未完の「アジア主義」-権藤成卿論(下) アジールからの二つの出撃
- 2021年 1月 20日
- 評論・紹介・意見
- 古賀暹
(上)は2020年10月17日(http://chikyuza.net/archives/106408)に掲載済み
註 人名の下の数字は昭和7年の年齢(数え年)
はじめに
すでに権藤成卿(62)の思想的位置については前章までにおいて略述しておいたので、内田良平と決別した後に、彼が如何なる立場に立って、昭和前期の闘争を戦ったかについて明らかにしよう。
彼が血盟団事件から5・15、あるいは2・26のイデオローグであったことは、ある程度知られているが、信州の農民闘争の指導者であり、かつまた、全国的な飯米闘争の指導者でもあったことはあまり知られてはいない。しかし、彼の場合、単に、イデオローグというよりも、実践家であったという方がむしろ相応しいかもしれない。社稷や天智天皇を持ち出し、歴史の空想的、非科学的解釈を行った空想家であるとされてしまいがちだが、そうではない。歴史の「解釈」が実践と結びついているのだ。
それは、イデオロギーが闘う(アルチュセール)とともに、彼という肉体も闘っているからだ。したがって、本稿は、テロリズムによる闘いとともに、農民運動の組織者としての闘いの両側面を捉えることが要求されることになる。だが、そういっただけでは、まだ、表面的である。というのは、一般に、右翼という者は、ナショナリズム―天皇に対する熱狂的支持者とみなされている中で、彼は、本質的には、天皇と軍国主義への批判者として、それらの運動の内的転回を図ろうとする意図をもって意識的にふるまっていたからである。
北一輝と比較してみればはっきりする。北は天皇機関説論者であったが、それを表に出さずに青年将校と向き合い、運動の過程において、彼らを変革しようと試みていた。それに対して、権藤の場合、明確に社稷が国家の主体であることを主張し、天皇を社稷の保護者であらねばならぬとし、それを以て、右翼運動の主体である井上日召や上杉愼吉たちの弟子の思想的転換を図っているのである。その転換の現場に立ち会うことが本稿の第一章の課題である。
権藤成卿が代々木上原に居を構えたのは六十二歳のときで、昭和四年のことだった。この家は敷地内に三軒の独立した家屋が存在していた。この「場」を彼が意識して借りることにしたのか否かは定かではない。だが、この空間とその主である権藤とその思想がなければ、血盟団事件や5・15事件は存在しなかったかもしれない。このアジールは、昭和を揺るがせたテロの出撃拠点であり、第二章で触れる農民運動の策謀地でもあり、天皇絶対主義者たちを転回させる場だったのだ。規模は全く異なるが、辛亥革命の中国人学生たちが日本を出撃拠点としたように、昭和の動乱の最初の出撃拠点がこの権藤家であったのだ。
第一章 血盟団―5・15事件と権藤成卿
【一】
老齢の権藤成卿が昭和維新運動の活動家に注目されるようになったのは、『自治民範』(昭和二年)を上梓して以降のことである。それ以前にも、彼は「老壮会」にも講師としてよばれ、彼等の幾人かと接触はしていたが、ボソボソと日本や中国の社稷について語る老学者に過ぎなかった。その権藤の革新運動内部で大きな意味をもつのは、海軍の藤井斉(29)(藤井は5・15事件前の上海1事件で戦死している)と接触してからである。当初、権藤は、大川周明、安岡正篤、北一輝らともに四人のイデオローグの一人とみなされていたのだが、最終的には、大川、安岡が脱落し、北とならぶイデオローグとなっていく。藤井にとって、この過程は、革新派が、天皇制および上層の将校たちの軍国主義維持という主張から、「謀判」の論理に組み代わっていく過程でもあった。
彼は、西田税(32)が天剣党の旗揚げをすると同時期に海軍に王師会(昭和3年)とい
う青年将校グループを組織し、西田が北にほれ込んだように権藤に私淑していた。もちろん、北を評価しないわけではないが、精神的には権藤を依りどころにしていたようである。
それは、北の「改造法案」には、革命後の国内改革の具体的ビジョンが出されているが、権藤には社稷の自治の思想をもって、労働者の自治、都市の自治を行うという日本の伝統につながる強烈な自治思想があったからだ
昭和六年の藤井日記をみると、革命成功後の御前会議のことを夢想した井上日召との会話
が記されているが、ここでは両者ともに「北は天才なり」ということで一致している。しかし、同時に、権藤と北とが対立する局面をも想定し、その場合、どうするかなどと議論をしている。結論は、正しい方を取るという一般論でしかないが、この時点においては、すでに、権藤の「社稷論」、北の「国家論」は二人とも彼らなりにほぼ消化していたとも見受けられる。
「遠藤等のすべてをのものを天皇に返せは不可なり。国家民人は天皇のものに非ず、社稷の観欠乏せり。天皇も社稷の一部、国土民人も亦然り。只日本の天皇はこの社稷生成化育を作用を祐けたる、、、を道業として持続して来る」(匂坂資料3巻、故藤海軍少佐の日記。)
