世界のノンフィクション秀作を読む(2)ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(下) 人間の偉大と悲惨を叙述し、大きな感動をもたらす
- 2023年 4月 19日
- カルチャー
- 『夜と霧』ヴィクトール・フランクルノンフィクション横田 喬
リルケは「やり尽くす」と言うように、「苦しみ尽くす」と言っている。私たちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。気持ちが萎え、時には涙することもあった。が、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気を持っていることの証だからだ。けれども、号泣したことがあると折に触れて告白する時、人は決まってばつが悪そうなのだ。ある時、私が一人の仲間に、「なぜ貴方の飢餓浮腫は消えたのでしょう?」と尋ねると、仲間はおどけて打ち明けた。「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・」
個人に対する精神的ケアは、命を救うための緊急「処置」として為されることもあった。自殺願望を口にするようになった二人の男がいた。「生きていることにもう何にも期待が持てない」。二人とも、そう言った。私は二人に対し、生きていれば、未来に彼らを待っている何かがある、ということを伝えることに成功した。
居住棟の班長の中に公正な人物がいた。模範的存在の直接の影響は、言葉より大きい。が、根拠を挙げて内的な共感を呼び覚ます時には、言葉も有効だった。私は集団に話をし、外的状況を伝えて一居住棟の全ての被収容者の心の準備をさせ、精神的ケアに役立てたことがある。私は詩人の「貴方が経験した事は、この世のどんな力も奪えない」という言を引いた。
監視兵の中には、厳密に臨床的な意味での強度のサディストがいた。この世には二つの人間の種族がいる。いや、二つの種族しかいない。まともな人間と、まともではない人間と。二つの「種族」はどこにでも居、どんな集団にも入り込み、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団、まともではない人間だけの集団もない。看視者の中にも、まともな人間はいた。
<解放>既述した極度の精神的な緊張の後を襲ったのは、完全な精神の弛緩だった。私たちが大喜びしただろうと考えるのは間違いだ。疲れた足を引きずるように、仲間たちは収容所のゲートに近づいた。仲間たちはおどおどと辺りを見回し、もの問いたげな眼差しを交わした。そして、収容所のゲートから外の世界へと、おずおずと第一歩を踏み出した。号令も響かない。鉄拳や足蹴りを恐れて身を縮こませることもない。それどころか、監視兵の一人に至っては、煙草を差し出した。手回しよく、いつの間にか彼は平服に着替えていた。
私たちは足を引きずって、ゲートから続く道をのろのろと進んだ。収容所の周りの景色を見てみたい。いや、自由人として初めて見てみたい。私たちは足を引きずって、ゆっくり自然の中へと、自由へと踏み出していった。「自由になったのだ」と何度も自分に言い聞かせるが、おいそれとは腑に落ちない。自由と言う言葉は、何年もの間、憧れの夢の中ですっかり手垢が付き、色褪せてしまっていた。私たちは、現実を未だそう簡単には掴めないでいた。
牧草地にまでやって来た。色鮮やかな見事な尻尾の雄鶏を見た時、歓喜の最初の小さな火花が飛び散った。が、一瞬で消えた。私たちは未だにこの世界に参入を果たしていなかった。夜、仲間は元の剥き出しの土間の居住棟に戻って来た。一人がもう一人に近づき、こっそり尋ねる。「今日は嬉しかったか?」。訊かれた方は、ばつが悪そうに答える。「はっきり言って、嬉しいというんではなかったな」。私たちは、嬉しいとはどういうことか、忘れていた。
解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。全ては非現実で、不確かで、唯の夢のように感じられる。俄かには信じることが出来ないのだ。
ここ数年、自分の身に何が起こったのか、そして再び家族と会える今日その日が本当にやって来たのだということを、何度夢で先取りしたことか。すると、「起床」を告げる号笛が三度、耳をつんざき、つかの間の自由を味わわせてくれた夢から無理やり引き離された。そして今、さあ信じろ、と言われているのだ。今この自由は、果たして本当に現実なのだろうか。
だが、その日は来たのだ。体は精神ほどにはがんじがらめになっていなかった。私たちは
がつがつと貪り食った。何時間も、何日も。人はどれだけ食べることができるか、信じ難いほどだった。解放された被収容者の誰彼が近くの親切な農家に招かれると、彼はまず満足に食事をし、ようやく舌が滑らかになり、やおら語り出すのだった。何年もの間、重くのしかかっていた抑圧から解放されたのだ。彼は語らずにはいられず、話さずにはいられないのだ。
