関東大震災に「ソドムとゴモラの覆滅」をみた内村鑑三 ―先人は「大事件」をどう考えたか(5)―
- 2011年 6月 14日
- 評論・紹介・意見
- ソドムとゴモラ内村鑑三半澤健市
《之を見て我心は狂はん計りである》
キリスト者の内村鑑三は関東大震災を天譴(てんけん、天罰)と受け取った。
しかしその納得は簡単でなかった。それは日記などから推定できる。
23年9月12日にこう書いている。「松屋呉服店の自動車に乗せて貰ひ、市中の被害地を巡視した。其惨状言語に絶せりである。生れて以来未だ曾て如斯(かくのごとき)者を見たことはない。ソドムとゴモラの覆滅は如斯き者であつたろう。花の都は荒野に化したのである。之を見て我心は狂はん計りである。今に至て役に立つ者は青年時代より養ひ来りし信仰である」。
9月25日には「市民全体が都市復興にのみ熱心にして、此天譴に遭ふて自己に省みるの気風に乏しきは悲しむべき事である。/此際大なる興味を以て創世記第十八章第十九章に於るソドムとゴモラの覆滅の記事を研究する」と書いている。
「大なる興味を以て」行った研究は柏木聖書講堂における9月30日の説教に結実した。以下その説教を要約する。
まず「ソドムとゴモラの覆滅」の物語を簡単に記しておく。
「覆滅(ふくめつ)」は「滅亡」、「壊滅」の意である。ソドムとゴモラは地名、後者はソドムと並んで表記される。二都市の場所を現在は特定できないがアラビア半島北部で地中海に面した肥沃な地帯の一画だと考えられている。アブラハムとロトは人名である。アブラハムは旧約聖書に出てくるイスラエル人の族長、ロトはその甥である。エルサレムに住んでいた一族は神によって移住を命ぜられた。ロトは低地で潤沢な東方の楽園ソドムに住むことを欲した。アブラハムは気候の厳しい大地を選びロトにソドムを譲った。聖書はソドムを享楽と悪徳の町として描いている。しかし現世を楽しむロトに悪事をしている意識はなかった。山地に止まり勤険素樸な生活を過ごしたアブラハムには神エホバの恩恵が重なった。広大な土地と多くの子孫が与えられた。神はソドムを滅ぼすときにロトの命を救った。ロトの妻は「ソドムを振り返るな」という警告を破って「塩の柱」にされた。
《内村の説教と「アブラハムと神との会話」》
内村は「ソドムとゴモラの覆滅」を単なる自然現象としても解釈できることを述べる。
しかしそのあとで、これを「ノアの洪水」と並び、神が人類の罪を罰せんと仕掛けた天災だというのである。「ソドムとゴモラに関し新約聖書の左の二箇所は人の克く知る所であります」として次のように引く。
▼路加(ルカ)伝十七章二十八節以下
又ロトの時も如此(かく)ありき。人々飲食、売買、耕作、建築など為たりしがロトソドムより出し日に、天より火と硫黄を降らせて彼等を皆滅せり。人の子の顕はるゝ日に亦如此あるべし。ロトの妻を憶へ。凡そ其生命を救はんと欲する者は之を失ひ、之を失はん者は之を存(たも)つべし。彼得(ペテロ)後書第二章、六、七節。又ソドムとゴモラの邑(まち)を滅さんと定め、之を焼きて灰となし、後の世に於て神を敬まはざる者の鑑とし、たゞ義(ただ)しきロト即ち悪者の淫乱の行為を恒に憂へし者を救へり。
「覆滅」の前日、3人の天使がアブラハムに会いに来た。そのリーダーは変身したエホバであった。天使は二つのことをアブラハムに告げた。一つは99歳のアブラハムとその老妻サラに子供を授けるというのである。笑ったサラに対して子供に「イサク(笑い)」と名づけよといった。もう一つは悪人に支配された「ソドムとゴモラ」を滅ぼすことだといった。同じ天使が恩恵と呪詛、救済と滅亡を告げたのである。内村は「神に煩悶はないと云ふのは間違である。神は正義と慈愛の衝突より来る大なる煩悶がある」と書いている。これは神の煩悶に名を借りた内村の煩悶であろう。
アブラハムとエホバの間で次の問答があった。
ア 貴神(あなた)は(ソドムとゴモラで)義人をも悪人をも具に滅(ほろぼ)し給ひます乎。勿論給はないと信じます。若し市の中に五十人の義人あらば尚貴神は其処を滅し給ひます乎。其中の五十人の義人の為に之を恕(ゆる)し給ひませんか。貴神が義人を悪人と倶に殺し給ふと云ふ如きは有るべからざる事であります。
エ 我れ若しソドムの市の中に五十人の義人を看るならば、彼等の為にその全市を恕すであらう。
ア 五十人の義人の中、五人欠けたりとしますれば、貴神は五人欠けたるが為に市を尽く滅し給ひませう乎。
この問答は四十人、三十人、二十人、十人まで続いた。十人でも義人がいれば「滅ぼさないであろう」とエホバは答えた。
内村は続けていう。「アブラハムは是れ以上を言ふ事は出来なかった。故に問答は茲に止んで、神と人とは相別れて各自其所に帰ったとある」。