ここで、若干の注釈を付せば、遠藤とは遠藤友四郎のことで、この人は左翼からの転向者であるだけに天皇崇拝論者であり、改造法案を「赤化大憲章」だと批判していた(末松太平『私の昭和史』110以下参照)。この系譜の大岸頼好中尉などは、「天皇親政論」に基づく国家革新綱領を執筆していることで知られているが、こうした論争を知ったうえで、藤井は、はっきりと、自治思想を前面に出しているのである。このように社稷を中心に置く社稷国家論(国家主権論であり、一種の機関説論)は、北の「実在の人格である国家」論の天皇論とは、この限りにおいては、ほとんど同じといえる。
だが、ここで気になるのは、「日記」が「日本人として存する以上、天皇の存すべきは異議なし」と続けている点である。それでは、この「社稷」の意志と天皇の意見が相違する場合にはどうなるのだろうか。北の『国体論及び純正社会主義』では、明治憲法の枠では[如何ともする能わざるなり」としているにとどまる。しかし、『国体論』の論脈から言えば、この「能わざるなり」は、天皇制廃止やむなしということを匂わせていることは間違いない(拙著『北一輝』209以下参照)。(だが、どうしても北を天皇主義者に仕立てたい松本清張は、「能わざるなり」を、天皇に従うのだと解釈している。)
これに対する回答として、藤井は、「天皇の教育」ということでもって答えている。
「今日天皇の教育はこの生成化育が天皇道たることを教えず、、、、。天皇を天皇たらしむる
こと、社稷の道を以て天皇の道たる自覚体験せしむること是也。国民をして天皇の、、、奴隷たらしむること勿れ」(前掲書)
現代風に言えば、国民統合の象徴として天皇を認めるが、そのためには『象徴』として国民が天皇を教育せねばならないということになってくる。こうした思想は、当時、二・二六事件の磯部浅一の「獄中記」にも受け継がれ、磯部は「天皇は機関なんですよ。独裁ではありません。歴代の天皇に恥ずかしくないですか。私はお怒り申し上げます」というようなことを絶叫している。
【二】
これまで、昭和六年の藤井および井上の天皇観を中心に権藤の影響をみてきたが、かれらが中心になって組織してきた人々はどうであったのだろうか。この血盟団―五・一五事件グループの内部の構成は複雑である。二・二六事件は蹶起には民間側を排除したので陸軍将校のみに様々な分析においては焦点を当てることが可能だが、血盟団―五・一五関係では異なる分析が必要なのだ。
権藤家に集まってきているグループは大きく分けて四つのグループに分けられるが、その構成員の階層、学歴、年齢や思想的系譜が、それぞれ異なっているからだ。その第一は井上が水戸の大洗から引き連れてきた高等小学校卒の農漁(魚)民の二,三男、年齢は二二-二三歳くらいを主力とし、二人の小学校の教員を加えたグループ(大洗グループ)。第二が東大生、京大生で、上杉愼吉の思想に影響された「七生会」の中心的メンバーに京大生を加えたインテリグループ。第三が海軍将校グループで、第四が水戸の橘孝三郎(40)たちのグループである。このうち、この第三グループは藤井斉が組織したグループで、基調は先に述べた藤井の思想と同一であると一応考えることが可能であるが、第四のグループは橘が水戸の愛郷塾を中心に独力で組織したもので、大洗グループとは階層的にも学歴的にもかなり異なる。このグループの中心である橘孝三郎は中、富農であり、一高出身であり、近代的農業経営を目指していた。権藤は橘を後継者として期待していたようだが、権藤とは別系譜に属するとも思われるので、ここでは触れず、別稿で詳論することにしたい。
そこで、この大洗グループであるが、この一団を理解するためには、日蓮宗と田中知学の思想を抜きにするわけにはいかない。日蓮宗と昭和維新派のつながりでは石原莞爾、北一輝、大川周明などが有名だが、特に、大洗グループは知學の日蓮宗でもって組織したグループなので、日蓮宗(田中知學)への言及が不可欠となってくるからだ。
井上日召(47)は、明治の末年に満州に渡り、満鉄に入社して日本軍の密偵を務めていたというから、世代的には北一輝(50)とは三歳若いがほぼ同世代であり、また、辛亥革命後の袁世凱打倒の第三革命には反袁世凱軍にも与している。年長の権藤成卿や北などともに辛亥革命に接していたわけであるから、アジア主義といってもかまわない履歴の持主ではあるが、イデオロギー的には、日蓮宗の田中知學(71)に影響されていることが大きいからで「天皇主義者」とも呼べる存在であった。
彼が日蓮および田中知學の研究を本格的に始めたのは、中国から帰国後の大正十三年の八、九月のことだった。身延山に入山までしたが、田中知學が静岡で日蓮の講義をすることを知りそれを聴講するために同年の暮れに下山し、彼の下で合宿生活をおくった。だから、身延での生活は長くはなかったが、知學との出会いが決定的な意味を持っていたと言われる。その後、僧侶の資格はなかったが、大洗の護国堂(日蓮宗)を預かり、近在では和尚と呼ばれ、第一グループの若者たちを組織した。
