ビルマにおける旧日本軍―その敗北と病理
- 2020年 9月 28日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
はじめに
先般コロナ禍で末期症状を呈していた安倍政権をみるにつけ、その指導力のまったき欠如や無能ぶり、責任回避の無様な姿に戦後丸山眞男が見事に剔抉した「軍国支配者の精神形態」の再来をみる思いがしたのは私だけではないでしょう。日本型ファシズムを特徴づける、「既成事実への屈服と権限への逃避」をスペックとする「無責任の体系」は、日本の統治機構の負の地下水脈としていぜん枯渇してはいないことを思い知らされたのです。
数奇なめぐりあわせでヤンゴンに12年間も暮らすことになった私は、アウンサン将軍らの独立英雄譚を何百回となく聞かされました。また毎年定期的に慰霊に訪れる戦友会や遺族会の方々からは、アジア太平洋戦争中最大の激戦地のひとつであったビルマ戦線(インパール、フーコン平、アキャブ、雲南省等)での迫真の経験談に接することになります。とくに「インパ-ル作戦」では、われわれの父親の世代にあたる将兵が、炎熱のこの地で血みどろになって戦い、大量の犠牲者を出して大敗北を喫したのです。いわばアジア太平洋戦争の軍事作戦上の愚劣さと拙劣さの集大成といっていいものでした。大規模な組織悪の露呈とトップ指導者たちの個人責任の回避という点で、1900年代終わりの日本の「失われた10年」や今般の政党政治の劣化や官僚制の堕落と権威失墜―忖度官僚―に重なるものでした。戦場での錯誤や失敗は死に直結する点で軍事機構は極限的でありつつも、クラウゼウィツのいうように「戦争は他の手段をもってする政治」である以上、その本質は平時の政党政治や官僚機構に通底するものなのです。
ミャンマーは戦後独立を勝ち取ったものの、60年代から半世紀にもわたる軍部独裁のために近代国家への離陸に失敗し開発がおくれたために、戦時の状態が凍結保存されているようなところがありました。2000年頃すでに戦友会や元日赤看護婦の方々は高齢で、みなこれが自分の最後の訪問になるだろうと話していました。とすれば、戦地を訪れて往時の様子をうかがうにはこれが最後の機会と思われ、菊兵団の生き残り学徒兵であり、慰霊団の団長であるS氏に同行を許可してもらいました。少数民族との抗争地帯を行くというので、武装した国軍と警察が監視同行する物々しい慰霊団でしたが、おかげでめったにない経験をさせていただきました。
以下の文章は、いまから17年前、戦地訪問に先立ってビルマ戦線での戦いがどのようなものであったのか俯瞰するため、慰霊準備のためいわば座学で学習した内容です。したがってビルマ戦に関係した定評ある刊行物を渉猟しまとめただけのものであり、事実関係の叙述でオリジナルなものはいっさいありません。当時ミャンマーは厳しい軍政下にあり、インターネットも軍が管理し厳しい制限を加えておりましたので、利用することはほとんどできませんでした。したがって内容的には不十分なところが多々あると思いますが、昨今の政治経験を理解する上で参考になると考え、若干戦地訪問の経験を補足した以外はそのまま載せることにしました。
<怨嵯なお消えず>
自らもビルマでの戦争を体験した戦史家ルイ・アレンは、名著「遠い戦場」(原題 Burma、The Longest War 1941-1945、原書房 1995)を閉じるにあたり、「おそらく戦いすんだ感懐を最もよくいいえている」 として、芭蕉の有名な俳句「夏草や兵 (つわもの) もが夢の跡」を掲げている。しかし残念ながら、これは ビルマ戦を少しでも知る日本人の感覚にはそぐわないであろう。日本人はこの句から 、「名こそ惜しけれ」と、なにより名誉を重んじた板東武者たちの勇猛な戦いぶりに思いをはせつつ、全体としては仏教的な諦観を感じ取るのであるが 、ビルマ戦の現実はそのような中世的な感懐をまつたく寄せつけない。戦闘の余りの凄惨さに、夢とするにはまだ時間がたりないのであろう。
近代戦の悲惨さに痛めつけられ、かつ前近代的な愚劣さに徹底的に翻弄された、30数万人の将兵たちの運命を、とくに異国の土に還った19万人将兵の無念さを思うとき、どんな無神論者でも―つまり肉体から分離した霊魂の存在を認めない―死者の御霊をどうしたら鎮められるのか、思いまどうに違いない。(1)想像力を逞しゅうすれば、なお戦場の地の底から怨嗟の声が沸き起こってくるようで、だれの心もやすらぐことができない。インパール忘れまじという生き残った者たちの執念は、死者たちの無念さが憑依したかのようである。2003年夏、日本帰省の折たまたま目にしたのは、朝日歌壇のこの歌であった。
インパール知らねば言わむ
功急ぐ将ありたれば
白骨累々 小栗大造
