「子育て」支援ではなく「子育ち」支援へ—「家族」を考える(2)
- 2023年 8月 7日
- 時代をみる
- 家族池田祥子
岸田文雄首相によって「異次元の少子化対策」が打ち上げられた時、「異次元」?!という言葉に一瞬、眼が奪われた。これまでの日本の子ども・保育に関わる根強い「家庭・家族」「母」依存の息苦しい状況が、根底から問い返されるような「少子化対策」が打ち出されるのか?と、もちろん半信半疑ではあったが、期待や興味もないわけではなかった。しかし、当初「こども庁」の設置が提唱されながら、「子どもの基盤は家庭だろ!」という自民党の少なくない党員からの意見によって、いとも簡単に「こども家庭庁」の発足が決まってしまった時(2021年12月名称決定、2023年4月発足)、日本の「少子化」対策も「保育の複雑な問題」も、今後の明るい見通しは、私の中ではかなり絶望的になってしまった。
そうは言いながら、またもや「オヤ!」と、少し前向きな気持ちになったのが、「こども誰でも通園制度(仮称)」を目にした時だった。
ところで、今更ではあるが、日本の学校教育自体、もともと制度的に、子どものケアや福祉問題への配慮を取り込んではいない。そして、同じ文科省管轄の就学前の幼稚園も同様、発足(明治時代)当初から、始期は「満3歳」、その教育活動は、「家庭」の「母」の育児・哺育活動を前提とし、それに支えられて成り立つものであったし、今も変わってはいない。したがって、幼稚園入園以前の子どもたち(乳幼児、0.1.2歳児)は、制度的には、当然のように、「教育」の対象から外されているのである(「保育」という言葉・概念は、広い意味では当たり前に「教育」に含まれるものであるにもかかわらず、日本では「保育所」という名称でありながら、「教育」ではなく頑なに「福祉」分野に閉じ込められている)。 そして、今でも「3歳までは母の手で!」という「3歳児神話」が強固であるのは、現前の制度そのものがその神話を前提にし、いまなお律儀に再生産しているからに他ならない。
したがって、「貧困」「病気」「離婚」「死別」等々の理由のため、乳幼児を抱える母親が就労せざるをえない時、やむを得ないケースとしての「託児」が始まるのだが、三歳未満児は当然「幼稚園該当以下」、3歳以上児でも、「母不在=家庭脆弱」ゆえに、その「託児」は「子どもの保育・教育の場」として認定されることはなかった(戦後、名称が奇しくも「保育所」に代わったにもかかわらず・・・)。
それでも戦後初期、幼稚園と保育所(託児所)は、「子どもの保育・教育の場」としては変わりない!という視点から、一旦は「幼保一元化」の機運も皆無ではなかったが、残念なことに十分な検討もなされないまま(棚上げされて)二元体制となり、それが現在にまでも続いている。もっとも、2015年4月以降、認定こども園法以降は、管轄は厚生省から内閣府と代わっているが、現在も、保育所(また、幼保連携型認定こども園の2号認定、3号認定の子どもたち)には、その入所には必ず「保育を必要とする」(1997年より、「保育に欠ける」からの変更)という入所規定(どの程度「保育を必要としているのか?」)が執拗に残り続けている。
子どもを育てる親・とりわけ母親の「子育て」を支援する「子育て支援」策ではなく、生まれてきた子どもの「子育ち」をサポートするためには、希望する(当然親たちの希望である)すべての子どもたちを受け入れる「子育ち支援」が必要とされるはずである。 行政が、設定された基準を数値化して(主として母親の就労形態、就労時間、など)「精緻に!」入所審査をする今の状況は、日本の保育行政の歪みをそのまま律儀に継承している。それは、子どもや親たちにとっては明らかに不幸な事である。その入所審査に受かるか落ちるかは、その後の生活を大きく規制してしまう。「保育園落ちた!日本、死ね!」のツイッターが大きく話題になった所以である。
だから、「こども誰でも通園制度(仮称)」を目にした時、私はドキリ!とした。保育所の画期的な転換がやって来るかと。ただし、これまた「一瞬」の空疎な期待ではあったのだが・・・。
「こども誰でも通園制度(仮称)」
今年3月末、岸田政府の少子化対策案の一つに、「親の就労状況に関係なく保育所を利用できるようにする(案)」が報道された(「朝日新聞」3.24など)。
