女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声が届かない
- 2020年 10月 30日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子女川原発
その後の女川原発2号
宮城県議会は10月22日、女川原発2号機再稼働を求める請願を採択、県議会は再稼働の容認を表明したことになり、村井嘉浩知事が近く、再稼働同意に踏み切るとみられている。10月23日には、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)30キロ圏の石巻市民17人が、重大事故時の住民避難計画の不備を理由に、県と市の2号機再稼働への同意差し止めを求めた仮処分で、仙台高裁は、申し立てを却下した地裁決定を支持、市民側の即時抗告を棄却する決定を出した。
8月の下記の当ブログ記事にも書いたように、1号機は廃炉に決まったが、2号機の再稼働はなんとしても阻止しなければならないと思っている。宮城県議会へは、すでに県民11万に及ぶ署名によって住民投票条例制定を求めたが、自民・公明による反対で否決、さらに野党による条例案も否決されている。要するに住民投票の結果、民意が示されるのを畏れているとしか思えない。私が女川原発にこだわるのは、2016年に、一度女川町を訪ね、1960年代より、父親の代から夫妻で原発設置反対運動を続けてこられたAさんの話を聞いているからかもしれない。
女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて(2020年8月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-413b15.html
上記記事の年表にもあるように、東北電力の土地買収当初から1984年の1号機運転開始、95年の2号機、2002年3号機運転開始を経て、2011年東日本大震災での被災・自動停止、福島の原発事故に至り、その後も国内外での原発事故が続出している。
女川町議会の再稼働容認の意思表示はあったが、周辺自治体の中には、原発事故が起きたときの避難計画の実効性への疑念から反対している市や町がある。大震災後、女川原発は耐震対策や津波対策として海抜29mもの防潮堤を建設したが、そもそも巨大地震を繰り返す震源に近く、福島第一原発と同型の原子炉であるというリスクも抱えている。
女川町の場合は、過疎化、高齢化に加えて、大震災被害からの復旧の遅れによる経済的な疲弊から脱出のため原発マネーをアテにせざるを得ない状況下に追い込まれての「未来志向」の選択であった、というのが賛成派の大義名分であろう。しかし、こうした構図は、女川町に限らない。
ところが、その原発マネーは、政府、電力会社と自治体、工事受注会社をめぐりにめぐるが、自治体や市民に残されるのは、安全性に疑問を残したままの原子炉、いわゆる立派な箱モノ、不安定な雇用だけというのは、原発を持つ自治体に共通するのではないか。原発によってだれが潤っているのかは、よく見極めなければならない。関西電力と高浜町をめぐる大掛かりな汚職事件は記憶に新しい。地元市民や電力消費者は、もっと怒ってもいいはずなのに。
Jijicom:関西電力・高浜町原発マネー還流事件まとめ
https://www.jiji.com/jc/v7?id=201909kdkzgm
ほんとうに原発は必要なのか
こうした現実を前に、私は、いま、果たして、ほんとうに原子力発電が必要なのかという基本的な問題に突き当たってしまう。10月26日の菅首相の所信表明では、「温室効果ガス排出量を2050年までにゼロ」を打ち出したが、その裏付けは未知数である。日本の電源構成は、2018年の実績と2030年エネルギー基本計画によれば、以下のようになる。
原子力による電源の推移を見てみると、2011年東日本大震災の福島原発事故以来、限りなくゼロから再稼働により若干増えて、数パンセントなのが現状である。これを、政府は、1930年には20~22%にすることを目標とした。大震災直前に近い数値で、原発の再稼働・新設は必至ということになる。新設はもちろん、再稼働や廃炉、廃棄物処理への過程での安全性の担保を考えると、その人材と時間に加え、そのコストは、とてつもない数字になる。原発は安全で安価という神話は、すでに崩れつつあるのを、私たちはうすうす知ってしまった。エネルギーミックスによって、原子力発電は供給の安定性がメリットとも言われてきたが、ひとたび事故が発生すれば、福島原発事故に見るように、一斉に稼働を停止し、点検の必要が生じるのではないか。
私は、将来の人口減に加えて、省エネの覚悟と水力・風力・太陽光などの再生エネルギーによる電力供給を拡大することによって、原発ゼロも温室ガス排出量を限りなくゼロにすることも、不可能ではないと考えるようになった。
女川原発の歴史を振り返ってみよう。1967年末、女川町を含む石巻地区の石巻市他9町による原発誘致の請願に始まり、翌年、東北電力は女川町の小屋取を適地として建設地と決定した。それ以降、雄勝、牡鹿、女川三町の建設反対期成同盟と漁協による反対運動が盛りあがったが、東北電力の土地買収交渉が強引に進められた。小屋取の大地主さんは、当初反対であったが、東北電力の分裂工作にのってしまう革新政党があり、とうとう買取りに応じてしまったと、女川で話を聞いたAさんは、その悔しさを語っていた。そんなことでも苦労されたのだなと思う。1973年第一次オイルショックにより各漁協が漁業権を売り渡し、埋め立て工事の同意が続いたという。1979年アメリカのスリーマイル島、1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故と続く中でも、工事は着々と進み、2002年3号機運転開始にまで至るのである。上記建設反対運動に始まり、1号機運転差し止め、2号機設置許可取り消し行政不服審査異議申し立て、3号機建設反対1・2号機運転中止申し入れなど、要望や法廷闘争を繰り返すなかで、2011年、東日本大震災により、1・2・3号機が自動停止となって、前述のように1号機廃炉、2号機再稼働の道が進められている。3号機のプルサーマル計画はどうなるのか、いずれも住民には大きな不安をもたらしている。
