「鬼神に事えんことを問う」第二江戸思想史講義・鬼神論1
- 2021年 4月 29日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「鬼神に事えんことを問う」―『論語』における「鬼神論」的原型
「季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ能く人に事うることあたわず、焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」 『論語』先進第十一
1 鬼神論という言説
儒家の言説に鬼神論として類別化される言説あるいは論説がある。ただそのことは鬼神を主題にした論説がもともと儒家にあるということではない。儒家的論説としての鬼神論はやはり朱子に始まると考えたい。朱子と弟子たちとの間に交わされた学的問答の記録は『朱子語類』全一四〇巻として遺された。その最初の六巻の構成は次のようである。巻第一理気上(太極・天地上)、巻第二理気下(天地下)、巻第三鬼神、巻第四性理一(人物之性・気質之性)、巻第五性理二(性情心意等名義)、巻第六性理三(仁義礼智等名義)。ここに見るように『語類』の最初の六巻は朱子によって構成される儒学、すなわち朱子学の基本概念をめぐる問答によって構成されている。しかもこの六巻は朱子学的宇宙論の構成をそのまま示すものでもある。そこからすると鬼神とは朱子学あるいは朱子宇宙論において非常に重要な位置を占める概念であることになる。鬼神論とは宇宙論的な論説、すなわち天地の宇宙論的構成の中で人間の生死あるいは生前と死後とをどう位置づけ理解していくかの議論であるのだ。これは儒家の論説として鬼神論が成立したときの姿をいうのである。だがこのような論説として鬼神論が成立する以前において鬼神とは何であり、それはどう語られてきたのか。いま辞典によって「鬼神」を見てみよう。「①鬼は陰の神、神は陽の神。②死んだ人、およびその霊魂。また神秘的な霊的存在。③あらあらしい神。強い神。」[1] ③の用例として「鬼神を泣かしむ」を挙げている。
この①に挙げる「鬼は陰の神、神は陽の神」は朱子たち宋学で用いられる陰陽二気に当てはめた鬼神の理解、自然現象としての鬼神の理解である。さらにこれに魂魄概念が当てはめられて「鬼は陰で魄をなし、神は陽で魂をなす」とされる。②が中国で古来一般に用いられてきた鬼神概念である。私が冒頭にあげた『論語』先進篇の季路との問答における「鬼神」もそうである。季路がその事え方を問うた鬼神とは、死んだ人、すなわち祖先とその霊である。鬼神とは一般に死者とその霊が意味される。『論語』先進篇のこの章が貴重なのは死者とその死が、生者とその生との関わりにおいて初めて孔子に問われ、孔子が答えたことにある。「鬼神論」という儒家的論説はこの章についての朱子の解釈(朱注)にその論説構成の仕組みを見ることができる。その意味でこの章とその解釈を儒家における「鬼神論」的論説の原型と呼びたい。
2 『論語』鬼神章の解釈
まず私は近代日本の漢文教育の権威とされた簡野道明の『論語解義』[2]によってこの章の解釈を見てみたい。なぜ簡野の『論語解義』によるかといえば昭和の戦前期に漢文教育を受けたものの『論語』理解を知るためでもある。『論語解義』は『論語』各章の[訳読]を掲げ、さらに[章旨][字義][直解]をのべて最後に[考異]を記すという構成からなっている。この極めて詳密な構成からなる近代の注解書を見ることで、近代日本の学生たちが漢文的教養として身につけていったものが何かを知ることができるだろう。[章旨]で簡野はまずこの鬼神章の主旨をこういっている。
「孔子、子路を戒めたもうに、先ず力を現実界の事に竭すべく、妄りに幽邃不急の事を意うべからざることを以てしたまえるなり。」
さらに[字義]において「鬼神」を解してこういっている。
「○鬼神 専ら祖先の神霊を謂う。鬼は帰なり。人の生まるるや魂魄を天地より受く。其の死するや、魂は天に、魄は地に帰す。其の帰せし所の魂魄は即ち神なり。」
この「鬼神」の字義は基本的に朱子たちと同様に死後の「魂魄」をもって答えている。にもかかわらず『解義』はこの鬼神章の主旨の理解において朱子『集注』の理解を徹底的に斥け、現世主義者孔子を釈き出していくのである。『解義』の「直解」に見る現世主義者孔子の釈き出しを、この鬼神章の現代的な解釈の代表例と見て、その全文をここに引いておきたい。
