「干刈あがた」って知っていますか? ― 『ウホッホ探険隊』の紹介
- 2020年 7月 4日
- 時代をみる
- 干刈あがた池田祥子
干刈あがたの命日9月6日前後に、毎年、青梅の宗建寺で「コスモス忌」が開かれてきた。彼女の青梅時代の小学校のクラスメイト、杉並区の中瀬中学および中野区にある富士高校の同窓生・クラブ仲間とともに、彼女の愛読者や出版関係者(編集者)などによって発会され、昨年「とりあえずの終回」が確認された(一部、継続希望あり)。
2002年、第11回忌の年に発会され、当初は富士高時代に懇意だった毛利悦子さんが事務局を担い、年2回「コスモス通信」を発刊してきたが、ここ最近は(2013年頃から?)熱心な愛読者だった林田慧さんが交代していた。
その林田さんから、6月の末突然の電話があり、「干刈さんがあなた宛てに書いたまま投函していない葉書が出てきたわヨ!」と。びっくりだ。ただ、干刈あがたさんから昔もらった葉書が一枚わが家に残っているのだが、それには、「おたよりと論文ありがとうございました。すぐに読んだのですが、返事を出さなかったような気がします。(ダブッていますか?)」と書かれていた。「家族はどこへ?」という小さな論文を送った時の返事だったのだろう(東京文化短期大学学誌『文化生活』23号、1984)。
その、今頃奇跡のように発見された葉書は、まだ私の手許に届いてはいないが、おそらくわが家の「貴重な葉書」とペアになっているのではないだろうか。
ということで、今回、突然だが、「干刈あがた」を取り上げることにした。
「干刈あがた」との個人的なご縁
「干刈あがた」とは「ひかりあがた」と読む小説家である。1943年1月生まれ、亡くなったのが1992年9月、享年49。人生100年時代と言われる昨今、半分にも達していない、短い一生である。
時の流れも速く、次々と予期もしなかったようなニュースや事態が押し寄せて来る現代社会、活動歴10年に満たない小説家のことなど、若い人はもちろん、同時代の人々ですら、大半は彼女の名前すら忘れてしまっているかもしれない。
私は偶々、1982年に発刊されたばかりの文学雑誌『海燕』の、第一回新人文学賞を受賞した『樹下の家族』を読み、その作者の「干刈あがた」の名前を知り、さらに私と同年生まれの同学年と知った(彼女は1月生まれ、私は3月生まれ、ともに「早生まれ」である)。
その後、当時フェミニズム関係の雑誌や書籍を発行していた出版社(ユック舎)経営の岩崎悦子さん(故人)を通して、干刈あがたのその後のいくつかの作品を読み、しかも晩年の干刈あがたは、私が別ルートで知っていた世田谷区の杉の子保育園々長星野勤さん(故人)とも繋がったのである(杉の子保育園編『保育園とフェミニズム』ユック舎、1991)。
また、「奇縁」とも言えること――それは、鹿児島と沖縄の間にある沖永良部島との関わりである。「干刈あがた」のペンネームの、「干刈」はその読みの通り「光」、「あがた」は「県」の漢字の訓読みであり、「地方・周辺」を意味する。したがって、「干刈あがた」とは、中心の外側に身を置いて、周辺のものに光を当てて表現したいという願望を表わしているとのことである。つまり、彼女の両親は、ともに沖永良部島の出身なのだ。彼女は、結婚後、何度か両親の故郷沖永良部島に帰り、そこの島唄を採集して『ふりむんコレクション』として浅井和枝の本名で自費出版している(1980)。(因みに「ふりむん」とは、「気の触れた人」という意味の島の方言であるらしい)。
一方私は、千葉の保育者養成の短大に勤めていた頃、教員と学生とで「わくわく研修」に出かけていた。水俣や、隠岐の島、沖縄、北海道、その後はイタリア、ドイツにまで足を伸ばすグループも出てきた。私は専ら水俣班と決めていたのだが、ある年、沖永良部島出身の学生がグループ内に居て、それならと、その年は行き先を沖永良部島に決めたのだった。そして、その時同行した男子学生は、その沖永良部島が気に入って、卒業後、本当に沖永良部の和泊保育園に就職し、何と、同僚の保育者と結婚し、子どもも生まれ、いま現在もそこで暮らしている。
その「わくわく研修」時には、沖永良部と干刈あがたとの関わりは全く知らないままだった。その後、「コスモス会」に参加し、干刈あがたと沖永良部との関わりを知って驚き、「コスモス会」の仲間たちと沖永良部島行きを決行し(第⒔回忌の2004年だったか)、すでに「島人」となっていた元男子学生に再会もできたのである。
『ウホッホ探険隊』からの抜書き