(1)自国の軍隊の運命のみに目を奪われてはならない。日本軍が行ったことの甚大な影響には想像を絶するものがある。例えば、日本軍の電光石火のビルマ侵入とラングーン攻略に際して、ビルマを脱出しようとした50万人のインド系ビルマ人のうち、5万人ともいわれる人々が、目指すインドに行きつかず,途中で斃れて白骨を道々野にさらしたという。また日本軍がイラワジ・デルタのコメの集積地パテイン―通称「アジアの米びつ」―を占領したため、カルカッタ方面に輸出されるはずだったコメが奪われ、数十万人単位の餓死者が出たともいわれている。
<ビルマ戦線の地政学的考察>
連合軍との全面戦争に突入するや、膠着している中国戦線の戦況を打開するためには、連合国から重慶・国民党政府へ伸びる援助ルートを断ち切る必要があった。ビルマ援蒋ルート(ラングーン~雲南省昆明)を遮断すべく、日本軍は南ビルマの占領を図った。ところが日本軍の勢いは止まらず、結局全ビルマから15万人の連合軍を駆逐し、全面占領するという意図せざる結果になった。しかしこれは物資に乏しい日本軍にとって重荷となった。当初の第15軍飯田中将隷下の4個師団に加えて大規模な陸軍部隊を配置せねばならず、日本の国力からいってもそもそも補給兵站に難があったのだ。――たとえば「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道の悲劇は、この無理を通すことから生まれたものであった。重機や建設資材にこと欠き(ツルハシとスコップとモッコのみで人力に頼った!)、レールはイギリスが建設したラングーン本線の複線路から調達したという。日本軍がビルマに持ってきたのは、鉄砲と酒と慰安婦だけではないかという非難がビルマ社会に渦巻いたという。(2)ビルマ作戦の戦略構図は、ベトナム戦争時、ホーチミン・ルートを断ち切るために、米・南越軍がカンボジア作戦を展開し、かえって戦線がインドシナ半島全域に広がって、戦争のいっそうの泥沼化と戦局悪化を招き、アメリカ軍の敗北を決定づけたのとよく似ている。(3)
(2)イギリスはもともとこの国にはまともな産業を育てていなかった。日本軍が持ち込んだ機械類も、軍服、軍靴の製造など軍需品関連のみで、石油や木材、スズ、タングステンなどの一次産品の収奪をもっぱらとした。
(3)ミャンマーで何故軍独裁政権が半世紀以上も続いたのか、国際的な要因はその地政学的位置にあったことは明白であろう。この国は大国の利害が衝突する戦略的要衝ではなく、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)では、完全に国際政治のエア・ポケットの状態にあったのである。大国はベトナム戦争に忙殺されていて、鎖国政策をとる独裁国家など黙殺した。近年急速に国際政治の舞台で注目されるようになったのは、ミャンマーが中国の辺境地域の開発に伴い、インド洋への打開路、通商ルートとして戦略的重要性を帯びてきたからである。
ビルマ全域の占領後の軍政下にあって、日本軍はアメリカの太平洋での北上作戦に呼応して、連合軍が反攻作戦に出ることを予想して対応策を検討していた。そこで立案されたのが第一次インパール作戦案(=インド侵攻作戦)であったが、補給に難があるということで、牟田口将軍含め反対が多く却下された。
ところがそののち昭和18年2月15日、中東パレスチナでの後方攪乱のゲリラ戦術の天才、ウインゲート准将率いる特殊部隊であるチンデット隊3000名が、インパールからジュピー山系を越えて日本軍占領地域に侵入、ミッチーナ鉄道を破壊するなどして、第33軍菊部隊(中国で日本軍一の精鋭部隊とされた)をきりきり舞いさせ、インド方面へ去っていった。ウインゲートは部隊の1/3を失うも、この経験から後方攪乱戦術の自信を深めたといわれる。※ウインゲート部隊の作戦行動は、今日youtubeで見ることができる。
ところがこれがかの牟田口に大きなヒントを与えることになった。不可能とみなされていた大部隊での数千メートル級のアラカン山系を越えての作戦行動が可能なのだと考えが変わり、インパール作戦を再着想する。しかし結論から言うと、牟田口の教訓化は我田引水、中途半端であった。なぜならウインゲート構想では、日本軍が得意とする包囲戦術に対抗するため、たしかに軽装備での迅速な部隊移動が策されたが、それをバックアップするために空中からの大規模な補給作戦がとられた。制空権の確保と一体化した空からの補給という立体作戦が、新しい方法として生み出されていたのだ。これはインパール作戦で牟田口が強行した重装備での補給なしのアラカン山系越えとは、作戦思想と戦術において全く異なるものであった。
中国で日本軍が得意としてきた肉迫突撃戦法は、すでに摩滅陳腐化しつつあった。日本軍がインパール作戦の陽動作戦として展開した第二次アキャブ作戦では、連合軍はウインゲートらが開発した立体作戦を本格化した。シンゼイワのいわゆる「円筒陣地」(3)によって、包囲したはずの楯兵団が逆に後方を断たれ、壊滅的打撃をうけたのである。すでに伝統的戦法が通用しない結果が明々白々であるにもかかわらず学習せず、ためにそのつけが何倍にもなってインパールに回ってくることになる。