「子路、孔子に鬼神即ち祖先の神霊に事うる道は、如何にと問う。孔子ののたまわく、未だ人に事えて父母長上の心を得ること能わずして、安んぞ良く鬼に事うることを得んやと。子路又推して問いけるは、死は人の必ず免れざる所なるが、さて其の死の情状は如何なるものにて候うぞやと。孔子ののたまわく、未だ生まれて此世に在る道理を知らずして、安ぞ能く死の理を知ることを求むることを用いんやと。蓋し孔子の教は他の宗教と異なりて、現世を主として来世を説かず。即ち此世に処して人道を完全に履行することを得ば、それにて十分なりとす。当面の務を怠りて、妄りに未来の事を考慮するが如きは、所謂無用の弁、不急の察にて、君子の取らざる所なりとす。」
『論語解義』は朱子の『論語集注』に論語解釈上の多くの恩恵を被りながらも、ここでは死と後世への問いを生と現世への問いと同等の意義を認める朱子の生死観・鬼神観を否認して、孔子を全くの現世主義的教説者とするのである。そのことで『解義』は現代的な『論語』解釈書としての代表的な位置を獲得しているかのようである。
では『解義』の著者が陳天祥にしたがって「迂闊ノ甚ダシキ」ものとして斥け、それにしたがって昭和日本の『解義』の多くの読者=学生たちもまた斥けた『論語集注』における朱子の解とは何か。
3 「幽明始終に二理なし」
朱子が『論語集注』でこの「季路鬼神に事うることを問う」章に付した註は、この章の理解ばかりではなく、朱子の鬼神観、死生観を知るうえでも重要である。『解義』もこの朱註のすべてを引いているが、ここでもそのすべてを引いておきたい。
「鬼神に事うることを問うとは、蓋し祭祀を奉ずる所以の意を求むるなり。而して死は人の必ず有る所にして知らざる可からず。皆切問なり。然れども誠敬以て人に事うるに足るに非ずんば、則ち必ず神に事うること能わず。始めを原ねて生ずる所以を知るに非ずんば、則ち必ず終りに反りて死する所以を知ること能わず。蓋し幽明始終は、初めより二理なし。但し之を学ぶに序有り。等を臘ゆべからず。故に夫子之を告ぐること此くの如し。○程子曰く、
昼夜は死生の道也。生の道を知れば、則ち死の道を知らん。人に事うるの道を尽くさば、鬼に事うるの道を尽くさん。死生人鬼は一にして二、二にして一なる者なり。」
私はこの『論語』先進篇の「鬼神を事うることを問う」章に付された朱子の注釈を古くから読んでいた。仁斎や徂徠の『論語』解釈ばかりではなく、彼らの古学的思想展開を辿るごとに必ず触れねばならない注釈であった。だがそれほど長く、繰り返し読んできたにもかかわらず、この朱註が分かったかと問われれば、その答えに私は躊躇せざるをえない。私もまた簡野の『解義』がするように現世主義者孔子像の構成にとって不要な教説として斥けていただけであった。朱註におけるわれわれとは異なる「鬼神」や「死」や「死後」の見方をあらためて考えてみようとはしなかった。その再検討は私において今始まったばかりである。朱註はいかなる問題をわれわれに提示しているのか、これを現代語に訳しながらのべてみたい。
季路が鬼神に事えることを問うとは、「祭祀を奉ずる所以の意を求むるなり」と朱子はいう。この朱子のいうことをわれわれの現代語で正確にいいかえることはできない。古くは中村惕斎が「祭祀につかふまつる意、以下やうに存することぞと問るなり」[3]と訳している。だがここで「つかふまつる意」というのは祀る意(こころ)をいうのか、祀る意義をいうのか。明治初期の漢学者内藤耻叟は「子路鬼神に事ふるの義を問ふ」[4]としている。この「義」は正しいあり方、「道」にも通じるものであろう。それは簡野が『解義』でいう「鬼神即ち神霊に事ふる道は、如何にと問ふ」につながるものであろう。そうすると朱子がわざわざ註して「祭祀を奉ずる所以の意を求むるなり」といったことの意味はどこにあるのであろうか。惕斎の訳解がもっとも近いように思われるが、なお朱子の「所以の意」という語句がもつ真意をとらえているようには思われない。このように朱註の解釈にわれわれは初めから躓くのである。