女川と鹿島
一方、ゼネコンの鹿島建設とそのグループは、東北地方では、原発に強いといわれ、女川原発3機とあわせて関連工事もすべて鹿島であった。2011年の段階で、全国で54機ある原発の20機以上が鹿島による建設だった。公共事業ではない電力会社と建設会社との民・民契約であるため、競争入札はないので、粗利益は高いとされている。関連工事のみならず、今後は廃炉にも多大の資金が投入されるだろう(「なぜ鹿島は原発の建設に強いのか」『週刊東洋経済』2011年12月3日号)。
また、東日本大震災前ながら、鹿島建設のホームページには、「鹿島紀行」というコーナーがあって、鹿島の施工工事と女川町との関係をつぎのように記している(「宮城県女川町~緑あり・海あり・魚あり」『鹿島紀行臨時版』2005年11月)。
【女川町と鹿島】
当社と女川町との関わりは,1960年の日本水産女川冷食工場建設(79年同工場増設)と,68年の野々浜地区の牡鹿半島有料道路(コバルトライン)工事に始まる。前後して女川原子力発電所取付け道路などを施工した。
女川原子力発電所は79年から敷地造成工事に着手し,以降1号機(80年),2号機(88年),3号機の各本館建屋(96年)に着工した。
女川町総合運動場では85年に造成工事を受注。引き続き町民野球場,町民庭球場,陸上競技場を受注した。02年に万石浦トンネル,04年に(仮称)第1五部浦トンネルを受注している。
さらに、東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた女川町の復興事業の概要は、以下の通りだが、2012年3月に、女川町と独立行政法人都市再生機構は「女川町復興まちづくりパートナーシップ協定」を締結、同年10月に、独立行政法人都市再生機構と鹿島・オオバJVは「女川町震災復興事業の工事施工等に関する一体的業務」について協定を結んでいる。女川町は、都市再生機構を通じて鹿島に丸投げしたことになる。以降、復興まちづくりのモデル事業として、しばしば報道され、話題にもなっていた。そして、今年2020年3月、7年半にわたる復興事業は完了したという。
あの大掛かりな造成工事は完了したのだろうか。駅前のみならず、街のにぎわいを見せているのだろうか。
【女川町震災復興事業】
事業者:女川町
発注者:独立行政法人 都市再生機構
施工者:鹿島・オオバ女川町震災復興事業共同企業体(おながわまちづくりJV)
業務内容:震災復興の造成工事に関するマネジメント業務、
地質調査、地形測量、詳細設計、許認可に関わる図書作成および施工業務
工事概要:中心市街地222ha、離半島部14地区55ha
工期:2012年10月~2020年3月
首相と天皇
私たちが女川を訪ねたのは2016年4月、女川駅と周辺のわずかな区画の商業施設が完成したばかりであったが、いかにもにわか作りの感がぬぐえなかった。食事をしようにも満足な店が見つからず、どこか半端な店が並んでいた程度だった。あたり一帯はかさ上げ工事のさなかで、大量の重機が首を振り、大きく削られた山肌が生々しかった。そして、直前の3月17日には天皇夫妻が、2月21日には安倍首相がすでに立ち寄っていたことを教えられた。迎えるための準備と警備は、格別のことであったろう。行幸や視察の実質的な意味は、まず皆無であろう。被災者の気持ちに「寄り添い」「励ます」というが、私などは信じがたいのだが、それよりも先にやることがあるだろうと、いつもやるせない思いに駆られてしまう。
2015年3月、女川駅が開業した折の美智子皇后の短歌「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ」が、すでに16年1月に発表されていた。宮内庁の発表によれば、天皇夫妻の3月17日の女川での日程は、以下の通りであった。昼食をはさんで、滞在時間はどのくらいだったのだろうか。「ヤマホン」というのは、水産加工会社のようであった。女川の日程の前後には、石巻市で「宮城県水産会館(時間調整のためお立ち寄り・宮城県漁業協同組合東日本大震災犠牲者慰霊碑ご拝礼)」、帰りにも、「時間調整のためお立ちより・宮城県漁業協同組合経営管理委員会会長ご懇談」とあった。「ご聴取」「ご視察」「ご覧」「ご訪問」「ご懇談」との使い分けがあって、なかなかややこしい・・・。
女川町長より復興状況等ご聴取(女川町まちなか交流館)
昼食会ご主催(宮城県知事,県議会議長,女川町長,町議会議長)(女川町まちなか交流館)
ご視察(シーパルピア女川(テナント型商業施設)
ご覧(女川駅)
ご訪問(株式会社ヤマホン、施設概要ご聴取,ご視察)
最近、女川町の出島(いずしま)出身の知人Wさんに会う機会があった。女川は「ふるさと」ながら、訪ねるたびに、どんどん変わっていく様を目の当たりにして、やりきれなさというか、女川の記事や映像も拒みたくさえなるという。2万人が暮らして漁業が盛んな町だったが、原発が出来て1万になり、大震災の被害で半減してしまったことにもなると嘆くとしきりであった。「女川に来なくても短歌は作れてしまう」と皇后の短歌の話にも及んだ。
こんな記事を見つけた。出島の人口は、大震災後、5分の1の100人になった。2023年には、本土との橋が開通するそうだ。河北新報(2020年7月22日)。
初出:「内野光子のブログ」2020.10.30より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-bb75a1.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10246:201030〕
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