民主主義・市場制度・グローバリゼーションについての考察メモ ――M・ウェーバーの「ロシア革命論」を手がかりに
- 2022年 12月 13日
- スタディルーム
- 野上俊明
それほど昔のことではない、2008年のリーマンショックのころまでは、新興国中国を先頭に発展途上国における経済開発が成功し、年間可処分所得が100万円から300万円ほどになる中間層が人口の過半を超えて厚く形成されれば、それらの国は彼らを担い手として民主主義への志向性―言論の自由、人権尊重、公明正大な普通選挙、説明責任、法の支配など―を強めて権威主義体制から脱却するであろうとよく語られたものである。以来十数年、中国や東南アジアの諸国は伸び率に鈍化傾向があるものの、依然経済成長の軌道を走っており、世界の経済圏で最も将来性が見込まれていることに変わりはない。
しかしその一方、近年どの国も期待された民主主義、開かれた社会への方向ではなく、権威主義体制や独裁強化の方向に回帰しつつあるようである。世界最大の民主国家といわれてきたインドは、モディ政権のもと世俗的な多文化国家からヒンドゥー至上主義国家へと変化しつつある。タイとミャンマーにおける軍部クーデタによる民主主義体制の転覆、ラオス・カンボジア・ベトナムの事実上の一党支配と言論弾圧の強化など、普通選挙権や複数政党制は建前だけで、民意による指導者交代のルールも空洞化してきている。
この権威主義回帰の要因をつきとめてその趨勢に歯止めをかけ、民主化へのモメンタムを取り戻すべく何をなすべきか。そのためには様々な視角からの分析が必要であろう。そのひとつが、1990年代から世界を席巻した新自由主義的なグローバリゼーションが、一国内にもたらした政治・経済・社会構造の変化と、それへの諸階級階層の変動や反作用という側面から、変化の特質を見てとろうとする視角である。グローバリゼーションの結果、金融資本の国際化と情報通信技術の発展(デジタル化)に主導され、世界交易が拡大し、多国籍企業の発展途上国への直接投資やODAによるインフラ整備が進み、製造業のサプライチェーンやバリューチェーンが形成されて、世界の経済規模が飛躍的に増大し、かつ経済的な相互依存関係はかつてなく高まり、地域的な経済統合の動きも強まった。そして欧米型の政治経済システムの導入に合わせ、国内で国際基準に合わせた法制や官僚機構が整備された。そのおかげで中国をはじめ世界の貧困率は大幅に改善されるとともに、巨大都市圏が形成されて 都市中産階級は増大した。
しかし他方で、グローバリゼーションは、アメリカに典型的あらわれたように国内産業の空洞化をもたらし、移民労働者の増大とも相まって、先進諸国の中産的労働者層の没落をもたらした。欧米各国でのナショナリズムの風潮の強まりは、端的には移民労働者の増大による賃金低下と雇用喪失への、この中産的労働者層の反発反感によって生み出された。一国内においてはグローバリゼーションの受益層とそうでない層との貧富の差はかつてなく拡大してきている。
また新自由主義的なグローバル化の特質は、先進国というかアメリカ本位の文化的な同質化平準化を伴うものであるがゆえに、その受益層においてもナショナルな反発を引き起こしており、ましてや経済開発から取り残された社会層において過激な反作用を引き起こしている。文化的な同質化への反発は、アイデンティティ喪失の危機感と重なって、対抗文化としての宗教的ナショナリズムの燃焼となって現象している。たとえば、ミャンマーにおける過激仏教僧侶が先導する、反ロヒンギャ、反イスラムの運動は、植民地時代からの因縁もあり、きわめて可燃性が高く、ジェノサイドの危険性すら秘めている。
フランス革命に端的にみられるように、封建的大土地所有の解体と私有制度の確立は、市民革命の不可欠の要件をなしていた。東アジアの諸国―日本、台湾、韓国、中国―が、工業化に成功したのも、ひとつには戦後まがりなりにも農地改革を経験したからであった。農地改革による自作農創出と農業生産力の増大は国内市場の内包を拡大させ、工業部門との応答関係を確立するのに資するものであった。それに対し、農地改革を経験しないか失敗した東南アジア諸国は、典型的にはタイやフィリピンにみられるごとく、都市と農村の対立を解消できないでいる。農村と工業化した都市部との貧富の差が解消できず、間歇的に先鋭な階級闘争へと発展する。そのため軍事部門は肥大化し、軍事政権(junta)がしぶとく生き残る要因になっている。さらに商品経済の農村部への浸透は、宗教的なエートスと深く結びついた共同体の互助関係を解体するがゆえに、人々のこころに深い怨嗟の感情を内在させる。宗教的ナショナリズムや原理主義への回帰現象を引き起こす火種は、グローバリゼーションそのものがもたらしたものに相違ない。※
