ドイツ滞在日誌(8)
- 2011年 8月 11日
- 評論・紹介・意見
- 合澤清
前回に続いて今回もドイツ国内旅行の報告になります。天気は相変わらずここゲッティンゲンは不安定なままですが、僕らが出かけて行った地方では幸運にもいつも概ね好天気に恵まれています。旅の楽しさは、お天気に左右されるところが大いにあります。かなり以前のことですが、キールとブレーメン(いずれも北ドイツ)で真夏に氷雨に見舞われたことがありました。夏服しかもっていなかったため、外出すらできない羽目になりました。これではせっかくの旅も台無しです。
1.北東ドイツのハンザ都市Stralsundを訪ねて
先日の報告の最後に紹介しましたUlm(ウルム)はツンフト(Zunft:手工業ギルドともいわれ、ドイツ中世後期の都市手工業者の職人組合)の町として知られています。これに対して、北海・バルト海沿岸に成立した中世ドイツの都市同盟がハンザ同盟(Hanse)で、もともとの意味は「商人の仲間」というようです。リューベックとハンブルクの間で最初の盟約が結ばれたといわれています。ハンザは想像以上に巨大な勢力を誇っていたようです。ハンブルクに行くと、歴史郷土博物館があり、そこでハンザ時代の様々な遺物を見学できるようになっています。この時代にあったとされる商館の模型などもありますが、おそらく実物を見ればびっくりするほどの大きさだったろうと思われます。
ハンブルクやブレーメンは今でもドイツ国内では別格の扱い(自由ハンザ都市として独自の州を形成)を受けているようです。それもそのはずです、当時はハンザこそが「国家」とみなされていたのですから。そしてドイツハンザ同盟の輝かしい盟主がリューベックでした。この小さな町がそんな栄光に包まれていたなんて、今では到底信じられませんが、しかし町への入り口にデンと控える「ホルステン門」の威容さは往時をしのばせるものです。この町の栄光と衰退について知るには、この町出身の作家トーマス・マンが彼自身の家系を基に書いたといわれる小説『ブッテンブローク家の人々』などを読めば参考になるかと思います。
しかし、今回の旅はそんなリューベックやハンブルクではありません。もちろんリューベックやハンブルクやブレーメンには何度か足を運んだことがあります。ちょっと思い出しましたが、リューベックには「ロートシュポーン」という奇妙な名前の赤ワインがありました。これはこの時代にドイツからフランスに塩(ツェレやリューネベルクから取れる岩塩)を輸出して、帰りに空の樽にフランスのワインを入れて帰ったら、まことに美味しいワインができたという由来になる銘酒です。以前、何回かこれを買って帰ったことがありました。でも残念ながら、僕の家に来て下さる仲間たちで、こういう銘酒を味わいながら飲むという趣味の方はいませんでした。開ける端から喉に流し込む方たちばかりでした。多分この味を覚えている方はいないと思います(僕もその一人ですが)。
閑話休題。今回の旅は東海(バルト海とも呼ぶ)に臨む、やはり往時のハンザ同盟の有力都市シュトラールズントとヴィスマールです。これら二つの町は両方合わさってユネスコの世界遺産に登録されています。両都市の中間にはロシュトックという同様に有名なハンザ都市もあります。ここには一昨年訪れたことがありますので、今回は省きました。ここも大変美しい町です。一時期ネオナチの連中が外国人(特にアラブ人)を襲ったことで有名で、観光は控えるようにと言われたものでしたが、僕らが訪れた時には特にそういう気配もありませんでした。これらの町はいずれも旧東ドイツの町です。
最初に向かったのはシュトラールズントです。ゲッティンゲンからICEでハンブルクに出て、ICに乗り換えて行きます。約5時間の旅です。2時台に着いて少し街中を見物したいと思い、朝早めに出発しました。色々列車の遅れなどもあり(ドイツではよくあることです。ドイツの電車が正確だという考えは捨てましょう)、3時頃に到着しました。駅のインフォメーションの女性に町に行くにはどうするのかと尋ね、その方向に歩いていたら、行き止まりまで行っても彼女の言う最初の信号なるものがありません。よくよく考えたら、駅前の信号の事を差していたようです。仕方なしに犬を連れたおじさんに左方向を指さして「旧市街はこっちですか?」と尋ねたら「とんでもない。全く逆だよ。向こうだよ」と右側を指さして教えてくれました。礼を言って歩き出して、100~150メートルほど歩いてなんとなく池がある方向に曲がったら、素晴らしい景色が目の前に現われました。池(これは非常に大きいもので、一見湖のようなのですが、間違いなく池=Teichなのです)の畔も実にきれいで、池の向こうに見える街の景観はうっとりするほどのものでした。涼風に吹かれて畔を散歩するだけで十分満足できるほどです。噴水も見事です。二人で、ドイツはいいな、このまま永住したいよね、などと話しながら街の方へ歩いて行きました。