朱子は次いで「死は人の必ず有るところ、知らざる可からず。皆切問なり」という。この朱子の言を導くのは「敢えて死を問う」という季路の再度の問いである。鬼神に事えることを問うた季路は、生きている人に事えることが優先事であると孔子に諭された。にもかかわらず季路は死を、死霊の属する死後世界を敢えて問うたのである。「敢えて」という語によって、季路の再問がもつ強引さがいわれている。吉川幸次郎は「まえの問答で、孔子は子路の思索が一足とびに超自然、超感覚の世界につき入るのをおさえたのであるが、それにもかかわらず子路は、果敢に再び問うた。ゆえに「敢えて問う」という」[5]といっている。そして吉川は古注における陳羣(ちんぐん)の説「鬼神及び死の事は明らかにし難し。之れを語るも益無し。故に答えず」を引きながら、この章に見る孔子の立場を「鬼神および死についての知識は、人間の任務ではないとするのである」といっている。これは近代日本のこの章についての共通の理解であろう。簡野の『解義』もまた陳羣の説を注記しながら、冒頭に引くように「孔子、子路を戒めたもうに、先ず力を現実界の事に竭すべく、妄りに幽邃不急の事を意うべからざることを以てしたまえるなり」というのである。もしこれが『論語』先進篇のこの章をめぐる現代のわれわれが共有する常識的な理解だとするならば、『論語集注』に見る朱子の理解はわれわれのこの常識に反する異様なものとなるのであろうか。
朱子は鬼神を祀ることについての問いも、死と死後についての問いもともに人にとって緊切な問いだというのである。その際、「死とは人の必ず有る所にして、知らざる可からず」と朱子はいう。死とは人にとって不可避である。だがそこからなぜ「知らざる可からず」という朱子の命法が導かれるのか。朱子は『易』の「始めを原(たず)ね終りに反(かえ)る、故に死生の説を知る」(周易繋辞上)によりながら、「始めを原ねて生ずる所以を知るに非ずんば、則ち必ず終りに反りて死する所以を知ること能わず」といい、その上で「蓋し幽明始終は、初めより二理なし。但し之を学ぶに序有り。等を臘ゆべからず」というのである。ここまで読んでくれば朱子たちはわれわれ日本近代の『論語』読者とは異なる死生観・世界観に立っていることを知るのである。「幽明始終」すなわち「あの世もこの世も生の始めも死の終り」も元々二つの道理からなるものではない。それゆえこの世を知ればあの世も知りうるし、生の始まりを知れば、死の終りも知りうるというのである。孔子はただ季路に学びの順序を教えたのであって、死と死後への知を無用だといったわけではないと朱子はいうのである。朱子は最後に程子の言を引いて己れの理解を補強している。
「程子曰く、昼夜は死生の道なり。生の道を知らば、則ち死の道を知らん。人に事うるの道を尽くさば、則ち鬼に事うる道を尽くさん。死生人鬼は一にして二、二にして一なる者なり。」
自然に昼があり夜があるということは人間に生があり死があるということと同じ道理だという程子の言葉も、周易の自然哲学的伝統をもたないわれわれに驚きを与える。しかも程子は「死生は昼夜の道なり」というのではなくして、「昼夜は死生の道なり」というのである。昼があり夜があるという自然の道理は人間における死生の道理だというのである。ここには天に由来する天地自然的道理の優越性があるように思われる。生も死も、人も鬼も、昼と夜と同様に自然の道理の中にあるのである。生も死も、生者も死者も、ともにそれぞれ道理をもってこの世界の中にある。だから生の道理を尽くせば、死の道理をも尽くすことができるだろう。生者に事える道を尽くせば、きっと死者に事える道をも尽くせるだろうというのが、程子・朱子が『論語』の鬼神章の孔子と季路との問答に読み取った教えである。
近代のわれわれの常識とは異なる死と鬼神への朱子の問いと理解の由来を求めて『朱子語類』の巻三「鬼神」の開巻冒頭の章を読んでみよう[6]。
4 鬼神の事は第二着
『論語』先進篇の「鬼神に事うることを問う」章の問題は『朱子語録』の巻三「鬼神」の開巻第一章の問題を成している。訓読の困難な『語類』の文章をあえて書き下し、解釈し、さらに評釈をも加えた[7]。
鬼神を説(い)うに因りて曰く、鬼神の事は自ずから是れ第二着なり。那(か)箇の形影無きものは、是れ理会し難き底(もの)なれば、理会し去(ゆ)くべからず。且(しばら)く日用緊切なる処に就き、工夫を做せ。子の曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞ鬼に事えん。未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんと。此の説尽くせり。此れ便ち是れまさに理会すべき底(ところ)なり。理会し得て將間(やがて)、自ずから鬼神見る処有らん。若し理会すべき底を理会せずして只管(ひたすら)に緊要没(な)き底を理会し去かば、將間都(すべ)て理会没くして了る。(陳淳、義剛聞くこと同じ、別に出す)