※とくにイスラム国家においては、反発は激しいものがある。本年12月インドネシアでは、刑法改正で婚前の性交渉や同棲を罰する法律を議会は全会派一致で可決した。外国人居住者や旅行者にも適用され、最長1年の禁錮刑などに問われる可能性がある。観光業に打撃を与えることが危惧されているが、売国的行為(prostitution)は黙認できないとする世論の一致があるのであろう。
以上のことを念頭において、経済開発がナショナリズムや権威主義に回帰せず、民主主義の方向へと向かわせる条件を改めて考えてみたい。それを考える手がかりを求めて、筆者はウェーバーの「ロシア革命論」(福村書店1969年)―新訳「ロシア革命論Ⅰ・Ⅱ」(名古屋大学出版会 1999年)がある―を何十年かぶりで紐解いてみた。ただし「ロシア革命」といっても、この書はかの有名な、1917年のボリシェビキ革命についての論評ではなく、1905年の第一次ロシア革命についてのものである。私が今回再読して特に関心をかき立てられたのは、ロシア革命に関連してウェーバーが資本主義と民主主義との関連性について論じた箇所である。それはまさしく前資本主義体制からの資本主義化していく際の市民的民主主義実現の可能性、さらには成熟資本主義(グローバル化資本主義や大衆社会化状況)とリベラル・デモクラシーの後退との関連という、まさに今日的な課題と重複する。
ウェーバーは、第一次ロシア革命を追跡しつつ、市民的自由主義の担い手となる勢力を事態の展開のなかに析出しようとした※。そのことを主題とする論文「ロシアにおける市民的民主主義の状態について」(Zur Lage der bürgerlichen Demokratie in Russland,1906)から、とくに資本主義的な経済関係の形成と民主主義との関係について述べた箇所を取り出して、その理論展開を追ってみよう。(以下、旧訳P.78 ~83「高度資本主義の作用」という小見出しのついた節/新訳p.135)
※M・ウェーバーは、ロシアの1905年第一次革命に多大な関心を寄せ、数週間でロシア語をマスターして(!)、報道に注意を凝らし関連の政治資料に精力的に目を通していたという。激動の政治情勢にあって、ツァ―リ専制に反旗を翻した政治勢力のなかでウェーバーが期待を寄せていたのは、1905年成立したブルジョア階級の自由主義分派であるカデット党(立憲民主党)であった。彼らはゼムストボ(地方自治機関)の立憲派議員の組織「ゼムストボ立憲派同盟」と、ペテロブルクで結成された自由主義知識人グループ「解放同盟」とが合同してできた組織で、立憲君主制を掲げ、大土地所有者からの土地収用にあたっても「有償方式」を唱えていた。ナロードニキ派やレーニンらの社会民主主義者(共産主義者)とちがって、親英仏であり、市民社会や法治国家の概念を重視したという。
――この自然法的な公理(たとえば人権思想―筆者N)は、社会的及び経済的綱領に対して、一義的な指示を与えるわけではないが、それと同様に、それ自身も何らかの―少なくとも「近代的な」―経済的諸条件のみによって一義的に生み出されるものでは絶対ない。(下線はN)
▼N の注釈=下線部は、政治思想的な上部構造を経済的な土台に還元するものとウェーバーが理解している、唯物史観の方法に対する批判を含意しているものと思われる。資本主義的な経済制度の成立は、民主主義的な諸価値を自動的に生むものではないというのである。
――「個人主義的な」最高の価値のための闘い、その実現は経済発展と同一歩調で進むものではない
――物質的利害の法則的作用と、個人主義や民主主義の可能性はむしろ反対方向である。・・・物質的利害は、むしろ権威や貴族主義を新たに生み出す方向に働く。
――高度資本主義と民主主義が親和性をもつと考えることは笑うべきことである。むしろ高度資本主義の支配下で民主主義や人権価値がいかにしたら永続できるかが問われている。