1982年に第一回「海燕」新人賞を受賞した干刈あがたはすでに39歳だった。それから亡くなる1992年までの10年間、まだ小学生だった二人の息子を抱え、離婚もし、晩年近くに、不登校の女の子を主人公にした「黄色い髪」を朝日新聞に連載している(1987年5月16日~11月17日)。人知れない苦労を抱えたまま一人で頑張った執筆生活だったのではないだろうか。
にもかかわらず、「ウホッホ探険隊」(1883年)は芥川賞候補となり、高樹のぶ子の「光抱く友よ」と競っている。同じく「ゆっくり東京女子マラソン」(1984年)も続けての芥川賞候補、翌85年には芸術選奨新人賞受賞。「しずかにわたすこがねのゆびわ」(1986年)は野間文芸新人賞受賞。先の新聞連載の「黄色い髪」は、山本周五郎賞候補になっている(1988年)。本当に惜しまれる小説家だったと思う。
さて「ウホッホ探険隊」である。2017年に河出書房新社から「河出文庫」として復刊した「営業部T」氏によると、このタイトルだと「ゴリラが出てくるの?」と聞かれるのが関の山、止む無く「このタイトルから絶対に予想できない感動が待っている。」と大きな宣伝カバーを付けたのだと。
干刈あがたは、1982年12月16日に実生活で離婚している。まさに、この「ウホッホ探険隊」は、この自分の離婚をモデルとした「私小説」とも言えるだろう。
早稲田大学を授業料未納のため中退し、職場結婚をした後、当時では当たり前だった「専業主婦」をこなし、男の子二人の子育てに夢中になっている内に、半ば「単身赴任」の形で、時々帰宅する夫とは、いつしか疎遠になり、夫にはすでに職場で一緒の新しい女性が寄り添っていることが分かる。「性別役割分業」に従って営まれる多くの家庭が、実は夫婦の関係は「がらんどう」であることは自明だったのだが、大抵の夫は外で憂さを晴らし、妻である女たちは「我慢」するしかなかったのだろう。
ただ、「結婚」は二人の人間が絡み合い築きあげる生活である。しかも、そこに子どもが生まれると、子どもともどもの共同の生活・感情が蓄積されていく。「結婚」よりも「離婚」の方が何倍も難しい、と言われるはずである。ともあれ、絡み合ってきた人と人との関係がぶち切られるのである。「ウホッホ探険隊」は、この一つの「離婚」に至る顛末を、どこまでもクールに明るく、哀しみすらユーモアに包んで描いている。
具体的には、もうすぐ中学生になる長男が、新しい制服のためにネクタイの結び方を、父親の家に出かけて教わって来る、その1日の話である。次男も又一緒に出かけるはずだったのに、ちょっとした諍いで「ぼくは行かない!」とプイと一人で出かけてしまう。
いくつか抜書きしよう。
◯一つ年上の従姉からの電話の場面。
「あんた人がよすぎるのよ。なんで浮気した亭主が悪いってハッキリ言わないの」
「言えないわ。私より合う人がいるんだったら、その方がいいと思ったもの」
「バカだねえ、気取ってる場合じゃないわよ。髪ふり乱して胸ぐら取ってやり合ったり、泣いてすがらなくちゃならない時だってあるのよ」
「うん」
「あんた、もうそれほど醒めてたんだ。その冷たさが亭主にもわかったんだ」
◯<子どもが書いた離婚の本>を一人で読んだ上の子が、
「僕はもう、離婚のことハッキリ人に言ってもいいよ。今までは僕、離婚のことを考えると、頭脳がつまずいちゃう感じがしたんだけど」
また長男、「僕たちは探険隊みたいだね。離婚ていう、日本ではまだ未知の領域を探険するために、それぞれの役をしているの」
すると、次男、「お父さんは家に入って来る時、ウホッホって咳をするからウホッホ探険隊だね」
◯そして最後の場面。長男は父親の家に泊って来ると連絡が入り、探し回った次男を漸く探し出して、二人だけで布団をくっつけて寝ているところだ。横になったまま「父を買う町あらずや燕(つばくろ)よ」の句を口ずさんだら、その句の話になって、
「僕、いいよ。お母さんはママパパだもの」
「そうか、お母さんにもチチあるしね」
「しなびれたチチ」
「父は品切れです」
「ふふふ・・・もう寝ようか」
「うん、寝よう。おやすみなさい」
(枕もとのスタンドの灯りを小さくしたまま、母親はじっと息子の寝顔を眺めている。次男も薄目をあけてそれに気づき、しばらく見られたまま・・・だったのだが、)
「ああ、眠れない。申し訳ないけど、僕、むこう向きの方が眠れるから、むこうを向くよ」そして寝返り、眠そうな声で言う。「僕の背中、おとこを感じるでしょう」私は吹き出して「こどもを感じる」と答えた。・・・ (この稿、終わり)
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〔eye4742:200704〕
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