「家族」重視の国の逆説―「家族」を考える(1)
- 2023年 7月 6日
- 時代をみる
- 家族池田祥子
前回、「フェミニズムにチョコッとひとこと(1)」というタイトルを付して、しばらく「フェミニズム」周辺の問題を考えていくつもりだったが・・・その前にやはり「家族」について、もう少しこだわっておきたい、と身勝手ながら変更いたします。
「家族を問う」ことの難しさ
封建的な「家」制度、あるいは「家父長制」は、平塚雷鳥、伊藤野枝、山川菊枝などによって、日本でも「婦人(女性)解放」運動の当初より問題視されてきた。しかし、戦後は「一夫一婦婚」が原則とされ、「民主主義的家族」が子どもの育ちのためにも前提とされ必須とされた。
だがそれもつかの間、その「一夫一婦」の内実に分け入って、「夫」と「妻」の間の、社会から強いられる「性役割(性別役割)」そのものの明らかな「性差別」が問題とされるようになってきた。しかし、その社会的性差別をどのように乗り越えて行くのかは、さらにそれぞれの国の具体的な課題である。
日本では、まずは「男女雇用機会均等法」が1985年に公布される(1986年施行)。
だが、周知の通り、社会的実態としては、女性の雇用形態が「総合職」と「一般職」の二本立てとなり、現実の女性たちの属する家族や社会的経済的差異に基いて、明らかな女性間の雇用格差として利用されることで、結果として、総体としての男女間の雇用格差も温存された。
さらに、1999年「男女共同参画社会基本法」が制定され、2001年に内閣府が設置されるや、「男女共同参画室」はその内閣府の元、「男女共同参画局」として組み込まれることになる。このように、日本の社会での、カッコつき(恰好つけ?)「男女平等」政策が正直に反映されたのか、世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する「ジェンダーギャップ報告書」によると、2023年は、146カ国中125位、前年の116位からはもちろん、発表開始(2006年)以来の最低の順位となっている。主要7カ国では最低、また韓国(105位)、中国(107位)よりも後れを取っていることになる。
その大きな理由・原因は何か。「順位」に一喜一憂するよりも、この結果そのものの基盤である現実の問い返しや、意味のある対策を考える方が重要であろう。そして、ここで浮上するのが、日本の「制度としての家族」の問題である。
さて、「前置き」が長くなってしまったが、極めてクールな「現実主義者」エマニュエル・トッドの日本社会への「警告」を手がかりにしながら、日本の「家族」に由来するさまざまな問題を、いま少し、具体的に考えて行きたいと思う。
エマニュエル・トッドの日本社会の「家族」への警告
E・トッドは、40年に及ぶ「家族システム」の世界的比較研究で有名である。(代表的な著作には、『世界の多様性・家族構造と近代性』荻野文隆訳、藤原書店、2008、さらに『家族システムの起源』上・下、石崎晴己監訳、藤原書店、2016、などがある。)
そのE.トッドが、『文芸春秋』あるいは『文芸春秋SRECIAL』に書き継いだ文章が、磯田道史や本郷和人との対談を加えて、『老人支配国家・日本の危機』(文芸新書、2021)という一冊にまとめられている。
その中でのE.トッドの発言にまずは注目してみよう。
― 「家族」の過剰な重視が「家族」を殺す――「家族」にすべてを負担させようとすると、現在の日本の「非婚化」や「少子化」が示しているように、かえって「家族」を消滅させてしまうのです。「家族」を救うためにも、公的扶助によって「家族」の負担を軽減する必要があります。
日本の「少子化」は「直系家族の病」と言えます。日本の強みは、「直系家族」が重視する「世代間継承」「技術・資本の蓄積」「教育水準の高さ」「勤勉さ」「社会的規律」にありますが、そうした〝完璧さ”は、日本の長所であるとともに短所に反転することがあり、今の日本はまさにそうした状況にあるのではないでしょうか。(p.15)
ここでは、E.トッドの、「家族」の過剰な重視が「家族」を殺す、という強烈な警句を肝に銘じておこう。
「こども庁」から「こども家庭庁」への逆戻り