(3)Adomin Box(管理箱)とかRing Defence(輪形防御陣)とか呼ばれる新しい戦法は、日本軍の突撃戦法に対して生み出されたもの。二重三重に防御網が構築され、肉迫する日本兵に集中砲火を浴びせるとともに、空からも戦闘機による銃撃で敵を破壊する。しかし因果は巡り、ベトナム戦争ではこの方式は通用しなくなる。ダナン基地包囲戦にみられるように、ベトナム側は砲爆撃によっても破壊されない地下道を張り巡らせて基地を包囲し、締め上げていくのである。
ビルマでの日本軍の戦法をみて感じることは、日本軍にははっきりした目標やモデルがあり、それの達成の手順が明確な場合には力を発揮するが、いったん成功するとそれに固執して、状況が変わっても柔軟に対応できないという特徴があるようである。強いて一般化すると、やはりこれは日本社会の成り立ちや仕組みが権威主義的で、閉鎖的であることによるのではなかろうか。国家や官僚統制から相対的に自由な市民社会領域が未成熟で自主的な諸団体が十分育たず、強い自我を持った個人が不在であること。行政の縦割りで各セクターが群雄割拠状態にあること。縦の統制が強く、横断的なネットワークが弱体であるがゆえに、先例モデルや既成の権威を置き換えるオルタナティブな発想や行動は起きにくい。同じことであるが、そういうところでは諸団体相互や諸個人どうしのコミュニケーション機能や、下から上へのフィードバック機能が弱いので、前例を打ち破る新しい知恵は生まれにくい等々。連合軍の反攻作戦を指揮したスリム中将(英)は、日本軍の強さは「インドの兵隊蟻の強さ」に過ぎないといったという。どう猛さや勇敢さ、忠誠心や忍耐力に優れているとしても、自発的な思考訓練を受けていないので、戦況の変化に合わせ柔軟に対処する術を知らないと言っているのであろう。
<インパール作戦の立案と発動、英印軍の反攻作戦>
牟田口中将は当時会う人ごとに,大東亜戦争のとば口となった盧溝橋事件を始めたのは自分であり、したがって大戦を終結させるのも自分の義務であると言ったという。アレンによれば、その言葉には大本営というか東條の意向を感じ取って強気に出ている風がうかがわれるという。負け戦続きで政治的立場の弱く成った東條は、起死回生の勝利で何とか形勢を挽回したいと思い、そこで地上大部隊を動かして勝てる見込みのありそうなビルマ戦線に着目。また東條は自分がS・チャンドラ・ボースにインド進攻を吹き込んだという手前もあったという。そうした事情を感じ取って(忖度!)、牟田口は個人的な誇大妄想的功名心に駆られ、作戦強行の推進力になったのである。
しかしそもそもビルマ戦線に大戦終結を決するような戦略的重要性はなかった。ビルマ占領は援蒋ルートの遮断が目的であり、兵力配置も中国大陸以外では最大だったとはいえ、3軍9個師団でしかなかった。当時の軍事用語でいえば、「持久正面」であり、「決戦正面」ではなかった(後勝「ビルマ戦記」光人社 1996年)。またイギリスにとってもシンガポール奪回という戦略目標の布石にすぎず、主力同士の大会戦によって勝敗を決するという意図はなかったという。しかし結果としてインパール作戦の失敗によって、全ビルマ戦線は崩壊し、イギリス軍は3年前の失地をすべて回復することができたのである。牟田口中将は、インパール作戦を義経の故事に倣い「ひよどり越え」と称したが、アラカン山系からチンドウイン河~イラワジ平原の方に転がり落ちたのは日本軍の方であった。
スリム中将によれば、もともと連合軍は北ビルマの新編第一軍―スチルウェル中国派遣軍司令官の下、インドで訓練を受けたアメリカ式最新装備の蒋介石軍―と呼応し、チンドウイン河を越えて攻撃する計画があったという。しかし第15軍3個師団のインパール作戦計画を知り、逆に日本軍にアラカン山系を越えさせて疲弊させ、インパール盆地に呼び込んで補給線が伸びきったところで叩く作戦に切りかえた。敵の弱点を読み切ったうえでの後退作戦で、日本軍は文字通り飛んで火にいる夏の虫となったのである。
連合軍は、この時インパール周辺の防御陣地を堅くしただけではなかった。その物量規模と戦術の多彩さに驚くばかりであるが、昭和19年3月4日インパール作戦発動直前、再びウインゲート旅団を日本占領地内に長距離挺身させるとともに、2個旅団の空挺部隊とグライダー部隊を北ビルマの要衝ミッチーナ線上に降下させ、またたくまに日本軍のミッチーナへの補給路の遮断と反攻の拠点づくりに成功した。このとき飛行機による輸送は600回にのぼり、約9000人の兵隊と1400頭のラバ、砲兵2個大隊、ブルドーザーなどの重機・資材を送り込み、瞬く間に飛行場を改造し終えるのである。
敵軍のこの動きは、ミッチーナの孤立化と北ビルマ全体の危機、つまり敵のレド公路(インド・レドから昆明にいたる新援蒋ルート)の打開によって戦略的敗北を喫する危機につながるとして、インパール作戦の延期を求めた第5飛行師団長の田副中将の忠告を、牟田口司令官は完全に無視したのである。
<作戦決定のメカニズム>
