世界のノンフィクション秀作を読む(1)ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(上) 人間の偉大と悲惨を叙述し、大きな感動をもたらす
- 2023年 4月 18日
- カルチャー
- 『夜と霧』ヴィクトール・フランクルノンフィクション横田 喬
「人間とはガス室を発明した存在だ。が、同時にガス室に入っても、毅然とした態度を保てる存在でもある」。ユダヤ人としてナチスの強制収容所生活を体験した医師Ⅴ・フランクルの著書『夜と霧』は、人間の偉大と悲惨を叙述。「言語を絶する感動」と評され、日本を始め世界的なロングセラーとなり、二十世紀中に六百万超の読者に読み継がれた。前世紀を代表する作品の概要を新版(みすず書房刊:池田香代子・訳)を基に紹介したい。
――以下に綴られる経験は、あの有名なアウシュヴィッツ強制収容所そのものに係るものではなく、その悪名高い支所にまつわるものだ。けれども今では、こうした小規模な収容所こそがいわゆる絶滅収容所だったことが知られている。ナチス親衛隊の下部機関として一般のユダヤ人囚人の監督に当たったカポーたち(ユダヤ人のうち暴力的で犯罪者的性向のある手合い)はナチスと心理的にも社会的にも同化し、彼らに加担した。
かのアウシュヴィッツ駅に千五百名を貨車一台に八十人ずつ、何日も昼夜ぶっ通しで移送。数㌔に及ぶ巨大な収容所。何重もの鉄条網・監視塔・サーチライト・・・。が、精神医学で言う「恩赦妄想」があり、私達も最後の瞬間まで事態の転換を信じた。私たちは男女別々に一列になり、長身痩躯の親衛隊将校の前へ。彼の直感的判断で、右は強制労働に、左は焼却炉の方へと選別され、約90㌫が先ず淘汰された。
司令官が嗄れ声で叫び、全員がホールへ集合。鞭を手にした親衛隊員が素っ裸になるように命令。我々は体中の毛という毛を剃られ、シャワー室へ追い立てられた。私たちは身ぐるみ剥がされたことを思い知る。居住棟の班長は、「脱腸帯にドルや貴金属を縫い込んでいる奴は、あの梁にぶら下げる」と上方を指し示した。
私たちは三段「ベッド」に寝かされた。一段は縦二㍍、幅二・五㍍。剥き出しの板敷きに九人が横になった。毛布は九人につき、二枚。私たちは横向きにびっしり体を押し付けあった。それでも、眠りは意識を奪い、状況の苦しさを忘れさせてくれた。収容ショック状態に留まっている者は死を全く恐れず、高圧電流が流れる鉄条網に触れることを厭わなかった。
被収容者はショックの第一段階から数日で、第二段階である感動の消滅段階へと移行する。内面がじわじわと死んでいったのだ。最たるものは、家に残してきた家族に会いたいという思いの抹殺。それは激しく被収容者を苛み、あらゆる醜悪なものへの嫌悪をもたらした。短期間、私は発疹チフス病棟に入った。仲間が一人、また一人と死んでいく。すると、何が起こるか。生き残りが一人、また一人と未だ温かい死体にわらわらと近づく。昼食のジャガイモの残りをせしめ、死体の木靴や上着を自分のと交換していた。ほどなく、毎日毎時殴られることにも、何も感じなくさせた。この不感無覚は被収容者の心をとっさに囲う盾なのだ。
我々は最悪の栄養不足に悩まされていた。最後の頃の食事は、日に一回与えられる水としか言えないようなスープと、ちっぽけなパン。それに20㌘のマーガリンか、粗悪なソーセージ一切れかチーズのかけら、スプーン一杯の代用蜂蜜が日替わり。この食事ではカロリーが全く不足し、私たちは骸骨が皮を被ったと同然に。居住棟の仲間はばたばた死んでいった。
第二段階、即ち収容所生活にどうにか適応した段階での我々を襲う本能は、栄養不足から食欲を意識の全面に押し出す一方、栄養不良は性欲がきれいさっぱり無くなったことも説明してくれるだろう。心理学者として注目すべきは、この男だけの集団生活の場では、初めのショックの段階を除けば「ホモセクシュアル行為」は見受けられなかった。被収容者は全くと言っていいほど性的な夢をみなかった。他方、精神分析で言う「手の届かないものへのあがき」、全身全霊を込めた愛への憧れなどの情動は、嫌というほど夢に出てきた。
殆どの被収容者は、風前の灯のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるを得なかった。被収容者が物事を判断する時に見せる徹底した非情さも、そこから説明がつく。が、二つだけ例外があり、それは政治と宗教への関心だった。人々は熱心に戦況などについて論じ合った。被収容者が宗教への関心に目覚めると、それはのっけから極めて深く、新入りの者はその宗教的感性の瑞々しさや深さに心打たれずにはいられなかった。
被収容者の中には、ほんの一握りではあるにせよ、内面的に深まる人々もいた。彼らはおぞましい世界から遠ざかり、精神の自由な世界、豊かな内面へと立ち戻る道が開けていた。繊細な被収容者の方が粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたという逆説も、成り立つ。
