世界のノンフィクション秀作を読む(13) スウェン・ヘディンの『さまよえる湖』(上)――史上最大の探検家による中央アジア探索記
- 2023年 6月 28日
- カルチャー
- 『さまよえる湖』スウェン・ヘディンノンフィクション横田 喬
ユーラシア大陸の中央部には、比較的未開のままで広大な地域が近代まで残されていた。ここに史上最大のアジア探検家スウェン・ヘディン(1865~1952)が登場する。スウェーデン人の彼は十九世紀末から二十世紀前半にかけて、中央アジア探検を度々敢行。1900年の二回目の探検では、中国・新疆省の砂漠の真ん中に古代の街「楼蘭」の遺跡を発見し、世界的に大きな話題を広げた。その著書『さまよえる湖』(ヘディン探検紀行全集、関楠雄:訳)には、その探検行の一部始終が生き生きと記されている。
ヘディンは著書『さまよえる湖』の最終節で、大略次のように記す。
――さまよえる湖ロプ湖は、深く私の生涯に入り込み、色々な事情によって私の運命と結び付けられるようになった。最初に出合ってから四十年、最後に湖の北半をカヌーで漕ぎ回ってから三年の歳月が経った。私はタリム河とロプ湖の脈拍を追求し、この神秘な湖の移動について、その気紛れな行動の、物理的原因を発見することができた。
彼は古いロプ湖(ロプ砂漠の北方にある大きな湖)の干上がった畔で楼蘭の遺跡を発見。廃墟の中から出てきた木簡により、ここが紀元260~70年に栄えた都市だ、と判明する。この街はロプ湖が南へ移動したため千数百年前に水を失い、廃墟と化したに相違ない。
ここで著書の巻頭に戻り、以後順を追って内容の概要を述べよう。
<ロプ湖への出発>1934年4月、我々は貨物自動車とカヌーを利用し、現地入りした。約二か月の旅行中、舟の上で仕事をする筈だった。我々は、氷河と永遠の雪原に閉ざされた遥かな山頂からの挨拶を受けた。川の上流地方では、野生のロバが集団を作り、飢えた狼たちに襲撃されるのだ。キルギス人とモンゴル人がテントを張る草原や牧場では、羊の群れと羊飼いが暮らす。我々はほぼ東南東の方向へ川を下っていた。夕方は、かなり肌寒かった。
<河上の第一日>いま私はアジアでのもう一つの牧歌的な旅に就いている。コンチェ河とその延長のクム河を行く本旅行は、以前のいかなる河川旅行よりも魅力あるように思えた。我々は河上で生活した。水は我々の推進力で、絶えず遠い目的地へと導いた。東へ行くにつれて次第次第に小さくなっていく川を下っている。我らのカヌーの下でさざめき渦を巻いている多量の水は、天山の各所に故郷を持っている。
この川の上流地方では、野生のロバが集団を作り、飢えた狼たちに襲撃されるのだ。キルギス人とモンゴル人がテントを張る天山の高い谷間にある草原や牧場では、羊の群れと羊飼いとがこの水を飲む。この流れが最下流にいる我々を遥かに遥かに東方へ運んでいく。
<サイ・チェケでの全探検>我々の重要な食べ物は羊肉だった。料理上手な中国人はスウェーデン料理の法則通りに上手く調理し、トルコ風なシスリックという料理も上手だった。川は目の届く限り遥かに鏡のように静かで、両岸とその上の樹木を映している。我々はしばしば、鴨やその他の水鳥が水を打って飛び立ち、魚が水面に飛び跳ねる音を聞いた。十日夜は気温が氷点下3度近くまで下がり、この時期としては驚くべき寒さだった。
川は二、三の屈曲の後、ほとんど一直線に東北東に延びるように見えた。左岸のかなり前方「砂利砂漠の河の曲がり目」で、我々は残余の探検隊と合流した。男らしい髭のあるベルクマンら十人近い仲間が岸の頂上に立ち、「ばんざーい!」と叫ぶ。我々はベルクマンのテントに招待され、軽食を供されて互いの話をやりとりした。
4月13日朝、船着き場の近くでコーヒー・パーティを開いた。探検隊の八人の隊員が全部、さよならを言うために集まった。我々は未知なるものに会いに行こうとしている。我々の小舟は、葦の入り乱れた湖や沼沢に捕まえられてしまうだろうか。自動車は、乗り越せない難所に止められてしまうだろうか。誰も知らない。