北一輝も法華経の信者と自称するが、「私は法華経の信者であるが日蓮の信者ではない」と言って、法華経と日蓮を区別する。が、それに対して、知學の系統である日召は、文字通り、日蓮=法華経宗である。そこで、われわれは、知學の日蓮宗の紹介にはいらねばならないが、私は、仏教学者でも日蓮宗の門徒でもないので、知學の『日蓮聖人の教義』を天皇主義との関連を中心に考察することにしたい。
知學の『日蓮聖人の教義』には、日本に日蓮が生まれたということについての宗教的な由来を以下のように記されている。
「故に仏は御弟子中殊に勝れた本化の菩薩を召出して、特に末法の弘教を懇命せられ、末代の救済を全ふすべく、「塔中別付嘱」といふて、特別なる付嘱があった。本化の菩薩はこの別命を受けて「末法の初め」に代々の諸聖賢に予言せられた。『東方の小国にして、しかも一乗有縁の霊土たる日本国』に出現あり。経文の予証通り,「三類の強敵」に逢はれ、打擲悪口、杖木瓦石、刀杖毒害、流罪死罪の諸難に迫害されて、この救世の大道を宣伝せられた、、、、、」(田中知學『日蓮聖人の教義』69)
つまり、末法の世に入るにあたって、仏はすぐれた聖賢たちに対して、東方の小国ではあるが、仏に縁のある国が存在していると語った。(弥勒菩薩の『瑜伽論』に「東方に小国あり其中には只大乗の種姓のみあり」)。そこには、いずれ、優れた全世界を救う者が現れること予言した。その予言の通り、日本に出現したのが日蓮であり、その日蓮は法敵に迫害されても屈せずに世をすくう法を説きつづけたというのである。
私がここで注目したいのは、田中知學が、日本が神国であるという記紀以来の日本という国の特殊な神話を、「東方の小国」-「一乗有縁の霊土」―「日蓮」―「日本国」といった経路で、仏教という普遍的なものを用いて普遍化したという点である。これは、国学および神道などが、単純に、天皇を絶対化したこととは異なるし、仏教というより普遍的なものを媒介として日本の特殊性を普遍的なものへと昇華させたわけである。もちろん、本稿の(上)で述べたように、権藤が儒教という普遍的なものを媒介として日本をその中の一部として位置付けたのとは大いに異なる。
ここで、全体の議論からするとやや枝葉末節に当たるとはいえるが、北条泰時が承久の変で、天皇を廃位し後鳥羽上皇など三人の上皇を島流しにしたことに対する見解が、権藤成卿と国学や日蓮宗(知学)との見解とでは、真っ向から対立するものであることを見ておこう。この事件を日蓮宗や国学では、国体論の立場から問題とする。知學はいう。
「一匹夫の為に此時日本の国体は一時破壊されたのである」「ここに於て国の自然の要求としても、国霊の自感としても、これを意識の上に明了に回復する必要がある、天照太神、神武天皇を有して居る国は、義時の為に受けた『国の大負傷』を治癒すべき偉霊を出す力がない筈がない」(前掲書216-217)
つまり、北条義時は国体の破壊者であり、国家の大負傷を負わせた。そして、その大負傷を回復させるために現れたのが日蓮だというのだ。日連は仏教(日蓮宗)という普遍的なものによってこの大負傷を回復し、日本国を普遍化し「世界統一」までもが射程に入る存在だという論理になる(この「大負傷」という論理と、ある意味で、同型性を持つのとして保田与重郎『後鳥羽上皇』がある)。
これに対し、権藤は天皇の側ではなく社稷の側に立ってとらえる。怪力乱神を語らずという儒教の立場に立つ彼にとっては、天皇の存在意義は社稷を護るということだけにある。仏教をはじめとしてする宗教は人民を欺瞞するものであり、豪華絢爛たる仏閣は収奪の結果であるとする。
「郷邑が荒廃しても、人民が餓死しても、名器は名器であると云うことも、自ら一種の議論かも知れぬが、社稷の公典は決して之を許さぬ」(権藤成卿『自治民範』133)
「名器」が天皇を指していることは明らかである。暴君は許さないというのだ。当時にあっては実に激しい発言だと言わねばならないだろう。だが、「名器」側の立場に立って、日召は大洗グループを組織してきたわけだが、彼が、藤井斉の「社稷の道をもって天皇の天皇たらしむることを自覚体験せしむること」ということに対して反論したということは藤井日記には出てこない。政治的な妥協ということも考えられるが、権藤の空家に住んでいた時には、鎌倉時代の禅の作法について権藤成卿からから学んだというから、この相違は彼にとってあまり重要なことではなかったのだろう。
【三】
しかし、井上日召の下で育てられた青年たちはどうであったろうか。まずは、彼らがどのように育てられてきたかを見ることから始めて、この愛弟子は権藤をどう考えていたかについて問題としよう。