ここでは1944年3月に発動されたインパール作戦そのものには触れず、日本軍の病理という観点からいくつかの事例を拾い出し、その意味を考えてみよう。
インパール作戦での牟田口の突出と河辺ビルマ方面軍司令官の消極的追認という構図は、これが初めてではなかった。じつは日中全面戦争の口火となった盧溝橋事件は、牟田口の連隊が引き起こしたものであった。ところが不拡大方針だった河辺旅団長が、牟田口らの行動を制するどころか追認してしまい、結果として戦闘拡大に手を貸してしまうのである。河辺のように本来下部の突出を制すべき立場にある人間が、ずるずると既成事実に引きずられて突出を容認してしまうことにより、本来の自分の意思からずれて別方向に事態が進んでいくことになる。丸山眞男が抉り出した、15年戦争指導部の意思決定のメカニズム―「する」論理ではなく、「なる」論理の優越―の見事な例をわれわれは見ることができる。
インパール作戦決定の最終盤、河辺司令官は反対派の参謀に「こんどは牟田口の顔を立ててやってほしい」と言ったという。面子や顔などといったパーソナルな人間関係が。合理的判断よりも優先するのはいかにも日本的なウエットな光景である。幼年学校―陸士―陸大という閉鎖社会の中で培われた人間関係は、村社会の精神構造を再生産するものであった。
しかし二度あることは三度ある。1944年6月はじめ、河辺司令官はインダンギ―にある前線司令部に牟田口を訪ねた。すでに5月雲南の中国軍が総反攻を開始し、フーコン渓谷の敵の圧力も強まり、ミッチーナの飛行場も空挺部隊によって占拠され、ミッチーナ失陥の危険性も出ていた。北ビルマ全線にわたって崩壊の兆候が色濃くなるなか、速やかにインパール作戦を終了させて戦線を整理し、残存兵力の再編成と再配置を急ぐべきであった。
前線視察を終えた河辺は、インパール戦線が絶望的で作戦中止しかないことが分かった。牟田口も河辺に実はそのことを言いたかった。しかし両者とも率直に思うところを披瀝することなく、腹の探り合いの結果、作戦は継続、15軍はインパールを獲るために死力を尽くせというものであった。これにより15軍所属の3師団(烈、弓、祭)将兵の悲惨な末路が決定的になったばかりか、北ビルマと雲南戦線の2個師団(菊、龍)は一切の増援も期待できず、拉孟と騰越の守備隊は全滅を運命づけられた。建前の惰性に押し流され、誰も意図しない本音と全く違う方向に決定がなされていくという不可思議なメカニズム。だからだれも真剣に責任を取ろうとしないのである。この場合、統帥の上では牟田口の上級者である河辺の方が罪は重い。(4)
(4)7月2日、大本営はようやくインパール作戦御中止を命令、河辺方面軍司令官は15軍に対し7月5日に中止を命令。しかし牟田口が現場の各師団に退却命令を出したのは、7月10日である。最後の悪あがきのため、どれほどの将兵が無駄死にしたかわからない。
<作戦参謀と後方参謀>
統帥権の独立を体現する機構としての陸軍参謀本部は、陸軍の各級司令部に作戦や情報、後方担当の参謀を配属していたが、それらの参謀たちは作戦立案や兵力の運用、物資の調達等に大きな権限を有していた。とくに上級司令部からの派遣参謀は、現地の司令部の組織序列=指揮系統を跳び越えて決定に介入することができた。
このメカニズム利用の上で、ビルマ戦線でなんといっても有名なのは、「作戦の神様」と称され、シンガポールの勝ち戦さは別として、ノモンハン、ガダルカナル、ビルマといった日本軍が大敗北を喫した作戦の中心人物たる辻政信作戦参謀大佐である。実際このクラスの中堅将校が、無謀な戦争拡大の牽引者であった。中央統制や組織序列を無視した下剋上的な様々な越権行為、現地突出で統帥権の独立を盾に軍を戦争へと引きずり込む強引な手法、それでいて失敗したときの官僚機構を利用した責任転嫁のうまさにおいて、この人物は際立っていた。派遣参謀の場合、正規の指揮系統に属していないので、いざとなれば職務権限外として逃げることができた。総じて参謀本部に属する将校は、キャリア官僚としての身分が、特権的な聖域として保障されていたことも背景にある。
最初にこの人物の名前が出てくるのは、1937年の盧溝橋事件のときである。当時関東軍参謀本部付の大尉であった辻は、戦端を開いた牟田口連隊長に「関東軍がうしろで支えますから、徹底的に拡大してください」といって、中央の不拡大方針を端から無視したのである。
このあと辻は、ソ連との国境紛争であるノモンハン事件(1939年)では、全面戦争への危惧を抱いた中央の司令を無視して、第二十三師団にハルハ河への進撃を命じた。その結果部隊は全滅、9名の連隊長のうち3名が戦死、また3名が責任を取って自決に追い込まれた。命令を下した辻が無傷で、3名の連隊長が解任されたのである。ビルマ戦線では後述するミッチーナ陥落に関与し、水上少将を自決に追い込み、自分は無傷で逃げおおせるのである。
