朱子鬼神論と近世日本の有鬼論的反応 ■第二江戸思想史講義・鬼神論
- 2021年 7月 26日
- スタディルーム
- 子安宣邦
朱子鬼神論と近世日本の有鬼論的反応
徂徠の制作論的有鬼論と宣長・篤胤
「鬼神の説、紛然として已まざる所以のものは、有鬼と無鬼の弁なるのみ。それ鬼神とは聖人の立つる所なり。あに疑いを容れんや。故に鬼無しと謂うものは、聖人を信ぜざるものなり。」
荻生徂徠『弁名』「鬼神」
1 朱子「鬼神論」と篤胤「鬼神新論」
本居宣長(1730−1801)の没後の弟子を称する平田篤胤(1776−1843)に『新鬼神論』という著作がある。平田銕胤の記す「大壑君御一代略記」には篤胤が「初メテ、鈴屋大人ノ著書ヲ見テ大キニ古学ノ志ヲ起シ」松坂に入門の名簿を捧げたのは享和元年(1801)7月だとされている。だがこれは誤りで、篤胤は享和3年まで宣長を知らず、文化2年(1805)に本居春庭に入門したのが事実だとされる。私はいま篤胤の略歴を日本思想大系本『平田篤胤』[1]所収の「平田篤胤年譜」によって記している。これによれば篤胤の「鬼神新論」の初稿が成ったのは文化2年だとされている。もしそうだとするならば、もっぱら漢学を学び、漢学によって自己形成してきた篤胤が宣長の新たな古学(わが古え学び・御国学び)のあることを知り、あわただしく宣長の著作を読み進め、入門の決意を固くするほどに宣長古学への己れの学の転換の志を強くしていったことを知るのである。文化2年、篤胤はすでに30歳である。まさにその時期に「鬼神新論」の初稿が成ったとされるのである。
これは実に興味ある思想史的事態である。青年というよりはすでに壮年篤胤における漢学から国学への学的な転換あるいは転向があり、それを示す最初の著述が「鬼神新論」(『新鬼神論』)であったことは、この転向がもつ思想史的意味を大きく推し広げて示している。篤胤の「鬼神新論」あるいは『新鬼神論』はいうまでもなくその主題的起源を朱子の「鬼神論」にもっている。朱子「鬼神論」とは中国の淫祠邪教的宗教社会に対する宗教改革的な意味をもった批判的言説であったことについて私はすでにのべた。この朱子学は17世紀の徳川日本の成立とともに日本社会の公開的な学術的言説として受容される。そしてそれからおよそ2世紀を経由した19世紀初頭の日本で朱子の「鬼神論」すなわち世俗の鬼神信仰的世界に対して脱鬼神的な啓蒙的批判を展開する朱子の〈無鬼論的〉「鬼神論」に対する〈古学的〉的批判が篤胤によって展開されるのである。篤胤の『新鬼神論』はその論のめざすところをこういうのである。
「今は孔子くじの言と行とのすべて鬼神の上に及べるを、論語と中庸とに摘出て、大概おおかたは漢国の事実に合せて徴とし、古伝説に照してその実有なる事を暁さとし、また因ちなみに、すべて神祇の事に渉る事等を、古へ意を以て論はむとするなり。」[2]
『論語』『中庸』など経書の新たな宇宙論的な哲学的立場からの解釈によって中国から朝鮮・日本をも蔽う朱子学的思想体系に対して、篤胤はいま「鬼神論」を重要な切り口として批判的反抗を企てるのである。すなわち「古学」的方法をもって『論語』『中庸』の孔子の言行から〈鬼神の実有〉こそが古えの真実であることを証明してみせるというのである。これは途方もない企てのようだ。だがこの企てがなされた19世紀初頭という歴史的時代を考えればこれを途方もない企てとして切り捨ててよいものではない。むしろその企てがもつ深い意味と広い影響とを考えなおすべきだと思っている。だが篤胤「鬼神論」の再考は私の次の課題として、いまは篤胤による朱子「鬼神論」の解読を助け、彼の「鬼神新論」を導いた新井白石(1657—1725)と荻生徂徠(1666−1728)とについて考えてみたい。新井白石の『鬼神論』なくして篤胤の『新鬼神論』(「鬼神新論」)はない。白石『鬼神論』が篤胤においてもった意味については次回、篤胤「鬼神論」をめぐる章で問うこととして、ここではまず徂徠とその「鬼神論」をめぐって考えたい。