日召の布教というか、オルグは、先に述べたような知學の論理からではなかった。まずは、母の病気が治らないだろうかという農村青年たちの日常茶飯の願いを聞きつつ、彼らに「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えさせるところから始まった。長時間、大声をあげて青年たちに唱和させることによって、自己を無心にするということが出発点であった。しかも大勢で、長時間行えば、自己がますます無心になり、連帯感もわいてくる。そして、また、楽しくなるようなのだ。
ここで、後に触れることになる和合恒男(32)という長野県の農民自治協議会の活動家の青年時代について触れておこう。彼は妹尾義郎によって日蓮宗に感化されたことが運動の出発点になっている。大洗の青年たちと違って一世代上であり、松本中学(後の松本深志高校)松本高校を経て東大に進学したインテリであるが、日蓮主義青年団若人社の合宿に参加して、お題目を唱和した後の感想は次のようである。
「ああなんという静けさだろう。東京にこんなところがあろうとは夢にも思わなかった。夕飯の後、みんなで歌を歌ったりする。おおこの愛にあふれた家よ。・・・・お勤めがすむと、火燵を囲こんで、若者達が兄弟のような親しさで、しんみりと話したり罪もなく笑ったりする。この家の美しい気に触れて私の人格がすくすく伸びるのを覚える」(安田常雄『日本ファッシズムと民衆運動」れんが書房197より)
大乗仏教の根本にある思想は、言うまでもなく、「色即是空」である。一切のものの実体は空であり,「縁」に過ぎないということだ。したがって、修行とはこの空の境地に至ろうとすることだ。そうした観点から、大洗青年団や若人社の青年たちの無邪気さを見ると、題目をみんなで唱和するお勤めは、そうした境地へ至る第一歩なのだ。日召はそうした青年たちに禅を教え、その境地を更に進ませた。
もちろん、そうした修行のみで、「悟り」なるものが得られるわけではない(法華経でいう「独覚」に近い)。仏の教えを,学ばなければならない(「声聞」)。折に触れて、彼は、日蓮の生涯についても話しながら、暗に若者たちが眼前にしている昭和初期の暗い現実にも目を向けさせていたようであるが、青年たちの討論の中には、ほとんど、入ってはいない。
だが、青年たちは、おのずと当時の日本社会の政党や財閥の腐敗について語り合った。何度か、東京の商店や工場に働きに出て、自己の健康や、工場の破産のために故郷に帰って来ざるをえなかった小沼正(22)(井上準之助の暗殺)、あるいは、東京の鉄道学校に二年間にわたり通ったが、就職が出来なかった菱沼五郎(21)(三井の団琢磨暗殺)。彼らにとって日本社会の地獄のような様相は他人事ではなかった。そんな彼らが社会について語り合ったのは自然の流れであった。
そんなある日、彼らの中に日召も入った。「古い家を壊さねば新しい家は建てられない。建設のためには破壊が必要だ」という日召の話がすんなりと入ってしまったようだ。
「我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん」
「黒雲を除けば、輝く日輪が現れる」という知學を経由した日蓮の教えは、その日本神国論、天皇神格化論とともに彼らに伝わってきたのである。「君側の奸を除け」というわけである。こうした修行を積んだ小沼正は権藤について以下のように記している。
「権藤老の豊富な知識はいつも驚くばかりだった。、、、口のわるいこともまた人一倍で、二宮金次郎のことを搾取の総本家のように言ったりした。私たち同志の間では権藤老の書いた『自治民範』が北一輝の『支那革命外史』『日本改造法案大綱』などと同じくらいに愛読された。私も一、二度読んだがそれまで読んだ日本歴史とまったく歴史観を異にしていた」。どのように違っていたのだろうか。長くなるが、引用を続けよう。
「社会制度と経済に重点が置かれおり、それは中国の社稷思想に源を発していた。日本社会史、経済史にもいろいろなものがあるが、それを根底からえぐったものはまれであった。、、、この自治民範によって歴史に対する眼を開かれた、、、、。」
「この本で権藤老は社稷(中国の最も重要な国家祭祀)を重んずるあまり、日本精神の背骨をなしている神代に深くふれようとはしなかった。そればかりか、史実の時間的、空間的な側面についても、中国の歴史に基準をおく傾向があった。」(小沼正『一殺多生』257)
これは、戦後、書かれた小沼の回想記『一殺多生』からの引用であるが、極めて、直截に権藤の思想の核心をついている。小沼にとって、中国の儒教思想という普遍的なものから日本という特殊なものをとらえなおすことが気に入らないのだ。彼が欲しいのは、中国から発し半島、日本という「横」につながる論理ではなく、日本というものの「縦」(神話の世界まで含む)につながる「想い」なのだ。こうした『想い』は、言うまでもなく、天皇の神格化―絶対化の論理そのものであろう。
しかしながら、こうした相容れないものを持ちながらも、彼は、権藤を尊敬し認めているのである。これは、北一輝が天皇機関説論者であったことと、二・二六事件の青年将校たちが「尊皇」を旗印としていたことと相似であると言ってもよいだろう。では、こうした異質性を孕みながらも、その両者を同じ陣営に立たせたものは何なのだろうか。
