自然エネルギー発電の再評価を
- 2011年 8月 17日
- 時代をみる
- 近藤邦明
菅直人政権の悪しき置き土産としての「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案」通称『再生可能エネルギー特別措置法』の成立によって、今後発電原価の高い自然エネルギー発電が組織的に導入される危険性がある。
この再生可能エネルギー特別措置法は自然科学的に不合理なものであり、その結果として経済的に破綻することが明らかである。この種の法令の先進国であるドイツやスペインでは既に制度的な破綻が顕在化しており、早晩法制度そのものが根本的に見直されることになるであろう。
日本における第一次の自然エネルギー発電ブームは1970年代の2度のオイルショック後の1980年代に起こった。オイルショックによって国際石油市場が不安定となる可能性があることから、輸入石油に頼らない給電システムが模索された。
この時期に、通産省主導の国家的なプロジェクトとしてサンシャイン計画が行われただけではなく、当時の運輸省も民間企業と自然エネルギー発電システムの可能性の検討を行った。私が鉄鋼メーカーのエンジニアリング部門に就職したそのころ、運輸省の港湾技術研究所と波力などの海洋自然エネルギーを用いた発電について検討していた。
その中で、太陽熱発電、小規模水力発電、風力発電、地熱発電、潮汐力発電、波浪発電、潮流発電・・・など、まさに現在再び導入が取り沙汰されているほとんど全ての発電方式はすでに検討された。しかしながら、そのほとんど全ては不安定であり、価格的に高価であったため経済的に成り立たないことから実用化されることは無かった。これは自然科学的に見て合理的、理性的な判断であった。
第3回国連気候変動に関する枠組み条約締約国会議=COP3いわゆる京都会議において「京都議定書」が定められ、温暖化防止のために締約国のCO2排出量削減が義務付けられた。この政策の科学的な根拠は、当時において自然科学的に確認されたものではなく、電子計算機の中の玩具のような単純な数値モデルの仮想空間でだけ成り立つ出来の悪い仮説に過ぎなかった。
しかし現実には、京都会議以降、温暖化防止のためのCO2削減は世界政治の主要なカードとして機能し始め、「人類共通の最大の脅威である人為的CO2排出を原因とする気温の上昇を抑えるためには、採算性を度外視してでもCO2排出量を減らすことが重要」であるという、一見科学的に合理性があるように見える主張によって、世界中の国々が思考停止状態に陥った。これによって経済的な採算性を度外視した自然エネルギー発電導入の動きが暴走し始めた。
その後の研究によって人為的CO2地球温暖化仮説は誤りであることが明らかになった。更に、2009年秋、第15回国連気候変動に関する枠組み条約締約国会議直前に、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の主要研究者によって地球温暖化の根拠とされてきた気象観測の基礎データが人為的CO2地球温暖化仮説に都合がよいように大規模に改竄されていたことが明らかになった。Climategate事件である。人為的CO2地球温暖化仮説は自然科学的に完全に破綻した。
この段階で京都議定書の自然科学的な合理性は失われたが、既に世界の政治・経済の主要なテーマとなった「CO2排出量削減」、そしてこれを前提とした産業構造の再編が既定の方針として定着しており、見直しが行われないまま現在に至っている。
環境問題、中でもエネルギー問題とは、政治・経済の問題である以前に自然科学あるいは工学の対象となる問題である。つまりエネルギー問題に対する政策は、自然科学的合理性、あるいは工業生産技術の問題としての合理性が無ければ必ず破綻する。
人為的CO2地球温暖化仮説が誤りであることが明らかになった現在、温暖化防止のために人為的CO2排出量を抑制するという政策の自然科学的な合理性は既に消滅した。故に、温暖化防止のための原子力発電、自然エネルギー発電の導入促進は無意味である。
では現時点における原子力発電あるいは自然エネルギー発電の存在意義とは何であろうか?
原子力発電の本質的な存在意義は、平時において核兵器製造能力を技術的に担保することである。これこそ中曽根康弘らが目的とした本質的な理由である。しかし、日本政府はこの目的を公式には絶対認めようとしない。
国が公式に主張する存在意義は、安全保障面からの化石燃料の代替と自前のエネルギー源の確保である。
核燃料サイクル技術と高速増殖炉技術の確立による自前のエネルギーを得ることが目的の一つにあげられていたが、これは技術的に破綻した。核燃料の再処理は、再処理燃料から得られるエネルギーよりも、再処理に投入するエネルギーの方がはるかに多いことが分かり、無意味であることが分かった。ワンス・スルーでウラン燃料による軽水炉を運用するのであれば、ウランは石油や石炭よりもはるかに早く枯渇する。
更に、福島第一原発事故によってその一端が明らかになったように、原子力発電という放射性廃棄物を不可避的に大量に生み出す発電方式は、その操業中の安全性の確保、事故発生時のリスク、発電後の放射性廃棄物の数万年~数十万年におよぶ管理などを考えれば、エネルギー収支は明らかにマイナスになり、その発電コストは途方も無い金額になる。とても民生用の電力供給技術として利用する技術的な合理性が存在しない。
日本に核兵器を保有するという目的が無い限り、日本における原子力発電は自然科学的・技術的に合理的な存在理由は無い。
自然エネルギー発電の存在意義とは何であろうか?
