら街頭で抗議運動を組織しています。一つ間違えば、ドイツは非常に危険な状況を迎えたことになります。
少し時間を振り返ってみます。2002年でしたか、正確なことは忘れましたが、SARS流行の時でした。ドイツ日本人学校の先生方を入れて40-50人くらいのグループを、カッセルの博物館で案内したことがあります。これは例年のプログラムになっていた訪問で、私がいつも担当していました。
狭い部屋割りで、見学者が密集した中での案内でした。その中で、私も声を上げての生徒たちに密接した行動となりました。周辺では、SARS流行への注意と警告が出されていました。
その日は何ともなかったのですが、数日後、「生徒のうち一人が、SARSに感染していた」という情報が入り、私はあわてて連れ合いに相談し、彼女は同僚の医者に相談して、「市の保健局に連絡するように」と勧めてくれました。当時、〈感染疑い〉の連絡義務が定められていたからです。
電話を入れ、事情を話しますが、〈ここに来る必要はない〉と突き放すような対応で、真剣には受け取ってくれません。家に戻り、連れ合いに事情を話したら、彼女が直に保健局に連絡を入れてくれました。
保健局の担当者は謝罪して、翌日の地方紙の一面に、SARSに関する当局の見解を紹介する記事が載せられていました。
このような対応は、現在のコロナ感染についても、事情は何一つ変わっていません。医者が関連当局に問い合わせの連絡を入れても、「納得するような説明と回答が得られない」といって嘆いています。仮にあったところで、「誰もが既に知っている一般的なことしか返ってこない」というのです。
不安の中で、人を納得させ確信させるだけの情報活動が欠落しているとしか言いようがありません。
その後、思い出されるだけでもエボラ感染、BSE、豚ペスト、そして最近では鳥ウイルスが、ヨーロッパのテーマになっていました。それによって、人間の食・住・環境生活に多大な被害を及ぼしました。
メディアでは、すでにドイツの専門家の間で新型ウイルスの発生に注意を喚起し、それを受けて感染状況を想定、シミュレーションし、それへの対策を政治家に向けてアピールしていた経緯があるといわれています。私は実際にそれを見ていませんが、メディアからは、その貴重な警告に政治(家)は、今までどう向き合ってきたのかという批判が出されています。
地球の温暖化が進み、動物(生物)の中に生態系の変化が起きても何ら不思議ではないし、さらにその生物の一種に人間存在があるとすれば、動物と自然の関係に異種変化が起きても、これまた必然的なことではないのかと、素人なりに考えてしまいます。
コロナ感染との究極的な闘争とは、こうした要素の総合的なものではないでしょうか。
過去にいろいろ貴重な体験をしながら、長期的な将来への見通しが立てられず、従って、準備を怠ってきたことが、コロナ流行で暴露されたということでしょう。
ドイツに限って言えば、その背景にあったのは、〈世界最高水準の医療・保健制度〉というものへの疑うことのない自意識、別の言葉に言い換えれば過剰意識であったように思われてなりません。
それが端的に表れたのが、この項のはじめに書いた政治家の発言であったように思います。その発言を受け入れるとしても、私の疑念は、〈それは、あまりにもナショナリズムではないか〉という点です。
とりわけヨーロッパにおけるコロナ対策の共同の指針が完全に抜け落ちています。ギリシャ・ユーロ危機の時もそうでしたが、ドイツ政府からのアピールは、経済力の強い、安定したドイツを見本に〈EUのドイツ化〉を強調することでした。同じ轍を今回も踏んでいるような節が見られます。それとも、これは単なる私の短絡思考というものなのでしょうか。
しかし、それぞれ異なる各国の対策から学びながら、かつそれを批判しながらも、共同の対策を進めることの必要性を痛感するのです。なぜなら、世界の現状を見ていると、誰が一番にコロナ対策に成功しているかというような、権力顕示欲が目立ってきているからです。ドイツの国内に目を向けると、CDU内の党代表と首相候補者選びをめぐる党内権力闘争の様相が顕著に見てとれます。
ドイツがロック・ダウンに入った瞬間のTVニュースを見ながら連れ合いは、即座に、
1.極右派とイスラム原理主義者が危険だ!