【四】
私はここで血盟団―五・一五事件を構成した第二グループ、東大七生会グループの四元義隆(25)に目を転じよう。
彼は、上杉愼吉の弟子であり、東大新人会との闘争も経験した天皇主権論を唱えていた学生だった。ところが、上杉逝去後、漢学者の安岡正篤の金鶏学院で権藤成卿の講義を聞き、また、その時期に井上日召とも親しくなり、権藤がやっていた下宿(権藤の寮)に、友人の池袋とともに入居した人物である。彼は、血盟団の学生グループの中心である上に、日召にもかなり信用されていた学生だ。
つまり、「天皇主権論」に凝り固まっていたわけだが、その四元は権藤が自宅で行っていた「制度論」の講義を熱心に受講し、「四元、池袋らの学生は権藤の思想の意図を最も忠実な形で受け入れている」と、権藤成卿の研究者である後藤誠が記すようにさえなったのだ。四元の言うことを聞こう。
「(権藤の学問は)一種の実践的な革命学と云えると思います、、、実践的な謂わば謀反の学問です、、、、。現在を肯定すれば学問なんかは必要ない、それからは学問も生まれやせんと(権藤先生)が言われたことがあります。私はその時本当にそうだと思いました。、、、、
権藤先生のところに、マルキストの書生がいて、、、、それが私に、是れを読めと云ってマルクスの本を寄越したので、読んで行くと、ごたごたむずかしいことが書いてありましたが、私は一点、是はマルクスは偉い学者だと感心しました。それは今までの哲学、哲学の問題というものは、世界は何うであるか、何で(か)あるかということであったが、それではいかん、何うするか、何う行動するかが本当の問題、、、つまり、実践的でなければならぬということが書いてありました」(後藤誠『権藤成卿』紀伊国屋新書158より)
ここまで、書いてきたとき、天皇論に関しては、権藤成卿という学者とは、まったく正反対に見える井上日召と農魚村の青年たち、さらには、上杉愼吉の弟子である七生会の学生たち、これらをつなぐ「同質性」が見えてくる。フォイエルバッハテーゼのいう「今までの哲学は世界をどう解釈するかであるが、肝心なのは世界をどう変えるかであろうに」という「実践的批判」ということが、まさしく、その「同質性」なのである。昭和四年からはじまる日本の社会的危機を批判しぬく実践ということなのだということだ。
こうした意識に支えられていたから、出身階層やインテリ度の相違を超えて、これらの一団は極めて仲が良かったと私は考えている。それだからこそ、それぞれの任務である「一人一殺」の原則のもとに、相互の暗殺対象は互いには知らないが、それにもかかわらず、暗黙に協力しあったのだ。
第二章 農民自救運動の敗北とファッシズム
【一】
それでは、権藤自身の実践とは何だったか。私は、ここで、権藤の農民運動に対する取り組みについて語らねばならない。
井上日召グループの小沼正が井上準之助を暗殺したのが昭和七年二月九日、つづいて菱沼五郎が団琢磨を暗殺するのが三月五日。海軍将校を主体とした犬養首相襲撃事件が五月一五日。これは、よく知られていることだが、調度、この両事件の挟まれた四月四日に、権藤成卿が、五・一五事件の民間側の首謀者とされている橘孝三郎をもつれて、長野朗(45)らとともに自治農民協議会を結成した。
こちらは、国会請願闘争を主体とする合法の農民闘争である。武装闘争と農民による合法闘争。この二つの闘争を同時並行的にこの権藤という老人は行っていたのだ。もちろん、全国的な自治農民協議会は一朝一夕に組織されるわけがないから、かねてから権藤はこちらの準備も行っていたということになる。
長野県だけとってみても昭和四年には、後に信州自治学派と呼ぶことも出来る農村グループが権藤の思想のもとに形成され始めようとしていた。このグループの中心人物である春原善次郎と出会ったのが始まりだった。それは権藤が長野県北佐久郡教職員会主催の講習会に呼ばれたときのことだ。この会には希望者の参加も許され、春原善次郎も出席していた。彼は権藤の講義に「これでなけりゃ、将来の日本の農村が立っていく道はないじゃないか」と深く感銘し、自らも『自治民範』を購入し、さらに100冊近く北佐久郡の教員や農民の購入させた(安田、前掲書401より)
つづいて春原は、翌年の九月講習会へ講師として権藤を招き、一週間にわたり南北佐久郡の青年たちの合宿を行っている。午前二時間、午後三時間の集中講義である。難解な『自治民範』の講義だ。講習に参加した青年たちもはじめは戸惑ったであろうが、食事も権藤を交えて用意するという寝食を共にした生活の中で、農民たちは勉強にも権藤にもなじんでいった。この合宿はその後ももう一度行われているが、六十二歳を過ぎようとしていた老年の権藤が自分の子供や孫たちの世代に、几帳面に講義を続ける情熱に驚くほかはない。