▼N の注釈=「高度」資本主義としたところに注意。ウェーバーは資本主義の変容を考慮しているのであろう。資本主義の成熟化の結果である大衆社会の出現や官僚制度の発達は、むしろ政治的アパシーを生み出し、新たな権威主義やデマゴーグ政治を生み出す危険性があるとする。たとえば、我々の世代にはなつかしいマルクーゼの高度資本主義批判とオーバーラップする。
そしてウェーバーは、民主主義が生き残るための条件について次のように述べる。
――羊の群れのように支配されたくないという、国民の断乎たる意志が背後に存在している場合のみである。・・・我々が「個人主義者」であり、「民主的な」制度の徹底した擁護者であるのは、まさに物質的状況の「流れに抗して」なのである。(下線はN、以下同じ)
こう述べて、ウェーバーは民主主義的諸価値の歴史的な生成の一回切りの条件を次のように総括する。
――近代的「自由」の歴史的発展は、その前提として唯一の繰り返しのきかない状況をもっていた。
▼Nの注釈=ウェーバーは、資本主義の発達と民主主義的な諸価値の並行展開を生んだ条件は、西欧のみに現れた一回切りの文化事情であったとする。「宗教社会学論集・序言」で概説されているように、西欧のみで成立した都市市民を担い手とする合理的な生活態度と経済活動、それを支えるプロテスタンティズムの信仰に由来するエートスが、上述の並行展開を可能ならしめたのであり、それは世界史的にみても一回限りのきわめてまれなる文化現象だったというのである。
しかし一回切りの条件だったということは、市場経済の発達と民主主義との並行関係は、西欧以外のところでは成立不可能であることを意味するわけではない。いったんそういう並行関係が生まれた以上は、西欧以外の諸地域でも模倣可能であり、国民福祉に最大限寄与する国民経済を生み出すためにはそういう文化モデルは、当該地域の特性による変更を加えたうえで、積極的に導入する価値があるということである。
――西欧特有の一回限りの諸条件とは
1.海を越えての拡大―つまり大航海時代に現れた、冒険精神による西欧の地球規模の植民地拡大のことか(N)
2.西欧における「初期資本主義」の時代の経済的社会的な独自の構造―封建的大土地所有の解体とヨーマンリーなどの自由な小商品生産者の出現のことか(N)
3.科学による生活の征服、すなわち「精神の覚醒」―「今日の営利的経済活動の条件のもとでは、その合理化の一般的作用といえば、生産の『規格化』(標準化)によって、外的な生産様式を画一化することである。こうして『科学』は今ではそれだけでは『人格の普遍性』を創り出すわけではない」
▼Nの注釈=啓蒙的理性信仰にもとづく近代の科学革命が、人間精神やその価値体系の革新に寄与したのは当初のみ、その後は科学の「合理的形成作用」は、外的な生活の改造(経済的効率性や生活の利便性の向上等)に関わるだけになったとウェーバーはいう。そればかりか、資本主義の発達のともなう近代の合理化過程は、いわゆる魔術からの解放(Entzauberung、魔術=自然現象であれ社会現象であれ、それらの原因を彼岸的超自然的な力の作用とみなすーN)を西欧社会にもたらしたが、その発展の終局において逆説的に再魔術化として作用してきたと、ウェーバーは述べる。ガリレオやニュートンによって確立された物理学的世界像が規準となり、主観的な攪乱的要素を排除し、世界を対象化(客観化)して数学的計算と予測可能性に基づいて合理的に設計し改造し支配することによって、人類は類として完成に近づいていく(カント)とみなされた。しかしウェーバーによれば、科学と技術による合理化過程は、政治経済社会の全分野にわたり不可避的に官僚制化をもたらし、その結果人々は官僚機構の「鉄の檻」に閉じ込められ、自由ならざる隷従の状態にあるにもかかわらず、主観的には自分自身は文明の頂点に立っているとうぬぼれる悲劇的状況にあるとする。合理化の果てに出来した非合理的非人間的状況は、マルクスが商品化社会、資本主義社会に特有な倒錯視としての物象化(Versachlichung)と名づけた疎外現象と親近性がある。
4.一定の宗教的な思惟の世界の具体的歴史的特性から生まれた、特定の理念的世界観。・・・経済的「ゲゼルシャフト化」が、それだけで内面的な「自由な」人格の発展か、それとも「利他主義的な」理念の発展を育むに違いないという可能性はつゆほどもない。