[訳]鬼神が話題にされた際に朱子はこういった。鬼神の事は二番目の問題であるはずのものだ。この影も形もない鬼神とは、理解し難いものであって、直ちに理解しようと努めたりするべきものではない。まずもって人は日常緊切な事について考え、努めるべきである。孔子もいわれている、「まだ生きている人に十分にお仕えすることができないのに、どうして死んだ人(鬼神)にお仕えすることができようか。まだ生を十分に知り得ていない、どうして死を知ることがあろうか」と。孔子は言い尽くしている。われわれが理解すべきはこのところにある。人は知るべきことを知り、仕えるべきことを仕えて後、鬼神は理解されるだろう。もし理解すべきところを理解せず、理解不要なことを理解しようとしていくならば、結局は何にも理解しないことになってしまうだろう。
[評釈]鬼神のことは第二着(著)の問題だと朱子はいう。第二着とは囲碁の二番手の着手をいう。だがそのことは鬼神とはもともと二義的な問題だということではない。朱子は鬼神とは次に着手すべき問題だといっているのであって、鬼神とは二義的な問題だから無視してよいといっているのではない。ところが『朱子語類訳注』の解釈者は第二着を「二義的な問題」と解して、「鬼神のことは本来二義的な問題だ。ああいった影も形も無いものは理解しがたいから、理解しようとする必要はない」と朱子の発言を訳している。だが朱子の発言をこう訳してしまうと、二義的な問題である「鬼神」について理解しようとしたりすることは無用な、有害でさえあることだとなってしまう。そうなると『朱子語類』がなぜ巻一「理気上」巻二「理気下」に次いで巻三が「鬼神」を主題として編纂されたのか、その理由がわからなくなってしまう。
現代の朱子解釈者における「鬼神」についての誤読ともいえる読み方は、『語類』の本文でも引かれている『論語』先進篇の孔子の言葉、「季路、鬼神に事えんことを問う。子の曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」の解釈に由来する。現代の朱子解釈者はこの孔子の言葉を、生きている人に事えること、あるいは生を知ることを第一義とし、死せる人(鬼神)に事えること、あるいは死を知ることは第二義とすると理解して、そこから鬼神問題はもともと第二義的問題だという理解を導いているのである。だが鬼神に事え、死を知ることを二義的だとする理解は現代の『論語』解釈の立場であって、朱子の理解の立場ではない。朱子はこの孔子の言葉をこう理解する。
「鬼神を事えんことを問うは、蓋し祭祀に奉ずる所以の意を求む。而して死は人の必ず有るところ、知らざるべからず。皆切問なり。然れども、誠敬以て人に事うるに足るに非ずんば、則ち必ず神に事うること能わず。始めを原(たず)ねて生ずる所以を知るに非ずんば、則ち必ず終りに反(かえ)りて死する所以を知ること能わず。蓋し幽明始終は、初めより二理なし。但しこれを学ぶこと序有り、等を踰ゆるべからず。故に夫子之を告ぐること此くの如し。」(『論語集注』)
朱子はこの章における季路の問いをみな切実な問いとしているのであって、鬼神や死についての問いを二義的なものとしているわけでは決してない。ただそこには順序があると孔子は教えたのだと解しているのである。すなわち生者に事え、生を知ることが先であり、死者に事え、死を知ることは後だと孔子は教えたとしているのである。『論語』先進篇のこの章は朱注への批判による読み直しがなされるまで、長くこのように読まれてきたのである。くりかえしていえば生者に事えることも、死者に事えることも、生を知ることも、死を知ることも何れも大事な問題だとされてきたのである。だからここで朱子が鬼神のことは第二着だといっているのは二番目だといっているのであって、二義的だといっているのではない。それゆえ『朱子語類訳注』の解釈者のように、「鬼神のことは本来二義的な問題だ。ああいった影も形も無いものは理解しがたいから、理解しようとする必要はない」と訳したら、これは朱子の考え方そのものの誤読だということになる。
