エスペラントと金石範
- 2021年 7月 8日
- 評論・紹介・意見
- エスペラント金石範髭郁彦
昨年の10月、宇波彰現代哲学研究所のブログに「エスペラント語の世界を考える」という拙論を掲載してもらった (その後、ウェブサイト「ちきゅう座」と「日刊ベリタ」とに転載されている)。この書評はエスペランティストの伊藤俊彦氏の『歴史・文学・エスペラント』という本について論述したものであったが、この書評をきっかけとしてエスペランティストの雑誌、『エスペラント La Revuo Orienta』(略称RO) の編集部の方から、この雑誌に寄稿してもらえないかという連絡をもらった。
エスペランティストではない私がエスペラントに関する論説を書くというのもおかしな話であるという気はしたが、エスペランティストの外から見たエスペラントという問題も確かに意義はあるだろうと考え、この要請を受けることに決めた。6月の中頃原稿を編集部に提出し、何度かの校正があり、7月の初めにROに掲載される予定である。この拙論に関して、ここで詳しく語ることはしないが、そのテクストではエスペラント問題とミハイル・バフチンの対話理論及び在日朝鮮人作家の金石範の言語観とを絡めて検討していった。バフチンの対話理論については前述した伊藤氏の著作に対する書評でも言及した関係で今回も触れているが、金石範の言語観についてはエスペランティストが被った抑圧の歴史と、金石範を取り巻く言語状況とを比較することによって何か見出せるものがあるのではないかと思い導入した問題であった。しかし、この論説を書くために読んだ金石範の『新編「在日」の思想』の中に書かれている日本語を暴力的な言語と見做す考え方は私に複雑な思いを抱かせた。文字数の制限もあって、この問題を明確に解決することができないまま、ROに掲載した拙論を終えざるを得なかった私は更なる論述が必要であると考えた。そして、この十分に考察することができなかった問題を再検討するために、このテクストを書くことを決めたのだった。
暴力的な言語など存在しない
かつて私が学んだ言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールの理論に従うならば、言語体系としての言語 (ラング) には美しい言語もなければ、暴力的な言語も存在しない。この考え方はジャン=リュック・ゴダールが映画について述べた「正しい映像などない。ただの映像があるだけだ」という言葉を思い起こさせるものであるが、金石範は上記した本の中で、「日本語が民族蔑視と人間侮蔑の観念を吸い込んで膨らんだ過去の侵略者のことばであり、そのなかに朝鮮人などに対する蔑視のことばを多く包み込んだままのことばである (…)」と語り、更に日本語が暴力的な言語であると断言している。それはソシュールとは真逆の主張である。それゆえ、金のこの言葉は言語学的にも、芸術論としても承認不可能な、個人的な意見にしか過ぎないものであろうか。私にはそうは思えなかったのだ。
言語は実際に用いられなければ一つの記号体系にしか過ぎず、それは美の問題とも、醜の問題とも、暴力の問題とも無関係である。だが、言語は誰かによって、誰かに向けて語られるものであり、そこには実践としての言語、あるいは、言語行為を生み出すものとしての言語が存在している。そうであるからこそ、金の言葉の中には単なる個人的な意見であるとして排除することができない問題性が内在している。日本語を暴力的な言語と語った金の言語観には在日朝鮮人としての彼の実感が存在しているからである。その実感を学的ではないという理由によって否定してしまえば、われわれの行っている様々な言語的実践を無意味と言うのに等しいように私には思われたのだ。
かつて、ヘーゲル哲学やドイツロマン主義の強い影響の下で、歴史言語学者のアウグスト・シュライヒャーは言語有機体説という考えを提示した。それはあらゆる言語の歴史的発展は有機体のように誕生し、成長し、成熟し、死滅するという説である。そして、言語は孤立言語 (活用などを用いず、形態素が一語からなる言語:中国語、チベット語、ベトナム語など) から膠着言語 (接尾語や接頭語といった形態素を付加させる言語:トルコ語、ウズベク語、日本語など) へ、更に屈折言語 (活用や曲用が存在し、語の内部に形態素が組み込まれる言語:ドイツ語、フランス語、アラビア語など) へと進化するという理論をシュライヒャーは提唱した。つまり、例えば、中国語は子供のように幼く、未熟な言語であり、トルコ語は青年のように発展途上の言語であり、ドイツ語は成熟した言語であり、英語は死滅する前の老人のような言語であると考えたのだ。こうした言語観は植民地主義を正当化するイデオロギーとして用いることが可能であった。成熟した屈折言語の中でも死滅間際の英語ではなく、ドイツ語こそが最も成熟した言語であり、その言語を話すドイツ人は中国人やトルコ人よりも優れており、ドイツ人が中国語やトルコ語といった劣った言語を話す民族や国家を支配することには正当性があると主張する植民地主義イデオロギー論者にとって、シュライヒャーの言語有機体説は非常に利用価値が高い学説であったのだ。
