批判されない権力は間違う。批判を許さない権力は間違を修正できない。
- 2021年 12月 10日
- 評論・紹介・意見
- 天皇制戦争と平和戦争責任澤藤統一郎
(2021年12月9日)
昨日の当ブログの記事「1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために」を読み直すと不満足と言うしかない。本日はその補訂である。
不満足は、なによりも「繰り返してはならない12月8日の過ち」のなんたるかが十分に語られていないことにある。いったい、あの時点において、どんな過ちがあっただろうか。
天皇(裕仁)や東條らも、開戦後間もなく戦況が悪化した後は「取り返しのつかない過ち」を反省したに違いない。その反省は、「負ける戦を仕掛けた過ち」以上のものではない。「もっと慎重に時期を選び、もっと十分に準備をして、勝てる戦争をすねべきだった」という反省なのだ。天皇(裕仁)は御前会議で、くりかえし「勝てるか」「本当に勝てるか」と軍部に念を押してゴーサインを出している。最高指導者の「過ち」と「反省」は、負けたことに尽きるのだ。決して、「戦争を仕掛けたことの過ち」でも、「平和を維持できなかった過ち」でもない。
責任の所在と軽重は、常に権限の所在と軽重に対応している。厖大な内外の死者を出した悲惨な戦争の責任は、まず開戦の権限をもつ天皇(裕仁)にあり、次いでこれを補弼する任にあった内閣や軍部にも分有されていた。天皇(裕仁)を除く補弼の責任者は、戦後文明の名において裁かれその責任を生命をもって償った。ひとり、最高責任者である天皇(裕仁)のみが、まったく責任をとらなかった。
いかなる戦争も、おびただしい無辜の人々にこの上ない不幸をもたらす。我々は戦後、戦争そのものを悪とする非戦の思想をわがものにし、これを日本国憲法に刻んだ。この視点から、太平洋戦争を開始した指導者たちの責任を厳しく追及しなければならない。日清・日露も韓国併合も日中戦争も、決して繰り返してはならないのだ。
戦争責任の所在とは別に、12月8日の開戦に対する国民の意識や意見にどのような教訓があるだろうか。
人の意見は、基本的にはその人のもつ思想の表れだが、その人のもつ情報によって大きく左右される。12月8日の国民の意見は、開戦後の戦況見通しの基礎となる情報をもっているかいないかで決定的に異なることになった。
近衛文麿、松岡洋右らが「えらいことになった」「僕は悲惨な敗北を予感する」「僕は死んでも死にきれない」などと語ったというのは、しかるべき情報をもち、戦争の結果を予想し得たからであろう。南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」という下手な歌のごときものは嘆息とも感激とも読めなくはないが、いずれにせよこの開戦は「常識ではあり得ぬもの」と認識していたのだ。ある程度の情報はあったのだろう。そして、将来を見る能力も。
他の多くの国民や作家たちは、判断の基礎となる情報をもたない。日本と米国との国力差、工業力差、兵力差、総合的な軍事力の格差、そして教育水準や、国民の戦意等々についての基礎情報を持たぬまま、日本型ナショナリズムの高揚に流されていた。
小林秀雄が日本型ナショナリズムの高揚に流された典型だろう。開戦の詔勅を聞いて<眼頭は熱し、畏多い事ながら、比類のない美しさを感じた><海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた>という。知性あるように見える人も、ここまで洗脳されるのだ。
市井の人々の中に、「英米を敵にまわして勝てるわけがない」と言った多くの人がいたことも記録されている。十分な情報はなくとも、真実を見ようという思想を持っていた人の真っ直ぐな目と意見である。
そして最後が、十分な情報を持ちながら、間違った選択をした、最も愚かで責任の大きな一群。当然にその筆頭に天皇(裕仁)がいる。しかし、当時天皇(裕仁)とその官僚への批判は許されなかった。それが負け続け、被害を拡大しつつなお、戦争をやめることができない原因となった。
権力は間違う。批判を許さぬ権力は大きく間違う。国民からの権力批判だけが間違いを修正しうるが、権力批判は封じられていた。12月8日に噛みしめるべき教訓である。
1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために。
(2021年12月8日)
他の日ならぬ12月8日である。80年前のこの日に、我が国は後戻りのできない亡国への急傾斜を滑り始めた。行き着く先のどん底が1945年8月15日、この日に日本は一度亡びたのだ。市街地に繰り返された大空襲、沖縄の悲惨な地上戦、2度にわたる原爆の投下…。完膚なきまでの敗戦に、国民生活は惨状を極めた。この亡国をもたらした責任者の筆頭は天皇・裕仁であり、これに東京裁判で裁かれた東條英機以下のA級戦犯が続く。
もしかすると、亡国へ滑り始めた日はもう少し前の37年7月7日(盧溝橋事件)か、31年9月18日(柳条湖事件)であったかも知れない。あるいは1910年8月29日(日韓併合)。しかし、12月8日の国民的衝撃はこれまでに経験したことのないものだった。明らかに、全国民の運命に直接関わる総力戦の覚悟が求められた日である。この日の日本人は、いったい何を考え、これからどうなる、これから何をなすべきと考えたのだろうか。