こうした権藤の個人としての活動の後に、彼が本格的に中央の農民運動に取り組み始めたのは、昭和六年の「日本国民同盟」と「日本村治派同盟」の結成以降のことである。前者には権藤は顧問として加わったが、まもなく、後者に発展的解消を遂げ、彼は、この村治派同盟の結成アピールを書くに至っている。雨宮菊夫、岡本利吉、加藤和夫、風見章、今東光、下中弥三郎、辻潤、長野朗、橘孝三郎、権藤成卿、武者小路実篤、室伏高信、江藤源九郎などの地方農民運動の指導者や知識人を含む極めて雑多なひとびと二七人を発起人として生まれたものだった。
しかし、これは雑多な集団でしかなかったため、忽ち、分裂してしまい、より、実践的な性格をもつ「農本聯盟」が昭和七年の三月二日に組織された。顔ぶれは権藤成卿を顧問に、山川時郎、加藤一夫、橘孝三郎、長野朗、岡本利吉などのほか、長野県で瑞穂精舎を軸に日本農民協会の指導者となっていた和合恒男、さらに、全農系新潟県連の稲村隆一も合流した。ここで稲村が加わったのは画期的な出来事だった。というのは、これまで右翼系ばかりだった権藤たちの運動に、左翼系の新潟全農の中心人物である稲村隆一が参加したからである。権藤のもとに出入りしていた長野朗が口説いたという。この農本聯盟を母体として、国会請願を目標とする自治農民協議会が長野朗宅で結成されたのが、五・一五直前の四月四日のことだったのである。
この席上で、和合は、次のような質問を稲村に浴びせかけ、その時の稲村の答えと共に自分の感想をつづっている。
「『稲村さん,ナゼあなたは今までの無産運動を清算したのです』ときけば『第一今までの無産運動は都会労働者のイデオロギーが(立てまへ)であり日本の民族性に合わないことをさとりハンモンしていたところへ、農民自治の教えに出会って、これだっと踊りあがったわけです』(と答えた。)、、、これは稲村氏一人の問題はない。、第二第三第四第五の稲村が出ることは明らかだ。農民運動や労働運動の変わり目が来ているのである」(前掲書413)
和合の言うように「運動の変わり目」に来ていたことは確かである。だが、問題は、それがどういう方向に向っていくのかである。私は、最終的に、それが決定されてしまうのが、二・二六事件の敗北によってだろうと考えているが、そのことは、後の課題として、ここでは、昭和四年ごろから誰の目にも明らかになっていた日本経済の行き詰まり、とくに農民の悲惨な状況から語っていくことにしよう。
【二】
日本経済全体の不況は第一次大戦の終了とともにはじまった。大戦中の好景気が一挙に戦後恐慌へと反転し、大震災による不況がそれに重なり、さらに、民政党による金解禁が二九年恐慌とぶつかり世界恐慌の荒波をまともに受けたのである。そうした中で、軽工業中心だった日本資本主義は重工業化への道を辿らざるをえず、急速に独占資本主義化していった。こうした事態は労働の合理化、つまりは、労働者の首切りを伴い、失業者は街にあふれたが、彼等の行きつく先は帰郷しかなくなった。
しかしながら、その農村の不況がそれにも増してすさまじかった。消費財の消費量が都市の不況によって激減したことはいうまでもないが、他の農産物に比べ価格変動が少ないはずの絶対的必需品の米価も下落の一途をたどったのだ。これは国内のコメの増産が化学肥料をはじめとする農業技術の進化の結果であるが、それに加えて、朝鮮米や台湾米の増産も進み、拍車をかけていたのである。
そうしたところへ、帰郷の波が押し寄せたのだから農村はたまらない。労働力が増大すれば、当然、農民は生産量を増やす。それで、ますます、米価が下落する。化学肥料の価格も下がるが、それにはコメの売上げ収入では追いつけない。こうしたメカニズムによって、農家の借金は増大していった。
「農民の借金は一戸当たり1300円に上るも自作兼小作農等は大抵六千円以上の負債
を有し一割或は一割五分の高利」を払うことを強いられた。このようにして農家全負債は
六五億円」(国家の総収入は十三億円)という(未公刊 杉田省吾手記)。これは杉田省吾という
二・二六事件に関与した新聞記者が、昭和十一年に挙げている数字で、かなり誇張されて
いるかもしれないが、昭和七年に森恪(前犬養内閣の書記官長)が経済雑誌『ダイヤモンド』に載
せている講演記事によると50億円とある。
いずれにせよ、当時の農家の総借財は、国家の一般会計総額の二-三倍には達していた
とみなければならない。現在の国家予算の総額は100兆円くらいだから、全国の農家は2-300兆円の借金があったということになるし、平均1300円ということは、一戸当たりにして500万円を超える借財ということになる。(もちろん、現在のような住宅ローンの借金とはわけが違う。唯一の資産である土地を売却してしまえば、食えなくなる)
こうした自作、小作らの借入金のほとんどが生活費のための借入であり、自作兼地主の層あたりまでも借入金に苦しんでいた。農村全般にわたる貧窮化が権藤たちの運動の背景にあったのである。ついでにいえば、それ以前の無産政党系の農民組合運動においては、小作争議が中心的位置を占めていたが、ここに登場する農民運動は、小作、自作ら全体の農村問題が中心課題としたのだ。
