わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その7)
- 2022年 10月 3日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅲ二番目の子どもと登園拒否
(1)1972年、第2子出産
第2子の出産を4カ月後に控えていた1972年2月末、いわゆる「あさま山荘」事件がテレビで延々と放映された。私もまた、膨らんで来たお腹を抱えながら釘付けになった。
最初の子どもは、1970年3月30日生まれ。その翌日は日本赤軍による「よど号ハイジャック」成功が大々的なニュースになった時だった。
私は、東大全共闘運動が「時計台占拠」(1969年1月)をもって終焉させられて以降、いわゆる「左翼」の運動から遠ざかっていた。三里塚闘争も、王子野戦病院への抗議行動にも参加していない。それには、69年の夏ごろに妊娠が分かり、「子どもは産む!」と決めたことも大きかった。と同時に、いわゆる「新左翼」と言われる諸セクトにも、彼らの直線的な「暴力革命論」「レーニン主義路線」にも違和感を抱いていたゆえに、さらに過激な(理論的には単純な?)「赤軍」や「連合赤軍」「日本赤軍」については一層縁遠かった。なぜ、北朝鮮なのか、なぜパレスチナなのか、ほとんど理解できないままだった。
それでも、私自身、「左翼」であることを止めた訳ではなかったし、日本赤軍も、連合赤軍も、その戦略・戦術には首を傾げながらも、彼らもまた「左翼」の一員という認識は保っていた。
だから、「あさま山荘」事件そのものは、「銃撃戦」の過程で、民間人や警官の死を引き起こしながらも、山荘の管理人(妻)への対応など、極めて道徳的だと声援を送っていたほどである。ところが、その後の調べで、「革命的総括」の名でもって、14名の殺害(共同リンチ)が発覚した。この事実は決定的だった。「革命」という言葉や思想でここまで行くのか・・・と、私自身は大いに打ちのめされた。「左翼」そのものが問われていた。ただ、社会はすでにその時点で、容赦なく、「左翼」そのものを切り捨てて行ったように思われる。明らかに、一つの時代が終わった!のだと、今にして思う。
こうして、私は、第1子の時よりもさらに無力感に襲われながら、第2子を出産した。1972年6月24日のことである。
「短大」という勤務先だから、また私の図々しさゆえに、7月、8月の「夏休み」に実質的な産後休暇を取りながら、9月中旬からの後期には、第2子も無認可の保育所を利用して授業に復帰した(第1子は公立保育所)。
しかし、1973年度もすぐに巡って来る。兄(第1子)が通っている公立保育所は、「1歳」からが入所条件である。それ以前の「0歳児」は入所できない。だったら、弟はそのまま無認可保育所で凌ぐか・・・と思いつつ、それにしても、遠く離れた二つの保育所に兄と弟を別々に送り迎えするのもシンドイことだな~と思っていると、1973年度4月から、公立でも「0歳児保育」を始めるという情報が入ってきた。ただし、それは兄が通っている保育所ではなくて、少し離れた別の保育所なのだった。しかも「7カ月児」以降の0歳児が対象とのことだ。ずいぶん「もったいぶった0歳児保育!」と思いはしたが、とりあえず「わがこと」としてはラッキー!私の第2子はその月齢指定条件にパスだった。
だが、保育所という制度は、昔も今も、無条件に、すべての子どもを対象にして、希望者はどうぞ!という制度ではない。かつては「保育に欠ける子ども」、現在は「保育を必要とする子ども」、という条件付きである。
なぜなら、幼稚園に入園する前の子ども(0歳から2、3歳)は、原則「家庭」で、とりわけ「母親」が子育てするのがベスト!という「社会通念」を前提にしているからである。いわゆる「3歳児神話」だの「母性神話」だのと批判されてきた「家庭保育原則主義」であるが、これは今もなお続く、日本社会での「家族」にまつわる根強い社会規範の一つである。
(2)第2子の0歳児保育と登園拒否
まずはお兄ちゃんを近くの保育所に送って行った後、次に弟を、少し離れた保育所に連れて行く(自転車の前と後ろに乗せて)。当時の「0歳児保育」の実態ゆえに、何とも割りの合わない送迎をしなくてはならない。月曜日は、二人分の布団のシーツを運ばなくてはならず、その上、雨の日は最悪である。「泣きたくなる!」というのは決して大袈裟ではない。ただ、友人の中には、さっさと車の免許を取って、保育所の送り迎えに活用していた人も居た。賢い!と思うし、器用とも思うし、お金があるのは羨ましい、とも思った。それでも、「1年間の辛抱」と思って、私はひたすら自転車を漕いだ。
ところが、当時も今も、保育所は「福祉施設」であり、本来ならば「母親が、家庭で保育する」のが当たり前の所、「親の就労や病気その他」でやむを得ない事情のために「子どもを預かる」施設とされている。だから、子どもの登園時のチェックがかなり厳しい。母親が、家庭着のままであれば、「お母さん、今日はお仕事お休みですか?」と聞かれる。事実、仕事は休みであっても、他の所用(病院や役所や美容院など、たまには映画など・・・)をこなそうと思っていても、それはアウト!「規則」に外れることだ。まして、母親の体調が悪くて、一日休養しようと思っても、「母親が在宅しているならば」それは「保育に欠ける」にはならないと糾弾される(現在はかなり緩和されているが・・・)。