10年前の2011年11月30日付「毎日新聞」に「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」という、記事がある。棚部秀行、栗原俊雄両記者の労作。「当時の小説やエッセーをひもとくと、開戦賛美一辺倒の世間のムードが伝わってくる」というトーン。内容の一部を引用させていただく。
伊藤整 「いよいよ始まった」と高揚感吐露
作家の伊藤整(05〜69)は真珠湾攻撃のニュースを聞き、夕刊を買うため新宿へ出かけた。混雑したバスの中で<「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ興奮しているような気がして黙っている>と、高揚感を吐露している。そして<我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている>と記した(『太平洋戦争日記(一)』)。
高村光太郎 「時代は区切られた」
また詩人の高村光太郎(1883〜1956)はこの日、大政翼賛会中央協力会議に出席していた。エッセー「十二月八日の記」に<世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた>と、開戦の感激を書き留めている。
太宰治 「けさから、ちがう日本」
太宰治(09〜48)には、「十二月八日」という短編小説(『婦人公論』42年2月号)がある。「作家の妻」という女性の一人称で、開戦の日の興奮と感動を描いた。早朝、主人公は布団の中で女児に授乳しながら、ラジオから流れる開戦のニュースを聞く。<しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。(中略)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ>
竹内好 「うしろめたさ払拭された」
37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。中国文学者・評論家の竹内好(10〜77)は真珠湾攻撃直後の日記で<支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし、新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。
小林秀雄 「晴れ晴れとした爽快さ」
評論家の小林秀雄(02〜83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。
多くの文筆家が開戦に快哉を叫んだ。作家の坂口安吾(06〜55)も、報道に感激している。また、民衆も開戦を支持。日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。
もちろん、開戦を歓迎した人ばかりではない。本日(12月8日)の毎日新聞・余録には、次の記事がある。
当時、米映画の配給会社にいた淀川長治は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。
では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという。
余録は、こう結んでいる。「緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言…。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。」
今振り返って、後知恵で当時の人の考えを評価するのは僭越に過ぎるとの批判はもっともなこと。しかし、教訓とすべきは、人は案外賢くないのだということ。天皇(裕仁)や東條などの戦犯ばかりではなく、日本の知性と言われた人もである。小林秀雄などはその典型だろう。国を滅ぼす出来事の前で、やたらに高揚するばかりで、冷静さを欠いている。
80年前、天皇制政府は大きく国策を誤って国を滅ぼした。その過ちを繰り返さないためには、可能な限りに情報を共有し、可能な限りの衆知を集約することである。つまりは、民主主義を徹底することだ。それでも、過ちをなくすることはできないかも知れない。しかし、広範な国民に批判の自由が保障されていれば、常に過ちを修正することが可能となる。民主主義こそは、大きな過ちを防止するための知恵と言うべきだろう。国家にとっても、政党やその他の諸組織にとっても。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.12.9より
http://article9.jp/wordpress/?p=18105
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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