▼Nの注釈=商品生産という経済的な土台が、自動的にリベラルでデモクラティックなエートスを生むわけではない。ウェーバーは、プロテスタンティズムの宗教倫理―禁欲的な労働倫理―と初期資本主義の精神の強い親和性を主張した。よちよち歩きの資本主義創成期にあって、資本の本源的な蓄積を後押ししたのがカルヴィニズムの職業倫理だったというのである。いや、その宗教倫理は経済的なエートスのみならず、良心の自由や人権概念などと、それに立脚する政治的個人主義を生み、市民革命を後押ししたとする。
この箇所でウェーバーは、ドイツの社会民主党の在り方―この世の天国を教示するやり方、大衆を教義や党の権威で服従させるやり方、効果のない大衆ストライキに駆り立てるやり方等を厳しく批判している。ウェーバーの批判は、むしろ戦後の各国の共産党の在り方にあてはまるのではないか。バラ色の共産主義像、集団的な党教育や指導部の権威主義等々。それはともかく、ウェーバーの危機意識はつのり、「経済的精神的革命のために残された時間あまりない、この2,30年のうちに、もしそれらによって、―それらによってのみ――自主性をもった広範な大衆の個人主義が、『譲り渡せない』人格と自由の領域として獲得されないとしたらとしたら、・・・もはやだれにおいても獲得されないであろう」と断言する。
イギリスのH・J・ラスキも「資本主義社会と民主的国家形態との結合は絶対的ではない」(「国家-理論と現実」、1952年)と述べたが、 ウェーバーの方がドイツの深刻さを認識するだけに、民主主義に対する危機意識において勝っているようである。この2、30年のうちに経済的精神的革命のための担い手が形成されなければ、民主主義は危急存亡の危機に立つと予言した。たしかに20年後、予言通り1933年1月、ヒトラーが政権を獲ってワイマール体制は崩壊し、恐るべきナチ体制が誕生したのである。
▼N の補論(1)――ヘーゲルが「歴史哲学」において展開した中国論は、エドワード・サイードによるオリエンタリズムの典型例であり、東洋に対する西洋の優越性を誇示するヨーロッパ中心史観だとして批判されてきた。しかし19世紀初頭までの中国文献を考察して判断しているがゆえに、現代中国に充てはまらなくなっている点もあろうが、しかし筆者には妥当に思われる部分が多い。以下(「歴史哲学講義」上、岩波文庫p.202)
――「国家の全体に主体性の要素が欠如している」、「中国には主体性という要素がいまだ存在せず、個人の意思を食い尽くす共同体権力に対抗して、個人が自分の意思を自覚することもなければ、自分の自由意志に基づいて、共同体権力の正当性を認めることもない」、「中国には本当の意味での信仰がない。信仰は外的権威からの離脱と内面的な自立を必要とする」、「宗教は精神の内面性にかかわるもの」「本当の信仰は、個人が外部から押し寄せる権力を振り切って内面的に自立したとき、はじめて可能になる」、「家父長的な権威主義社会では、個人の自律や決断は必要としない―皇帝は国家元首であるとともに、宗教的リーダー。中国の宗教は国家宗教であり、権威と権力が一体化している」、「中国では、実体のある個の自己意識として存在するのは、権力者としての皇帝だけ」
中国人においては内的自律的なモラル形成に欠けるとするヘーゲルの見地は、ルース・ベネディクトが日本文化の特徴とした「恥の文化」によく似ている(「菊と刀」)。外面を気にし、面子を重んじる文化。同じことがプーチン独裁下でのロシア人についてもいえる。自己犠牲的な国家への奉仕者と言えば聞こえはいいが、国のためなら仕方がないという従順なる意識で唯々諾々と死地に赴く青年たち。たしかアンドレ・ジッドが「ソヴィエト紀行」(1936年)で「コンフォルミスム(大勢順応)」という言葉で指摘していたのではなかったか。ロシア革命から100年余、スプートニクは飛ばせても、ロシアという国はまっとうな市民社会も市民意識も育てることができなかったことの悲劇を思う。
▼N の補論(2)――西欧における民主主義や自由概念の形成については、ウェーバー「経済と社会 都市の類型学」が参考になる。以下の摘要は、西欧のみに生じた自治的都市についての論述である。
アジアにおいては、中国のように宗族的縛りが強かったり、インドのようにカーストによる差別、排他性が強かったりして、市民としての共同意識や団結が育たず、社団法人としての都市共同体の成立が妨げられた。日本にはギルド(株仲間)のような職業団体や「町奉行」のような執行機関はあっても、都市自体としての自治機能はなかった。総じて行政機能への住民参加を担保する都市市民権は存在しなかった。