2.マスク着用が必要だ!
と叫びました。
2.は、日本(アジア)で育った私にはよく理解できます。しかし、1.の意味が理解できませんでした。
その直後、Afd極右派の中でもナチ潮流(注1)賀憲法擁護局の観察下に置かれることが決まりました。日本でいえば、破防法の対象になったということです。そして、同じく極右民族主義者グループ(注2)の家宅捜査が行われ、多数の武器が押収されています。4月に入ってからは、イスラム主義派の家宅捜査が続き、イスラエルの消滅を唱えるヒスボラ派のグループが禁止されました。
こんなグループがドイツに存在していたとは知る由もありませんから、驚きました。
他方で、見るべきところは見ているという強い印象を持たされたものです。
コロナ流行の混乱期に乗じて、社会攪乱と政敵者への襲撃が予想されるからです。
つい最近、この話を、2015年に難民キャンプへ入って内部の様子をカメラに収め、サラフィスト派メンバーのキャンプ内での活動を目撃してきた大学時代の友人(スーダン出身)としていたら、当時のサラフィスト派メンバーは、「憲法擁護局に雇われた諜報員だった可能性が高い」といいます。難民の内部事情を収集し、イスラム派の動向を監視するためだというのです。
「なるほど、そうか!」と納得しながら、「諜報者の手」が張り巡らされているのを知らされました。
(注1)名称 Fluegelという党内グループです。
(注2)名称 Reichsbuergerというグループで、独自のパスポートも発行しています。
さて、2.のマスク着用に関してですが、ここでドイツとアジアの大きな文化的な違いが明らかになってきます。それは、公衆衛生に関する教育問題であると同時に、メンタリティーの問題に発展してきました。
連れ合いの医学博士号論文のテーマが、〈病院の公衆衛生に関する〉もので、特に長年議論になっているバクテリア感染に象徴される医療施設の細菌情況を調査することでした。通常、博士号論文は公開されるのが慣わしですが、彼女のは公開が禁止されたという曰くつきの代物です。スキャンダルにならないためにです。
さらにマスクの効用は、手術経験者として肌身に知悉しています。「マスクの着用義務が、必ず来るよ」と声を大にします。
早速、同僚に連絡を取り、医療現場の情報を収集し、そしてマスクの着用を勧めます。同僚から伝えられる現状は、悲惨、惨めというしかありません。現場には十分なマスクもなく、防護服も防護具も用意されていないのです。
さらに、マスクの着用については、「何をそんなに興奮しているのか」と言わんばかりの受け取り様で、話の持っていきどころがありません。それを私は傍で、連日、一日中聞かされることになりました。
アジア(日本)の人たちは、他人から言われることなく自らすすんでマスクをかけ相手に感染しないよう配慮します。それに加えて、うがいと手洗いは、子どもの時から公衆衛生の一環として社会教育の重要な要素を占めてきました。
連れ合いの同僚、そして友人、知人から語られるマスク認識は、要約すれば以下の一言に尽きます。
マスクは、(感染から)自分を守ってくれない。だから、意味がない。
それを聞いた私たちの反論は、〈だったら、相手をどう守るのか〉、〈相手など、どうでもいいことなのか〉と腹立たしくなり、語気が強くなります。
ここに認められる正反対の認識が、実はアジアとヨーロッパ(ドイツ)の文化的、そして物事を考える時の論理的な一番の違いでしょうか。この違いの上に、相異なる二つの哲学的、思想的な潮流が成立したと判断して間違いないでしょう。「そんなに大げさなことを」といわれそうですが、この違いは決定的です。
相手を配慮し、守るためにマスクをかければ、そこにいる人たちは、自ずと全員がマスクを着用し、感染経路は切断されます。
それに対して、自分を守ってくれないからマスクが不必要になれば、誰もマスクを着用しないでしょう。感染経路は開けられたままです。