曰く、「自然エネルギー発電は地下資源と違って枯渇することがない無限のエネルギー源である」という。いくら導入コストが高くても、石油、天然ガスや石炭などの節約になると大多数の大衆は信じて疑わない。しかしこの認識は本質的に誤っている。
勿論、自然エネルギー、具体的には太陽放射と地球の天体としての運動によって供給されているエネルギーは、太陽系というシステムが大きく変化しない限り、人類の寿命に対してほとんど無限と言ってよいであろう。しかしこの自然エネルギーと今問題としている自然エネルギー発電とは全く別物である。
自然エネルギー発電とは、自然エネルギーを何らかの工業製品である発電装置によって捕捉して電気に変換する過程である。自然エネルギー自体は前述の通りほとんど無尽蔵にある自由財であるから、自然エネルギー発電の本質とは発電装置の工業的な生産である。
工業生産とは、何らかのエネルギーを使用して生産設備を駆動して製品を製造する過程である。産業革命当時は、石炭火力が用いられ、現在では主に石油火力が用いられている。つまり、あらゆる工業製品は石油を中心とする枯渇性の化石燃料の消費によって製造されているのである。
ここで工業製品の価格について考える。工業製品の価格を構成する要素は、原料費と生産過程で投入されたエネルギー費用と生産設備(工場)の減価償却費用と人件費、それに利潤を加えたものである。
生産設備自体も工業製品である。更に、原料費は原料の希少性と原料生産に投入されたエネルギー費用の二つの要素によって決まる。以上を考慮すると、工業製品価格は単純化すると、原料資源の希少性と生産過程で投入されたエネルギー費用と人件費と利潤によって決まる。つまり工業製品価格の一定割合は投入されたエネルギー費用の対価なのである。
さて、発電とは発電設備を使って電力という製品を製造する特殊な工業生産過程である。原料として投入するのは火力発電では燃料であり、自然エネルギー発電では風力や太陽光などである。投入したエネルギーを発電設備の運用によって電力という形に加工するのが発電である。つまり、エネルギーを投入してエネルギーを生産するのである。その結果、発電技術の優劣はエネルギー産出比=(産出エネルギー量/投入エネルギー量)によって絶対的に評価することが出来る(ただし自由財は考慮する必要は無い。)。エネルギー産出比が大きい発電方式ほど工業的に優れた発電方式である。
石油火力発電について考えてみる。発電電力量1kWh当たりの発電原価は10円/kWh程度であり、その内、燃料重油費用は6円/kWh、残りの4円/kWhは発電設備の運用、保守管理費用と発電設備の償却費などである。この4円/kWhの内の20%を運転や保守、発電設備の製造に投入されたエネルギー費用だと仮定すると、燃料費と合わせた合計のエネルギー費用は6.8円/kWhになる。燃料重油価格を25円/リットル、発熱量を10.5kWh/リットルとして投入エネルギー費用を石油換算のエネルギー量に換算すると10.5×(6.8/25)=2.856kWhになる。エネルギー産出比は1/2.856=0.35である。
自然エネルギー発電の例として太陽光発電を考える。家庭用太陽光発電の発電装置価格を耐用期間中の総発電量で割ることによって発電原価を算定すると50円/kWh程度である。太陽光発電装置価格に含まれる装置製造に投入されたエネルギー費用の割合を20%とすると、投入された石油換算のエネルギー量は10.5×(50×0.2/25)=4.2 kWhになる。エネルギー産出比は1/4.2=0.24<0.35である。つまり同じ発電電力量を得るために太陽光発電は石油火力発電よりも多くの石油を消費する劣った発電方式なのである。
実際に太陽光発電を導入する場合にはこれ以外に電力安定化のための蓄電装置などの付帯設備が必要となり、それを含めたシステムで考えれば更にエネルギー産出比は低下する。つまり、石油火力発電電力を太陽光発電電力で代替することによって多くの大衆の期待に反して石油消費量は飛躍的に大きくなる。
自然エネルギー発電装置が工業製品である限り、電力の原料に自然エネルギーを用いたとしても必ず石油や石炭などの化石燃料を消費している。その量は近似的に単位発電電力量当たりの発電装置価格に比例するとみなせる。故に、高コストの自然エネルギー発電ほど化石燃料を大量に消費し発電装置としての性能も劣るのである。すなわち「いくら導入コストが高くても、石油、天然ガスや石炭などの節約になる」という認識は誤りである。
現在進められようとしている自然エネルギー発電の導入促進において、発電技術の熱学的あるいは工業生産技術的な評価が全く行われておらず、エネルギー技術として失敗することは必定である。
残念ながら「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案」の成立は最早覆すことは出来ない。自然エネルギー発電で大儲けをたくらむ勢力は温暖化対策という虚構を用いて国民や無能な役人・政治家を騙して、原子力利権に代わって自然エネルギー発電利権でまたしても血税を貪り、法外な電気料金を掠め取ることになる。心ある熱学研究者や技術者諸君には、原子力村によって失墜した科学・技術者に対する不信の汚名を返上するためにも、3年後の法案見直しに向けて、この期間に徹底的な自然エネルギー発電システムの自然科学的な再評価を行い、この国のエネルギー政策の正常化の礎になることを切望する。
(2011/08/15)
「『環境問題』を考える」 http://www.env01.net/ より転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1552:110817〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。