「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(5)「公募歌」という国策とメディアの一体化
- 2020年 6月 9日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子古関裕而
古関裕而の作曲歴から、天皇関連というか、天皇とのかかわりをみてみよう。古関裕而が福島商業学校を卒業後、地元の川俣銀行に勤める傍ら、「御大典奉祝行進曲」を作曲している。1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で行われたが、それに先立った5月27日福島公会堂で、この曲は演奏され、さらに式典後の11月、福島商業学校の「御大典奉祝音楽会」でも演奏された(⑥12~13頁)。1930年、内山金子と文通が実って結婚、上京、コロムビアの専属作曲家となって、翌年6月、「福島行進曲」(野村俊夫作詞)「福島小夜曲」(竹久夢二作詞)によりレコードデビューを果たし、縁あって早稲田大学応援歌の「紺碧の空」を作曲、レコード化もされたが、いずれもヒットしたわけではなかった。
当時、レコード会社はいわゆる「時局歌謡」とも呼ぶべき、社会的な事件、大きな軍事行動や兵士の活躍の報道に連動した歌謡曲を、競うようにレコード化を進めた。古関もコロムビア専属作曲家として、1931年9月18日、柳条湖での関東軍による鉄道爆破で始まる「満州事変」をテーマに12月には「満州征旅の歌」(桜井忠温作詞)、1932年1月には「我らの満州」(西岡水朗作詞)、同年4月には、朝日新聞が歌詞を公募した一つ「肉弾三勇士の歌」(清水恒雄作詞)のレコードが発売されている。古関にとっての時局歌謡のスタートであったが、ヒットはしなかった。
その後、作詞家の高橋掬太郎と組んだ「利根の舟唄」(1934年、松平晃)「船頭可愛いや」〈1935年、音丸〉がようやくヒットにこぎつける。ここで古関の作曲には、大きな三つの流れが出来上がってきたのではないか。一つは、スポーツ関連の愛唱歌ないし楽曲であり、一つは、「船頭可愛いや」を源流とするいわゆる歌謡曲であり、一つは「時局歌謡」ではなかったか。スポーツ関連では、1936年に「阪神タイガースの歌」(六甲おろしが)が発表されたが、以降は、戦局が厳しい中、もはやスポーツの応援歌どころではなくなっていく。
やがて、戦前の「時局歌謡」が、大本営発表による戦局報道に基づく作詞に添っての作曲で成り立つ「戦時」歌謡一色になってゆく様相は、すでに、このシリーズ記事の2回目に概観している。
軍事行動は、旧憲法下では、建前としてすべて統帥権を持つ「天皇の命令」であり、兵士たちの活動は、すべて「天皇のため」であったから、「戦時」歌謡の底流には、天皇制が厳として存在していたことはあきらかである。だから、作詞・作曲が軍部や情報局からの要請でなされていたことは、他の文芸、文化活動に対してと同様であったし、それに反する表現活動や行動は、法律上きびしく監視されていたし、取締まり対象となっていた。が、とくに「戦時」歌謡については、新聞社やNHKなどのメディアが企画、歌詞の公募という形をとるものも多くなった。(④櫻本富雄『歌と戦争』34~38頁、55~58頁)の公募歌のリストと「主な軍国歌謡・愛国歌謡の公募イベント」(中野敏男『詩歌と戦争』NHK出版 2012年、230頁)の二つのリストと、これまで紹介の文献を参考に、散見できる古関裕而の曲をまとめた。今回は、1941年12月8日の太平洋戦争が始まるまでをたどってみたい。それ以降は、次回としたい。
一般に、「公募歌」とは、主として新聞社や雑誌社などが、国策のいわば旗振り役となって、国民の戦意高揚、士気を鼓舞する作詞を公募し、プロの作曲家に作曲を依頼、ラジオ放送やレコードによって、国民への浸透をはかるものであった。そうした公募歌にも、歌われもしないで沈んでしまうものもあったり、思いがけなく流行したり、前線や銃後における国民の間で定着するものも数多くあった。そして当然のことながら、それらの歌詞には、否が応でも「天皇への忠誠」をうたう文言の存在があった。そうした歌詞に添った作曲を続けた一人、古関裕而の記録である。次表は、その一部ではあるが、主なもものを一覧として、若干の背景を記してみた。
「肉弾三勇士」は、1932年2月、上海の戦闘において自爆した三兵士の美談が報じられて、すぐに、朝日新聞社は歌詞を公募、入選作の三歌詞を、同時にコロムビアからレコード化した。後の二曲は、中野力作詞・山田耕筰作曲、渡部栄伍作詞・古賀政男作曲となった。また、東京日日・大阪毎日新聞社公募の入選作は、ふたを開けたら与謝野寛(鉄幹)の作で、「爆弾三勇士の歌」(陸軍戸山学校軍楽隊作曲)としてポリドール盤が発売されている。この二つの新聞社の応募歌詞数は、「朝日」が12万4500通、「毎日」が8万4000通を超えている。
「露営の歌」は、1937年、東京日日・大阪毎日新聞の入選第1席は「進軍の歌」(本多信寿作詞/辻順治作曲/陸軍戸山学校軍楽隊)としてレコード化されたが、人気はむしろ、第2席の古関の作曲のものの方が高く、長く愛唱歌として残ったことになる。「勝って来るぞと勇ましく 誓つて故郷を出たからは 手柄立てずに死なれよか・・・」で始まるが、4番の「笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と のこした声が忘らりょか」で終わる。1938年には、赤坂小梅ほかの女性歌手だけによるレコードも出されている。「進軍の歌」(佐々木康監督)も「露営の歌」(溝口健二監督)もともに前後して映画された。