朱子の『集注』はこの章の評釈で程子の言葉を引いている。「程子曰く、昼夜は死生の道なり。生の道を知らば、則ち死の道を知らん。人に事うるの道を尽くさば、則ち鬼に事うるの道を尽くさん。死生人鬼は一にして二、二にして一なるものなり。」生と死、生者と死者とは一にして二、二にして一なるものだというのである。われわれは生を知れば、死を知ることができるというのである。生と生者だけからなる世界でも宇宙でもない。生と死と、生者と死者とからなる世界が『朱子語類』の世界なのである。これを知れば「鬼神」章がなぜ『語類』の巻三の位置を占めるかが自ずから理解されよう。
『朱子語類』の巻三「鬼神」はこの第一章に続けてその原質問者である黄義剛の問いと朱子の答えを記録している。
二
義剛将に鬼神の問目を呈し畢る。先生の曰く、此の事は、自ずから是れ第二着。未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。此れ説い尽くせり。今且く眼前の事を理会すべし。那箇(か)の鬼神の事は形も無く影も無し。枉げて心力を費やすること莫し。那箇のものを理会し得る時まさに久しくして、我が着実の処は暁り得ず。いわゆる詩書執礼は雅(つね)に言うところなり。這箇(これら)は皆是れ面前の事。一件を做(な)し得れば、便ち是の一件。易の如きは便ち自ずから理会し難からん。而今(いま)は只、我が恁地に拠りて推し測り、是と不是とを知らざれば、亦須く逐一に看ゆくべし。然して極処に到れば、只是れ這箇(このもの)に過ぎざるのみ。(黄義剛)
[訳]黄義剛が鬼神をめぐる質問状を呈上した際、先生はこういわれた。鬼神の事は第二番目に着手すべき問題だ。孔子の「まだ生きている人に十分にお仕えすることができないのに、どうして死んだ人(鬼神)にお仕えすることができようか」という言葉に言い尽くされている。今しばらくは眼前の事を理解することに努めるべきだ。あの影も形もない鬼神のことに、無理に心力を費やすべきではない。あの理解しえざるものを強いて理解しようと長い時間を費やした結果、眼前の着実なものは何一つ明らかではないという事態に帰着してしまうだろう。「詩と書と礼の行いとは、夫子の常に言うところ」であった。それらはみな眼前の事である。一件を行えば、ここに一件の行事が成る。易の世界は、当然、そのように一件を知り、次にもう一件を知るという具合に理解される世界ではない。だが今はただ着実なこの処に拠って推し測り、逐一に正と不正とを見定めていくべきである。その見定め作業がはるかな極処にまでいたれば、同じ這箇(このもの)を見定めたに過ぎないことになる。
[評釈]この第二条は第一条と同じ場面での朱子の回答の別の記録である。異なる記録者によって同じ回答が別様に記録されている。師である朱子の発言をどこに重点を置いて聴くかによって記録としてのテキストは姿を変えていく。第一条の陳淳の記録文は、あたかもこれから開示される〈鬼神問答〉の序章をなすかのようである。初心者は直ちに「死」や「鬼神(死霊)」をめぐる議論に入り込んではならないよ、大事なことはこの実世界における人倫の道の学びであり、実行なのだからと、陳淳は師の教えを伝えるのである。それに対して直接の質問者である黃義剛の記録は、第一条と趣を異にしている。これは鬼神への問いを突き返されたものが聴いた師の言葉である。この質問者が記す文章の後半部、第一条とは異なる後半部の文章が私には正確には読み取れない。ことに「然到極処、不過只是這箇」という末尾の文章は禅の語録の文言のようである。私は不確かながら、「その見定め作業がはるかな極処にまでいたれば、同じ這箇(このもの)を見定めたに過ぎないことになる」と訳した。「詩書執礼」の形而下の学び、すなわち一つまた一つと実地に学びつつ行って明らかにされる道理と「易」の形而上の道理とは究極的には同じ一つの道理なのだと教えていると解するのだが、どうであろうか。
鬼神をめぐる問題を二義的としてしまっては、なぜそれをめぐる問答が『朱子語類』の巻三を構成しているのかを理解できないだろう。だが鬼神問題を二義的とする『語類』の解釈者はすでに見た『論語』の近代日本の解釈者と同様に近代的合理性に素直に従っているだけなのかもしれない。
5 朱子は無神論者か