数日が経過し、さらに何日も過ぎ、内面で何かが起こる。突然、それまで感情を堰き止めていた奇妙な柵を突き破り、感情が迸るのだ。あなたは雲雀が上がり、空高く飛びながら歌う賛歌が、歓喜の歌が空一面に響き渡るのを聞く。この瞬間、貴方は我を忘れ、世界を忘れる。たった一つの言葉が頭の中に響く。何度も何度も、繰り返し響く。
――この狭きより我れ主を呼べり、主は自由なる広がりの中、我れに答へ給へり。
<解放後>強制収容所から解放された被収容者は、もう精神的なケアを必要としないと考えたら、誤りだ。彼らは、突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的危険に脅かされる。この(精神衛生の観点から見た)危険とは、いわば精神的な潜水病と言っていい。潜函労働者が(異常に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ。
精神的な抑圧から急に解放された人間を脅かすこの心の変形と並んで、人格を損ない、傷つけ、歪める恐れのある深刻な体験が後二つある。自由を得て元の暮らしに戻った人間の不満と失意だ。不満の原因は、収容所から解放された者が、元の生活圏で世間と接触して引き起こされる様々なことにある。失意という深刻な体験には、また別の事情が絡んでいる。
収容所に居た全ての人々は、私たちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、そんなことを交々言い合った。私たちは幸せなど意に介さなかった。私たちを支え、私たちの苦悩と犠牲と死に意味を与えることができるのは、幸せではなかった。故郷に戻った人々の全ての経験は、あれほど苦悩した後では、もはやこの世には神より他に恐れるものはないという、高い代償で贖った感慨によって完成するのだ。
ヴィクトール・フランクルの横顔
『夜と霧』(新版 2002年刊)の巻末に故・霜山徳爾上智大名誉教授(臨床心理学者)の<『夜と霧』と私>と題する一文がある。彼は本書(旧版)の訳者で、フランクルとは一方ならぬ交誼を結んだ人物だ。
――フランクルはウィーンに生まれ、フロイトやアドラーに師事して精神医学を学ぶ。ウィーン大学医学部神経科教授であり、同時にウィーン市立病院神経科教授を兼任。臨床家として識見を高く買われ、同時に理論家としてドイツ語圏では知られていた人物である。
少壮の精神医学者として嘱目され、ウィーンで研究をしていた彼は最愛の妻にも恵まれ、平和な生活が続いていた。が、この平和はナチスのオーストリア併合以来破れてしまう。なぜなら、彼はユダヤ人だったから。彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき手段、殺人の組織と機構を持つアウシュヴィッツ等に送られた。そして、ここで彼の両親と妻は、ガスで殺され、或いは餓死した。彼だけが凄惨な生活を経て、生き延びた。
私はウィーンに彼を訪ねた時のことを想起する。彼は温かな心からの親切で、極東の無名の一心理学者をもてなしてくれた。ヒューマニスティックな温かい良識で、全ての人を包んでいた。従って医師というよりは一人の思想家として、キリスト教的世界から大きな親和性を以て迎えられていた。快活率直な人柄に魅かれ、私は彼と十年の知己の如く親密になった。
最も印象的だったのは、ある夜、彼に招かれ、ウィーン郊外の有名な旗亭で同席した折のこと。ワインの盃を傾けながら、彼からアウシュヴィッツでの語られざる話を聞いた。謙遜で飾らない話の中で、私を感動させたのは、アウシュヴィッツでの他の多くの苦悩の事実ばかりでなく、彼がこの地上の地獄の内ですら失わなかった、堅い良心と優しい人間愛であった。それは良質のワインの味すらも、全く消し去るほどのものだった。
<筆者の一言>「ユダヤ人弾圧」は私にヒトラーを想起させる。第二次大戦でナチス・ドイツに命を奪われたユダヤ人は570万人にも上る、とされる。人類史上まれに見る蛮行と言えよう。犠牲者の多くはナチ体制下の「絶滅政策」によって、貴重な生命を奪われた。ヒトラーは「ドイツ民族至上主義」という偏狭な人種主義に凝り固まり、この蛮行を推進した。
フランクルによる『夜と霧』を読むと、その蛮行の委細が知れ、唯々暗然として言葉を失う。だが、そうした惨状を肌身で痛切に知る筈のユダヤ人たちが戦後すぐ英米などの後押しで中東にイスラエルを建国。今度はパレスチナの民衆を抑圧~不幸な境遇に追いやっている。これまた、私は暗然となるほかなく、人類に対する希望を見失ってしまう。
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1167:230419〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。