いつものことですが、先ず本日の宿を探さなければなりません。そのためのインフォメーションを見つける必要があります。街への入り口の古い塔門(城門)をくぐり、なだらかな坂道を少し上ります。この町は街中の道の全てが石畳なのです。インフォは旧ラートハウスの前の広場にありました。もちろん簡単に見つけたわけではなく、通りがかった二人に聞きながら探し当てたのですが。インフォで無料のパンフ(立派なものでした)をもらって、自分たちで探そうかと思ったのですが、時間を倹約したいと思い、紹介してもらうことにしました。宿はできるだけ近場に、ということを目的にしましたが、紹介してくれた若い女性が「このホテルは素晴らしいとこですよ」と言っていました。それでも二人で朝食付きで106ユーロです。この辺は観光地と言ってもまだ安いのでしょうか。
ホテルはすごいデラックスなものでした。古い建物の中を改装したもので、部屋のすぐ前のフロアー(踊り場)は応接室のようでしたし、部屋の扉は3センチほどの厚さの鋼鉄製(表面はステンレス加工)の重厚なものです。銃弾も貫通しないでしょう。部屋の中も、トイレなどもパーフェクトです。序でに言えば、朝食も立派でした。早速荷物をおいて外出しました。
インフォでもらった地図(Stadtplan)を見ながらの散歩です。旧市街の外側を池がぐるりと取り巻いていて、道路で4つに仕切られています。池が終わるところから、大きな道路や建物などをはさんで向こう側に運河があり、そのさらに向こう側は海になります。この町の名前の最後にくっついているSundとは海峡という意味ですが、リューゲン島(今は橋で本土とつながっていますが、ドイツで一番大きな島で、海水浴場のメッカです)との間の海峡を指していたのではないかと思われます。今でもこの海岸縁の海をStrelasundと呼んでいますから。
面白いのは、この町のいたるところにフランケンという名前が残っていることです。フランケンとは、言うまでもなく南ドイツのヴュルツブルク辺を指します。ところがこの町にも、フランケン通りやフランケン池や、フランケン堤防=防塁(Frankenwall)などの名前が残っているのです。しかもこのFrankenwallの中ほどには、今でも大きくて古風な建物が残っていますが、その昔はその傍にBlaue Turmbastion(青い要塞稜堡塔?)という名前の立派な塔が立っていたようです。これはこの町がかつてのフランケン族と密接に関係していたことの名残ではないかと僕は勝手に推測しています。フランケン出身のユルゲンにでも聞いてみようかと思います。
街中の教会や、古い建物などは豪壮で、立派なものです。かつてこの町がハンザ同盟の盟主の地位をリューベックと争った(実際に戦争して敗北した)程ですから、その繁栄ぶりがしのばれます。Fischmarkt(魚市場)がある海岸縁にも煉瓦造りの巨大な建物が並んでいました。桟橋には多くの船が今でも停泊していました。対岸にはリューゲン島が見えます。この辺のレストランでは、魚料理がメインです。油でいためたり、塩や酢に漬けこんだりした料理ですから、僕ら日本人の口には少し違和感があります。でも、この辺を歩くと、魚の匂いや潮の香りなど、何となく懐かしい感じがします。
海岸寄りのところに聖霊修道院とヨハネス修道院という二つの修道院がありました。修道院というと、敬虔な尼さんたちが熱心にお勤めしている姿を思い浮かべるのですが、それにしてはこれらの建物の堅牢なこと、まるで牢獄の様です。ある時代に、この中に強制的に監禁された女性が大勢いたのではないかと想像させます。
朝の散歩は素晴らしいものでした。海岸沿いに歩いて、はるかにリューゲン島を眺め、また港や街中の古い建物を眺めながらいつまでも飽きません。
2.Wismar(ヴィスマール)訪問