吉川幸次郎は『論語』先進篇「鬼神に事えんことを問う」章の評釈の言葉の中で朱子を無神論者としながら日本近世思想史を俯瞰するようなことをいっている。「なににしてもこの条は、雍也第六の「鬼神を敬して之れを遠ざく」及び述而第七の「子は怪力乱神を語らず」とともに、後世では、宋儒の無神論の有力な論拠となる。無神論的立場では、宋儒を継承したばかりか、一そう強化した仁斎は、この条の古義でも、かく鬼神と死について語らなかった点こそ、夫子が群聖に度越して、万世生民の宗師となる所以であるとする。・・・それに対し、鬼神の存在を認める徂徠が、仁斎に反撥するのもまた、かしこと同じであって、仁斎の見解は、甚しい独断であると、徂徠は攻撃する。徂徠の鬼神存在説は、のちの宣長をみちびくものである。」
私が朱子の鬼神論的世界を知る前であったらこの吉川の朱子を「無神論者」とする論定に驚くことなく、「無神論者」朱子を前提にして辿られる日本近世の「無神論者」仁斎とそれに対立する「有神論者」徂徠とそして宣長と辿られる思想史的系譜の記述を喜んで受け入れたであろう。だが朱子の鬼神論的世界を『朱子語類』の自分なりの解読によって辿ってきた私は朱子を直ちに「無神論者」とすることに抵抗を感じる。「無神論」とは狭義には「神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場」をいうとされる。広義には、あるいは歴史的には「一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場」をいうとされる。吉川が「無神論」というのはこの狭義の意味においてである。
ところで吉川が「無神論」をいう際、「宋儒の無神論」といって「朱子の無神論」とはいわない。そこに吉川における意識的区別を認めるなら、「無神論者」朱子とは「宋儒」の強い影響下にある朱子としなければならない。朱子研究者の友枝龍太朗は張横渠らの「気陰陽論」による朱子の「鬼神説」をこういっている。「我々は、気陰陽によって解明された朱子の鬼神説が、すぐれて合理的であり、神秘的霊怪的でなかったことを認めなくてはならぬ。何故なら理気哲学における気の聚散論の主張は、彼の考え方を著しく唯物的な方向に推し進める役割を果たすものであったからである。」だから吉川がここで「宋儒の無神論」といったとき彼は朱子の鬼神論をこれでもって蔽いきってしまったのである。すなわち合理主義的な鬼神観をもって。だが「鬼神に事えること」を問い、「死」を問うことを共に人の切問だという朱子、人の死と死後、そして死霊の行方とその祭祀をめぐる執拗な問いに答える朱子とははたして無神論的合理主義者であるのか。われわれは経書における鬼神論的場面を変えて朱子の鬼神をめぐる知と言説の性格を問い直そう。
[1]『角川新字源』小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編、角川書店、1968。
[2]『論語解義』は簡野の代表的な漢文古典の注解書で、1916年刊行、1931年増訂25版刊行。私がもつのは1932年増訂27版のものである。なお引用に当たっては現代当用の漢字・仮名遣いに改めている。
[4]内藤耻叟『論語講義』、『四書講義』上、支那文学全書第一編、明治25。
[6]『朱子語類』は和刻本によっている。和刻本は寛文8年(1668)、鵜飼石斎と安井貞祐が訓点を施して京都山形屋から刊行された。テキストについては理学叢書版『朱子語類』(黎靖徳編、王星點校、中華書局)を参照し、訓読と解釈に当たっては三浦国雄『「朱子語類」抄』(講談社学術文庫、2008)、『『朱子語類』訳注』巻一〜三(汲古書院、2007)を参照した。
[7]『仁斎論語』上下(ぺりかん社、2017)として刊行された仁斎『論語古義』を読む作業が終了した後に論語塾で私は『朱子語類』の巻三「鬼神」を読んでいった。ここにはその際の講義録から引いている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2021.4.28より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1167:210429〕
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