前者が「アジア的な集団主義」といわれれば、後者が〈ヨーロッパの個人主義〉となります。誤解のないように再度強調しますが、どちらが正しくて、どちらが誤っているという単純な議論をしているわけではないです。社会の対人関係では、それぞれの国からいくらでも学ぶことは可能だということをいいたいのです。それが、現在、ことのほか強く感じられてなりません。
私たちは、これを「文化テスト」と名付けました。
ヨーロッパに旅行するアジアからの観光客が、マスクをかけているケースが非常に多いです。それを見るヨーロッパ市民から、〈なんだ、これは!異星人か!〉というような眼差しが投げかけられるシーンを何回となく見ています。
この文化的な壁との闘争が、私たちの最初の活動になりました。相手をどう説得、啓蒙するか。相手の反応で、それまで気づかなかった一面が露骨に表れ、興味深く観察することになりました。
このことは、〈社会的コンタクトの最小限化〉と〈社会的距離を取ること〉にも反映してきます。コロナ流行に対応して人と人との関係でどのような態度をとるのか。そこで、いろいろなタイプが浮かび上がってきます。
1.自分さえよければ、他人はどうでもいいタイプ
2.自分(の考え)が絶対に正しいと確信しているタイプ
3.他人を説教し、強制するタイプ
4.自分はそんなこととは無関係と考えるタイプ
等々、きりがありません。そんな性格を私たちの知人、友人に再発見するきっかけにもなりました。
私たちは、この観察を「性格テスト」と名付けています。
このような流れの中で、ドイツ社会の中でアジア?―系市民に対する差別が頻繁に起きているのが、伝えられてきます。
1.レストランへの入場を断られた
2.歯の治療を断られた
3.バスの運転手から「コロナを振りまくな!」といって乗車を断られた
4.人が避けて通る
5.市電の中で乗客が席を離れた
6.侮辱してくる
以上は、私が実際に目撃したものではありません。人伝に聞いた事例を記しただけです。この点誤解のないようにお願いします。しかし、コロナ感染の広がりとともに、人種差別が広がってきているのは事実です。
ここに決定的な一例をあげてみますから、どうか皆さんご自身で検討してください。
TVの政治トーク番組での話です。もちろんテーマは「コロナ」です。
日付は3月17日、私はカレンダーに記録しておきました。
日毎に感染者数は指数関数的に増えていきます。ドイツが明確な対策を打ち出せないなかで、新聞紙上には、市民に呼びかけて「パニックに陥らないように!」との見出しが現われ始めます。そして、「韓国に学ぶように!」との訴えが聞かれるようになってきました。
議題が、韓国の成功例を引き合いにだし、「マスクの着用」に移っていきます。その時、質問を受けたドイツ医師会、そして世界医師会の会長であるフランク・ウルリッヒ・モントゴメリー(注)なる人物が、
1.マスクは感染から自分を守れない。
2.アジア人がマスクをするのは、日焼けを防ぐためだ。
と、にやけた顔でいってくれたものです。これを聞いて私は、ソファーから飛び上がりそうになりました。隣に座ってTVを見ていた連れ合いも、自分の経験から「手術をする医者がマスクをするのは、日焼けを防ぐためか!」と怒り心頭です。「アジアの人たちへの人種差別だ!」と。
番組の司会者は、さらに、何を、どう突っ込めばいいのかわからず、笑い顔でその場を凌ぎ、次の議題に移っていきました。
この考えは何も彼に限るわけではありません。一般的なドイツ市民の認識でしょう。しかし、この御仁は医師会の会長、ボスです。言葉が荒れてきましたが、いまだに、怒りが収まりません。発言の背景には、3つの問題点が隠されているでしょう。
1.仮に、「マスク着用」を奨励したとしても、どこにもマスクはありません。その無残なドイツの現状を隠ぺいすることです。他の政治家も、この段階では同様な意見です。
2.ドイツの成功例を語りたいのです。従って、他人の成功例を聞きたくも、承認したくもないナショナリズム意識です。
3.それ故に、実績を上げている他者をコケにして無視する差別意識が噴き出してきます。