雪に足を取られ、氷に滑り、何キロもの道のりをやっとの思いで進んで行く間、私は時折、空を仰いだ。この瞬間、私の心はある人の面影に占められていた。私は妻と語っているような気がし、妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。眼差しで促し、励ますのが見えた。
人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に想いを凝らせば、ほんの一刻にせよ至福の境地になれるということを、私は理解したのだ。
資質に恵まれた者は、一心不乱に想像を駆使して繰り返し過去の体験に立ち返る。ありふれた体験やごく些細な出来事を、繰り返しなぞるのだ。そういう思いでは被収容者の心を晴れやかにするというよりは、悲哀で満たした。過去に目を向ける時、内面の生は独特の徴を帯びた。内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。
灰色の夜明けが辺りを包む。どんよりとした薄明に、雪も灰色だ。目前にある惨めな死に最後の抵抗を試みるうち、あなたは一面灰色の世界を魂が突き破るのを感じる。魂がこの惨めで無意味な世界の全てを超え、究極の意味を問うあなたの究極の問いかけに対し、遂にいずこからか、勝ち誇った「然り!」の歓喜の声が近づいてくる。光は暗黒に照る・・・。
居住棟が一棟片づけられ、木のベンチが運び込まれ、演目が案配される。夕方にはカポーや所内労働者が集合し、一刻笑い、或いは泣いて、一刻何かを忘れた。歌が数曲、詩が数編。
収容所生活を皮肉ったギャグ。全ては何かを忘れるためだ。収容所では芸術だけでなく、拍手喝采も報われた。私はこれによって、「人殺しカポー」に取り入ったことがある。
部外者にとって、収容所暮らしにはユーモアすらあったと言えば、驚くだろう。ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ほんの数秒間でも周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在に備わっている何かなのだ。ユーモアへの意思、物事を何とか洒落のめそうとする試みはいわばまやかしだ。が、それは生きるためのまやかしだ。
作業現場で、普通の受刑者の一団と一瞬接触した時、私たちがどれほど羨んだことか。同様に苦しい状況にあるとは言え、違いは歴然としていた。より規則正しく、安全で、衛生的な生活をしている彼ら。何日か置きかには風呂に入っているんだろうなあ、と考え、私たちはやるせない思いに打ちひしがれた。連中の特典を私たちは、とっくに失っている。
宵の口、横になる前に虱退治ができれば、私たちはもうそれだけで喜んだ。仮に空襲警報が鳴って急に灯りが消え、虱退治が中途半端に終わると、夜もおちおち眠れないのだ。積極的な悦びを味わった経験は、ほんの僅か。朝の五時、外は未だ真っ暗。私は病人として硬い板敷に横たわり、約七十人の仲間と「静養」していた。私たちは満足し、幸福ですらあった。
夜間シフトの労働中隊配属が決まった時、私の死は決まったと同然だった。が、医長がふらりと現れ、発疹チフス病棟に医師として志願するよう勧めた。どうせ死ぬなら、意味のある死に方をしたい。その軍医は志願した私たち二人に、移動するまで静養棟に居られるよう手を回してくれた。余りにも憔悴し切っていた二人は、すぐには使い物にならなかったのだ。
バイエルン地方の病囚収容所に移され、医師として働けるようになり、渇望していた孤独に時折、ほんの数分引き籠る幸福に預かった。掘っ立て小屋の発疹チフス病棟には約五十人の高熱にうかされ、譫妄状態にある仲間が横たわる。裏手に仮設テントが張られ、死体が毎日半ダースほど投げ込まれた。仕事の手が空くと、私は表に出、田園の風景に眺め入った。
収容所では、個々人の命の価値はとことん貶められた。それをしたたかに思い知らされるのは、病人移送の時だった。痩せ細った体が、二輪の荷車に無造作に積み上げられる。何キロも離れた他の収容所まで、他の被収容者たちにより吹雪を衝いて押していかれた。人間は被収容者番号を持っている限りにおいて意味があり、文字通り唯の番号なのだった。
病人収容所行きの二度目の移送団が編成され、リストには私の名もあった。これは、病人から最後の労働力を搾り取るための目眩ましなのか引っ掛けか、それともガス室行きか、あるいは本当に病人収容所行きなのか。もう、誰にも判断できなかった。私は仲のいい友人オットーに妻宛ての遺言を一語一語、無理やり暗記させ、翌日、移送団と共に出発した。
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