【三】
国会請願運動はこうした背景から、まずは、自然発生的に始まった。自治農民協議会の発足は上述の通り昭和七年のことだが、昭和六年二月より四月までの間に北信不況対策会が結成され、合計四七八〇名の署名を集め、農林大臣などへの請願を行っている。請願項目は、1、借金の支払い猶予、2、債務の物価上昇に見合う引き下げ、3、農村への減税、4、利息制限法の改正 5、主要農産物に関する損害に対する政府の保証 などであった。
これ以降、この不況対策委員会による請願運動は拡大し、各村の村会などが自主的な要求を掲げる運動へと発展していき、七年までつづいていたようである。それは、北信不況対策会が、昭和七年の五月に、「5・15事件に蹶起した青年将校を「農村窮乏犠牲者軍人」と直截にとらえ、「青年将校減刑嘆願運動』を組織した」(前掲書)ことからもうかがえる。
権藤らの自治農民協議会はこうした流れの一環として、七年の春の第62臨時議会(6月1日―6月14日)に対し請願闘争を始めた。要求項目は、農家負債三カ年据え置き、肥料資金反当り一円補助、満蒙移住費5千円補助の三項目であったが、焦点は負債の据え置きにあったことはいうまでもない。(満蒙移住の問題については詳論を要するため別稿に譲ることとする)
この請願文は和合が書いたものであるが、それぞれの要求項目について、独占資本への国家の補助を引き合いに出している点が面白いのでそれをここで引用しておこう
「負債三カ年据え置き「昭和四年九月、国際汽船会社の負債二千九百余万円に対して十カ年据置を許され候御趣旨に則り、せめて三カ年の支払い猶予令即時発布の儀、宜しくお計らい下され度、、、。
肥料資金反当り一円補助のこと「承れば、年々産業補助費として、商船、郵船等の汽船会社を始め八幡製鉄所、大日本窒素肥料会社等に対して一億五千万近き補助が与えられる由、、、、
満州移住費5千円問題「満鉄は年々巨利を収め、昨年の如きすら八分配当を見たる由、その半額なる二千万円位は、、、前記大会社補助よりも参千万円まはせば、、、、、、」
大資本への補助は行うが、農業への補助は皆無であるということ、このことは、国家が大資本家の国家であることを大衆に分かりやすく雄弁に語っているし、また、農村は好況時には労働力の提供の場だし、不況時はその掃き溜めだということを語っているように思える。
この自治農民協議会の請願は六月十日時点で長野一万、茨城五千など全国で一万九千の署名が集まっていた。その上、「信濃毎日新聞」はもとよりのこと、在京各新聞にも「農村の救済を要望する声は全国各地に波及拡大」として掲載され、運動は一気に拡大した。衆議院においては,三ヵ条の請願は、請願委員会を通過した。が、その裏では、議員一人一人を上京した農民団が手分けして訪問し、説得に努めていたことも強調しておかねばならない。それを受けて、政友会と民政党は「農村対策各派共同委員会」を開き、「大問題ゆえ臨時議会を開催させる」こととなり、本会議で八月二二日から二九日まで臨時議会招集決議案を満場一致で決定するに至っている。
だが、衆議院ではことは順調に進むかに見えたが、貴族院はでは握りつぶされるなどの不安材料もあり、自治農民協議会は、臨時議会での通過を図るために要望をダウンして、三ヵ条を五ヵ条に改め、再度、署名運動を行うこととなった。大きな後退は、「負債の三カ年据置」から「政府貸付金の三カ年据置利子補償」としたことであるが、新たに加えられた重要な点は「農民の生活権を確保するよう強制執行法を改正すること」であった。
しかしながら、この五ヵ条の請願は、請願委員会は通過したものの本会議には上程されず握りつぶされてしまった。代わって、この救農「臨時議会」の「成果」と呼べそうなものは、六億円の時局匡救土木事業などという「一定の鎮静剤」に過ぎなかった。
急速に盛り上がった農村自救運動は、こうして敗北に終わったのである。しかしながら、ここで、特筆しておかねばならないのは、五・一五事件の将校たちに対する減刑嘆願運動全国的に巻き起こったことである。「信濃毎日新聞」には、事件の首謀者の一人である愛郷塾の橘孝三郎の満州への逃亡中の手記を掲載し、実数は定かではないが、七十万通などともいわれる「減刑嘆願書」が政府に送り届けられたというから、海軍将校を中心とする事件が世間では農民の貧困と結びつけられていたことが知られる。
【四】
こうした政治的状況をもたらしたことは、この運動の成果と言えば、成果であったが、次の方針が問われることとなった。農民協会(長野県の組織)の指導的立場にあった和合が、この敗北によって動揺を深め、農村自救運動から去っていく。ここで和合は、満州移民問題を主軸に置こうか否かを悩んで、権藤を訪れるのだが、彼の手記にはその時のありさまが描かれている。