言語には美しいものも醜いものもなく、優れたものも劣ったものもない。この考え方が歴史言語学に根差すロマン主義的、植民地主義的、絶対主義的観念論の言語観の主観主義的問題点を断固として否定し、共時言語学的で、言語相対主義的近代言語学への道を開く大きなステップとなったことは確かである。しかしながら、学的な中立性だけでは解決できない、そう望まないにも拘わらず、ある言語をどうしても語らなければならない話者が担ってしまう存在論的な問題が存在している。そのことをわれわれは忘れてはならないのではないだろうか。
済州島4・3事件
金石範は在日朝鮮人であるだけでなく、在日朝鮮人作家であり、母語の朝鮮・韓国語ではなく、日本語によって作家活動を続けてきた。このことは日本語の持つ暴力性を語る金の言語観に深く影響を与えている。だがそれだけではない。彼の作家としてのテーマは済州島4・3事件である。この出来事は韓国の現代史の暗黒部分として長年、韓国民によって見捨てられてきた歴史的事実である。アメリカ軍の支援の下で行われた韓国政府及び西北と呼ばれる朝鮮半島北部の出身によって起こされたこの大虐殺の歴史を語るためだけに金石範は作家になったと言っても過言ではない。それ程、この事件は彼にとってはあまりにも重い出来事だったのである。
金の言語観をより詳細に理解するためにはこの大虐殺事件について語らなくてはならない。済州島は韓国南端にある島であるゆえに、そこは朝鮮民族の固有の領土としてではなく、日本との境界線地帯として存在し続けた歴史がある。中心から外れたボーダー地域として、海賊の島として、あるいは、李氏朝鮮成立以降は罪人の流刑地として位置付けられた島であったのだ。それゆえ、済州島民は伝統的に反中央政権的性格が強く、独立心も強い。1948年、日本の植民地支配が終わってから二年半が経過しようとしていた韓国は、それまでのアメリカ軍政から脱却し、南北朝鮮を分断した形で韓国のみで国会議員を選ぶ選挙が行われようとしていた。祖国の分断を既成事実とするこの選挙に抵抗した共産主義ゲリラ部隊が漢拏山に籠って韓国政府への反抗運動を開始した。この抵抗に対して、アメリカ軍の支援を受けた韓国軍と西北人の右派組織はゲリラ部隊のみならず、ゲリラ闘争とはまったく無関係な済州島民も大量虐殺していったのだ。当時の約30万島民の中で少なくとも3万から8万人が数年間に亘って同国人に惨殺され、数万の人間が日本に密航し、逃げ延びた。そのため、一時この島の人口が半数以下にまで激減したと言われている。
しかし、この大虐殺事件は韓国において長年極秘事項とされていた。虐殺の事実を示す写真、書類といった資料はすべて廃棄され、この事実を示すものは島の多くの場所に埋められた虐殺された住民の遺骨と、事件のことを決して語ろうとしない実際にこの惨たらしい出来事を見た証人たちの記憶の中にあるだけであった。それゆえ、金は済州島4・3事件時にこの島にいなかったにも拘らず、無残に殺された島民のために誰かが語らなければならないという思いに突き動かされ、小説を書き始めるのである。それも母語で書くことが許されなかった歴史的状況下で彼はかつての支配者、抑圧者である日本人の言葉である日本語で小説を書き始める。その最初の作品が1957年に発表された短編小説、『鴉の死』であった。
経験していない同時代の歴史的事実を語る
金の小説のエクリチュールに関して考察する場合に特に重要な問題が二つあるように私には思われる。一つは上記したように在日朝鮮人として母語ではなく、日本語で作品を書き続けていることであり、もう一つは金が済州島4・3事件という彼が直接経験はしなかった歴史的事実を彼自身の想像力によって作られた物語的世界として描いていったという事実である。金の日本語での創作という問題は後で詳しく検討するとして、ここでは金が述べている経験していない同時代の歴史的事実を語るという問題について考えていきたい。