日本軍のキャリア幹部は、幼年学校―陸軍士官学校―陸大という一般社会とは隔絶したエリート養成コースで純粋培養される。またそのコースの中でも恩賜組とか首席卒業となると、一生特別待遇を受け昇進も早い。つまり学校秀才の自惚れを助長し、甘やかす仕組みになっていたのである。そのせいで彼らのうちでは自称天才が多かったという。辻も陸大在学中のある時期から人格が変わったという同期生の証言もあるという。明治以来の立身出世主義とときの大アジア主義の風潮のなか、誇大妄想的に肥大化した自我意識や権力志向にブレーキをかけるものがおらず、夜郎自大なふるまいは勇敢な突出として評価された。
ルイ・アレンは旧満州における七三一部隊と同様に、北ビルマのセンウイの第四野戦病院で、捕虜となった中国人スパイ8名に生体実験が行われたのを指摘している箇所で、辻参謀のエピソードを紹介している。また戦後防衛庁の最高幹部の一人となった藤原岩市中佐(S・チャンドラ・ボースによるインド国民軍創設の裏方)によれば、辻参謀が撃墜されたP40の米人パイロットの肝臓を料理して食べ、嫌がる本多第33軍司令官にもかじらせたという。残忍、野蛮。非道を地で行く行為ではあるが、辻の場合いつもわざらしさが残る。青年期に甘やかされ、自我が複雑な対他関係の中で錬成され成熟していくのではなく、無制限に肥大化していくと、人間は被害妄想ならぬ被益妄想―自分は他人から好かれており、他人にはなくてはならない人物であると思い込む―に陥りやすい。敗戦後辻は連合国から戦犯容疑で追及されたとき、「おれは死ぬのはこわくないが、いま連合軍に捕まるわけにはいかんのだ。日本は俺を必要としているからだ」と言って、金塊とキニーネをもって有名な逃避行に入る。これは強がりを含むとしても、正直な自己認識であったろう。インパール作戦を主導し牟田口中将も、典型的なこの種の人間類型なのである。
繰り返しになるが、スリム中将によると、日本軍の勇敢さには芝居じみた要素があり、いつも観衆を意識する気持ちが働いているという。衆人環視のなかでの肝試し的な斬首や銃剣突きのことを言っているのであろう。スリム中将のこの観察は、R・ベネディクトが「菊と刀」で日本人の文化の型として指摘した「恥の文化」の所説と一致するであろう。道徳的規範性が、日本人の場合良心や内なる神といった内面から発するのではなく、世間体や他人の目といった外面的な関係に依存するというのである。日本の近代化は明治以来の富国強兵策によって、諭吉の言う独立自尊の個人ではなく、外発型、外部同調型の人間類型を著しく強化してしまったといえるであろう。
さて、作戦参謀の辻と対極をなすのが、ビルマ方面軍後方参謀だった後勝(うしろ・まさる)である。この人は戦争末期、官僚的保身や事なかれ主義が蔓延していた参謀本部の中で、出色の補給兵站担当参謀として敵の戦史家からも称賛された。氏の前述の「ビルマ戦記」は、当時のビルマ方面軍や隷下師団の司令部の様子を知るのに資する第一級の資料である。とかく旧高級軍人の回想録には誇張や自己弁護、事実の捏造がつきものであるが、この書はそういう欠点を免れており、なにより共通して軍人に欠けていた合理的精神が充溢している。これは氏がもともと医者志望の旧制中学出身であったこと、さらに参謀になっても高い実務能力を要求される後方担当であったことが幸いしているのであろう。
後を戦後有名にしたのは、この人がインパール作戦の戦場を視察して、作戦続行が不可能であり、無理押しするとビルマ全線が崩壊する危険性があると、勇気ある戦況報告を行っていたことであった。しかしこの後すぐにサイゴンの南方総軍から2名の参謀が戦況視察のため派遣された。彼らは東條や大本営に迎合して正反対の報告をして作戦続行となったため、後の報告は無駄になったのではあったが。いったいに軍人(官僚)が堕落すると、政治屋になるという好例をわれわれは見てとれるのである。
その後後は後方担当参謀として崩壊しつつあった戦線を駆け巡り、敗走する部隊の補給処理に奮戦し、方面軍司令部の威厳を保った点、特筆に値する。また終戦処理でも見事な働きをした。ビルマ方面軍の残兵14万5千人のうち、半数をあらゆる点で条件のいいタイに送り込むことによって、欠乏の圧力を減ずることでビルマの残兵の栄養衛生状態を大きく改善して、多くの将兵の命を救ったのである。(後自身は戦場の無理がたたって、戦後は闘病生活に明け暮れしたという)
日本軍では、絶えず強気の作戦計画により、「戦理を超越した無謀な激戦の連続」(後、前掲書)を強いる作戦畑と、その尻ぬぐいをさせられる後方畑はことごとく対立したという。辻と後という二人の人物は、対照的な部署の性格を人格的に体現していたといえる。陸軍と海軍の対立とともに、作戦と後方の対立もまた日本軍の脆弱性を表すものであった。学校秀才による机上の空論的作戦計画と泥縄式補給兵站の無理さ加減、それがために将兵にかかる物質欠乏と精神的重圧こそ、アジアの現地で彼らをして蛮行をなさしめたものである。先の論述と重なるが、その好例が泰緬鉄道の悲劇であった。