古代ギリシアにおいて、シーパワーとしてのアテネとランドパワーとしてのスパルタといった差異はあるものの、都市市民としての権利を有する都市共同体成立。地中海交易の発達は、貨幣経済を発達させて氏族社会的拘束を緩和させ、都市国家内に市民社会を発達させた。
特にアテネにおける民主制の基礎をつくったのは、前594年「ソロンの改革」である。債務による平民(市民・農民)の没落と貴族の富裕化からくる貧富の差の拡大を阻止すべく、貴族に債権の放棄も求め、富の再配分を行なって市民層の経済的安定化を図り、市民全員参加の民主制の基礎を作った。それは前508年のクレイステネスの改革に引き継がれ、アテネの民主制はここに全面開花することになる。つまりアテネの民主制を支えたのは、経済的に貧富の格差があまりない市民層だったことから、民主主義の条件として経済的な平等状態を強調してもよいであろう。完全市民権を有する自由民としてのデーモス(平民)が、都市国家の支配権を握ったのである(デーモスの支配=デモクラシー)。
またアテネでは市の中心に「アゴラ」とよばれる広場があり、そこに市場、神殿、公共建築物などが集積していて、人々が集い会話したり議論したりした。古代ローマでは「フォルム」という広場があり、そこで市場、民会、裁判が行われる。つまり都市の政治的、経済的、社会的機能を果たす公共空間としての広場の存在が、民主主義の都市構造的条件だったといえる。
中世都市―東洋都市が氏族的制約まぬがれず宗教的排他性克服できなかったのに対し、中世西欧都市は兄弟的盟約によって成立するコンミューヌ(宣誓共同体)だった。市民は個人として宣誓を行って市民団に加入し、社団法人としての都市の一員となる。(例外はユダヤ人。ユダヤ人は非ユダヤ人との通婚を禁止しており、聖餐を共にしないので、兄弟盟約結べなかった)こうした市民共同体形成の経験から、ひとつの共通の利益を守るために自由意志にもとづいて団体を結成することに熟達することになる。アレクシス・トクヴィルが、アメリカ人の際立った能力のひとつとした、課題に応じて易々とグループやチームを結成し、問題解決にあたる組織化能力は、中世都市の経験に由来したというわけである。
▼N の補論(3)<レーニンとウェーバー>
ロシアにおいては資本主義の発達にともない労働者階級が形成されていくのでラジカル・デモクラシーが、また農村共産主義(オプシチーナ)に依拠するナロードニキ系譜の社会革命派が、今後主導権を握っていくであろうという見通しにおいて、レーニンとウェーバーは一致していた。しかしウェーバーは、農村共産主義は、近代的な意識とは異なる家父長制と一体のものと考えていたので、そこに進歩的な意義は認めなかったようである。ウェーバーは、レーニン的ラジカリズムの方向性は「下士官の独裁」=「人民専制」で実質的に「ツァーリ専制」と変わらない権威主義国家化を招くであろうと予測していた。そのうえでレーニンでもなく、社会革命派でもないリベラル・デモクラシー=市民的民主主義の可能性をロシア革命のなかに追究するというのが、ウェーバーの立場であった―ウェーバーが期待したカデット(立憲民主党)は1917年の2月革命以後、臨時政府の中枢にいたが、10月革命以後はボリシェビキと対立し、革命反対派に回った。
先般話題を呼んだ、斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズムに転じたマルクス」という仮説。斎藤によれば、最晩年のマルクスは、ナロードニキ派のザースリッチの問題提起を受けて、農村共同体であるオプシチーナ(ミール)という(封建的形態でもない)前資本主義的社会形態から資本主義を経ないで一気に社会主義へ到達する道筋の可能性に前向きだったとする。もちろんこれはマルクスが「資本論」第一巻初版の序言で述べていたことと明らかに異なる立論である。
「一国民は他の国民から学ばねばならないし、また学ぶことができる。たとえある社会が、その社会の運動の自然法則の手がかりをつかんだとしても―そして近代社会の経済的運動法則を暴露することが本著書の最終目的である―その社会は、自然的な発展段階を跳び越えることも、それらを法令で取り除くこともできない。しかしその社会は、生みの苦しみを短くし、和らげることはできる」(下線はN)
