ガイア・ヴィンスの『気候崩壊後の人類大移動』(河出書房新社刊、小坂恵理:訳)
――環境難民の世紀を生き延びる知恵(上)
イギリスの著名な女性サイエンス・ライターの筆者は、近年の地球温暖化による顕著な環境変化に注目。今後30年で環境難民が10億人に及ぶという驚くべき予測を紹介する。彼女は前代未聞の危機の内実を詳らかにし、対処すべき共生プログラムを示してくれる。
大変動が間近に迫り、それは地球環境に変化を引き起こすだろう。グローバル・サウス(アジアやアフリカ、中南米などの新興国・途上国)は激しい気候変動に見舞われ、広い地域が居住不可能になり、大勢の人が住み慣れた場所から追いやられるだろう。今後五〇年間で気温も湿度も上昇し続ければ、もはや地球の広大な地域が、およそ三五億の人類にとって住めない場所になる。熱帯や沿岸から脱出し、かつての耕作地を手放し、大勢の人たちが新たに生活の拠点を探さなければならない。
今や三〇年前と比べ、世界各地で気温が五〇℃を超える日は二倍に増えた。五〇℃と言えば、人間にとって致命的な暑さで、建物や道路や発電所にも深刻な問題が引き起こされる。極地は氷が急速に溶け始め、シベリアの一部は既に三〇℃の暑さを数か月連続で経験。
バングラデシュでは、海抜が低い上に地盤沈下が著しい沿岸地域を始め、国全体が居住不可能になる恐れがある。今後数十年間は、富裕国も気候変動の影響を逃れられない。
2020年に凄まじい森林火災に襲われたオーストラリアは気温の上昇と旱魃による被害が深刻化するだろう。アメリカの一部も状況は同じで、マイアミやニューオーリンズなどの都市を何百万もの市民が脱出し、オレゴンやモンタナなど気温が低くて安全な州に逃れて来るだろう。そうなると、新しい住民に住む場所を提供できる都市を建設する必要がある。
インドだけでも、十億近くの国民が危険に晒される。中国では五億人が国内での移住を迫られ、ラテンアメリカやアフリカでは何百万人もが大陸を横断して移動しなければならない。人々は住み慣れた場所からの脱出を始めるだろう。否、既に移動は始まっている。
イギリスではウェールズの首都カーディフで二〇五〇年までには全体の三分の二が水没すると予測される。追い詰められた大勢の人々がいきなり脱出を始めるかも知れない。国連の国際移住機関の予測では、今後三〇年間だけでも一五億人の環境難民が発生。今世紀半ば以降は人数が急激に増えると考えられ、その数は紛争や戦争でのそれの十倍に及ぶ。
今回の問題は、人間社会がこれまで直面した問題の中で最も複雑で、解決が難しい。豊かな世界で既得権益を享受する人々の行動によって問題解決は遠のく。温室効果ガスの排出量は相変わらず増え続け、気温は上昇し、氷の融解は進み、気候変動は悪化する一方だと科学者は予測する。数十年以内には、世界は紛争が多発して大混乱に陥るリスクもある。
多くの人命が失われ、ひょっとしたら私達の文明も失われるかも知れない。
◇世界を一変させる四つの問題と故郷からの離散
火事、猛暑、旱魃、洪水の四つは、今世紀に私たちの世界を一変させるだろう。二〇二〇年、オーストラリアは異常な乾燥と熱波による大規模な森林火災で全人口の八〇%以上が被災し、三四人が死亡。六〇〇〇棟の建物が崩壊し、煙による汚染で四〇〇人が早過ぎる死を迎えた。木の上で立ち往生したコアラは、炎に包まれて絶叫しながら命を落とした。
この山火事は、世界の傾向を反映している。南北アメリカ・ヨーロッパ・アジアと、山火事はあちこちで深刻化している。森林は元々湿気が多いが、気候変動によって高温で乾燥した状況が発生したため、落雷で発火し易くなった。カリフォルニア州は二〇二〇年に過去最悪の山火事を経験し、約一六八万ヘクタールが焼き尽くされ、一〇万人が避難した。
旱魃に見舞われたアマゾンでは二〇一九年、山火事で大量の煙が発生。数千キロ離れた沿岸都市サンパウロでも空が真っ黒に覆われた。ヨーロッパでは、山火事が発生した複数の国で住民が避難を迫られ、ギリシャやポルトガルなど南欧諸国は記録的に深刻な被害に遭った。もはや火事の脅威から安全な場所はなく、湿地帯でも猛威を揮う。
火事と同類の猛暑はそう目立たないが、命取りになる。三〇年前と比べ、気温が五〇℃を超える日が二倍に増えた。猛暑に高い湿度が加わった時の「湿球温度」が三五℃を超えると「生存の閾値」を上回り、健康な人でも熱中症で六時間以内に命を落としかねない。二〇〇三年にヨーロッパが熱波に襲われた時は、湿球温度が二八℃で七万人が命を落とした。激しい熱波の発生件数は一〇年毎に増え、数十憶人がその影響を受けると考えられる。