2 篤胤の徂徠発見
篤胤の『新鬼神論』を読むならば、この議論は徂徠とその「鬼神論」なくしては成立しないだろうと思われる。私は徂徠の〈制作論〉を述べながら『徂徠集』に収められている「私擬対策鬼神一道」という徂徠の文章をしばしば引いてきた[3]。それは聖人の制作になる〈祭祀的共同体〉として人間共同体が成立した由来を徂徠が語った文章である。これは人間共同体の成立起源を〈制作〉として語ったアジア思想史における稀れな貴重な文章である。私はしばしばこれを引きながら徂徠の〈制作論〉を語ってきた。だが徂徠のこの文章は私の発見になるものではない。この文章を私に教えてくれたのは篤胤の『新鬼神論』であるのだ。
篤胤は中国で古来「天」といい「上帝」といい、また「鬼神」をいってきたのは儒者たちの言語的通弊としての「託言かごつけごと」だという。「朱子は「天は理のみ」などと云へる類なり。此意は、古に天といひ上帝など云ひて情も有る物の如く云へるは、みな自然の理を仮にかく云へるものなりと云ふの義なり」と篤胤は「託言」の義を説いている。この「託言」とは上古の世と人の情こころにおける「神」というものの常在を信じることなく、むしろ「神」や「天」を民への「教え」や「則のり」を為すための言語的用具にしていく言論的策略だということになる。このとらえ方からすれば朱子学とは古来「神」に服してきた民たちを聖人の「教え」に服する民へと変換させていった壮大な思想的な策略体系であるだろう。だがこの「託言」的戦略集団である儒学世界に革新者が登場してきた。それは近世日本の「古学」を唱える学者たちである。
「其が中に、近世となりて、古学てふ事を倡へ出たる儒者等、何事も先儒の誤れる説を多く見開きて、いといとよろしき説の多かるが、天帝あまつかみを説き、その余すべて鬼神かみの事を論へるのみは、いまだ先儒の説に心酔て、陽にのみ其説を難とがむれども、陰には誰も彼の託言の界を出ること能はず、唯いはゆるその皮膚を変へたるのみにて、更に其肉身を更あらためざれば、是将古意に称へる説の出来ることなし。」[4]
篤胤は近世日本に登場してきたいわゆる古学派の儒者たちの革新性を高く評価する。ことに徂徠について、「心広く才秀で、更に普通の漢学者と等ひとし並ならぬ」ことをいう。だがその徂徠でさえ「鬼神と云ふ物を仮て教の則となしたるなり」というような儒者の旧癖をのこしていることをいう。そこから私が上述した徂徠の「私擬対策鬼神一道」の文章が篤胤に引かれることになるのである。ここに「私擬対策鬼神一道」の篤胤によって引かれる文章を含む一節をここに挙げておこう。篤胤は抄出の形で引いているが、ここでは徂徠の原文を略すことなく私の訓み下しで引いた。
「聖人の未だ興起せざるに方りてや、その民散じて統無く、母有ることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。その土に居り、その物を享けて、その基むる所を識ること莫し。死して葬ること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣に羣がりて以て殂落し、草木と倶にして以て消歇す。民是れを以て福い無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以て其の民を統一し、宗廟を建てて以て之れを居き、烝嘗を作りて以て之れを享る。」[5]
これは鬼神祭祀を通じて共同体の原初的な成立を語る徂徠の文章である。彼はこの祭祀的共同体の成立を先王聖人による制作として語るのである。「聖人の鬼を制して以て其の民を統一し、云々」という言葉を見れば鬼神もまた聖人の制作意志のなかにあるようである。篤胤が祭祀的共同体としての人間世界のはじまりを徂徠とともにしながらも、徂徠に伝統儒者に対すると同じ非難を浴びせるのはこの点にある。すなわち鬼神がなお聖人の制作意志のなかにあるそのことにある。篤胤はこの徂徠の「聖人の鬼を制して以て其の民を統一し、宗廟を建てて以て之れを居き云々」の文を引いた上で激しい非難の言葉を徂徠に向けている。