大規模な鉄道建設に必要な重機械類や資材の不足、戦争の必要から課された一年という短い建設期間、過度の重労働、慢性的な生活医療物資の欠乏からくる栄養失調、けが、マラリア・コレラ・天然痘・皮膚潰瘍などによって、数万人の連合軍捕虜とビルマ人の命が失われた。ROUMUSHA CAMP(労務者収容所)における虐待行為は、逃げようのないすべての無理の最終集約点であった。まともにやったのでは何万人も集まらないので、ほとんど強制連行に近い労働者徴募をする。そしてないないづくしのなかで強制労働を行う。日本兵自身、上官への恐怖心で金縛りになっているので、ヒステリックな虐待行為で憂さ晴らしをする。これに似た状況を、われわれはシベリアの捕虜収容所で見ることができる。ロシア人や日本人が本質的に残忍なわけではない。人間性を失いせしめる非人権的状況と貧しさに虐待者の側も晒されていたのである。したがってその意味では圧制下にある不自由な国民は、総じて他国民に対し残酷になりうるのである。この関係のメカニズムを、同じく丸山眞男は「抑圧の移譲」と名づけたが、あえて言えば、「移譲」などという生易しい表現はそぐわない、「抑圧の下方転嫁」の表現こそふさわしいと申し上げておく。
<孫氏の兵法の欠如>
第125軍司令官牟田口中将はインパール作戦を発動するにあたり、補給についてはジンギスカンの故事―元はビルマのバガン王朝制服のため雲南省を通って長征するにあたり、輸送手段であるとともに最後はそれ自身が食料となる家畜を引き連れていった―に倣って、大量の牛を連れていくことを思いついたという。計画ではその数牛2万頭、取り扱い兵は一大隊に匹敵する千名とし、一人当たり二十頭追っていくというものであった(高木俊朗「憤死」1969年)。しかし牛の歩みはのろいし、時々反芻のため休止してやらなければならない。一列縦隊の単純計算だと、100キロの長さになるという。実戦部隊に牛追いをさせて戦闘の前に消耗させる愚はこの上ないが、これが制空権を握る敵の偵察網にひっかからぬわけはないし、攻撃に対しきわめて脆弱であるのは明白である。さらには粗放的な農業しか行われていないビルマでどうして一度に牛2万頭を調達できるというのか。調達費用は軍票で賄うにしても、牛を奪われたら稲作農業は立ち行かなくなるであろう。無理押しすれば反日感情を刺激し、作戦の遂行や軍政の運営に障害をもたらしかねない。計画の実行の前にフィージビリティ・スタディ(実行可能性試験)を行うという習慣すらなかったようだ。人命軽視、民生軽視の思考様式に唖然とさせられる。
このジンギスカン計画は部分的に採用されたが、案の定牛は役に立たなかったという。平地で生きる家畜には山越えは不向きだったのである。(5)しかし牛のこともさることながら、インパール作戦の攻撃形態が、歩兵に40キロ以上もの重量になる20日分の食糧と武器弾薬を持たせ、2千メートル級の重畳たる山岳地帯を300キロ踏破してインパールを落とすというものであった。そのため重火器を持たない分散した攻撃力のない兵力となってしまった。補給については敵の兵站を落として分捕るという虫のいい話で、正気の沙汰とは思われないものであった。プロイセンの軍制とモルトケ流の軍事思想に倣った日本陸軍であったが、補給兵站の軽視という体質はそこから受け継がれたものだったのだろうか。ナチス支配下のドイツ国防軍も、兵站部門は機械化した機動戦略体系に見合っていなかったという。ただ日本の場合、日露戦争以来の不敗神話と日中戦争の経験から、敵を侮る習癖が身についてしまったこと、第一次大戦を全面的に経験しなかったことから、現代の総力戦の性格を十分理解していなかったことから、軍事思想のゆがみは正されないままだった。
(5)後日私はフーコン渓谷からの脱出路となった山岳地帯(通称筑紫峠)を訪れたが、戦友会の人々の話では馬も急峻な峠道を越えられず、多くが峠から転がり落ちたという。私が行ったこのときは象が活用された。象は巨体にもかかわらず俊敏で、わずか50センチほどの山道を器用に上り下りしているのに驚いた。象は体温が上昇してくると、長い鼻から大バケツほどの唾液を自分の体に吹きかける。私はこの習性を知らなかったので、象のすぐ後についていてこの噴水のとばっちりを受けてしまった。
さらに日本軍の宿痾といっていいのは、補給兵站の軽視とともに、事前調査や偵察活動をないがしろにする体質である。毛沢東の人民戦争理論にもヒントを与えたという孫氏の兵法には、「彼を知り己を知らば、百戦して殆うからず」とある。しかし私が戦地訪問の際、戦友会のメンバーに見せてもらった「兵要地誌」や作戦地図の杜撰さは、予想を超えていた。戦闘では日本軍の地図は危なくて使えなかったと告白され、暗澹たる思いになった。素人目にでも日英の軍用地図を見比べてみれば、日本のひどさが分かろうというものである。戦場の地理的特性の分析、敵情視察による敵と味方の力関係の冷静な分析なども不十分なまま、やみくもに突っ込まされる兵士たちが、結局司令部の無能さのツケを支払わされたのである。