<コンチェ河上の最後の日>15日の日中は気温が25度まで上昇。夕方五時近く、我々はトメンプーに上陸した。左岸に堰堤の粉砕された断片が十㍍余り見られ、右岸には労働者用の小屋が十軒建っている。古い中国の文献「水経注」には、クム河下流での企図――堰堤によって灌漑用運河に河水を無理に引き上げ、畑作に利用しようとした企図のことがはっきり書かれている。
16日、「七本ポプラ」と呼ばれる一群の木立を通過した時、行く手に鋭い轟音を聞いた。
川幅は二十㍍足らずに狭まり、流れは速くなった。私は「全速力で進め」と命令。船隊は危険な箇所へ向かった。私の二艘立てカヌーは激流の真ん中におり、白い凄まじい波頭を立てた波が、周りで躍っていた。一刻ごとに座礁しやしまいか、転覆しやしないか、と気が気でなかった。が、全ては一分間の出来事で、川は再び広くなり、水は静かになった。
<クム河での最初の日々>24日は感銘深い日だった。夕四時ごろ、小船隊は平穏に川を下っていて、北東の方角の岸辺にテントや自動車を発見。私は岸に跳び上がり、ベルクマンや二人の中国人、ゲオルク、その他のメンバーと握手。スウェーデン国旗の翻る、三人のスウェーデン人のテントの中で盛大なコーヒー・パーティを開いた。私は今度の旅では、北山とクルック・ターグの山岳地帯の中を通るか、又はその山麓を北へ向かう考えだった。
4月27日、エッフェの貨物自動車には荷が積まれた。小型自動車はセラトが運転し、偵察用に使われる手筈だった。
<神秘な砂漠に向かって>4月28日は新たな別離の日だった。ユウとクンの両技師は新しい「絹の道」を探しに、未知の砂漠を敦煌方面へ行く旅路に上っていた。彼らはいつも愉快なエッフェとモンゴル人セラトを技手及び運転手として、他に案内人・護衛兵・二人の従者を連れていった。我々は長い間、彼らの消息を何一つ聞けないだろう。困難な地面の上を、たった二台の自動車で水のない砂漠に敢て入っていこうというのは危険な企てだ。全体の計画は大胆な、というよりむしろ向う見ずなものであった。
<世に知られぬ王女の墓場へ>5月5日!記念の日である。三十九年前、私は際どいところでホータン河の河床に水を見つけ、奇跡的に救われたのだ。(1894年2月17日、ヘディンの一行はカシュガルを出発。メケット・バザールの緑地を経て、タクラ・マカン砂漠横断を企て、二十六日間、言語に絶する悪戦苦闘の末、5月5日ようやくホータン河に達した)
我々は荷を積み、舟に乗り、北東の広い湖へと乗り出した。二時間ばかり過ぎ、密生した葦むらのある湖へ出た。小運河や広い水路を経て陸地に午後一時に上陸。北西に少々歩いて一家屋の遺跡を発見した。明らかに楼蘭時代のもので、少なくも千六百年は経っている。
十八本の柱が今なお直立。壁は葦とタマリスクとを編んで造られ、材料も建築様式も楼蘭のものと同じ。小作りな家は四室に分かれ、小高い丘の上に建っている。我々は再び航海を重ね、小さい島に上陸した。西側の斜面に共同墓地があり、数人の船頭たちはそこらに散らばっている木の根で、浅い墓を忙しく掘っていた。
近くの小丘にたった一つの墓があり、我々は穴を掘り、棺を持ち出した。毛布の覆いを取り除け、我々は見た。麗しさ限りなき砂漠の支配者、楼蘭とロプ湖の女王を。うら若い女は突然の死に見舞われ、愛する人々の手で経帷子を着せられ、平和な丘に運ばれて、遥か後代の者たちが呼び覚ますまで、二千年近くの長い眠りに憩うていたのである。
顔の皮膚は羊皮紙のように固いが、目鼻立ちや顔の輪郭は長い歳月にも変えられずにいた。唇の周囲には、幾世紀もの間も消えずにいた微笑が今もなお漂っており、この神秘な存在をして一層可憐な魅力深いものたらしめている。が、彼女は過去の秘密や、楼蘭の多彩な生活や、湖辺に萌える春の緑や、小舟やカヌーの川旅の思い出を漏らしてはくれない。
棺の内側の長さは169㌢で、世に知られぬこの王女は、ほぼ156㌢の小女である。チェンと私はしばしの間、彼女が埋葬される時に着けていた衣服を調べ始めた。頭にはターバン風な帽子、その周りに簡単な帯を一本巻いている。体は麻の織物で覆われ、この下に同様な二枚の黄色い絹布の被い物。胸は真四角な赤い刺繡のある絹布が覆い、その下にもう一枚麻の下衣を着けている。絹の上靴を履き、腰ひもは肌に直接巻かれていた。
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