「すべて漢学者の癖として、何によらず好事はみな、聖人の制つくり初めたるとのみ云へども、是いといと智見こころ狭く愚かなることなり。抑も人の生まれながらにして、誰も誰も鬼神かみを敬ふことを知れるは、これ天津神の命おおせ賜へる、いはゆる性にて、則ち道なるを、漢国人なりとて、聖人をしへずとも、いかで己が心と鬼神を尊む事を知らざらむ。元来もとよりその情こころあるにつけて、聖人と云ふ輩、その則を制さだめたるものなり。中庸に「性に率ふ、これを道と謂ふ。道を修むる、これを教と謂ふ」と云へるも此の謂ひなり。」
ここには人の共同世界の始まりを神とその祭祀的世界の存立にあることの認識をともにしながら、その祭祀的世界の成立の由来を「聖人の制作」に見るか、神を尊とむ「人の情こころ」に見るかの対立がある。篤胤は前者を「漢学者の癖」といった。それでは神を尊む「人の情」をいうのは国学者であるのか。だが今はそうした思想系列的規定づけを急ぐことなく、徂徠の制作論と篤胤の反論の意味とを追ってみたい。
3 二つの〈有鬼説〉
まず徂徠の鬼神観をたずねて『弁名』の「鬼神」章を見てみたい。『弁名』下巻「天命帝鬼神」章の第十一則で徂徠はこういっている。
「鬼神の説、紛然として已まざる所以のものは、有鬼と無鬼の弁なるのみ。それ鬼神とは、聖人の立つる所なり。あに疑いを容れんや。故に鬼無しと謂うものは、聖人を信ぜざるものなり。その信ぜざる所以の故は、すなわち見るべからずを以てして、これを疑わば、あにただ鬼のみならんや。天と命とみな然り。故に学者は聖人を信ずるを以て本となす。苟くも聖人を信ぜずして、その私智を用うれば、すなわち至らざる所無きのみ。」[6]
この冒頭の箇所を私はこう訳した。
「鬼神をめぐる議論が、さまざまに入り乱れて繰り返される理由は、ただ有鬼と無鬼とを論じようとしているからである。そもそも鬼神とは、聖人の定立するところのものである。どうして有鬼・無鬼を疑うことができようか。だから鬼無しをいうものは、聖人を信じないものである。」
徂徠は無鬼論者ではない。では有鬼論者なのかと問えば、彼は「それ鬼神とは、聖人の立つる所なり。あに疑いを容れんや」と答え、鬼無しというものは、聖人を信じないものだというのである。徂徠は鬼神の有無への問いに「鬼有り」とは答えない。その代わりに、鬼神を祀る共同体的な祭祀体系の創設者としての聖人をいい、この聖人の原初的制作をいうことであの問いへの答えとしているのである。だが篤胤はこれを答えとしてはみない。これも伝統的な儒者の聖人のためにする託言だとするのである。ではわれわれは徂徠の有鬼・無鬼をどう考えるのか。徂徠の「鬼無しと謂うものは、聖人を信ぜざるものなり」というテーゼと同じく成立するはずの「鬼有りと謂うものは、聖人を信ずるものなり」というテーゼにしたがって「聖人を信じる」徂徠を有鬼論者とするのだろうか。
いま徂徠の有鬼・無鬼の論説をまぜかえすようにして問うているのは、われわれにおける「有鬼」の言説とは何かを考えてである。「怪力乱神」を語らざることを君子人的言説の条件としてきた儒家の世界において「鬼神有り」とはいかなる言説をもって可能であったのか。そう考えれば「聖人による鬼神祭祀という祭祀体系としての共同体の創設とともに鬼神は有る」とは、人間文化の成立についての原典的知識をもつ儒家知識人による唯一可能な〈有鬼の言説〉ではなかったか。徂徠は鬼神の「有る無し」を自らいうわけではない。その代わりに徂徠は聖人による「制作」をいうのである。「制作」をいうことの内にすべては答えられいると徂徠はいうだろう。これを〈制作論的有鬼説〉と呼んでおこう。篤胤はこの〈有鬼説〉に強く反対する。もう一度ここで篤胤の反論を引いておきたい。
