わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その11)
- 2023年 2月 3日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅶ Aさんとの暮らしと離婚後のゴタゴタ
(1)Aさんとの暮らし-生活能力と生活の中の美意識
私の離婚と離婚後の暮らしに、Aさんが関わって来るとは・・・当初はまったく考えてもいないことだった。
もともとAさんは、前回でも触れたが、夫の職場の同僚かつ友人だったが、電車の中で3人ぱったり出くわして以来、同じ西武新宿線沿線ということもあり、結構ちょくちょくわが家にやってくるようになっていた。夫とは、組合のことや職場の人間関係の事を話題にしていたが、夫が居ない日などは、Aさんは私相手に文学、とりわけいろいろな小説の話を持ち出した。職場の高校では「国語」担当、その頃は特に「古典」を受け持っていたようだが、わが家では、堀田善衛や野間宏など戦後直後の作家だったり、開高健や安部公房、時には北杜夫の「どくとるまんぼう航海記」など、ここが面白い・・・と読み上げたりしていた。後から思えば、私は勝手に面白がっていただけだけれど、Aさんからは、かなり親近感を持たれていたのかもしれない。
私が夫の子ではない子を孕んでいたこと、それを誰よりもいち早く知ってしまったAさん。私が夫と離婚する意思があることを漏らしたのもAさんにだったし、「夫との生活のやり直し」と「離婚」との間の揺れ動きに、長々と付き合ってくれたのもAさんだった。そして、本当に離婚の手続きに入った頃、生まれたばかりの三男を「一緒に育てましょう!」と言ってくれたAさん。先行きの見えない次の人生への旅立ちに、私も思わずAさんの手を握ってしまったのだろう。
ただし、Aさんと私の暮らしは、少々変則だった。Aさんはいわゆる「夫婦同姓」を強いる世間的な結婚には批判的だった(また、「経済力」ゆえに、女の人もAさんを敬遠していたようだ)。私も、「大学院奨学金」をもらうために、一度は方便として「結婚」を選んだけれど、離婚した今、とりわけ法律婚を選ぶ理由も気持ちもなかった。「同棲=事実婚」で一向に構わない。
しかし、Aさんとは、「同棲」という形にもならなかった。なぜなら、彼には母親と住んでいた一戸建ての家があったからだ。西武新宿線で、3つ4つ先の駅だった。
夕方、三男Mを保育園に迎えに行って、夕飯の用意をして食べて、Mをお風呂に入れて寝かせて・・・そうしてその後しばらく二人の束の間の時間を過ごした後、彼は電車の動いている間にサヨナラをして、自分の家に帰って行った。
「そう言えば、これって〝通い婚”だね!」と言って、二人で笑ったものだ。
いま一つ、Aさんとペアを組んだ暮らしで、私が驚いたのは、Aさんの「家事能力」と「生活での美意識」だった。
Aさんは、母親が亡くなった後は一人暮らし。稼ぎは私立高校の非常勤講師、3日出勤だけなので、たかが知れている。おそらく一人暮らしでも、金銭的にはカツカツだったのではないだろうか。だが、昔はそこそこ裕福だったのか、本人も器用だったからか、作ること(料理も小さな家具なども)は得意だった。パンやチーズも、結構銘柄に凝ったし、料理も、ロールキャベツやポトフなど楽しんでいた。その他、お金がないので買うことはできなかったが、家具や食器なども、街を歩いている時に目ざとく見つけて、「ほ~、これはいいな~」と惚れ惚れと眺めたりもしていた。
そういうAさんだったから、彼が仕事の無い日は夕飯担当になったし、洗濯も台所の片づけも、手が空いている方がこなせばよかった。
そして何より助かったのは、さまざまな下準備や配慮などナシで、一泊研修に出かけられるようになったことだ。他の女性教員は、夫に一泊の間の子どもの世話を頼むために、食事は全部作って冷蔵庫や冷凍庫に入れ、さまざまなお願い事を書いて冷蔵庫に貼りつけてくるのだとか・・・中には、朝昼晩全部カレー・・・というので、お鍋一杯のカレーを作り置きして出てきた・・・という同僚もいたほどだ。
私の場合は、普通に「お願いしま~す」と言って出かければ良かった。もっとも、買い物のためのお金は私が置いて行ったのだが・・・。
離婚前の夫との暮らしとは、本当に雲泥の差だった。男も女も当たり前に「生活人」であること、それがどんなにお互いを自由にすることか・・・Aさんとの暮らしで、改めて痛感させられたことである。
(2)離婚後の私の「姓」をめぐって
結婚すれば「夫婦同姓」・・・これは明治以来の「家」制度の風習であるが、21世紀の現在に至ってなお、日本の国では「夫婦別姓」への抵抗が強い。「姓」が違えば一体感が損なわれる・・というのであろう。
したがって、夫婦が離婚すれば、当然妻は生家に舞い戻る・・・という前提の下で、「旧姓」に復帰するのがまだまだ当たり前だった。これまた、「女」というのは、「社会の中に自分の生活場所を持ちえない、家に養われる者」という社会通念が根強かったからであろう。
ただし、戦後は、「男女平等」の思想も前提とされ、自分の職業を持つ女もそれほど珍しくなくなり、しかも「離婚」の後は、またまた姓を変えることの煩わしさや不便さゆえに、結婚していた時の姓のままでいたい・・・という要求も当然のように主張され始めていた。
私の離婚は、1977年6月。その段階で民法の「離婚による女の復姓」が一部修正されていたのかどうか、記憶も曖昧だし、民法の改訂の歴史を見てもよくは分からない。
最新の2020年4月改正版では、民法767条は次のようになっている。