アメリカのすごさは、その近代科学技術と巨大産業を背景にした物量作戦にあるだけではなかった。ロックフェラー財団等の民間資金に支えられた広範な調査研究活動、太平洋問題調査会のような公的機関による各種の調査事業など、あげて日本人とは何かについて、歴史学、政治学、経済学、社会学、文化人類学等の多彩な角度から基礎的学術的に究明し、「彼を知ること」に全力を挙げた。日米の知的体制を比較すれば、片方には自由な研究条件を前提とした学際的な知識人の協力体制があり、もう片方には自由な研究はとうの昔に窒息させられ、御用学問と狂信的神がかり的なイデオロギーが跋扈する知の墓場があるだけだった。かくしてアメリカは、日本人をよく知ったうえで、戦後の対日政策まで含め戦略的に布石を打ってきたのである。
後元参謀によれば、実際当時のビルマ方面軍の作戦課では、「敵情を収集整理してこれを判断し、大局的な情勢判断や将来の予測など、一度も聞かされたことはなかった」という。30万将兵の命運を握る司令部がこのお粗末である。軍トップの敵情無視、戦力比無視の超主観的・独断的な指揮ぶりは、各級の司令部に伝染していったにちがいない。
ひどさの例にはこと欠かない。祭師団・柳沢連隊第十中隊は再三敵情視察を訴えても、前線司令部はこれを戦意がない証拠として退け、ひたすら突撃を命じた。祭師団は、この時本格的な戦車攻撃を受け、壊滅的打撃を蒙るのである。また祭師団が事実上崩壊した6月末、解任された山内師団長に替わって赴任した柴田新師団長は、前線に着任するや否や状況報告も聞かず、地図も見ないで攻撃命令を下し、参謀長以下を憤激させたという。
ビルマ戦争最後の決戦場となったイラワジ・メイクティ―ラ会戦でも、方面軍司令部では誰一人戦場視察するものがいなかった。菊兵団長としてフーコン平の持久戦をやり抜き、その後方面軍に転じた田中参謀長によると、情報課長である某高級参謀に現地視察を命じたが、途中で具合が悪くなったと帰ってきて何の役にも立たなかったという。(後、前掲書)
また敗戦の責任を部下に転嫁する例は枚挙にいとまがない。牟田口は隷下の三師団長にインパール作戦失敗の責任を負わせ、作戦中に前代未聞の全員解任をやってのけたのである。「敗軍の将、兵を語らず」という将帥の倫理は、雲散霧消していた。それはそうであろう、インパール作戦を発動して一か月になるというのに、15軍司令部は前線から500キロ離れた、高原の避暑地メイミョウをまだ動かなかった。部隊が血みどろの戦いを続けているときに、戦況を無視して牟田口司令官はひたすらインパールへの突撃を命じ続けていた。そのくせ本人は毎夜、軍服を浴衣に着替えて、芸者(慰安婦)のいる「晴明荘」へ通い続けていた。この「晴明荘」、日本から畳やふすまを持ち込んで、料亭風に改装したものである。司令部勤務は午後5時で終了。司令部の幕僚たちも高級車で乗り付け、それぞれに馴染みの芸者がいた。この芸者の取り合いで喧嘩沙汰になったこともあったという。宴会では当時日本本土でも不自由になっていた日本酒やマグロの刺身まで出たという。しかも各閣僚、英国人の残していった別荘を私邸にとし、副官や当番兵にかしづかれて豪勢な生活だったという。あまつさえ司令部が前線により近いインダンジーに移動するとき、途中のシュエボーまで「晴明荘」を移築、司令部ぐるみで酒色の生活に執着したのである。(アレン、高木、前掲書)
後参謀の体験談であるが、日本軍の物資調達は実体的価値の裏付けのない軍票にもっぱら頼っていたため―当時財務官として前尾繁三郎や村山元蔵相が勤務していた―、インフレがひどく、参謀の給与ではすき焼きを一回食べるのが精いっぱいであった。ところが「粋香園」という熊本から来た料亭は、連夜満員だったという。不思議に思った後が、戦後どうしてみなは毎夜遊べたのだろうかと高級幹部だった人に訊いたところ、ガソリン(ビルマにはイエナンジャンに油田があった)や軍需物資の横流しをやって遊ぶ金を作っていたんだが、きみは後方主任のくせにそんなことも知らなかったのかと笑われたという。後は軍紀の弛緩を嘆いているが、なにかわれわれの眼前の光景とダブって、日本(軍)官僚の悪しき風習の生命力に暗然とした思いになってしまう。
司令官クラスの高級将校の奇行、愚行についての話は山ほどあるが、ほんの一部だけ紹介しよう。祭師団の山内師団長は外国滞在が長かったのでパンしか受けつけず、当番兵は材料の確保と毎朝パンを焼くため死ぬ思いをした。また同師団長は洋式便座でなければ用を足せないので、当番兵が便器を担いで戦線を移動したという笑うに笑えない話もある。前線司令部まで慰安婦を連れて行った某司令官といい勝負であろう。
部下に簡単に死の突撃命令を下す将校に限って、臆病でエゴイスティックなのが多い。牟田口司令官は戦線を移動する際、休憩場所で必ず自分用の塹壕を掘らせた。敵機の来襲を恐れてのことだが、休憩時間が短いと掘り終わらぬうちに移動命令が出て、当番兵は疲労困憊したという。
<軍高級官僚の末期症状>