「愛国の花」は、NHKラジオの「国民歌謡」として1937年10月18日~23日まで放送された。レコードは翌年に発売され、1942年11月に公開の映画「愛国の花」(佐佐木啓祐監督)の主題歌となった。「真白き富士のけだかさを 心の強い楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地の咲き匂う国の花」では始まり、「銃後」の女性に訴える内容になっている。
「国民歌謡」とは、1936年6月1日、大阪中央放送局から、第1回が放送され、「日本よい国」今中楓渓作詞/服部良一作曲、)/奥田良三)であった。この年、すでに、4月29日から前身の番組で、大木敦夫、佐藤惣之助、深尾須磨子らの抒情的な歌謡が放送されていたが、二・二六事件が起こり、阿部定事件という猟奇的な事件も起きる中、「忘れちゃいやよ」(最上洋作詞/細田義勝作曲/渡辺はま子)、「ああそれなのに」(星野貞志(サトウ・ハチロー別名)作詞/古賀政男作曲/美ち奴)などの歌が流行っていたさなか、歌謡曲浄化、家庭でみんなが歌える歌をというのが主旨だったか。1941年2月12日には、「国民歌謡」は「われらのうた」へと改称され、同時に「特別講演の時間」は「政府の時間」へ、「戦況日報」は「軍事報道」へと改称され、放送の軍事色は一層強化されることになる。その後のこの番組については次回に譲る。
「婦人愛国の歌」は、1938年4月1日「国家総動員法」の公布を受けて、『主婦之友』4月号で菊池寛、西條八十、瀬戸口藤吉、吉屋信子、松島慶三(海軍中佐)を選者として公募し、1万7828通の入選作の中から二等のものを古関が作曲した。内務省・文部省・陸軍省・海軍省・国防婦人会・愛国婦人会。国民精神総動員中央連盟が後援となっていた。歌詞の一番は次のようにはじまるが、四番は、「御稜威に勇む皇軍の 銃後を守るわたしたち その栄光に日本の 婦人は強く立ちました」であった。作者は22歳の主婦だった。
抱いた坊やのちさい手に 手を持ち添へて出征の
あなたに振つた紙の旗 その旗かげで日本の
妻の覚悟は出来ました
なお、一等の上條操作詞の一番は「皇御国の日の本に 女と生まれおひ立ちし 乙女は妻は母は みな一すじ丈夫の 銃後を守り花と咲く」というもので、28歳の保母であった。歌詞の硬軟?によって、作曲者を選んだものか、一等入選作の作曲は、選者でもあった「軍艦マーチ」(1900年)、「愛国行進曲」(1937年)で著名な、元海軍軍楽隊のベテラン瀬戸口であった。
『主婦之友』1938年6月号の「婦人愛国の歌」当選発表の記事
「銃後県民の歌」は、1939年、福島民報社が懸賞募集をした当選作で、同社は、併せて「郷土部隊進軍歌」(野村俊夫作詞/霧島昇)もレコード化した。古関の地元、福島への思いを込めた曲であったろうが、彼の場合は、依頼があれば、どこへでも、その「ご当地ソング」を作り続けたし、社歌、校歌、団体歌は数限りないことは前述の通りである。
「満州鉄道唱歌」(藤晃太郎作詞/霧島昇・松原操・松平晃)は、1939年3月、満鉄鉄道総局旅客課企画公募、満州新聞社後援。古関は、1939年7月に選者・作曲者として満州旅行に出かけているが、まさに満蒙国境では日ソ軍の激闘が続くノモンハン事件のさなかであった。
「暁に祈る」は、「露営の歌」と並ぶ戦前の古関のヒット曲で、テーマが「馬」でありながら、馬を伴う兵士の死と向かう歌詞が身近にも思われたのだろうか、愛唱歌となったという。 40年4月公開の映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(松竹 佐佐木康監督)の主題歌となった。
「嗚呼北白川宮殿下」は、「国民歌謡」として、1940年12月9日~13日まで放送されたが、これに先だって、40年11月17日華族会館で発表会が行われている。ここで歌われている北白川永久は、40年9月4日、軍務で滞在していた上海の飛行場で事故死したが、戦死として大きく報道された。作詞の二荒は、永久の大叔父にあたるという。
「海の進軍」は、読売新聞社が海軍省、情報局、大政翼賛会の後援で「海国魂の歌」と題して公募している。「菊の御紋のかげ映す固い守りの太平洋・・・」「御稜威かがやく大空に・・・」の文言とともに「進む皇国の海軍の晴れの姿に栄あれ」で結ばれている。
なお、公募歌ではないが、1937年、38年、39年の宮中歌会始の御題、それぞれ「田家雪(でんかのゆき)」「神苑朝(しんえんのあした)」「朝暘映島(ちょうようしまにうつる)」と題し、西條八十作詞の曲も作られていたことも記憶にとどめておきたい。ストレートな天皇制への傾斜とともに、歌会始における題詠による短歌とテーマを与えられて作詞・作曲をする歌謡曲とに共通する限界が見いだされるのではないか。
今回の作業には、下記の国立国会図書館の「歴史的音源」のリストと辻田真佐憲による紹介も参考にした。
⑦国立国会図書館歴史的音源<古関裕而>(386件)
https://rekion.dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3%95%E8%80%8C&viewRestricted=1
辻田真佐憲「商品だった<時局歌謡>」
https://rekion.dl.ndl.go.jp/ja/ongen_shoukai_15.html
(続く)
初出:「内野光子のブログ」2020.6.9より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/06/post-0269e2.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9824:200609〕
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