世界のノンフィクション秀作を読む(58) ウィリー・ブラント(元西独首相)の『ナイフの夜は終わった』(下)

ウィリー・ブラントの『ナイフの夜は終わった』(朝日新聞社刊、中島博:訳)
――SPD党首の波乱に富む半生の自伝(下)

 1931年秋、ヒトラーの部下たちは、大嫌いな社会民主党政権の打倒を望んだ。その時、同党の左派が党と分裂した。私を含む多くの青年部員が新党に参加し、私はレーバーと激しく口論し、二人は苦い気持ちで喧嘩別れした。仲違いに苦しみ、私は社民党を去った。
 新党は、未だ若い私を政治問題の指導者の一人としたが、仕事は一切無給。私はリューベックの船舶ブローカーの会社に仕事を見つけ、後には私のために役立った船員、漁夫、沖仲仕といった人々と密接な関係を持つようになった。私はスカンジナビアの顧客とも友達となった。生活は苦しかったが、私はそれを克服できる強さを感じていた。

自由への脱出
 32年7月20日夕、私はリューベックの社会主義労働者の集会で演説した。我々は大衆を動員、ヒトラー政権に反対する連合を結成し、彼らのクーデターに抵抗することを期待した。だが、当時の失業者は約五百万人。彼らは絶望の余り、パンや仕事、あるいは制服さえも約束したヒトラーの許に走った者が多かった。
 翌年2月28日、議会大火事件が発生。社民党は既に非合法化されており、私は身元を隠すために変装し、ウィリー・ブラントという名を使って旅行した。カギ十字の旗で粗野に飾られたベルリンの街は俗悪そのものだった。だが、苦労にやつれた婦人、疲れ果てた労働者たちへの深い親近感により、ナチの勝利に対する怒りの感情は消えた。
 我がグループの秘密執行委員会はベルリン以外に海外にも拠点を設けるべき、と決定。オスロがそれらの基地の一つに選ばれ、私はオスロの事務局長に決まった。早暁、我々は海路デンマークのロランド島を指して出帆した。
 私は鞄一つと百マルクを持ち、自由世界に上陸した。オスロでは、ノルウェー労働党の機関紙の外報部長で経験豊かな政治家のフィン・モーを訪ねた。彼の斡旋で手当てを得、組合書記局の事務も少し引き受け、二、三か月後には、結構やっていけるようになった。
 ノルウェーの青年協会で働いたことは、私の生涯の最も幸福な時期に属す。私はここで、後にノルウェーの各界の責任者となった男女の青年と友達になった。R・セベリーインは議員~国防相・議会議長となったし、H・ランゲは現在の外相である。

ベルリンの地下運動
 毎日長時間、私は机に座って手紙を書き続けた。増大するヒトラーの独裁に対し、我々に何の力もないことを悟るのは辛かった。ドイツ人は、その褐色のテロ政権が第二次大戦へ国民を引きずり込むだろうことを悟らねばならなかった。が、手をこまぬいて傍観してもいられない。力の限り、論文や報告、覚書や決議文を書きまくった。
 36年末、同志たちとの会合がチェコで開催され、私も参加。恐ろしいモスクワの裁判方法が討論の中心に。赤いツアー(皇帝)スターリンは「イワン恐怖帝」を連想させ、両者の性格の酷似性が話題に上る。が、我々左派は、彼をヒトラーのファシズムに反対する信頼すべき仲間と考え、苦い真実を認めようとはしなかった。
 37年2月、私がスペインを訪れた折、内乱は既に八か月を経過していた。革命の実態は決してロマンチックなものでなく、残酷で混乱していた。私は書いた。「スターリンはフランコの打倒に興味は持っていたが、スペイン人民の将来については、彼ら自らに決定させようとは決して考えてはいなかった」。39年から翌年冬にかけて、フィンランドがソ連の侵略の犠牲になった時もそうだった。我々はファシズムに対する闘士たちを援助したように、ソ連の侵略に対して立ち上がった闘士たちを扶けた。

ナチの囚人
 百二十五年間、ノルウェーは完全に平和だった。軍事的伝統というものはなく、戦争が嫌いだった。国の全てのエネルギーを、国民の生活水準の引き上げ、模範的な社会立法の発展、一般教育の拡充のために注いできた。
 ヒトラーは公にはスカンジナビアの中立を認めていた。が、彼の命令により、ドイツ潜水艦は中立国の船舶も情け容赦なく攻撃。侵略前の数か月間に、ノルウェーは船舶五十四隻と乗組員三百八十人を失った。殆ど全ての船が警告もなく、いきなり魚雷攻撃を受けた。ノルウェーの抗議も、ベルリンでは蛙の面に水であった。
 ドイツ軍の攻撃は大胆極まるものだった。海陸空の共同作戦により、オスロを始め殆ど重要な港はその日のうちに占領され、南ノルウェーの空港と軍事補給基地も、二、三時間でドイツ軍の手に落ちた。周到な準備と精力的かつ不敵な行動が決定的役割を演じた。国王と政府は首都を離れ、二、三人の閣僚が、残務整理のため二、三日オスロに居残った。