その内容は、少々分かりづらいが、次のようなものだった。
「政府は2023年度から、保育所の空き定員や空き教室を活用し、未就園児を保育所などで定期的に預かるモデル事業を始める考え。同事業では、「保育の必要性」などの用件はつけず、就労していない親も利用可能とする。週1~2回程度、定期的に預かり、保護者の支援にもあたる」。さらに次のようにも紹介されている。「将来的に親の就労条件などの見直しも検討する方針だ」。
太字の最初の箇所を読んだ時にはハッとした私ではあったが、「保育所の空き定員や空き教室を活用し」「週1~2回程度」という内容を知った時には、やはり「ナンダ~」という失望感は防ぎようがなかった。
保育所の「空き教室や空き定員」は、本来は、年度途中から入所して来る子どもたちのための、ある意味重要な空きスペースである。幼稚園・小学校のように、4月当初から全員のメンバーで出発するシステムではない。「空いているから利用する」?・・・何ということはない、年度途中の入所の子どもたちを無視し切り捨てただけではないか。
しかも「週1~2回程度」?!・・・この週1~2回を律儀に繰り返せば、その内子どもたちも環境に馴染んでくるというのか・・・「日替わり」のように違う子どもたちの相手をする保育者は、安定した保育を行えるというのだろうか・・・。
それでも、子どもをどこにも託す場所がなく、毎日24時間、子どもとの生活をこなしている母親たちからは、「一人の時間ができてよかった。負担が軽くなった」とか、あるいは3歳の長男を預ける母親(42歳)は、「週一回は確実に預けられることが心の余裕になっている。ありがたい」と喜びの感想を述べている。「週一回、夕方まで」の保育にこれほどの喜びを述べているのである。息抜きもできず、毎日、365日、子どもと向き合っている母親たち(したがって子どもたち)の日常のしんどさが伝わってくるというのに・・・
これまでも、「就労している母親」の子どもだけを対象にする「保育所」は、「不公平」ではないのか・・・という非難・批判も出され続けてきた。そのため、2015年4月から始められた「子ども・子育て新制度」以降、「家庭で保育している母親」のために、「一時預かり事業」として、「緊急一時保育」「一時保育」「一時預かり」「ひととき保育」等々が実施されてはきた。
「家庭で保育しているのは当たり前」と前提にされ、しかし、日々の子育ての閉塞感に悶々としていた母親たちにとって、以上のようなさまざまな「一時預かり事業」は、確かに、たとえ一瞬(1日)であったとしても、特別な行事や外出ができてホッとできたり、自分自身をリフレッシュすることができるのは事実であろう。
しかし、希望する日時に予約できるとは限らず、申し込みの連絡の大変さ、しかも、「知らない所に連れて行かれる子ども」の緊張、不安、抵抗、大泣きなど・・・連れて行く母親と子どもの心労も大変な上に、それを受ける保育者もまた、大変な苦労を強いられる。一日中泣き続ける子どもをオンブしたまま、他の子にはほとんど手をかけることなく終わってしまうケースも稀ではないという。
また、一方で、家庭に居る「母子」ともどもを対象にした「子育て支援事業」も、多様な形で実施されてはきたが、これまた、週3日、あるいは週1日だけだったり、午前中だけだったり・・・。いずれも「ないよりはまし!」「ないよりは助かる!」態のもので、「母子」をセットにした「子育て」支援事業の窮屈さを抱え込んだままである。
このように整理してみると、今回の「こども誰でも通園制度(仮称)」もまた、「週1日ないし2日」だけの特別な通園保障でお茶を濁しているだけではないのか・・・と愚痴りたくなる代物である。
0歳からのすべての子どもを対象にした、「希望者全員就園」可能な保育制度を、子どもの「子育ち支援」という観点から、本気で考えていくギリギリの時期なのだと思う。そしてまた、「子育ち支援」という観点から、「育児休暇制度」もまた、再検討されるべきではないのだろうか。次回は、そのことも考えてみよう。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5093:230807〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。