戦争末期の軍隊組織の腐敗堕落がいかにひどかったかの例をひとつ。インパール作戦が発動される前、祭師団はタイ・チェンマイからビルマに移動するに際して、チェンマイ~トング―間の輸送路建設に使役された。工兵隊でなく戦闘部隊を道路建設に使うと、消耗して実戦に使えなくなると南方軍総司令部でも反対が多かった。しかし牟田口のインパール作戦が実現されようとしていたので、反対派はそれを牽制するため部隊をタイに留め置く方便としてこのプロジェクトを利用した。それは仕方のないこととして、問題は道路建設のための予備調査(feasibility study)に関してである。南方軍の計画では建設期間が2か月、直線距離でも300キロあり、実際は重畳たる山岳地帯をうねって進む自動車道路である。かつてビルマのアラウンパヤー王朝がタイのアユタヤ征服の進軍路であったというが、祭師団の岡田参謀長が現地視察に行ったところ、難工事が予想され、実戦部隊では手が付けられないことが明らかとなった。岡田以前に現地を視察して実行可能という調査結果を持ち帰った上級将校は、実は現地に行ってもいないことも判明した。(高木、前掲書)上級機関の作戦計画に迎合して、つじつま合わせの作文をする官僚的な事なかれ主義の成れの果てである。たとえ現地を精査して中止を含む建設的意見を上げたにせよ、中央の意向に沿わなければ握りつぶされることが分かっている以上、官僚的遊泳術に走って精力を節約した方がいいと思ったのであろう。この軍官僚を馬鹿だと言い切れるほど、われわれは賢くなっているのであろうか。(5)
(5)残念ながら、2019年の忖度官僚の存在によって、われわれは歴史が繰り返される光景を目にしたのである。
日本軍の堕落のとどめは、最高司令部に関わるものである。1945年4月下旬、ラングーン陥落4日前に木村方面軍司令官以下司令部は、日本大使館、民間人、バーモ政府要人を置き去りにして、早々と南ビルマの拠点モールメンに飛行機で逃げ去ったことである。それでいながら、疲弊しきった隷下の第28軍にラングーン奪回を命ずるのである。関東軍でも同様に生じたことであるが、一体こういうのを破廉恥といわずして何というのであろうか。とにかく一事が万事、明治以来積み上げてきた西欧科学技術の習得の成果は消し飛び、新渡戸稲造の称揚した武士道精神の片りんもみえず、「井蛙管見」で自己中心的、非合理的で愚昧な統帥のため、日本軍は自壊作用を起こしたのである。
ただ公平を期するためには、少数ではあるが「敗軍の将、兵を語らず」で統帥の責任を取った将軍もいたことを記しておこう。弓兵団の柳田師団長は牟田口に師団長を解任されたのち、ソ連の参戦を予期し、ソ連通の経歴を生かして自らを犠牲になるべく関東州防衛司令官に就任。ビルマでの万単位の将兵を犠牲にした責任を取っての行動といわれている。その後ソ連兵の日本人民間人への暴虐非道を非難したためシベリアに抑留され、以後消息不明になった。(後、前掲書)
組織が崩壊に至る末期症状として、劣性淘汰が始まるという。直言する有能なものが排除され、上司におもねる佞臣的人物が優遇される結果、組織の官僚主義的な硬直化が進行し、機能レベルが低下する。軍隊はもともと上意下達の指揮系統が強力なので、末端の経験がフィードバックされて上級機関の決定過程にインプットされることは難しい。上級幹部の養成機関が特権的閉鎖的であったり、議会や政党などからのチェック機能が弱いと軍の横暴は抑制されず独善性を募らせる。人事権を参謀本部が独占していれば、閉鎖社会特有の情実人事や報復人事が横行するであろう。こうして日本軍という組織はますます経験から学習しなくなり愚昧になっていったのである。
先般―1995年前後―「制度疲労」なる言葉がはやった。既成の制度のもつ潜在力が枯渇し、効率が悪くなって問題解決に支障をきたす事態を指しているのであろう。ただ制度つまり人間の組織の場合、無機的な機械体系とちがって、部品交換やオーバーホールのイメージはそぐわない。特定の制度を運用する人間の責任やエートスが絡んでくるからである。運用規則をいくら決めても、法の精神が存在しないところでは、規則は外的な束縛としか感じられず、いくらでもその抜け道を探すことになる。その意味では日本軍の場合、将兵の精神を根本的なところで規定している天皇の存在が問題となろう。天皇に対する崇拝感情を土台として、軍人勅諭の「上官の命令は、朕が命令と心得よ」という文言が、下級将校や一般兵士の精神を金縛りにして、作戦計画や戦術について疑問を抱くことを自らに禁止してしまったのである。人間が自らをロボット化し一時的に効率をあげて成果を達成しても、それは長続きせず組織を滅びの道へと導くことになることをビルマの日本軍は教えているのである。
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〔opinion10146:200928〕
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