「最高水準の医療・保健制度」の言質にしろ、この「アジア人への人種差別」意識にしろ、ここにあるのは、〈アジア(の国)はドイツから学ぶべきで、ドイツがアジアから学ぶもの、学ぶ必要はない〉という権威主義と排外主義です。そしてこれが、ある意味ではドイツの〈強さ〉であり、またドイツの〈弱さ〉、弱点といっていいでしょう。
「強さ」という観点からは、ドイツの自意識を高揚させますが、「弱さ」という観点からは、世界、とりわけEUの共同の取り組みという点では、EUの結束ではなく、分裂の要素になるからです。その結果は、各国にナショナリズムを台頭させ、活性化させることは必然です。
(注)Weiltarztepraesident, Frank Ulrich Montgomery
そういう私たちの手元にはマスクはありません。手に入りません。そこで、日本の皆さんもそうでしょうが、自分でマスクを縫い、連れ合いの同僚、友人、知人に配ることにしました。それから、連日マスクづくりが始まります。
私が生地を切り、連れ合いがミシンで縫っていきます。彼女の同僚からは、「私たちのチームと患者さんの健康と安全に貢献していただきありがとう」とメッセージをもらい、気分が晴れやかになりました。評判が良くて、全国の友人、知人からの問い合わせが続きます。
私は生地をハサミで切りながら、この間の経過を振り返り、そして、政治家と医師会のボスの言葉を反芻しながら自ずと笑いがこみあげてくる反面、なぜか心寂しく思われたものです。
後日譚を書いておきます。
規制が緩和されてから「第二次感染」の危険性を防ぐために、マスク着用が義務付けられました。その理由は、「マスクによって相手と自分への感染を防ぐことができるからだ」と説明されています。このことが、「最近の研究で明らかになった」とまで言われれば、これはまさに「神聖喜劇」です。くわえて、マスクの名称が「コミュニティー・マスク」と命名されました。相手に連帯の意思表示をするためです。オチがついていて、市民に必要なマスクは、中国に特注したものだといいます。
しかし、市民はそれ以前に自前のマスクをつくり、政治家、専門家よりは先んじたコロナ対応をしていました。
以上から総合的に判断して、ドイツが2週間早く、すなわち3月の初めにマスク着用を義務付け、社会的距離を取ることを決断していれば、ロック・ダウンの必要性はなかったのではないかというのが、私たちの中間総括です。しかし、これは〈もし、ならば〉の仮定議論にしかすぎません。
結局、何を、どう理解するのかということでしょう。人にはモノを認識したいという欲求があります。それによって科学、学問が発達し、それをさらに無限に深め、拡大するためにITが動員されてきました。今回も然りです。誰もがウイルスの実体を知り、対策を明確に確定して、生命の安心感を得たいです。そのために各分野の専門家、学者、研究者たちが総動員されています。が、しかし、それにもかかわらず、多々分からないことがあることを人間に知らしめたのがコロナ・ウイルスでした。分からないことを分からせたのです。
分からない、認識できないという生存条件の中で、では、何が可能で、認識できるのか。
事実に戻ることでしょう。「事実」とは、ウイルスの脅威の中で、〈生きるか死ぬか〉といわれる境遇にある人間生活です。そこにある感染経路を切断しなければならないわけですから、一人ひとりのそれへの自覚と規律が、連帯を可能にするでしょう。
分からないことで足をすくわれることなく、他者を守りながら共同で生きる道を見つけ出せば、分からなかったことが、分かるようになるはずです。それが、私たちの生命線になると確信しています。
(つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9728:200508〕
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