1 婚姻によって氏を改めたる妻は、協議上の離婚によって婚姻前の氏に服する。
2 離婚の日から3カ月以内に戸籍法の定めるところにより、届け出ることによって
離婚の際に称していた氏を称することができる。
これを見ても、いま現在でも、離婚の際は妻は「復姓」が原則であることが分かる。
ただ、いずれにして、私は「子どもたちと同じ姓で生きて行きたい!」という思いから、「池田」に戻るよりも「伊藤」のままがいいと思っていた。
ところが、その手続きを具体的に考えたり調べたりする間もなく、お義姉さんから電話がかかってきた。あまりいい関係を保てたわけではないお義姉さんだったが、今回の「妊娠・出産」や離婚については、やはりひどく迷惑をかけることになった、と申し訳なく思っていた。しかも、夫の元に残してきた二人の子どもたちの世話その他、今まで以上にお義姉さんに頼ることになるのは明らかだったから、ただただ頭を下げるしかないと思っていたところだった。
それなのに、お義姉さんの第一声は、「あなたに〝伊藤”の姓は使ってほしくない!」というものだった。予想外だった。私が生きていく上での「姓」を、どうしてお義姉さんに禁止されなくてはならないのか。「伊藤」という姓は、むしろ今では、あちこちに見かける「普通」の姓ではないか。私は、一瞬ムッとしたが黙っていた。すると「これだけはお願いします!」と言ったきりガチャンと電話は切られた。・・・
呆然としながら、でも・・・お義姉さんにあのように言われたけれど、いいや、無視して、頑固に「伊藤」を使い続けよう!そう思って元気を取り戻そうとしたのだったが、ふと、「池田」の姓を口にし、「池田祥子」という名前を思い浮かべたら・・・なんだ、私って、昔から「池田祥子」だったじゃないか・・・途中で寄り道をして、また元に戻るだけだ・・・と、案外すっきりした気分になったから不思議である。そうだ、もうこれからは、ずっと「池田祥子」でいよう!・・・そう思ったのだった。ただ、伊藤の二人の子とは姓が違ってしまうが、それは自分が離婚を選んでしまったから・・・その責任を負うことはやはりやむを得ない事だ、と諦めることにした。
(3)三番目の子・Mをめぐっての父子鑑定
「普通に」結婚して、「普通に」子どもを生んでいれば、通常はなんら問題にもならないことが、私の場合は次々に困ったことになってしまう。つまり、世の中の婚姻の枠内からはみ出した結果なのだが・・・。
民法には、結婚した夫婦の「同姓」が決められていることはもはや言うまでもないが、いま一つ、772条には、結婚している夫婦の間に生まれた子どもは「夫の子」であり、すなわち「嫡出子」である、と定められている(772条1項)。ただし、再婚や離婚など、変則の事態のための「嫡出子」規定もある。それが、「婚姻成立後200日以内に生まれた子」と「離婚後300日以内に生まれた子」は原則、婚姻中の夫を父とするという規定である(772条の2項)。
大学時代に「民法」は履修していた私だが、なぜか「相続」が中心だったため、いわゆる「嫡出子」規定について、それまではまったく無知・無関心だった。
お義姉さんからの電話の数日後、今度は前の夫から電話がかかってきた。三番目の子どもMの「嫡出否認」をする、というのだ。「えっ、ちゃくしゅつひにん?」
その言葉の意味と、元の夫がやろうとしていたことが理解できたのはしばらく経ってからのことだった。
そういえば、三番目の子Mは、離婚をめぐるゴタゴタの後、「もう一度やり直そう!」と夫婦で決めた後に生まれて来た。それでそのまま出生届を出したので、元夫を父とする「三男」として記載されたのだった。けれど、再度、離婚することになったので元の夫が「私の子ではありません」という嫡出否認を行うことにした、というのだ。
今となれば、家庭裁判所とどういうやり取りがあったのか、記憶も定かではないが、今ほど遺伝子検査も精緻になっていなかった時代、大変な父子鑑定を強いられることになった。何でも裁判所から依頼されている大学の研究室だか付属の病院だったか、そこに生後4か月のMを連れて行き、必要な検査を行った。
当時の「父子鑑定」とは血液検査(血液型)、唾液検査、耳垢検査が主だった。それらの整合性と確率性を数字化した結果で判断するというのだ。何と原始的な手法だろう。
ところが、血液検査でMの血管から採血する時、看護婦(当時のママ)が若かったのか未熟だったのか、とにかく赤ん坊Mは大泣きをする。それでも押さえつけて採血しようとするので、私まで辛抱できず、「止めて下さい!こんな検査しなくても、私がこの子の父親を特定しているのに・・・止めて下さい!」と叫んでしまった。
まるで、映画の中のような、取り乱した愚かな母親の姿、だったのだろう。突然、担当の医師が「母親を外に出して!」と強く言い放つや、助手のような若い男子数人が私を強引に検査室の外に連れ出してしまった。
離婚した後に、元の夫が、「この子は私の子ではない」と言い、そして、元の妻(私)が、「はい、この子は元の夫の子ではありません」と言えば、すんなり解決する話ではないのか。・・・世の中というのは、やはり客観的な「証拠」が必要なのだ。一人の子どもの出生に、「父は誰か?」とここまで問われなければならない社会。日本の家族制度の枷(かせ)は、なかなかに厄介である。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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