「抑も人の生まれながらにして、誰も誰も鬼神かみを敬ふことを知れるは、これ天津神の命おおせ賜へる、いはゆる性にて、則ち道なるを、漢国人なりとて、聖人をしへずとも、いかで己が心と鬼神を尊む事を知らざらむ。元来もとよりその情こころあるにつけて、聖人と云ふ輩、その則を制さだめたるものなり。」
篤胤は儒家の性説を逆用しながら聖人の制作になる共同体を構成する民における敬神の情の先在をいうことで徂徠の〈制作論的有鬼説〉に反論する。たしかに〈制作論的有鬼説〉に反論するには原初の祭祀的共同体を構成する民における敬神の情の先在をいうしかない。篤胤とはこの反論、あえて名づければ〈民情論的有鬼説〉という反論の最初の主張者であったのである。いま徂徠の〈制作論的有鬼説〉に対立する篤胤の〈民情論的有鬼説〉をいったが、では篤胤が自らをその没後の門人とした宣長の有鬼説は徂徠型であろうか、それとも篤胤型であろうか。このことは徂徠の制作論あるいは〈制作論的有鬼説〉の日本近代に及ぼす影響的射程を見極めるためにも重要である。
4 徂徠から宣長へ
徂徠は聖人を信じるといっても、鬼神を信じるとはいわない。聖人を信じるとは、聖人の制作になる鬼神とその祭祀を信じることである。この聖人の制作の跡は「物」のごとく『六経』に具えられている。後世の学者たちはこの「物」をさまざまに「名」づけて伝えていくのである。だが古学者徂徠はこの「物」に直面すべきことをいう。それは聖人を信じることであり、聖人の「制作」を信じることであり、その制作の跡を伝える『六経』を信じることでもある。徂徠は主著『弁名』の「緒言」の末尾でこういっている。
「故に聖人の道を求めんと欲するものは、必ずこれを六経に求めて、以てその物を識り、これを秦漢以前の書に求めて、以てその名を識り、名と物と舛わずして、しかるのち聖人の道、得て言うべきのみ。故に弁名を作る。」
私はこれを次のように訳した。
「それゆえ聖人の道を明らかにしようとするものは、必ず「六経」によって聖人の道が「物」として、具体的で、客体的な確かさをもって存在したあり方を識らねばならない。さらに秦漢以前の古書によって、その聖人の道が「名」をもって伝えられ、説かれていったあり方を識らねばならない。こうして名と物とが違うことなく識ることをえて、聖人の道をはじめて学者はいうことができるのである。そのために『弁名』は著されねばならない。」[7]
聖人の制作になる鬼神(祖霊)を祭祀対象にした祭祀が〈物〉のような確かさをもって存在することを知るのは『六経』においてだと徂徠はいうのである。もし「有鬼」の根拠を徂徠に問えば、それは『六経』にあると徂徠は答えたであろう。このような答えを導くのが徂徠の古学である。ところでこの徂徠の古学という学問的思想的方法論の徳川日本における最高の後継者を私は本居宣長だと考えるのである。
徂徠は有鬼説の成立の由来をめぐる問いに「聖人を信じる」ことをもって答えた。「聖人を信じる」ということはすでにのべたように「聖人の制作としての鬼神祭祀の制度的、習俗的成立を信じる」ことであり、最終的にはそれらがあたかも「物」のごとくに刻記されている『六経』を信じることであった。もし同じ問いを、すなわち有神説の由来を宣長に問えば、「『古事記』を信じる」という答えが返ってくるだろう。
宣長は現在でも通用するような古代日本の「神」の定義をもたらし、
「さて凡て迦微かみとは、古御典みふみ等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊みたまをも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣草木のたぐひ海山など、其餘ほか何にまれ、尋常よのつねならずすぐれたる徳ことのありて、可畏かしこき物を迦微とは云なり。」(『古事記伝』三之巻)