筆者は、斎藤氏の仮説には同意できない。マルクスは発展段階説、つまり進歩史観を完全に捨てて、脱成長派になったとするが、これは行き過ぎの解釈ではなかろうか。斎藤氏は、地球環境危機に際し、「コモン」―水、大気、土地、エネルギーなど第一次的なものから、電力、交通、上下水道、住居、医療、教育などの第二次的なものに至るまで―の重要性を強調し、それを市場の論理から解放し、みなの共有財産として自分たちで管理するシステム構築の緊急性を訴える。そして緊急であるがゆえに、前資本主義的な社会形態から一足飛びに社会主義へ行く可能性に飛びついたのではないか。筆者は斎藤氏と危機意識を共有するものであるが、ソ連邦の歴史を少したどるだけでも、一足飛びの無理さ加減が分かろうというものである。
ザースリッチ=社会革命派は、総じて「土地社会化」をスローガンとして、私的土地所有の廃止と共同体による管理への移行、勤労基準に基づく土地収益の均等分配の実施、協同組合の発展を目指していた。なるほどこのプログラムは、社会経済構造上は社会主義のマルクス的構想とよく似ているが、しかし問題は、社会革命派のプログラムには自由の契機が決定的に欠けているということである。もともと家父長的共産主義、自給自足的村落共産主義という閉鎖性的色彩の濃いオプシチーナにおいては、上位団体が個々人に対し絶対的な主権を持っており、上からの警察によって支配する村落共同体という性格が強かったとウェーバーはいう。そこには社会主義のメルクマールたる自由な諸個人とアソシエーションという契機が欠けており、西欧型社会主義とは似て非なるものと言わざるを得ないのである。かつてのコルホーズや人民公社が惨憺たる結果に終わったことも傍証にはなるであろう。
斎藤氏は、マルクスの理論形成史を三つの段階に分け、ロンドンに亡命するまでを「生産力至上主義」、資本論第一巻執筆期を「エコ社会主義」と命名しているが、恣意的な感を免れないように思う。今詳述する用意がないが、マルクスの生産力概念を昨今のGDP主義と同列に扱っているのは理解不足と言わざるをえない。社会主義は高い生産力を前提にする。それなしでは貧困の平準化に帰結するからである。しかし重要なのは、マルクスが指摘したように、最大の生産力はモノではなく、人間自身であることである。個性的で、創造性と進取の気風に富んだ人間、市民社会が蓄積してきた科学技術、文化、コミュニティの多様さをわがものとした人間こそが、富そのものである。世界の富を人間的富に変えること、このソフトな富は、ハードな富と違って上限がないのである。
50年ほど前、みなではないにせよ、われわれ学生活動家の多くは、「ロシアにおける資本主義の発展」からロシアにおける労働者革命の可能的条件を導き出したレーニンに躊躇なく追随し、スターリン主義という横道に逸れることはあったにせよ、ボリシェビキ革命の事業の延長線上に資本主義の克服という現代社会の変革を夢見ていた。しかしウクライナ侵略戦争に狂奔するロシアの惨状(プーチン独裁と大衆の受動性)※や覇権主義国家(レーニン的定義でいえば、共産党独裁の下での国家資本主義の隆盛)として台頭しつつある中国をみたとき、レーニンの事業は人類史の大道を行くものではなかったと断じざるをえない。突出した前衛党の指導によって、社会主義革命を市民社会とリベラル・デモクラシーなきロシアの後進的条件の下で果たそうとしたことにそもそも無理があったのではないか。議会制民主主義はじめとするリベラル・デモクラシーを廃棄して、立法権と執行権を一本化したソビエト型国家、直接民主主義に依拠するコンミューン型国家をあるべき未来社会とした構想に難があったのではないか。ソビエト型国家においては権力の分立も議会における階級的な利害調整も不要だとするレーニンの見解は、今日から振り返ると、一社会における諸階級の構成と対立、一階級内部における利害の多様性も無視した暴論であった。レーニンがもう少し長生きし、ソ連邦の舵取りをしていれば、もちろん大いなる修正をしたであろう。しかしそういう含みをもたせても、なおレーニンの社会主義への歴史的距離感、目測の誤りは歴然としている。繰り返しになるが、ロシアは革命から100年以上たっても、まっとうな市民社会も市民意識も育てられなかった。ロシアの後進的風土に規定されて、レーニンの革命がそういうものを社会主義革命成就の不可欠の要素として含んでいなかった結果であろう。
