『そなぎ』と私
- 2021年 8月 16日
- 評論・紹介・意見
- 『そなぎ』小原 紘小説韓国
韓国通信NO675
コロナに感染しても原則自宅療養と首相に言われてしまった。自宅療養者と死者は急増、自殺者も後を絶たない。まぎれもなく政府の棄民宣言だ。
広島原爆投下から76年の式典で首相は用意された挨拶文を読み飛ばして謝罪をした。核兵器禁止条約は無視する一方、核保有国との「橋渡し役」という実行する意思もない文言だけはしっかりと読み上げた。
職を失い収入を断たれた人たちが増え続けるなかでも企業業績は好調、株価も堅調とは! 一体どこの国の話なのだ。
親友との電話はいつも「生きていたか」から始まり、政治に対する怒りで終わる。
韓国映画『君の誕生日』ではセウォル号事故で亡くなった子供の誕生日を仲間が祝った。母親の慟哭と棄民された福島、医療から見放されたコロナ患者と重ね合わせて涙した。韓国ドラマ『ディア・マイ・フレンズ』から目が離せない。老いと死について語る老女たちの言葉が胸を打つ。「死ぬことはよく生きること」に希望を感じる。
<そなぎ>
韓国の短編小説『そなぎ』を読み返した。他愛のない作品と思われた小説を思い出したのは文学の普遍的な力なのかも知れない。社会の混乱と貧困。自然の中で子どもたちが繰り広げたつかのまのあどけなく悲しい物語。あらためて人生で大切なことを気づかせてくれた。
「そなぎ」とは韓国語で夕立のこと。夕立と訳しても構わないが日本の夕立とはどこか違う。とにかくドラマチックなのだ。晴天からいきなり大雨、そして再び真っ青な空。そんな夕立は韓国人と韓国社会とどこか雰囲気が似ているような気もする。
初めて韓国に旅行したソウルの鐘路。大雨が降りだすと待っていたかのようにミニ唐傘売りが現れて500ウォン(50円くらい)で売っていた。役にたたない代物だったが絶妙なタイミングの商売に感心した。友人の説明で韓国の特別な夕立(そなぎ)の正体と言葉を初めて知った。30年も昔のことだ。
きまって真夏の真っ昼間。そのたびに民家の玄関や商店に駆け込んだ。慌てず青空になるのを信じてその場で30分ほど待ち続けたなつかしい思い出。
語学留学が終わりにさしかかった頃、授業で『そなぎ』を読んだ。学生の音読に続き先生が風景や子供たちの心理状況まで詳しく説明するとても熱い授業だった。聞き取りが苦手なことも忘れて、引き込まれていった。子牛にまたがった得意げな少年と花束を抱える少女がぐるぐると回る光景は万華鏡の絵のように印象に残っている。
日本で知り合った韓国人の友人たちに『そなぎ』の話をした。
彼らは懐かしそうに思い出を話してくれた。本当に思い出深い作品のようで、暗記するくらいよく読んでいた。
「印象に残ったのはどこ?」と聞いてくる友人たち。
「少年が牛に乗ったシーン」
「最後の親たちの話は悲しかった」
彼らの記憶の世界に日本人の私が感動したことに驚いたようで、『そなぎ』の話を始めると、話はいつも盛り上がった。
何十年もの間、教科書で読み続けた韓国人にとってこの作品は特別な存在。授業で先生が心を込めて説明した理由も納得した。
『そなぎ』は韓国人の感性がこもった作品であると同時に、その後の韓国人の感性に大きな影響を与えた。韓国の映画やドラマの台詞やワンシーンに『そなぎ』を感じることがたびたびある。韓国人を知るために欠かせない小説と言ってよい。
帰国後、翻訳に挑戦した。わからない単語は辞書を引けば翻訳は可能だが、大切なものが伝えきれない。能力の限界を感じてあきらめお蔵入りになっていた。コロナ過にあえぐ時代、デタラメと狂気の時代に、純粋、優しさ、哀しみ、リアリティに富んだ作品を思い出した。
作品が発表された1959年は朝鮮戦争で国土が廃墟と化した時期だ。時代の変遷とともに韓国の中学生に『そなぎ』は読み継がれてきた。
翻訳に再度挑んだ。15年越しの改訂である。ぎこちなかった訳文を思い切って自然な日本語に直したしたつもりだ。
以前挿入した写真をそのまま使ったが、今後自筆による挿絵を計画している。
記憶から消えかかっていた韓国の小説。私には韓国語学習の通過点であっても、この短編には人間のさまざまな側面が凝縮されている。こんな時にこそ読んで欲しい。そして感想など聞かせてもらえるとうれしい。
[リベラル21編集委員会から]
小原さん訳の『そなぎ(にわか雨)』を以下に掲載します。長いので、上・下2回に分割します。
そなぎ(にわか雨) <上>
原作 황 순훤(ファン・スノン)
訳 小原 紘
ユン・ハラボジ(お爺さん)の曾孫の女の子は、田舎暮らしで初めて知ったかのように水遊びに夢中だった。学校の帰り道に水遊びをするようになって何日かたっていた。それまでは川岸で遊んだが、今日は川のまんなかの飛び石に座って遊んでいた。