金は『新編「在日」の思想』の中でこの事件について「直接の体験者でない私は、ことばの尺度を突き抜けてしまった悲惨と恐怖の現実に立ち向かうには、事件のリアルな再現というものではなく、完全な虚構でかわすしかなかった」と書き、更に、「(…) いわば虚構のるつぼで現実を解体し、再組織して、一つの新しい空間、秩序をつくらぬ限り、その事件の事実性の持つ圧倒的な生の影を振り切ることができない」という彼の立場について述べている。済州島の悲劇の物語を書くということをライフワークとした理由の一つとして済州島から日本に逃げて来た二人の女性に対馬で会った時の夜のことを金は何度も語っている。今引用した本の中で、「私を迎えてようやく安心した二人は、(…) 済州島での体験を話したのだった。闇のなかで、たがいの顔も確かめられないまま低い押し殺した声に乗って運ばれてくるその血なまぐさい話に、私の心は打ち震えた。話によると、若いほうの女の人は両の乳房がなかった。拷問でえぐり取られたという。私はふたたび聞き返す気持が起こらなかった」という言葉を金は書いているが、20代を少し超えた青年だった彼にとって、目の前にいる自分よりも少し年上の美しい女性が拷問によって両方の乳房を切り取られているという事実はあまりにも衝撃的であり、この日のことは彼の記憶に永遠に刻まれたのだ。
済州島4・3事件を実際に体験した多くの人々が長い間沈黙を守った。そこには韓国政府の抑圧もあったが、それ以上に生々しい体験をしたゆえに語ることができなかった人々がいたのだ。拷問の凄惨さだけではない。中編小説『海の底から、血の底から』には虐殺された母親に抱かれたままのまだ死んでいない赤ん坊を母親と一緒に生き埋めにした村人たちの話が書かれている。生き埋めにしなければ自分たちが殺されるのだ。『鴉の死』ではゲリラの首を持ち歩くでんぼう爺が書かれていた。ゲリラの素性を知るために警察がでんぼう爺に切り取った首を持ち歩かせていたのだ。こうしたことはフィクションではなく、その殆どの記述が事実であった。その出来事を語るにはあまりにも重すぎる事実。体験の過酷さゆえに語ることができなかった多くの島民の代わりに、金はフィクションの世界を作り上げたのだ。消し去られた歴史をもう一度、歴史の中に浮かび上がらせるために。しかし、その失われた歴史の復活を朝鮮・韓国語で行うことはできなかった。それを否定しようとしても否定することが決してできない個人を超えた、政治的、民族的、歴史的、社会的な問題が存在していたのだ。
エスペラントの可能性と不可能性
金の文学の問題を考えるために、もう一度エスペラントの問題に返る必要性がある。エスペラントが国民や民族に基づかない言語であるからこそエスペラントは平和な言語となり得るという主張がある。そうした主張も間違いであるとは言えないであろう。ルドヴィコ・ザメンホフが言語の違いによってもたらされた人類の不幸な歴史を嘆き、この問題を解決するために作られた言語がエスペラントであるからだ。ザメンホフの考えの中にあるこの崇高な理想は否定できないものであるが、エスペラントの問題意識を、単にそうした理想があり、その理想に基づき作られた言語であるから素晴らしい言語であると捉えるならば、それはあまりにも短絡的な考え方なのではないだろうか。言語は実践されなければ、たとえそこに言語体系があったとしても、言語としての存在理由を失う。ミハイル・バフチンはそのことをよく理解していた。
バフチンの考えに従い言語的実践は対話であると断言しよう。しかし、この対話的実践は生活の中でこそ実現するものである。生活の中での実現とは日常生活において誰かと面と向かって話し合うという側面があるだけではない。文学などのテクストを書くことによっても対話関係は構築されるのだ。それゆえ、エスペラント文学も、在日朝鮮人文学も実践的な言語行為となる。しかしながら、エスペラント文学と在日朝鮮人文学には、民族性や国家性を超えた言語によって語られる文学であるという共通性がある反面、根本的な差異も存在している。それは大まかに言って、エスペラント文学においては作品を書くために用いる言語に対して負の感情を抱く作家がまったくいないと考えられるのに対して、在日朝鮮文学の作家たちは日本語という使用言語に対して負の感情を含む複雑な思いを抱きながら作品を書いている点にあると述べ得ると思われる。この点に関して最も根源的な発言をしている作家の一人が金石範であると断言できる。