※戦争にどちらの陣営に大義があるのかは、その戦争の仕方を見れば一番よくわかる。戦争に至る因果関係の連鎖をたどるだけでは、どっちもどっち論に陥りかねない。アメリカのベトナム戦争は、ソンミ村虐殺事件に典型なように汚い戦争だった。かれらの戦争理論に無理があったこと、そのために現場の兵士は無理押しををせざるを得なかったのだ。同じように、ロシア軍がウクライナで展開する軍事作戦の非道さは、彼らの戦争に大義がないことをよく表している。
中国とロシア―「アジア的専制」の影を引きずり、先進諸国の人々には脅威にこそ映れ、少しの魅力も感じさせない両国である。もちろん1930年代にコミンテルンの教条とは手を切って、中国はみずからの置かれた条件に適合する戦略を組み立て、革命と反帝国主義の闘いで勝利を収めた国である。共産党の一党独裁と高度の資本主義化を組み合わせたところにも、この国がロシアとはちがい数千年の歴史を持った文明国としての独自性・独創性を働かせていることがわかる。しかしそれでもなお市民社会のきわめて脆弱な伝統を克服しきれず、それがために習い性になった上からの権威主義の強化によって、諸矛盾を克服しようとしている。ヘーゲルやウェーバーのリベラリズムからする中国やロシア批判は、日本も含め非西欧社会が近代化するに際して何を忘れてはならないかを示している。中国の存在は大きい、ベトナムはじめ東南アジア諸国の国づくりの軌道に大きな影響を及ぼすであろう故、中国共産党が市民社会と共存できる統治体制づくりに乗り出し、模範を示せるかどうかが歴史の岐路となるであろう。
※「市民社会」―李妍焱「中国の市民社会」(岩波新書 2012)には、市民社会の定義がエドワーズを援用してまとめられている(p.5)。誤解を恐れず単純化していえば、20世紀末以降強調されるようになったのは、「公共圏としての市民社会」であり、様々な問題について、人々が自在自発的に参加し、相互にコミュニケーションを取り交わし、問題の解決を図っていく自由な社会空間を意味している。市民社会の歴史に乏しい非欧米社会にとって、市民社会は実態概念というより、方法概念、規範概念と言った方がいいのかもしれない。実態概念という意味では、近年、市民社会は一国的な枠組みのうちにあるだけではなく。人権や環境問題を通じて国際連帯の共通の領域を指し示すものとなっている―国際NGOらの活動。
マルクス主義の系譜においての市民社会概念の扱いは、両義的である。若きマルクス・エンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」においては、A・スミスらを継承して市民社会を「歴史のかまど」、つまり歴史を動かす動力源として捉えている。「市民社会は、生産諸力の一定の発展段階の内部での諸個人の物質的交通の全体を包括する」(新編輯版 ドイツ・イデオロギー p.200 岩波文庫)とあり、いわゆる歴史貫通的な経済的な土台とみなしている。そのうえで市民社会としての市民社会を、ブルジョアジーの支配する資本制生産社会と特定してもいる。これが市民社会のいわゆる正統派的理解であり、そこではブルジョアジーの支配する階級社会と等置されている。
しかしこうした理解に対し、旧構造改革派系やリベラル系の識者から、異論というか、新しい視角からする問題提起がなされた。既存の社会主義国家における経験―生産手段の社会的所有といいつつ、実態は国家所有であり、党と官僚による上からの統制と支配に帰結したことを踏まえ、西欧における市民自治の伝統を生かして、そのリベラルな諸価値を市民社会概念に繰り入れ、それを参照点にして社会主義の人間化を、あるいは高度資本主義の批判を展開しようとしたのである。
筆者としては、公共圏的市民社会論は現代の民主主義構築の上での重要性は認めつつ、社会の構造的な変革にはやや狭すぎる印象を持つ。やはりヘーゲルの国家―市民社会論の再検討が必要と思われる。
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〔study1240:221213〕
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