さらに天皇の絶対的な尊貴性を導くのである。
「御世御世の天皇すめらぎは、すなはち天照大御神の御子になも大坐まします。故かれ天つ神の御子とも、日の御子ともまをせり。」(『直毘霊』)
徂徠の〈制作論的有鬼論〉を『六経』や『古事記』による有鬼論、すなわち〈古学的有鬼論・有神論〉と呼ぶならば、その言説の影響的射程は近代に及ぶものであることは明らかだろう。
私は朱子の「鬼神論」を宋代におけるまさしく〈中国的〉な政治・思想・文化体系の成立とともに展開された一種の〈宗教改革〉的教説ではないかという見方をのべてきた。この改革の指導的教説としての朱子鬼神論は俗間に乱立する〈鬼神〉祭祀とその教説に対して〈鬼神〉を自然化する陰陽論的無鬼論をもってする批判的教説とみなされた。17世紀の近世日本は朝鮮経由で朱子学を体系的に受容したが、〈無鬼論〉的な朱子鬼神論への対応は近世日本の一つの思想的課題であった。いわゆる山門と呼ばれる政治的仏教勢力の解体と耶蘇の禁制とともに始まった日本の近世武家政権は宗教の非政治化的対応を行ってきた。この非宗教的天下を実現してきた近世日本で、朱子学に対して『六経』的古学の立場を形成した徂徠は先王的古代の祭祀的社会の存立をふまえて朱子の無鬼的鬼神論に反論した。徂徠は中国古代先王の制作による祭祀的政治世界を見出すとともに、日本古代の「天子」による祭政一致的統治をも見出したのである[8]。私はこの徂徠の鬼神論的立場を〈制作論的有鬼論〉と呼んだ。この〈制作論的有鬼論〉は後期水戸学派の志士的学者に継承され、新たな天皇制的祭祀国家の「国体」論を構成していくことについてはすでに私はのべた[9]。
さらに宣長の『古事記伝』を中心にした〈古学的有神論〉は制作された天皇制的祭祀国家に〈民族神話〉的魂を注ぎ入れ、まことにこれを国民的制作物にしていったのである。
私は朱子「鬼神論」に対する近世日本の〈制作論的有鬼論〉の近代日本に向けて辿る思想系譜のみを追ってきた。では鬼神論をめぐる最大の問題発起者である平田篤胤の〈民情論的有鬼論〉、近代前夜のこの〈有鬼論〉はどのような運命を辿ることになるのか。
[1]正しくは『平田篤胤・伴信友・大国隆正』日本思想大系50、岩波書店。
[2]平田篤胤『新鬼神論』前掲『平田篤胤・伴信友・大国隆正』日本思想大系50。篤胤の『新鬼神論』は本文中でいうように文化2年(1805)に「鬼神新論」として著され、文政3年(1820)に『新鬼神論』として改訂刊行された。
[3]最近のものとしては『「維新」的近代の幻想』(作品社、2020)の第6章「「国体」の創出—徂徠制作論と水戸学的国家神学」。
[4]前掲『新鬼神論』。
[5] 『徂徠集』巻之十七「私擬対策鬼神一道」。訓み下しは子安。
[6]『弁名』『荻生徂徠』日本思想大系36、岩波書店。子安『徂徠学講義ー『
弁名』を読む』岩波書店。
[7]子安『徂徠学講義ー『弁名』を読む』「緒言」岩波書店、2008。
[8]詳しくは私の近著『「維新」的近代の幻想』の第6章「「国体」の創出ー徂徠制作論と水戸学的国家神学」を参照されたい。
[9] 子安『国家と祭祀』青土社、2004.および上掲『「維新」的近代の幻想』。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2021.7.25より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/86380489.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1181:210726〕
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