 四月九日に始まった戦闘は北ノルウェーでは六月九日まで続いた。その二日前、国王と側近及び政府は英国へ逃れた。オランダとベルギーが降伏し、フランスの抵抗もたちまち打ち破られ、ヒトラーの大陸支配は既成事実化する。不安な日々にあって、勝利の信念を持ったのはチャーチルだけ。彼とて国民に「血と汗と涙」以外の何物も約束できなかった。
 私は非戦闘員だったが、そのことは私がゲシュタポの復讐から逃れる口実とはならない。
38年、ヒトラーは私の市民権を剥奪。翌年、私はノルウェー帰化を申請、半年後の国籍取得が見込まれていた。当時、私はノルウェー北方の谷間に住んでおり、出口は封鎖されていた。私はノルウェー軍の制服を着込み、数人の兵士と一緒に捕虜収容所に連行された。重苦しい日々が続き、私は徒に日を送った。暗黒の日々は四週間に及んだ。6月初め、我々は収容所から釈放され、私は無事にオスロへ帰った。

ベルリンの地下運動
 増大するヒトラーの独裁に対し、我々が無力であるのを悟るのは辛かった。毎日長時間、私はヨーロッパやアメリカに居る友人や同志に沢山の手紙を書いた。36年夏、私はベルリンの「メトロ」(地下組織)の責任者となった。同年の友人の学生から旅券を借り受け、写真を取り換え、個人的データを記憶し、本物そっくりに見えるように署名を練習した。
 ベルリンには、わが党員はまだ二百人もいて、五つのグループに編成されていた。我々はドイツの地下運動の抵抗グループの一つだった。毎朝、私は真面目な学生を装い、大学の図書館へ出かけ、誇張した泥くさいナチの文学を読み漁った。『わが闘争』も苦にならず、ローゼンベルグやその他のナチの「理論家」の関門をくぐって行かねばならなかった。
 ベルリンは独裁者の誇大妄想的症状を反映。オリンピックは何十万という外国人を集めた。ゲッペルスの宣伝に圧倒されないのは難しいことだった。私は「違法」の人物の生活にすっかり嵌り込んでいた。絶えず、誤魔化し、扮装する生活で、恐れおののく暮らしだった。私の頭は数字や暗号で一杯になり、それらは眠っている間も私を追い続けた。

 36年末、ドイツや各亡命地に居る同志の会合が、チェコで開かれた。私はここで初めてオットー・バウアーと出会った。彼はいわばこの会議の舞台裏の助言者で、その著作や論文は社会主義理論の素晴らしい入門書だった。34年、彼はオーストリアでファシズムに抵抗して武力闘争に決起。成功はしなかったが、勇敢に闘った現地社民党のリーダーだった。
 私は亡命中のバウアーのやり方に、非常な感銘を受けた。彼は熱心に敗北の原因を検討しようとした。私はベルリンでの経験を報告した。討論の中心になったのは、恐ろしいモスクワの裁判方法だった。告発・告白・執行のやり方は、我々の希望を消えさせてしまった。プロレタリアの独裁は、事実上ソ連人民の全てに対するスターリンの独裁となっていた。それでも我々は、未だ苦い真実を認めようとはしなかった。
 44年8月、パリが解放された。私は涙を流し、ヨーロッパが戦争と隷従のムチから救われるのを期待した。翌年4月、ヒトラー自殺。5月7日、ヨーロッパ戦争終結の報せに、冷静で控えめなスウェーデン人も、たちまち熱狂的な騒ぎに爆発した。
 45年10月、私は初めてドイツへ帰った。ニュルンベルクの戦犯裁判の報道のために、記者として派遣されたのだ。翌年12月には、ノルウェーの外交官としてベルリンに赴任。運命は私をベルリンへ引き戻してくれた。

筆者の一言 西独社民党党首のブラントが西独首相に就任する直前の1969年夏、当時朝日新聞社会部記者だった私は、夏休みを利用して西ヨーロッパを“駆け足”訪問。秘密っぽかった東ベルリン市内も一日だけだが、肉眼で観察している。貸し切りバスでの市内周遊だったが、「百聞は一見に如かず」。ソ連式の共産主義は、決して人々を幸せにはしない、という心証を固めた。街並みは西ベルリンと比べ格段に見劣りがし、行き交う人々は生気と笑顔に乏しく、一様に表情が硬かった。ブラント同様、実は私も学生当時は社会主義の側に夢を託した一人だった。しかし、東ベルリン街頭におけるこの観察は、私の胸の奥底に確かな波紋を広げ、己の従来の思い込みに対する強い「?」をしっかり提起したと思う。

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