ユネスコの世界文化遺産ではシュトラールズントとヴィスマールの両方を合わせて一つの歴史遺産として登録しています。そのためどうしてもヴィスマールも見てみたいという誘惑にかられ、翌朝食事を済ませてすぐにヴィスマールに向けて出発しました。駅までは徒歩で約30分。例の池の畔の散歩道を歩くのですから全く苦になりません。むしろ大変なのは、この辺は旧東ドイツだったこともあって、まだICEなどの列車がほとんど通っていませんので、基本的には各駅停車の乗り継ぎで行くしかないこと、このことがつらいところです。とりあえず、ロシュトックまで行き、そこからヴィスマール行きの各駅に乗り換えることにしました。
ロシュトック行の電車に乗り込み、出発した直後に、二人連れの制服の警官が通路を歩きながらこちらを覗き込んでいました。前の席に座っていた頭髪を染めて、イアリングをつけた男女が、露骨にこちらを振り返ってきます。そんなに東洋人が珍しいのだろうか、と思っていました。ところが、突然先ほどの警官が僕らのところにやってきて、年配の方が「ドイツ語は話せますか?」と聞いてきたのです。咄嗟のことでつい「少し話せる」と言ってしまいましたが、時間さえあれば「いや、日本語しか話せない」と言ってからかってやるはずなのですが。彼らはいきなり職務質問に入ってきました。どこから来たのか、どこに行くのか、いつ頃来たのか、パスポートを見せてくれ、…云々。そしてパスポートをチェックしていて、「デンマークからきたのか?」と聞いてきました。コペンハーゲン経由で来た、と答えましたが、一応チェックさせてほしいと言って、どこかに問い合わせの電話をかけていました。やっと容疑が晴れたらしく別れ際に「どうか快適な旅をしてください(Bitte, angenehme Reise!)」などと見え透いたことを言う。こんなことがあって快適であるわけないだろ。職質の間、前の席の若者をはじめ、衆目のさらしものにさせられてしまったんだから。多分、オスロでのテロ事件に関連しての職質なのだろうが、やはり不愉快極まりないものでした。
ともあれ、ロシュトックでの乗り換えから2時間ぐらいかかって、目指すヴィスマール駅に到着しました。乗客もかなり少なくなっていたので、よもやこんな不便なとこまでわざわざ足を運んでくる酔狂な者もいないのだろう、と考えながら駅前の表示板を頼りにインフォメーションを探して歩き始めたのです。ところが町の中心地に近づくにつれてかなりの人出があることに気がつきました。人出は港に行った時には更に増えていましたので、電車ではなくて車で来る人が多いことにやっと気がついた次第です。
インフォはマルクトプラッツ(市場の出る広場)にありました。広場の周囲には立派な建物が立ち並んでいましたが、特に広場を挟んでインフォの真向かいに、かなり古めかしいレンガ造りの建物があるのが目に留まりました。これがかつてこの地がスウェーデン領だったころの名残をとどめるスウェーデンハウスなのでした。今ではレストランになっていて、スウェーデン料理も出しているようです。この中でゆっくりして、地ビールでも飲みたかったのですが、時間の関係上、楽しみはまたの機会に回さざるをえませんでした。
またここにはミニバスで町の名所を案内してくれる(有料ですが)システムもありました。今回は残念ながらそれもパスしました。徒歩で、海岸の方に向かい、最初にかつての領主の館(豪壮なものです)を外から眺め、海の方に歩いていましたら、坂道を少し降りたところですぐ港が見えてきました。既に大勢の観光客らしき人たちがいたのですが、それらの人たちが海岸縁の少し道路より低くした場所に並んでいる、屋台よりも大きめの魚屋の店を覗き込みながら、次々に何か買っているのです。なんだろうと思って僕らも覗き込みました。魚、といってもニシンや鮭や小エビなど、ほんの数種類でしかないように思いましたが、それらを油でいためたもの、またそれをサンドイッチにしたものなどが並んでいて、客はそれを買っていたのです。ヨーロッパ人にはまだ魚は物珍しいようです。
その辺を素見してすぐに駅の方へと向かいました。天気はこの日も快晴で、夏本番の暑さでした。電車が来るまでの間、駅前の喫茶店でビールを飲むことにしました。「ロシュトックビール」とかいう名前だったように思いますが、辛口です。北ドイツのビールは概ね辛口が主の様です(ついでに、日本は甘口が主のように思います)。喉が渇いていたせいもあって、大変おいしく頂きました。これで何とか北ドイツ旅行の予定が終了しました。しかし、実は写真をたくさん取るつもりが、途中でカメラのバッテリーが干上がって、写せなくなってしまったのです。バッテリーのチェックをしなかった僕の失敗です。反省!