少年は土手に腰かけて、少女が石から離れるのを待っていた。よその人が通りかかり、少年も飛び石の橋を渡ることができた。
次の日、少年は昨日より少し遅れて川にでかけた。この日も少女は飛び石のまん中に腰かけて顔を洗っていた。ピンク色のセーターの袖をまくった腕と首筋がとても白かった。
しばらく顔を洗うと水の中をじっとのぞき込んで水面に映る自分の顔を眺めているようだった。
突然、少女は水をすくいあげた。小さな魚でも泳いでいたのかもしれない。
少女は少年におかまいなく水をすくって遊んでいた。何が取れるわけでもないのに、楽しそうにそれを繰り返していた。昨日と同じように。誰も通りかからなければ、そのままずっと飛び石のまんなかで遊ぶつもりらしかった。
水の中から何かをすくいあげた。白い小石だった。やにわに立ち上がると、ぴょんぴょんと飛び石伝いに駆けて行った。
向うの岸にたどりつくと、少年のほうをふり向いた。それから、「ばーか」という言葉とともに小石が飛んできた。
少年は、すっくと立ち上がった。
少女は、おかっぱ頭の髪を風になびかせて、いちもくさんに葦の畑の中にわけ入った。
爽やかな秋の日差しが眩しく葦の花畑一面に広がっていた。
花畑が途絶えるあたりに少女が現れるはずなのに出てこない。少年は背伸びをしたが、あらわれる気配はなかった。
花畑の切れ目あたりで、葦の花が微かに動いた。少女が葦の花を胸に抱いて立っていた。今度は、ゆっくりした足どりだった。
抱えている葦の花から、まばゆいばかりに秋の陽が光り輝いていた。まるで葦の花が草原を歩いているようだった。
少年は葦の花が見えなくなるまで、ずっとそこに立ちつくした。そして、さっき少女が投げてよこした足元の小石に目をやった。小石はすでに乾いていた。少年は小石を拾い上げるとポケットに押し込んだ。
翌日、少し遅く川に出かけたが、少女の姿はなかった。少年は、なぜかほっとした。
しかし、奇妙な気分だった。何日も少女が来ない日が続くと、ものたりなくて寂しくなってくるのだった。ポケットの中の小石を触って少女のことを思った。
ある日、少年は少女が水遊びをしていた飛び石に座り、少女がしていたように水の中に手を入れてみた。顔を洗い、水の中をのぞきこんだ。日に焼けた顔が水に映った。「へんな顔」、と少年は思った。
水に映る自分の顔を両手ですくってみた。それを何度か繰り返していると、いつの間にか少女がそばに立っていた。
「こっそり、僕のことを見てたな!」
少年はあわてて駆けだした。
走っているうちに足を踏みはずして転んでしまった。あわてて立ち上がり、また一目散に駆けだした。
どこかに隠れたかった。だが隠れるような葦の茂みはなく、蕎麦畑があるだけだった。蕎麦の花の匂いが鼻を突いた。
眉間がくらくらとした。塩辛いものが口に入ってきた。鼻血だった。
片手で鼻血をぬぐうと、そのまま駆けだした。どこからか「ばーか、ばーか」という声が追いかけてくるように思えた。
土曜日がやって来た。
川へ出かけると、何日も顔を見せなかった少女が向う岸で水遊びをしていた。
少年は知らん顔で飛び石を渡り始めた。少女の目の前でしくじったことを思い出し、それまで造作なく渡っていたその飛び石を、今日は用心深く渡った。
「あら」
少年は聞こえない振りをして土手にあがって腰かけた。
「これ、何の貝かしら」という少女の声に振り返ると黒く澄んだ目と出あった。そして少女の手のひらのほうを見やった。
「ニシキ貝」
「名前も本当にかわいい」
分かれ道に来た。ここから少女の家までは川をくだって三里ほど(一キロほどの距離)、少年の家は、のぼって十里(約三キロ)ほどの距離だ。
少女は足をとめると、
「あなた、あの山に行ったことある?」と野原の向うを指さした。
「ないよ」
「一緒に行かない? 田舎に越して来たので友達がいなくて退屈でたまらないの」
「だけど、遠いぞ」
「遠いといっても、どのくらい遠いの? ソウルにいたころ、遠足でとても遠い所に行ったことがある」
少女の目つきは、たちまち「ばーか、ばーか」と云いだしそうだった。
田んぼの畦道に入った。稲の刈り入れをしている横を通り過ぎた。
案山子が立っていた。少年が案山子の縄ひもを引っ張ると雀が何羽か飛び立った。
少年は、この日、家へ早く帰って家の田んぼで雀の見張りをするように云われていたことを思い出した。
「ああ、おもしろい!」
少女は案山子のひもを掴むと激しく揺さぶった。案山子がしきりに揺れて、踊りを踊った。少女の左の頬に小さなえくぼが浮かんだ。離れたところに立っている案山子に少女はかけよった。その後を少年は追いかけた。今日ぐらいは、家に早く帰って手伝いをしなくてもいいだろう、少年は親との約束を忘れたいと思った。