民族や国家に歴史があるように言語にも歴史があり、そうした大きな歴史が形作られていくためには多くの個人の歴史が繰り広げられていなければならない。金が日本語によって済州島4・3事件に関する作品を書き続けた文学的行為には韓国の政治的な問題だけに限定できない複雑にもつれた個人史の糸が絡みついていた。それゆえ、金の作品は日本語で書かれなければならず、日本語で書かれたからこそ強烈な問いを発し続けるものとなっているのではないだろうか。このような役割をエスペラント文学は担うことができるであろうか。可能ではないだろう。エスペラント文学の文学性とは何かという問に答えることは容易なことではない。ただ、エスペラントを日常言語として用いている話者が世界に殆ど存在していない以上、エスペラントは特殊な対話性を構築していく言語とならざるを得ないであろう。その対話性において中心的な役割を担うことができものの一つが異なる民族性や国民性の向こう側にいる読者に向けて文学作品を書くという行為にあるように私には思われる。もちろん、それは金が文学作品として日本語によって済州島4・3事件を描くという行為とはまったく異なる文学行為ではあるのだが、文学の可能性に対してエスペラント文学は在日朝鮮人文学とは別の角度からスポットを当てるものとなることができるように私には思われるのだ。いずれにせよ、そこには過去の歴史との対話と、ある言語を通した未来に対する投企の姿が確実に見出せるはずである。
金石範の事件への思いが結集した作品が長編小説『火山島』であるが、この小説以外の作品においても、金の作品は歴史的事実を基盤に置きながら、多くの部分は彼の想像によって作られたイマージュ空間から構成されている点は上記した通りであるが、このテクストの最後に、日本語の持つ暴力性という金の発言をもう一度検討してみたい。
済州島4・3事件は暴力と抑圧と虐殺の歴史である。そこにあるものは植民地主義による支配者が被支配者を奴隷化して、搾取していったという歴史ではない。祖国の統一を願った同じ国の国民を、それを望まない国民が徹底的に弾圧し、虐殺していった歴史である。『火山島』は日本人の特高警察以上に残忍な拷問を行う朝鮮半島出身の特高警察官の話が何度も登場するが、朝鮮半島北部出身の西北たちが済州島民を拷問にかけ、なぶり殺しにする描写も描かれている。この韓国史上最も陰惨な大虐殺の真っ黒な歴史的事実を語ることを韓国の軍事政権は固く禁じた。それだけではなく、その体験があまりにも衝撃的であったゆえに事件の証人たちが語ることができなくなってしまった事実が存在する。
それゆえ、金石範がこの事件を描くために日本語によるエクリチュールを用いたことは極めて逆説的問題であるのだ。ジョルジュ・バタイユは『[新訂増補]非―知:閉じざる思考』の中で、「その先ではもはや言うべきことが何もないという地点がある。その地点には遅かれ早かれ到達するのだが、そこに辿り着いたが最後、もはやわれわれは戯れにうつつを抜かしているわけにはいかなくなる」(西谷修訳) と書いているが、この言葉は語り得ないゆえに沈黙を守ってきた済州島民に代ってあの大虐殺事件を語るという使命を担ってしまった金石範の姿を思い起こさせる。彼は語り得ないものを語らねばならない苦役を引き受けた作家である。一度その苦役を引き受けてしまえば、もう二度とそれからは逃れ得ない。金の創作活動は今挙げたテクストに書かれたバタイユの「(…) 死が呼びかけるとしても、呼びかけのざわめきは夜を充満させはするが、それは深い沈黙のようなものである。それへの応答さえも、ありうべき意味のいっさいを剥ぎとられた沈黙である。ひきつるようだ。心が耐えうる最大の逸楽、暗く澱んだ、圧倒的な逸楽、際限のなくのしかかる重さ」という言葉を実現しているようにも思われる。
平和のために平和を望み作られた言語で語るという方法は間違ったものではない。だが、暴力的な言語を使って暴力を描くことによって暴力を超えるという方法も可能なのではないだろうか。それは苦悩に満ちた語りである。正しさを求めて語られるエクリチュールがある一方で、正しさや暴力を超えた至高性を求めるために書かれるエクリチュールであるように私には思われる。至高性とはバタイユ思想の根本概念であるが、金石範が求めたものがバタイユの求めたものとはまったく異なる方向性を持ったものであるにも拘らず、そこには至高性への探究があるように私には思われるのだ。至高性は暴力を超えていくだけではなく、正しさも超えていく。エクリチュールが至高性に向かって語りを始め、そこに行く着く時、暴力的な言語が至高なものへと変わるのだ。エクリチュールには魔術が隠されている。語り得ないものを語ること、暴力的な言語を至高な言葉へと変える魔術が。それが文学の持つ根源的な力の一つであるように私には思われてならない。
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