曖昧な「共同親権」の導入(民法改正をめぐって) ― 課題としての「家族・親子」の法制度
- 2024年 6月 10日
- 評論・紹介・意見
- 共同親権池田祥子
「共同親権」⁈・・・もっと議論されなくては・・・
夫婦が離婚しても、子どもにとっては「親」は「親」。「子どもと親」の関係は、基本的には(例外はあるとしても)、終生継続するものではあるだろう。したがって、夫婦がたとえ離婚しても、元夫と元妻(あるいは元パートナー同士)が互いに「フレンドリー」であることは、子どもにとってはもちろん、必須なことであり望ましいことである・・・このような主張(あるいは願望!)それ自体は間違ってはいないと思う。
しかし、現実の「夫婦」や「家族」の内実は多種多様である(だろう)。外からは伺い知れないものでもある。したがって、「離婚」後の、二人の親の関係や「別居する親」と子どもとの関係を「好ましいもの」にすべきである!という言説は、一般的には誰も反対はしないだろうが、「法律」に規定する場合は、もっと丁寧な議論が積み上げられなくてはならないだろう。しかも、そこで一番基本的に重視されるべきは、「子どもの希望・意見」である。
ただし、今回の、「共同親権」を当然の前提にした民法「改正」は、2014年に発足した超党派の国会議員による「親子断絶防止議員連盟」(後に「共同養育支援議員連盟」)によって法整備が推進されてきた「離婚後共同親権制度」案が、強烈に後押しした影響も少なくないに違いない。
しかし、「共同親権」を当然の前提にした民法改正案が審議され始めるや、DV相談に携わる弁護士や団体からの反対が相次いだ。例えば、「家庭内暴力を考える会」「ちょっと待って共同親権プロジェクト」「共同親権について正しく知ってもらいたい弁護士の会」等々である。
また、推進する自民党内からも、例えば野田聖子議員など、「党議拘束」を破った形で「反対」姿勢を示している。
その結果、離婚後は「原則共同親権」の路線が敷かれながらも、場合によっては、「親権」の変更、あるいは「単独親権」も可、というやや込み入った内容で決着している。
改正された新「民法」は、野党の立憲民主党も賛成の上、2024年5月21日公布。施行日は未定であるが、「公布より2年以内」とされている。
「親権」とは何か?
以上のように、今回の民法改正は、これまでの「単独親権制」がすっきり「共同親権制」へ移行したわけではなく、家庭裁判所の調停の下、「選択的共同親権制(場合によっては単独親権制を含む)」へと、とりあえず落着した。反対する団体や人々も、「親権」が「単独」か「共同」か、を争点としていた。
しかし、そもそも「親権」とは何か?「子どもの権利」にスポットが当てられる時代に、なぜ日本では「親権」が前提になったままなのだろうか?ここでは、まず、その「親権」の歴史と内実を問題にしてみようと思う。
今年は、第二次世界大戦の敗戦後79年。長い時間が経過している。それでも、とりわけ「民法」、なかでも家族や親子に関わる条項は、周知の事ではあるが、戦前の「家制度」の枠組みを基本的には踏襲している。主として、「夫婦同姓(氏)」「親子関係の認知」などである。
「親権」についても同様である。明治民法(1898・明治31・年)と戦後まもなくの民法(1947・昭和22・年12月)を比較してみよう。
・ 明治民法882条1項(現代文改め):親権を行う父または母は必要なる範囲内において、みずからその子を懲戒し、または裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
・ 戦後民法822条1項:親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
見ての通り、ほぼ「同じ」である。「家族制度」は、もちろん「国策・イデオロギー」である。しかし、私たちが生まれた直後から日々過ごす「家庭」での暮らし、そこでの習慣・風俗は、無意識のうちに身体と頭に沁みこんでいくものなのだろうから、そのこと自体が「国策・イデオロギー」という自覚は乏しい。その点では、政治家・(民法)学者とて変わらないのかもしれない。戦後においても、親権とは、「子どもの監護と教育、居所指定、懲戒、職業許可、財産管理」など、親の子どもに対する〝支配的な権利”として規定され受容され続けてきた。
この家父長的な「親権」規定とあり様が問い直される最初のきっかけは、1989年国連総会で採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」である。
日本の批准は5年後の1994年4月、それからさらに7年後の2011年、民法は次のように改正された。
・ 民法820条:親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
・ 同822条:親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲でその子を懲戒することができる。