深刻なアーバン・ヒート(人工的な排熱などが原因の都市特有の熱)の発生件数は一九八〇年代の三倍に増え、世界人口の五分の一がその影響下にある。気温が一・五℃上昇すると、世界の四四カ所のメガシティの四〇%以上が危険な猛暑を毎年経験するようになる。
モデル試算によれば気温が四℃上昇すると、世界が猛烈な熱波に襲われる日は今日の三〇倍以上に増え、アフリカでは少なくとも百倍に増加する。
気温がここまで上昇すれば、必然的に世界中で死者が増加する。熱波に関連した超過死亡は、アメリカで五〇〇%、コロンビアでは二〇〇〇%も増えると予測される。将来の猛烈な熱波から最大の危険に晒されるのは、ガンジス川とインダス川流域の人口密集地域。ここには世界人口の約五分の一が暮らしていて、インド北東部とバングラデシュでは湿球温度が生存の閾値を超える可能性がある。一方、中国では、最も人口が多い地域(華北平原と東海岸)で、殺人的な熱波と危険な湿球温度が予想される。
アラブ首長国連邦などの国は、食料の九〇%を輸入している。現在、世界の食料の半分は、肉体労働に頼る小規模農家によって生産されている。世界の温暖化が進めば、外で肉体労働に従事できない日が増え、生産性が低下して食料安全保障が脅かされる。
温暖化が進むと、陸地への降水量は減少する。今は南アジアや南米を中心に、何億もの人々が山岳氷河に依存しながら暮らしている。この貴重な水源が消滅すれば、穀倉地帯が丸ごと失われるリスクが発生する。南アジアでは約一億三千万人が、生活に必要な水を上流からの雪解け水に大きく依存している。今後、水の供給が頭打ちになり、氷河が消滅すれば、供給量は一気に減少する。
旱魃は、最も多くの人々に影響を及ぼす。つい二〇年前、ボリビア高地には農村が栄えていた。ここで生産された玉蜀黍、ジャガイモ、アボカド、フルーツは、首都ラバスの市場で販売された。が、二〇一〇年までに、気候変動が村全体を荒廃させた。長引く深刻な旱魃によって作物は枯れ、家畜は命を奪われ、遂には村が死に絶えた。私がここを訪れた時には、九人の高齢者が残っているだけで、掘っ立て小屋で生き長らえていた。風雨に晒された顔をした七五歳のR・メンデスは、コカの葉を噛みながら身の上話をしてくれた。
――雨季なのに、数日ごとに全部で二〇分しか雨が降らない。最初は牛が、次に驢馬が死んだ。山羊が一番頑丈だ。
七人の子供たちは村を次々と離れ、残っていた一人も三年前、家族を連れて出て行った。彼らは町や都市に向かう。コロンビアから中米まで目指して移動を続けるが、独特のショールに包んだ所持品を肩に背負い、何週間も続く野宿で疲れ切っている。発展途上国での農村から都会への移住が南米大陸で最も多いのも、ちっとも意外ではない。自作農は、一度でも凶作に見舞われると、耐え難い空腹に苦しむ恐れがあり、今や米から小麦まで殆どの主要作物の生産量が減少しているのだ。
植物が成長するためには水が必要だ。温暖化が進むと、水が土壌や葉っぱから蒸発するスピードが加速する。しかも雨は定期的にも大量にも降らなくなる。こうしてヒート・ストレスを受けた植物(そして動物)は、以前より沢山の水を必要とする。温暖化が進むにつれ、農業の継続は困難になり、多くの場所で不可能に。結果、関係者は移住を迫られる。
植物の細胞や組織や酵素は約三九℃で破壊され、植物全体が死滅することも多い。気温が三〇℃を超える日を一日経験する毎に、玉蜀黍の収穫量は一%減少し、旱魃になると二%に近づく。つまり熱波が三週間続くと、収穫量の四分の一が減少する可能性がある。
アメリカは玉蜀黍の収穫量の半分を失い、現在のコーンベルトの大半も影響を受ける。旱魃を計算に入れると、損失量は八〇%以上にまで跳ね上がる。これは単に国内の大惨事として片付けられない。アメリカを筆頭とする四カ国からの玉蜀黍の輸出は、世界全体の九〇%近くに達する。地球の気温上昇は、玉蜀黍の輸出減少、食料危機の脅威に繋がる。
地球の気温上昇が一・五℃に抑えられたとしても、何億もの人々が影響を受ける。海面の上昇に晒される陸地に少なくとも五千万人が暮らしている国は多い。中国、インドネシア、日本、フィリピン、アメリカなどが含まれる。もし地球の温度が二℃上昇すれば、少なくとも一三六のメガシティが影響を受け、今世紀中には何億人もが移住を迫られるだろう。ある科学者のチームはこう記した。「今世紀後半、海面の上昇に適応するための時間は極めて限られる。青銅器時代の幕開け以来、人類はこれ程の規模の海面上昇は未経験だ」。
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