「こどもの権利」の社会的承認とその社会的保障を謳う、国連での「子どもの権利条約」の採択は1989年。翌1990年に発効した。しかし、「乳幼児」「少年」「未成年」などの発達区分が常識的、制度的にも流通し、どちらかと言えば、「子どもは福祉の対象」=「児童福祉」が中心に据えられている日本では、この条約への批准はなかなか進展しなかった。しかし、漸く1994年、世界で158番目の批准国となった。
だが、「3歳までは母親がダッコし放題!」を理想とする安倍晋三首相の下では、「こども基本法」の制定など、棚ざらし状態が続いていた。ところが、菅義偉政権後の自民党総裁選で、野田聖子が掲げた「こども庁」設置推進に再びスポットが当てられ、それに賛意を示した岸田文雄首相もまた、この「こども庁」設置を掲げることになった。
とはいえ、「子どもの権利」「こども庁」の積極的な意味と役割をどこまで主体的に理解していたのか、もともと曖昧な岸田政権下で、いきなり2021年12月、「子どもは家庭でお母さんが育てるもの。『家庭』の文字が入るのは当然だ」の意見に出合うや否や、さっさと「こども家庭庁」に変更されてしまったのである。
子どもが生まれ、育つ主要な場が「それぞれの家庭」であることは当然ではあるが、しかし、「それぞれの家庭」はあまりにも多種多様であり経済格差も大きく、また「性差別の場」「暴力の場」にもなりかねない。だからこそ、個別の「家族・家庭」に任せすぎず、依存するのではない「こどもの権利の社会的保障」をこそ担うために設置されるべき「こども庁」であったはずなのに・・・。
そして今年、2023年4月から発足した「こども家庭庁」の根本に関わる法である「こども基本法」(2022年6月成立)には、次のように記されている。
基本理念 4項目:子育ては家庭が基本であり、父母などの保護者が第一の責任を負う。十分な養育家庭が困難な場合、こどもの養育環境を確保する。
同上、5項目:家庭や子育てに夢を持ち、子育てに喜びを実感できる社会環境を整備する。
ご覧の通り、「こども家庭庁」も「こども基本法」も、せっかく批准したはずの「子どもの権利条約」の精神を理解していない。「子育ては家庭が基本であり、父母などの保護者が第一の責任を負う」ということを、国の政策の基本理念としてまず初めに確認し、父母(国民)に覚悟してもらわなければ始まらない、これが日本の「こども政策」の実態である。
したがって、ご覧の通り、いわゆる「幼保一元化」も実現できていない。なぜなら、「3歳までは家庭(母親の元)で」という幼児教育の本流は、幼稚園=文部省管轄となっていて、ここは内閣府といえど立ち入れていない。しかも、中途半端に手がつけられたまま定着した「幼保連携型認定こども園」が加わって、現在の就学前の施設は、保育所―幼保連携型認定こども園―幼稚園、の三本化(三元化)となっている。
さらに、いま一つ、「家庭保育原則」を今なお引きずっている保育所行政は、保育所入所に当たっての「条件」を外せていない。かつては、母親が就労ないしは入院その他での「保育に欠ける」が子どもの入所条件であったものが、今でも「保育を必要としている」子ども、という条件がくっついている。
「父母や子どもが希望すれば、誰でも入れる保育所」という「社会的保育」観は残念ながら、日本では考慮さえされていない。
「異次元の少子化対策」と岸田内閣の掲げるスローガンは一見「奇抜」ではあるが、以上のように、保育所行政の「家庭保育原則主義」の立場を見直すまでには至っていない。もっとも、東京都が手始めに取りかかろうとしている0~2歳児の「預かり事業」は、「親の仕事の有無に関わらない」ということを(わざわざ)謳っているが、それでも「週1~4回程度の利用」とされ、利用料は1日ごとに計算されるようである。しかも、その事業自体が、既存の保育所の「空き定員を活用する」という、何とも不安定な構想である。
希望すれば0歳から、誰でも行ける保育園・・・そのような子どもの育つ共同の場を保障し、家族・家庭での子育てを支える社会的保育行政の確立。それが本気で目指されるのならば、そのための財政保障は、何よりも先だって計画されなければならないはずなのだが・・・。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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