以上の、日本の民法改正の事実を改めて確認する時、今更ながらに、日本では「子どもの権利」という理念が、真摯に受け止められないままだったことが分かる。
上に見たように、改正後の民法820条は、「子どもの自らの教育に対する権利」を、何と「子の利益のために」という言葉で体裁を整え、「親権」の支配下に位置づけているのである。822条は言うまでもない。この当時ですら、親権に伴う「懲戒権」の見直し、ひいては「その権利・権限の削除」が課題になっていたにもかかわらず、そのまま踏襲されている。
しかし、さすがに日本でも、この「子どもの権利」をはぐらし続けることはできずに、
2022年12月、ついに民法が改正され、822条の「懲戒権」規定は削除された。
さらに、その一つ手前の821条は、次のように変えられている。
・・・親権を行う者は、前条の規定による監護及び教育をするに当たっては、子の人格を尊重するとともに、その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず、かつ体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。
この821条の文面は、日本の伝統的な「親権」が、ぎりぎり「子どものため(子の利益のため)」を配慮すべきことを規定している。しかし、どこまでも親は「子どもに対する権利」の保持者なのである。親権の行使に当たって、「この人格を尊重し」「その年齢や発達の程度に配慮し」「体罰その他は子にとって有害であるから、控えるべきである」と教唆しているにすぎない。「親と子」の権力関係は固定されたままである。
という訳で、「親権」が「単独」に行使されるか、「共同」に行使されるか以前に、この日本の「家」制度から続く「親権」そのものを根底から問い直し、「子どもの権利」を中心とした親子関係が築かれることこそが、いまもっとも重要ではないのだろうか。
「父母の第一義的責任」とは?―「児童福祉法」「こども基本法」
いま一つ、日本の親子関係、子育て関係を窮屈にしている原因は、「子どもの福祉」や「こどもまんなか(社会)」を謳う児童福祉法や「こども基本法」の中の次の規定である。
・「こども基本法」(2023年4月1日):第3条5
― こどもの養育は家庭を基本として行われ、父母その他の保護者が第一義的責任を有するとの認識の下、十分な養育の支援を行うとともに、家庭での養育が困難なこどもにはできる限り家庭と同様の養育環境を確保することにより、こどもが心身ともに健やかに育成されるようにすること。
この「こども基本法」は、「子どもの権利条約」に対する国内法と位置づけられ、これこそ「子どものための法律」であると、政府自らが自画自賛している新しい法律である。
しかし、子どもの養育(子育て)に関して、「父母その他の保護者が第一義的責任を有する」という文言は、これまた戦後まもなくの「児童福祉法」をそのまま引き継いでいる。
・「児童福祉法」(1947年)第2条2項
― 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う。
以上の、子どもの養育に関する「父母その他の保護者が第一義的責任を有する」という規定のどこが問題なのか・・・いかにも当たり前に思われるかもしれない。
しかし、各家庭内での子どもに対する親の「親権」が、「子どもへの支配」を内包するのに比して、「父母の第一義的責任」規定は、国家による「父母の養育責任」要請となっていることに注意したい。例えば、ある子どもの養育が「好ましくない」結果を呈した場合、家庭や子どもを取り巻く社会の非力や問題性が点検されるよりも、まずもって「父母その他の保護者」の養育責任が追及される、という構図となっている。
先に見た「親権」規定と相まって、日本では、どうしても「子ども」は各家庭ごとに匿われ、「親」は子どもに親権を持って養育し、さらに「第一義的責任」を課されているという構図が明らかになる。
もちろん、「家庭」は、大人にとっても、ましてや子どもにとっても、もっとも身近な居場所であり、大きな影響を受ける場ではある。しかし、決して堅固な場ではない。
命を持つ人と人の集まりゆえに、「生と死」あるいは「病い」と無縁ではなく、また社会の動向にも翻弄される。したがって、一人ひとりの子どもの育ちは、「家庭」や「親権」の枠内に留まることはありえない。
以上のように見て来ると、離婚後の「子どもとの面会交流権」や別居する親(主として父親)からの「養育費の取り決め・取り立て」なども、「子どもの権利」の立場から、さらに個別家族の枠を外した「子ども手当」などとして、考えていく必要があるのではないかと思われる。これまた今後の課題であろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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