3.Lueneburg(リューネブルク)に立ち寄ったこと
先ほどの魚屋の話に戻りますが、若し日本人で、魚屋兼板前兼漁師をやれる人がここらに店を出したとしたら大変はやるのではないだろうか?そんなことを家内と話しながら帰途に着きました。今度はオマワリに妨害されることもなく、無事にハンブルクまでやってこれましたが、このまま帰るのは少し惜しい気がして、リューネブルクで途中下車することにしました。
リューネブルクには去年、コルドラさんの車で来ました。ゲッティンゲンから片道4時間かかる距離ですが、それでもニーダーザクセン州です。その前、かなり以前のことですが電車で来て、駅の近くのホテルに泊まったことがありました。多分今回も下車すればその時の感覚を思い出すだろうと思っていました。しかし、駅の外に出ても何も見覚えがありません。キツネにつままれたようです。ベンチに座っていた若い女性に街の中央に行くにはどうすればよいのかと尋ねました。すぐに教えてくれましたので、そちらの方へ歩いて行き、去年確かに見覚えのある川の辺に出ました。川沿いにしばらく散歩しながらも、どうしても以前のイメージと重ならないのが不思議でした。
時間が許す限りの散歩でしたが、この町もかつてはハンザ都市として栄えた大きな町です。今回はそこそこにして引き返しましたが、川縁に在るかつて荷物の積み下ろしをした木製のクレーンのある場所などは、実に風情のあるところなのです。
ところで駅に戻ってきてからやっと気がつきました。この駅は新しい駅なのです。それで周囲が見覚えないわけなのでした(今、リューネブルクという名前の駅は二つあります。当然ながら新、旧の駅です)。
4.小括
行き当たりばったりのドイツ旅行も勿論大変楽しいものです。しかし、予め何かの課題を設定した旅行のほうが、時間の効率の上でも、知的な興味の上でも何倍も楽しみが増しそうだと解りました。ハンザ同盟についてあらかじめ何かを読んで、その知識を基にして主な町や遺跡を訪ねる、そしてそこでまた新しい知見を得て、自分なりにハンザやヨーロッパ中世史について考えてみる。このことが大切なのではないだろうかと改めて思いました。
近代の市民社会や国民国家の成立について考える上で、ハンザ同盟が果たす役割は大変大きなものであるように思います。「近代的市民社会」や「国民国家」なる概念が、あるいはヨーロッパ史によってもたらされた特有の概念なのかどうか、西欧中心の歴史観が大きく崩れようとしている今、このことを改めて問う必要があるように思います。
こういう深刻な問い直し抜きに、未来社会の展望を軽々に問題にすることはできないのではなかろうかとすら思えてきます。
(写真は上から、「シュトラールズントでの朝の散歩で見た海と市街地」「シュトラールズントのFrankennwallにあるBlaue Turmbastionに付属した建物」「ヴィスマールのマルクトプラッツ」です)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0586 :110811〕
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