少女の体をかすめながら、少年は、あたりをぐるぐると走りまわった。バッタが顔にあたってチクチクと痛かった。藍色に晴れわたった空が、ぐるぐる回って見えた。目がまわる! 鷲の奴が、鷲が、大空をぐるぐる回っているせいだ。
ふり向くと、少女は通り過ぎた案山子をゆすっている。案山子はさっきより、もっと激しくゆれていた。
田んぼのはずれに水溜りがあった。少女は先頭になって、それを飛び越えて行った。水溜りから山の麓までずっと畑が続いていた。
とうもろこしの藁を束にして立てかけてある畑の道を通りすぎた。
「あれ、なあに」
「ウォンドゥマク(という見張り小屋)」
「このへん、マクワウリがおいしんでしょう?」
「うん。マクワウリもおいしいけれど、スイカのほうがもっとうまい」
「食べたい」
少年は大根畑に入って行って大根を二本引き抜いてきた。大根はまだよく育っていなかった。葉っぱをねじり捨てると一本を少女に渡して、大根はこうして食べるのだと云わんばかりにあたまのところを、がぶりと食いちぎって爪で皮をむいてほおばった。
少女も真似してみた。しかし、三口も食べられず、
「あっ辛い、それに、おしっこくさい」
といって、投げ捨ててしまった。
「本当だ、まずくて食べられないや」
少女が投げ捨てた大根よりもっと遠くのほうに勢いよく投げ捨てた。
山が近づいた。
紅葉が目に熱かった。
「わぁーい」
少女は山に向かって走り出した。少年は一緒に駆け出さずに、あたりに咲いている花をたくさん摘みながら後を追った。
「これは野菊、これは萩の花、これは桔梗(ききょう)、……」
「桔梗がこんなに可愛いい花だったなんて…」
「私、紫色、大好き!……。ねぇ、このパラソルみたいな黄色い花、何ていうの?」
「おみなえし」
少女は、おみなえしの花でパラソルをさすようにして見せた。上気した顔に、小さなえくぼが浮かんでいた。
ふたたび少年が何本かの花を摘んできた。そして形のよい花だけを選んで少女に差し出した。
少女は、
「ひとつも捨てちゃだめ」と云った。
山の頂きのほうへ登っていった。
向かい側の谷間に肩を寄せあうようにしている藁葺き屋根の家が見えた。
二人は並んで、岩に腰掛けていた。あたりは、「しーん」と静まり返っていた。
のどかな秋の日ざしが、あたりいちめんに枯れ草の臭いをまき散らしていた。
「あれは、何の花だろう」と少年がつぶやいた。急斜面にくずの蔓のまわりに点々と花が咲いていた。
「藤の花。私が通っていたソウルの学校に大きな藤の木があったの。あの花を見ていると、あの木の下で遊んだ友だちのことを思い出すわ」
少女はそっと立ち上がると斜面のほうに近づいて行って、花がたくさんからまりついている蔓をちぎろうとした。しかし、蔓はなかなか切れそうになかった。力いっぱい引っぱっているうちに、少女はうっかり坂からすべり落ちてしまった。手には、くずの蔓がしっかりと握られていた。少年は驚いてかけよって、少女が差し出した手をつかんで引っぱりあげた。少年は自分が花を採ってあげなかったことを悔やんだ。
見ると少女の膝から血がにじみ出ていた。少年はとっさに傷口に唇を押し当てた。しかし、突然、少年は何か思いついたかのように、どこかへかけだして行った。
しばらくして、息を切らせて戻ってくると、「これを塗ると治る」と云いながら松ヤニを擦り傷に塗ってやった。塗り終わると少年は蔓のあるほうへ降りて、花がたくさんからまっている蔓を噛み切り、再び登ってきた。
取って来た蔓を少女に渡すと、
「あっちに子牛がいるよ。行って見よう」と少女をうながした。
黄色の子牛だった。まだ鼻輪も付けていない子牛だった。
少年は手綱を引き寄せると、子牛の背中をさするふりをして、ひらりと子牛の背中に飛び乗った。子牛は驚いてピョンピョンと跳ね回った。
色白な少女の顔と、ピンク色のセーター、藍色のスカート、少女が胸に抱えている花束とが渾然一体となって、まるでひとつの大きな花束のように少年の目に映った。少年の目がぐるぐると回った。牛から降りてなるものか。少年は得意げだった。これだけは少女には真似ができない、自分だけができることなのだと必死だった。
「おまえたち、ここで何をしている」
お百姓さんがススキの葉をかきわけて二人の前に現れた。
少年はあわてて子牛から飛び降りた。こんな小さな子牛に乗って牛が腰でも痛めたらどうするのだ、と叱られそうで内心ヒヤヒヤした。しかし、ほお髭を長く伸ばしたお百姓は少女をまじまじと見ただけで、そのまま牛の手綱を手にすると、
「ふたりとも早く家にお帰り。もうじき雨が降るから」
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