ロトに関して内村はいう。「ロトは義人であって、ソドム人の中に在り日々その不法を見聞して己の義しき心をいため傷めたりと云ふ。然し夫れは比較的に云ふに過ぎない。然し乍ら伯父アブラハムに比べては確かに堕落信者であった。此の後ロトの二人の娘は父親と背倫の行為をなした」。ロトは、結局ソドムを含む低地全体の堕落、退廃を体現していたというのが内村の認識である。
《東京もソドムなのだろうか》
内村は「我等日本人に此罪なしと云ふて我等は誇るであらう乎」と問うている。
▼震災以前の東京はソドム程は堕落しなかったと言ひ得よう。しかしソドムに近づきつゝあったことは事実である。「此輩(このともがら)は胆太く自放(わがまま)なる者にして尊者(神)を謗る事恐れざるなり」との言は、ソドムに於ても東京に於ても文字通り真であった。「此輩は」、殊に東京に於ける、文士と称する人達は、常倫を破るに大胆であった。彼等は自放であった。即ち何よりも自分の思想を重んじ、之に反対する者あれば、旧式なり、圧迫なりと云ひて激昂した。彼等は特別に尊者即ち神を謗りて恐れなかった。彼等の多数は背教者であった。そして背教者の常として何よりも彼等が曾て信ぜし神を謗るに熱心であった。
内村鑑三がもし2011年の日本を見たら何というであろうか。
この敬虔なキリスト者は1923年と同じく次のように言うだろうと思う。
▼私は今回の大震災に於て、災害を免かれし者はすべてアブラハムの如き忠実なる信者であり、之に罹りし者はすべてロトの如き堕落信者であると云ふのではない。罹りし者の内に善人あり、罹らざりし者の内に悪人ありし事を私は疑はない。多分何十万という市民は、ロトがソドムに行いたと同じ心掛を以て都会に集い来つたのであろう。/多くの基督者と称する人達までが、信仰と文化生活を混同し、此世の事業に成功するを以て神の恩恵に浴する事と信じ、天然を通うして天然の神に接する楽しき田園生活を棄て、都会に出て都会人士と共に軽佻浮薄の生涯を送って無意義の快楽に耽ったであろう。而して斯かる人達が今回の災禍に会うて、今更ながらに彼等の取来りし生涯の方針の全然誤りし事に気付いたであろう。/創世記の此記事は、其内に深き真理を蔵する者であると言はざるを得ない。
キリスト教に無縁の「衆生」として内村を読むとき私は大きな違和感を抱く。
21世紀の「東日本大震災」を論ずるに際して、彼の含意を生かすのは容易でないと感ずる。一体、「天譴」そのものが現代人の感覚ではない。また有島武郎批判に使った「霊魂の滅亡」などということを私は納得できない。そう言った上でなお、内村の論理を今日に生かすことは出来ないだろうか。彼のいう「天然を通うして天然の神に接する楽しき田園生活」を「公共性を備えた共同体」と言いかえたらどうなるだろうか。
そう考えて私が内村から得た教訓は次の通りである。
《公共性なき「ガラスの城」の虚妄》
我々の戦後は、真実の「公共性」、「公共財」、「公共インフラ」を形成しなかった。
そういうインフラを伴った共同体を形成してこなかった。人は、そんなことはないというかも知れない。民主党は「コンクリートから人へ」と言った。人々はそれに喝采を送り政権が交代した。60年間「コンクリート」で固められた堂々たる日本列島にこれ以上コンクリは必要ない。だからマニフェストで「コンクリートから人へ」と言ったのである。
しかしコンクリートで固められた「堂々たる日本列島」の実体は「ガラスの城」であった。
我々が、「3/11」以後の「フクシマ」にみているのは、「政界・財界・官界・学界・報道界」が合法的に周到に作り上げた「利権の共同体」とその崩壊である。「フクシマ」は地域住民の頬を札束で叩いて買い取った「ガラスの城」であった。「ガラスの城」は真の「公共性」、即ち「国民全体の利益」を代表していない。「ガラスの城」成員の利益だけを代表している。彼らはその城を守ることが「国益」だと強弁している。なお城の拡大を企んでいる。増税が必要だとまで呼ばわっている。
天の一点からは、この「ガラスの城」は「ソドムとゴモラ」に見えることであろう。
内村の信じた神が、戦後日本の総体を「ソドムとゴモラ」と見るとしても当然であるように思う。この見方は誤りであろうか。私は「天譴論」を理性では否定する。しかし「ガラスの城」という認識は確信に高まりつつことを感じている。
次回、もう一度内村の言説を取り上げる。日本の将来像を提示しているからである。
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〔opinion0503 :110614〕
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