入所に条件が付されていて、それゆえに、保母さんの定員や条件も切り詰められている状況では、保母・保育者たちもギリギリで余裕などないのは当たり前である。「ズル」をする母親に容赦はない。「仕事がお休みなのに子どもを預けた!」「子どもをお迎えに来る前に一人でスーパーで買い物をしていた!」・・・そういう非難がよく聞かれたものだ。子どもが途中で熱を出したので職場に連絡すると「今日はお休みです」と答えられただの、早帰りの保母さんが、スーパーで買い物している母親を見かけただの・・・そういう母親は、それ以後、ずっと不信の目で見られることになる。
余裕のない母親と保母・保育者同士、お互いの不備やミス、あるいは「甘え」などには手厳しい。だからこそ、また母親たちは買い物をした大根やほうれん草は、見えないように自転車の籠の下に隠したものだ。
始まったばかりの「公立保育所での0歳児保育」だったからだろう、日々、保育園で預かる条件の一つに、子どもの体温の決まりもあった。「37度3分」・・・現在のように、すぐにピピピと数字が出て来る体温計ではない。子どもを膝に抱えて、体温計を脇に挟んで5分検温するのである。もちろん、家庭でも検温してノートに書いて来るのだが、家庭での検温は「当てにならない!」。それで、登園した子どもを一人ひとり保母さんがダッコして検温する。その結果が出ないと、母親はその場を離れるわけにはいかないのだ。
子どもの姿を見かけると、担当の保母さんがすぐに出てきて、おはようございま~す!とにこやかに挨拶をして、元気だった~?とか、アレ、今日はナニ持ってきたの?とか、すぐに保母と子どもがお喋りをしたり、遊び始めるという風景ではない。ともかく、保母はしっかりと子どもを抱きすくめて体温を測らなければならない。少々きついダッコに子どもがグズルと、余計に強く力が入る。・・・決まりとはいえ、楽しくない登園直後の光景だった。
しかも、わが子の場合、月曜日の朝などは、日曜日に家庭でのんびり過ごすためか、保育室になかなか入ろうとしない。「おはようございま~す!」と、こちらは努めて明るく挨拶をして、「おはよう!元気だった?」と、保母さんも明るく出迎えてほしいのに、それぞれ検温中。座ったまま遠くから、「マーくんもお母さんがいいのよね~~」と冷ややかな一言。わが子はますます保育室への入室を拒んだりする。
夏などは、家では平熱だったのに、兄の保育所に行き、そしてその弟の保育所に辿り着いたら、何と37度5分!になっていたりする。特に風邪を引いている訳でもなく、元気なので、「今日は、どうしても休む訳にはいかなくて・・・このまま午前中だけでも様子、見ていてもらえませんか?・・・」とおずおず頼んでみるのだったが、「規則は規則」。泣く泣く家に帰ったら、子どもはケロリとして遊び始めたり・・・。
公立保育所での「0歳児保育」・・・行政も保母・保育者も手探りだったのだろうとは思うけれど、この保育所の対応はやはりあまりにも酷かったと思う。
ある朝、いつものように「さあ~保育園に行くよ~」と子どもたちを自転車の前と後ろに振り分けて乗せようとすると、次男がぐずり始めた。「どうしたの、マーくん!さぁ行くよ~」と元気な声で抱き上げるや、身をよじって泣き始めた。保育園がイヤなんだ・・・お兄ちゃんは、お友だちと会うのが嬉しくて仕方ないのに・・・困ったな・・
その時だったか、たまたまお義姉さんが通りかかった。いろいろ気を遣っていた義姉だったが、この時は本当に嬉しかった。助け舟を出してくれると思ったからだ。
ところが、義姉は、「マーくんは、保育園がイヤなんだね・・・カワイソウに・・・」と言っただけだった。「そんなにイヤなんだったら、今日は私が見ててあげるよ」という一言を期待したのに・・・。その後はどうしたのだったか・・・記憶はあまり定かではないが、その日はやっぱり休む訳にはいかなかったから、おそらく下の子はオンブして、自転車で登園して・・・道々、なだめたり、あやしたり、「今日は、はや~くお迎えに行くからね。お母さん、約束するから・・・」とか、子どもに分かろうが分からなかろうが、ともかく必死で頼み込んだのではなかったか。
その後、小学生や中学生の「不登校」を見聞きするようになってきたが、「0歳児の登園拒否」は、当たり前ながら、私も初めての体験だった。しばらく悩んで、あの手この手で凌ぎながら、ともかく兄と一緒の保育所に入れるまでの厳しい1年間だった。
「お宅のマーくん、言葉がなかなか出てきませんね。もっとお家でも語りかけて下さいね」、「お家で絵本など、読んでいますか?お母さんもお忙しいと思いますが、たまには絵本も読んであげてくださいね」・・・お迎えの時に保母さんに言われた言葉。私は何も答える気にはならなかった。家では、兄よりもお喋り(単語ばかりだが・・・)になっていたし、毎晩、お気に入りの絵本を読んでいたのだが・・・そう思いつつ、妙正寺川の橋の上を渡る時、なぜか涙が溢れて来て、しばらく止まらなかった。
そう言えば、そんな苦労や悔しさや、しんどさを、私は、夫(子どもたちの父親)に伝えたのだったろうか・・・。時たま、早く帰って来た時は、父子してはしゃいで遊んでいたし、周りからは、「やさしいお父さん」と言われ、「喧嘩もしない夫婦」と言われていたのだったが・・・。(続)
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