「午後、権藤先生を訪ふ。満州移民についておたづねをすると歴史の上からも現在の国際法の上からも、くはしくお説き下さって『鉄砲の玉の下で農業ができますか!』とキツイいましめをたれられる。加藤先生の御心も尤もだし、権藤先生の御言葉も本当だ、内地の改造が先か?満州移民が急か?っどちらもヌキサシならぬ時だ。さてどう腹をきめたものか?」(前掲書442)
加藤先生というのは、加藤完治のことである。和合は農民協議会を組織する以前に加藤が設立した日本国民高等学校に入り、農業技術とともに「農本主義」を教えられていたのだ。この加藤は満州事変が起こされると満州への入植活動の中心となり、東宮鉄夫とともに「満州開拓青少年義勇軍」などを組織した人物で、復古神道に凝り固まっていた。
和合は加藤の教えと権藤の社稷論のはざまで動揺してわけだが、結局は加藤の古神道にかたむき天皇神格化論者になっていく。和合の脱落について権藤の直系とみなされる春原善次郎は、権藤と日本農民協会(和合)との間には思想的な「大きな隔たり」があっという。
「それは一言でいえば権藤が衣食住の自治に基づく生活共同体の実現に基礎をおくのに対して、和合のいう自治は、道義的な自己充足を第一義とする点である」(前掲書450)。
この「大きな思想的へだたり」は重要である。権藤は「飲みかつ食わねばならぬ人間」に基礎をおくのに対して、和合は「道義的な自己充足」、つまり、「哲学」によりどころを求めていたのである。この差異は、大きく言えば、マルクスと観念的哲学の差異の中心に存在するもっとも重要なものなのではないのか。つまり、権藤は、和合をなんとかして「飲みかつ食わねばならぬ人間」に天上から引き戻そうと試みていたのだが、満州事変の勃発によるナショナリズムの高揚のなかで、天上から引き下ろすことが出来なかった。それが加藤完治へと回帰することを止められなかった意味である。権藤の農村自治論-社稷論の天皇主義的潮流に対する長野県における闘いの敗北をそれは象徴している。
この敗北の結果、長野県におけるファッシズム、超国家主義が誕生するのだ。和合を中心とする「瑞穂精舎」が行った「国民総懺悔祈誓祭」(昭和8年10月15日)だ。これは「5.15事件の武力革新の罪を国民の心底より懺悔する」というものだった。権藤が思想的に指導し、また、直接に関わった5・15は、ここで全くの反対物に、「罪」となってしまったのだ。
「狡兎死して走狗煮らる」(『現代政治の思想と行動』72)。丸山真男が五・一五や二・二六を指した言葉だ。彼は、日本超国家主義にとっての走狗として、もう用が済んだ犬として、権藤や北一輝を位置づける。私は、そんなバカなと思わずにいられない。日本ファッシズムの源流として、北一輝や権藤成卿の名を挙げるが、問題は逆なのだ。彼らが、ファッシズムへの最後の抵抗線だったのではないのか。
話を元に戻そう。この敗北の後、権藤はどうしたのか。彼は長野朗とともに、「飯米闘争」を提起していた。農民の一年間分の食糧に関しては、つまり、農民の食糧についてだけは、米の差し押さえを禁止するという法令を出させる闘争であった。和合の脱落により、運動の力は半減していたが、それでも、一年分の食糧が値切られ、三か月分ということにされる法令が出させることには成功した。たが、それは、長野県においては、先の「総懺悔祈誓祭」の声によってかき消されていく。
しかし、農村の危機はそれによって解消されたわけではない。農村の危機に発する闘争は、次に受け継がれていく。二・二六事件の本質もそこにあったということは周知の事実だ。
註 ここで、この権藤成卿論の(上)の註で触れた「偽書疑惑」について言っておこう。まず、偽書疑惑が公にされた日時である。前記の「総懺悔祈誓祭」が行われたのは、昭和8年の10月であり、「疑惑」が登場するのは、これの4,5月前だということになる。つまり、権藤に対する批判は、天皇主義による超国家主義の前触れであったのだ。この超国家主義の猛威がそれから四年後の昭和一二年には人民戦線事件として、権藤を非科学的とした日本の向坂や山川にも襲い掛かることになる。また、彼らの権藤への批判は直接に読んでいないから正確なことは言えないが、下の要約から窺えば、農民に対し「農村の危機」は「必然」と冷淡であり、新たに開始された天皇主義者の攻撃という時代を読めていなかったと言わざるを得ない。ここに前号に掲載した河野有理の要約を採録しておく。
「向坂や山川は、「農村の危機」という時代認識を権藤と共有するとしつつも、権藤思想の「空想性」「非科学性」「非歴史性」を攻撃した。「農村の危機」は資本主義がもたらす歴史の必然であり、必要なのは太古の「自治」や「社稷」も復古ではなく、歴史のさらなる「進歩」(革命)である、というのである。これに対し、右翼陣営が攻撃したのは専ら権藤思想の非日本的性格(=支那性)であり、統制に反対する無政府性的傾向であった。」
初出:『情況』2021冬号より著者の許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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