マスメディアの不勉強ぶりに驚嘆 -秩父事件をゆがめると関係者がテレビ局に抗議-
- 2011年 7月 26日
- 評論・紹介・意見
- TBS岩垂 弘秩父困民党
このところ、マスメディアの劣化ぶりを嘆く声が少なくないが、「これはひどいな」と思わせるテレビ番組があった。少し前、全国紙の地方版で報じられたことだが、マスメディアの“不勉強さ” を示す例として紹介する。
6月29日付朝日新聞朝刊の28ページ「第2埼玉」を見て、思わず「えっー」と驚いてしまった。そこに、「秩父事件や人物 火つけ強盗扱い」「2月放映のドラマに研究者ら抗議」という見出しのついた長文の記事が掲載されていたからだ。
それは、TBSテレビが今年2月に放映したドラマ「菊池伝説殺人事件」をめぐって、秩父事件研究顕彰協議会(事務局・埼玉県小鹿野町)の鈴木義治会長らが「秩父事件や人物を『火つけ強盗』のように、ゆがめて描いている」として、TBSテレビに抗議している、という記事だった。
その記事によると、そのドラマは、推理作家の内田康夫さんの同名小説をドラマ化したもの。そこに背景として登場するのが秩父事件。記事によれば、秩父事件とは、1884年(明治17年)11月、秩父地方を中心に長野、群馬両県などの養蚕農民や自由党員ら数千人が、借金延納や減税などを求めて武装蜂起したが、軍隊や警察を動員した明治政府によって鎮圧された事件。30人以上が戦死し、警察官5人が殉職した。裁判の結果、死刑12人を含む計3821人が処罰され、うち20数人が獄死した。
武装蜂起の中心的役割を果たしたのが秩父困民党で、ドラマには困民党参謀長の菊池貫平(長野県北相木村から参加)も登場する。
記事によれば、鈴木さんらが問題にしているのは、ドラマが菊池貫平を「秩父事件の時、農民一揆に乗じ、過激な博徒を集めて略奪、放火、悪逆の限りを尽くした」と非難し、背景に集団が民家を襲う様子が流れる場面という。
そして、鈴木さんらは「事件を『火つけ強盗』や『暴徒による暴動』とする見方は、明治政府が意図的に流したもの。これまでの研究で、事件は『自由民権運動の一形態』であり、事件参加者は『民主主義の先駆者』と見直されている」と指摘し、菊池寛平についても「自由党員で地元の代言人(弁護士)を務め、事件では『私に金円を略奪する者は斬』などの国民党軍律を作った人物。高利貸を襲った事実はあるが、軍資金調達のためで、私欲ではない」と述べているという。
記事によると、鈴木さんらの抗議文に対するTBSテレビの回答は「フィクションであり、実在の人物の歴史的意味合いに踏み込むことを意図したものではない」というものだったという(紙面には朝日新聞の取材に対するTBSテレビ広報部の回答も載っている。そこには「作品の主眼は歴史的事実を描くことではなく、あくまでも原作に基づいたフィクションです」とある)。確かに、ドラマの末尾に「フィクション」の告知がある。
これに対し、鈴木さんらは「フィクションとしても、実在の事件、人物を扱うには周到な配慮があるべきだ。『火つけ強盗』の見方で、子孫は近年まで苦しめられてた事実がある」として「納得できない」と言っている、とその記事は伝えている。
私が驚いたのは、秩父事件という日本近代史上よく知られた史実については、すでに日本近代史研究者の間で評価が定まっているのに、それと全く逆な見方に立ったドラマが、こともあろうにTBSという大手のテレビ局によって放映されたことだった。
秩父事件について書かれた著作は少なくないが、中でも今や研究者の間でもっとも権威があるものとして著名なのは、井上幸治著の『秩父事件』(中公新書)である。1968年の刊行だ。井上氏はフランス近代史を専攻する歴史学者で、神戸大学教授、立教大学教授を経て、当時、津田塾大学教授だった。
この中で、井上氏は秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけた。
自由民権運動とは、明治7年(1874年)から明治23年(1890年)にかけて全国的規模で展開された、国会開設、憲法制定、税金軽減、地方自治、不平等条約撤廃などを要求する民衆の運動である。その高揚ぶりは政府関係者をして「革命前夜」とまでいわしめたほどだ。運動は明治政府による激しい弾圧によって次第に激化し、群馬事件、武相困民党事件(神奈川県)、加波山事件(茨城県)、秩父事件、名古屋事件、飯田事件(長野県)などが起こる。いわゆる激化事件だ。
政府は激化事件参加者を厳罰をもって処断する。秩父事件についても事件を「秩父暴動」と呼び、参加者を「暴徒」と呼んだ。このため、事件参加者は世間から「火つけ強盗」「国賊」とみられるようになった。参加者の子孫は長く肩身の狭い思いをしながら暮らさざるをえなかった。
これに対し、井上氏は異議を唱え、事件に対する地道な実証的な研究から「秩父事件こそ、自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけたのだった。それはまさに、事件に対する評価を逆転させたものだった。この歴史的評価は、次第に自由民権運動研究者の間に定着し、常識となっていった。
今から31年前の1980年11月、自由民権運動の研究者や全国各地で自由民権関係の史実の掘り起こしを続けていた市民グループなどによって「自由民権百年全国実行委員会」が結成された。1981年が、自由民権運動の第一のピークとされた明治14年(1881年)から百年にあたるため、これを記念する行事を催そうという狙いで結成されたのだった。
全国実行委は1981年11月21、22の両日、横浜市の神奈川県民ホールで第1回全国集会を開いた。全国から研究者、教員、学生、一般市民ら約4000人が集まっで議論したが、参加者がひときわ激しい拍手を送ったのは、演壇に並んだ秩父事件で殉難した民権家の遺族約70人に対してだった。実行委が特に招いた人たちで、全国集会としてこの人たちの先祖を「民主主義を目指す運動の輝かしい先駆者」として顕彰したのだった。それまで、一世紀にわたって「暴徒」「国賊」とのレッテルを張られてきた民権家とその子孫が、晴れて名誉を回復した瞬間だった。
秩父事件の民権家の子孫は、秩父事件から百年にあたる1984年の11月に東京の早稲田大学大隈記念講堂で開かれた自由民権百年全国実行委主催の第2回全国集会にも他の激化事件参加者の子孫らとともに招かれ、ここでも拍手を浴びた。
私は当時、現役の記者としてこれらの全国集会をはじめ、秩父事件百年を記念する集会や事業を取材し、記事にした。文化界でも秩父事件百年に取り組む動きがみられ、青銅プロダクションが映画『秩父事件』をつくった。劇団銅鑼(どら)によって『虹のゆくえ――女たちの秩父事件』が上演された。
それだけに、それから30年もたってTBSテレビにより、かつての「火つけ強盗」観に基づくドラマが放映されるとは意外であった。なんだか、まるで、昔の亡霊で出くわしたような違和感を覚えた。
それにしても、いまのテレビのプロデューサーやディレクターは、歴史的な事件を背景にしたドラマを制作する時、文献や記録などに当たって事件の概要を調べるというようなことはしないのだろうか。史実に関する学会の業績を参考にして時代考証に万全を期することはないのだろうか。事前に文献や記録をひもとけば、事件関係者の心を傷つけ、歴史研究者から抗議を受けるなどということは避けられると思うのだが。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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